主役と準主役とヒロインと。@The Lost Glory―美しき幻影―
2014年8月6日 タカラヅカ 本公演で見えないモノが、新人公演で見える、ことがある。
だから新公は面白い。
新公を観劇した上での、『The Lost Glory―美しき幻影― 』の作品感想。
新公を観て、「トド様ごめん」と思った。
初日観劇時トド様の生彩のなさに肩を落としたけど、あれはトド様だからあそこまで成り立ってたんだ。力のナイ人が演じたら、フレームアウトしてしまうような役だったんだ。
と、思ったように。
本公演で「マカゼの役、すごくオイシイ! こーゆー役こそ、次代のトップ候補、ベニーが演じるべきでは?」と思った、カーティスおぼっちゃま。
新公では、別に、おいしくなかった……。
むしろ、ベニーがやっていたロナルドの方が、重要な役に見えた。いやその、元から重要だけど、ちゃんとおいしく見えたっていうか。
新公の番手というか役の重要度順は、主役イヴァーノ@ことちゃん、2番手ロナルド@せおっちに見えた。
物語を「動かす」のが、このふたりだからだ。
オットー@まおくんは、イヴァーノありきで、画面にいなくてもあまり関係ない役だった。
景子先生の作品の骨組みが、ここでよく見えた。
主人公は、イヴァーノ。
物語はすべて、彼が動かす。彼がいなければ、そもそも話が存在しない。
イヴァーノはいろんなことをしているが、中でももっとも大きな仕掛けとして描かれているのが、ロナルドを使っての三角関係演出。
イヴァーノが主役だから、彼の一人称、すなわちナレーション・モノローグが多用されるのも道理。
これでオットーへの愛憎を最初から打ち出していたなら、2番手役というか、相手役はオットーになるのだけど、そうじゃない。景子たんは何故か「オットーを愛しているから許せなかったのだ」というイヴァーノの本心を「最後のどんでん返し」として隠している。
そのため、ピカレスクロマンとして、イヴァーノが獲物を追い詰める話として進行。獲物は記号でしかない。冷徹に計画を進めるイヴァーノがかっこいい、ということが展開のほとんどになり、オットーの比重は低い。
ぶっちゃけ、オットーは存在しなくてもイイ。シルエットだけとか、パーティションの向こうにいるとか、「いるけれど、あえて舞台上には出て来ない」演出にしてもイイ。
イヴァーノの陰謀メインなら、それくらい割り切ってもいいくらいだ。
オットーの妻、ディアナは必要だ。オットーが舞台上にいなくても、ディアナは華やかに登場し、夫への愛を語り、ロナルドにゆがんだ愛を燃え上がらせる必要がある。
話を動かすイヴァーノ、彼の道具となるロナルド、錯綜する思いの引き金となる美女ディアナ……この3人がメインキャスト。
それなら、ディアナとの語らいで心を動かす→ロナルドに撃たれる→オットーはイヴァーノを裏切ってなどいなかったと知る→ディアナの腕の中で死ぬ、というストーリーがきれいに機能する。
それが、「ぶっちゃけいなくてもイイ」オットーを、「主役のひとり」にしたもんだから、ややこしい。しかも、便宜上は「オットー主役」だもん。
イヴァーノの一人称小説なのに、オットーが主役、というのは、かなり難しい手法。その上、イヴァーノが能動、オットーは受け身。せめて逆で、語り手が受け身で、主人公が自ら行動する人ならまだ、書きようもあるけど。
何重にも難しい。
語りを任される準主役、てのは、もっと第三者的立ち位置の人でなきゃダメだよ。『激情』のメリメとか『うたかたの恋』のジャンとか。
シシィが語り手も務めて出ずっぱりで、あまり出て来なくてシシィの人生に横からちょっかい出すだけのトートを主人公に物語を成立させる、なんて脚本演出無駄に難しいぞ?
新公を観て、しみじみ「これ、イヴァーノの物語だよなあ」と思った。
オットーとディアナの船室の場面とラストのオットーの旅立ちをカットして、クライマックスのオットー・ディアナ・イヴァーノのダンスシーンを完全にイヴァーノ中心にすれば、それだけでOKじゃん?
浮いた時間は2番手役であるロナルドを描くことにして。彼の場面なら、ヒロイン・ディアナの出番にもなるし。
ラストシーンはテーマのひとつを担う街の人々の合唱で、彼らが次の人生へとそれぞれ散っていったあと、舞台奥にひとりイヴァーノ(幻影)が立ち、ソロ(歌でもダンスでも)をキメれば完了。
もともと「イヴァーノの物語」なのに、そこへ取って付けたカタチで押し込まれたオットー役で、あそこまで善戦したしたのは、トド様の力量。
少なくともラストシーン、「主人公(イヴァーノ)もういないのに、なんで脇役(オットー)がえんえん真ん中で喋ってんの?」という蛇足感はなかった。
ロナルドは、ちゃんといい役だった。
ベニーがこの役を「いい役」に見せられなかったのは、彼の対戦相手が「トド様とれおんくん」という、現在のタカラヅカの二大スターだったためだ。
ベニーだからというより、轟悠と柚希礼音がガチンコ勝負しているところに、割って入って同じ密度で戦える、引き分けに持って行けるジェンヌが、どれほどいるだろうか?ってことだと思う。
らんとむさんくらいじゃね? ここに入ってなんとかなりそうなの。(ごめん、えりたんはチガウと思うし、テルとまさおはたぶん、ベニーの二の舞……)
マカゼがおいしく見えたのは、トドVSれおんというステージの外側にいたためだろう。
カーティスは、ロナウドと同じくイヴァーノに利用される役だが、比重がチガウ。チャールストン場面といい、にぎやかしキャラだ。
それでも、きちんとにぎやかしを務め、「オイシイ役」に昇華したのはマカゼ氏の功績。新公ではそれすらなかったもの。
思うのはつくづく、景子タン、なにがしたかったんだろう、ってことだニャ。
イヴァーノとオットーをW主役として描くならば、イヴァーノの一人称はやめとくべきだ。せっかくレイモンド@みっきぃとかパット@ことちゃんとか、最適なキャラクタがいるのに。
また、真っ向からふたりを対立させる描き方が出来たのに、していない。
たとえ一人称がイヴァーノであっても、ソロ歌でばばーんと登場したイヴァーノの次、もったいつけて登場したオットーも一曲歌うべきだろ。比重が同じというならば。
オットーの登場シーンは、主役のそれではない。タカラヅカ的にも、そしてイヴァーノの登場演出からの流れ的にも、「ここで歌」というところをスルーされて、最初から肩すかしを食らう。
そしてなんといっても、この作品の「売り」のひとつとなっている、クライマックスのダンスシーン。何故、イヴァーノとディアナが踊るんだ。この時点でイヴァーノはディアナになんの興味もない。
イヴァーノが踊る相手は、オットーであるべきだ。
加えて、イヴァーノが腕の中で死ぬ相手は、オットーであるべき。
イヴァーノの陰謀が、オットーに裏切られたから、という動機付けである以上、彼の関心はオットーに集約しなければおかしい。なのに、変に気が散っている。分散している。
星組とトドロキというと、『長崎しぐれ坂』という悪例があるから、トップとトドが愛し合うホモ展開を避ける必要があると思う(笑)けど、それとこれとは別だろう。
景子タン……人事事情のある演出、ヘタやなあ。
理事様降臨、トップスターとトップ娘役考慮……変にあちこち気を遣って、いろいろいびつになった結果、ってことかな。
『The Lost Glory』の据わりの悪さって。
だから新公は面白い。
新公を観劇した上での、『The Lost Glory―美しき幻影― 』の作品感想。
新公を観て、「トド様ごめん」と思った。
初日観劇時トド様の生彩のなさに肩を落としたけど、あれはトド様だからあそこまで成り立ってたんだ。力のナイ人が演じたら、フレームアウトしてしまうような役だったんだ。
と、思ったように。
本公演で「マカゼの役、すごくオイシイ! こーゆー役こそ、次代のトップ候補、ベニーが演じるべきでは?」と思った、カーティスおぼっちゃま。
新公では、別に、おいしくなかった……。
むしろ、ベニーがやっていたロナルドの方が、重要な役に見えた。いやその、元から重要だけど、ちゃんとおいしく見えたっていうか。
新公の番手というか役の重要度順は、主役イヴァーノ@ことちゃん、2番手ロナルド@せおっちに見えた。
物語を「動かす」のが、このふたりだからだ。
オットー@まおくんは、イヴァーノありきで、画面にいなくてもあまり関係ない役だった。
景子先生の作品の骨組みが、ここでよく見えた。
主人公は、イヴァーノ。
物語はすべて、彼が動かす。彼がいなければ、そもそも話が存在しない。
イヴァーノはいろんなことをしているが、中でももっとも大きな仕掛けとして描かれているのが、ロナルドを使っての三角関係演出。
イヴァーノが主役だから、彼の一人称、すなわちナレーション・モノローグが多用されるのも道理。
これでオットーへの愛憎を最初から打ち出していたなら、2番手役というか、相手役はオットーになるのだけど、そうじゃない。景子たんは何故か「オットーを愛しているから許せなかったのだ」というイヴァーノの本心を「最後のどんでん返し」として隠している。
そのため、ピカレスクロマンとして、イヴァーノが獲物を追い詰める話として進行。獲物は記号でしかない。冷徹に計画を進めるイヴァーノがかっこいい、ということが展開のほとんどになり、オットーの比重は低い。
ぶっちゃけ、オットーは存在しなくてもイイ。シルエットだけとか、パーティションの向こうにいるとか、「いるけれど、あえて舞台上には出て来ない」演出にしてもイイ。
イヴァーノの陰謀メインなら、それくらい割り切ってもいいくらいだ。
オットーの妻、ディアナは必要だ。オットーが舞台上にいなくても、ディアナは華やかに登場し、夫への愛を語り、ロナルドにゆがんだ愛を燃え上がらせる必要がある。
話を動かすイヴァーノ、彼の道具となるロナルド、錯綜する思いの引き金となる美女ディアナ……この3人がメインキャスト。
それなら、ディアナとの語らいで心を動かす→ロナルドに撃たれる→オットーはイヴァーノを裏切ってなどいなかったと知る→ディアナの腕の中で死ぬ、というストーリーがきれいに機能する。
それが、「ぶっちゃけいなくてもイイ」オットーを、「主役のひとり」にしたもんだから、ややこしい。しかも、便宜上は「オットー主役」だもん。
イヴァーノの一人称小説なのに、オットーが主役、というのは、かなり難しい手法。その上、イヴァーノが能動、オットーは受け身。せめて逆で、語り手が受け身で、主人公が自ら行動する人ならまだ、書きようもあるけど。
何重にも難しい。
語りを任される準主役、てのは、もっと第三者的立ち位置の人でなきゃダメだよ。『激情』のメリメとか『うたかたの恋』のジャンとか。
シシィが語り手も務めて出ずっぱりで、あまり出て来なくてシシィの人生に横からちょっかい出すだけのトートを主人公に物語を成立させる、なんて脚本演出無駄に難しいぞ?
新公を観て、しみじみ「これ、イヴァーノの物語だよなあ」と思った。
オットーとディアナの船室の場面とラストのオットーの旅立ちをカットして、クライマックスのオットー・ディアナ・イヴァーノのダンスシーンを完全にイヴァーノ中心にすれば、それだけでOKじゃん?
浮いた時間は2番手役であるロナルドを描くことにして。彼の場面なら、ヒロイン・ディアナの出番にもなるし。
ラストシーンはテーマのひとつを担う街の人々の合唱で、彼らが次の人生へとそれぞれ散っていったあと、舞台奥にひとりイヴァーノ(幻影)が立ち、ソロ(歌でもダンスでも)をキメれば完了。
もともと「イヴァーノの物語」なのに、そこへ取って付けたカタチで押し込まれたオットー役で、あそこまで善戦したしたのは、トド様の力量。
少なくともラストシーン、「主人公(イヴァーノ)もういないのに、なんで脇役(オットー)がえんえん真ん中で喋ってんの?」という蛇足感はなかった。
ロナルドは、ちゃんといい役だった。
ベニーがこの役を「いい役」に見せられなかったのは、彼の対戦相手が「トド様とれおんくん」という、現在のタカラヅカの二大スターだったためだ。
ベニーだからというより、轟悠と柚希礼音がガチンコ勝負しているところに、割って入って同じ密度で戦える、引き分けに持って行けるジェンヌが、どれほどいるだろうか?ってことだと思う。
らんとむさんくらいじゃね? ここに入ってなんとかなりそうなの。(ごめん、えりたんはチガウと思うし、テルとまさおはたぶん、ベニーの二の舞……)
マカゼがおいしく見えたのは、トドVSれおんというステージの外側にいたためだろう。
カーティスは、ロナウドと同じくイヴァーノに利用される役だが、比重がチガウ。チャールストン場面といい、にぎやかしキャラだ。
それでも、きちんとにぎやかしを務め、「オイシイ役」に昇華したのはマカゼ氏の功績。新公ではそれすらなかったもの。
思うのはつくづく、景子タン、なにがしたかったんだろう、ってことだニャ。
イヴァーノとオットーをW主役として描くならば、イヴァーノの一人称はやめとくべきだ。せっかくレイモンド@みっきぃとかパット@ことちゃんとか、最適なキャラクタがいるのに。
また、真っ向からふたりを対立させる描き方が出来たのに、していない。
たとえ一人称がイヴァーノであっても、ソロ歌でばばーんと登場したイヴァーノの次、もったいつけて登場したオットーも一曲歌うべきだろ。比重が同じというならば。
オットーの登場シーンは、主役のそれではない。タカラヅカ的にも、そしてイヴァーノの登場演出からの流れ的にも、「ここで歌」というところをスルーされて、最初から肩すかしを食らう。
そしてなんといっても、この作品の「売り」のひとつとなっている、クライマックスのダンスシーン。何故、イヴァーノとディアナが踊るんだ。この時点でイヴァーノはディアナになんの興味もない。
イヴァーノが踊る相手は、オットーであるべきだ。
加えて、イヴァーノが腕の中で死ぬ相手は、オットーであるべき。
イヴァーノの陰謀が、オットーに裏切られたから、という動機付けである以上、彼の関心はオットーに集約しなければおかしい。なのに、変に気が散っている。分散している。
星組とトドロキというと、『長崎しぐれ坂』という悪例があるから、トップとトドが愛し合うホモ展開を避ける必要があると思う(笑)けど、それとこれとは別だろう。
景子タン……人事事情のある演出、ヘタやなあ。
理事様降臨、トップスターとトップ娘役考慮……変にあちこち気を遣って、いろいろいびつになった結果、ってことかな。
『The Lost Glory』の据わりの悪さって。