『心中・恋の大和路』初日観劇、観ている最中はいろいろ思うところはあったのだけど。
 それは置いておいて。

 観終わったあと、びんぼー暇なしのわたしは仕事だったんだが、パソコンに向かいながら、なんだか泣けて泣けて仕方なかった。

 何故、地球はわたしを中心に回らないのだろう。

 思い通りにならないことばかりで、わたしにはなにもできなくて、なんの力もなくて。
 無力であることが、くやしくてかなしくて。やるせなくて。
 ひどく、落ち込んだ。

 や、わたしが神様なら、『心中・恋の大和路』メンバーで、あと何公演か興行させるのに。
 次のトップが決まってるとか退団決定してるからとか劇団の予定が、とか、関係なく。今、雪組は組をふたつに分けての興行中、全ツ組もとても魅力的な公演をしているし、もちろん雪組全員でやる公演がいいのはわかりきっているけれど、それとは別のハートで、思うのよ。
 ただもう、わたしになにか人智を超えた力とか、劇団を自由に裏から操れる黒い権力を持つ(笑)とかしたら、このメンバーで、誰ひとり欠けることなく、もっと公演させるのに。
 別の作品、別の役、別の関連性、別のテーマ。『心中・恋の大和路』が悪いわけではなく、むしろ逆、これだけのモノを作り上げるメンバーで、もっともっと公演が観たい。
 スーツものもコスプレものも王朝モノも、コメディも本格ミュージカルも三角関係モノも、とにかく、いろんなもの。
 もっと、もっと。
 わたしが神様なら、予定も理も全部ひっくり返して、思い存分「彼ら」の舞台を続けさせるのに。

 一点を見つめて共に燃え尽きるえりあゆが泣かせてくれるのはもちろんのこと、他のキャストたちもそれぞれ見せ場があり、それぞれ、新たな可能性が見えた。

 個人的に、物語最後の八右衛門@まっつの絶唱が、すごすぎた。

 あんな風に歌うまっつを、知らない。

 まっつの特色は、丁寧な制御力。役割を理解し、技術を駆使してその場に相応しい歌を歌う。だから彼の歌は美しいけれど「感情」が見えにくい面があった。決まった枠の中にぴったり収まるきらいがあった。
 それが。

 感情のままに、歌っていた。

 まず感情があり、その波に揺さぶられるまま、歌になっていた。
 ほとばしる。
 熱い、厚い、篤いもの。
 それを支える、技術力。
 どれだけ激しい波でも揺らがない、「美しさ」。

 すごい。

 ……すごい。


 こんなまっつを、見たことがない。
 まだこの人は、上があったのか。まだ、変わるのか。
 どこまで……どこまで、行くんだろう。

 ちょっと、こわくなった。
 すごすぎて。


 演出の是非はともかく、まっつの絶唱と共に終わるこの物語が、とんでもねーカタルシスを持って幕を下ろす。

 フィナーレはおろか、出演者挨拶すらなく終わる公演。
 『心中・恋の大和路』という「世界」を手のひらで包んだまま、劇場が光に満ちる。
 興奮は興奮のまま、感動は感動のまま。

 すごいな。

 昂揚したまま劇場をあとにして、とっとと仕事に戻ったのだけど。
 あとになって、泣けて仕方なかった。
 「終わってしまう」ことが。
 はじまった、つまりそれは、「終わりが来る」ってこと。

 なんで終わっちゃうんだろう。
 終わりなんか来なければいいのに。
 予定変更して、「もっともっとやります」とか、ならないのかしら。
 奇跡でも権力者の鶴の一声でも、なんでもいい。あれだけの舞台を見せられる人たちを、わたしの大好きなタカラヅカから奪わないで。
 学年とかタイミングとか、いろいろあるのはわかるけど。
 それでも。

 わたしのエゴでしかないことはわかっているが、エゴだからこそシンプルに、絶望した。
 わたしが、無力なことに。
 わたしが神様ならよかったのに。地球をわたしの都合のいいように回して、わたしが好きなものを好きなだけ楽しむのに。

 舞台を観て感動した、……というだけのことのはずなのに。
 わたしは何故か絶望して、泣けて泣けて仕方なかった。
 ほんと、我ながらどこに泣きスイッチがあるのやら、とまどうわ。やたら花組時代を思い出した。ジオラモさんとモーリスとか。えりまつえりまつ。


 終わりなんか、来なければいいのに。

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