初日に観たときは、めちゃくちゃ感動して、大泣きした『新源氏物語』ですが……。

 何故だ。
 2回目観に行ったら、すっげー眠かった。

 なんつーかこー、平板な演出だなあ……。
 もう少し緩急付けることは出来なかったのか、とか、話わかりにくくね? とか、台詞聞き取りにくいなあ、とか。
 席の問題かなあ。初日は2階席で、2回目は1階上手前方だったんだけど。

 席が近い分、キャストの顔はよく見えて、それは楽しいんだけど、話がどうにも……「遠い」なあ。わたしの心が、物語に対して距離を感じている。
 なーぜーだー。

 ジェンヌさんの顔を見ることにかまけちゃって、気持ちが散漫だったのかな。
 わたしには多分にそーゆー面がある。浅い人間なので、「舞台に近いー、きゃ~~うれしい~~」「ジェンヌさんと目が合った~~」だけでお手軽に舞い上がれる。で、そっちに気が行って、物語をまともに咀嚼できなくなる。
 『ガイズ&ドールズ』もそうだったんだよなあ。初日は2階B席で観て大泣きしたくせに、2回目は1階5列目で観てぜんぜん泣けない、とかな。
 いやあ、人間小さいっす。

 わたしの問題ではあるのだけど、それにしてもこの『新源氏物語』、客を選ぶ話じゃないか?
 わかりにくいわ~~。
 なんつーか、「積極的に物語に入っていかないと、閉め出される」感じ。
 なんの気概もなく、「与えられて当然」な気持ちで椅子に坐っていると、目の前にカーテン閉められちゃうの。紗のカーテン。なにが起こっているのか透けて見えるからわかるんだけど、ぼやけた状態でしか見えないから、入り込めない。
 なにもしなくても「与えられる」と思わずに、自分から「関わってやるぞ!」と前のめりになってはじめて、物語が見えてくる。

 初日はわたし、すっげー前のめりだから。気持ちが。
 すべてを味わってやる、って鼻息荒く舞台に集中している。
 だから、物語への耽溺度がすごい。
 めっちゃ入り込んで感情移入して、わんわん泣く。

 わたしは欲深いから。
 余計な雑音なく、自分で、すべてを味わいたい。
 すでに観た人の評価だとか感想だとか、耳に入れたくない。それがなんであれ、「わたしが」判断したい。
 「わたしが」感動したいんだ。
 わたしはわたしが欲しいモノを得るために、最大限の努力をする。
 チケットを取ることも、その日時に劇場へ行けるようにすることも、努力。
 そして、「味わってやる!」とゆるい感性叩き起こしておんぼろ集中力に激飛ばして、目の前の舞台に食らいつくのも、努力。
 わたしが、そうしたいから。
 わたしが、愉しみたいから。

 初日はねえ、体調や精神状態がどうあれ、テンションMAXで臨むからなー。
 でもリピートだと、そこまでいかないというか、ゆるむというか……。

 あああ、せっかくの良席で、なんでこうゆるくなっちゃうんだわたしは。
 もっともっと、研ぎ澄ませて受け取りたいのに。いろんなことを。
 もったいない、や、「わたし」が。

 くそー。
 集中力の衰えは、ほんと加齢を思い知りますわ。若い頃はもう少し、自在に視点を置けたのにな。老いるというのは切ないことですわね……ほろほろ。
 でもま、そのときそのときに感じたことが財産、わたしの糧となる。それは、これから先さらにわたしが衰えたとしても、変わらない。
 そのときそのときが、その時点での真実。その時点でのわたし。

 集中力の低い状態で観ると、紗のカーテン越しのように感じてしまうのもまた、まぎれもなくわたしの感想。

 はー、みりお様美しい……。
 それだけのことに感動する。それもまた、まぎれもない真実。
 『新源氏物語』3回目の観劇時に、いちばん惹かれたのが、六条御息所@カレーくん。

 ごめん、わたし勝手に「大人の女役をするカレーくん? そんなん、ぐだぐだダメダメになるに決まってるやん」てな思い込みがあった。
 初日から「あれ? 意外にいいじゃん?」とは、思っていたけど。

 なんか、泣ける……。六条御息所。

 六条御息所ってさ、源氏に似てる?
 なんか、心の弱い部分が似ている気がする。
 だから出会った最初はそれゆえに惹かれて、距離がなくなると、それゆえにつらくなる気がする。

 人間、弱点には敏感だよ。誰よりも自分自身が知ってる。だから過剰反応もするし、守ろうとするし、攻撃に転じたりもする。
 六条御息所と源氏は、ただもう、痛々しく見えた。一緒にいてもきっと痛いばかりで、だからといって無視することも出来ない、悲しい関係に見えた。
 いっそ離れてしまえばいいのに、たぶんそれも無理なんだろうなあ。濡れた傷口が触れあって、不自然に融合してしまい、引き離すには流血必至、肉ごと引きちぎるか、外科手術が必要、てな。
 それが出来ないから……共に目を逸らす性格だから、傷口がいつか乾いてかさぶたがはがれるみたいに皮膚からこそげ落ちるのを待っている。
 ……と、女の方がそれに耐えられずに暴走した、と。ナイフもって強引に傷口に突き立てた……みたいな。

 うわ、痛い。
 つらい。

 そう思った。


 みりおくんの光源氏が魅力的なのは、彼が卑怯だからかもなー、なんてことも、つらつら考えた。
 卑怯……って、言葉悪いけど、自分が罪を犯していることを知りながら、そこから逃れられずにいる、そこでもがき続けている……その、もがき続けること自体を肯定しているというか、受け入れている感じ。
 罪を犯している、では改めよう! とはならないの。
 より深い闇を見つめ、ずっしりと背中に苦悩を背負ったまま、粛々と歩き続ける。
 改めも反省もしない、だからこれからも罪を継続するし、もう一度やり直せるとしても同じことをするだろう、てな。
 そして自分だけでなく、周囲にも苦しみを与える。
 ずるいねー。ひどいねー。

 だけど、魅力的だね。
 胸が痛くなるような、切ない男だね。
 こんな男を愛したら、ずっと彼の背負った闇に片恋することになるね。
 彼の闇ほど、彼の心を自分に向けさせることが出来なくて。


 みりおくんのお芝居自体は、とくにわたし好みということはなく、むしろわたし、みりおくんには鈍感というか、伝わりにくい体質みたい。
 だから彼から受け取る情報量が少ないために、勝手に思い込んでいる節は大いにある(笑)。
 いいのよ、私は観たいモノを観るんだから。
 みりお様は今のままのみりお様で、わたしは彼にドリームするのよ。


 カレーくんとみりお様で、ドシリアス芝居観てみたいっす。
 ふたりは色が違うのだけど、持っている濁りが同系色なのかなと思った。別の色でも、同じ色の影が付くと1枚の絵として落ち着く、みたいな。
 宝塚大劇場の絨毯のやわらかさを知っていますか?

 大劇場の赤い絨毯、やわらかいです。クッションいいです。
 わたしは知りました。
 自分の顔で。

 そう、顔面で。


 えー、緑野こあら、ヅカヲタやって長いですが、このたびはじめて、大劇場の階段で転びました。

 大劇場、チケットもぎってもらった目の前って、大きな階段あるじゃん。
 銀杏型っていうの? 下はひとつで、真ん中に踊り場があって、そこから左右に分かれて階段が伸びているやつ。
 宝塚大劇場っていうとまずそこが映る、特徴的な豪華なエントランス。

 あの階段で、コケました。
 顔から。

 ふたつに分かれた下手側の階段を降りているとき、前へつんのめった。
 階段を降りているときにつまづくと、どうなるか。

 落ちます。
 顔面から。

 いやあ……相当長く生きてるけど、階段で、顔から落ちたのははじめての経験だ。

 スローモーションになるのね、感覚が。
 あ、つまづいた、と思った次に「落ちる」って思った。因果関係が咄嗟に理解できた。
 階段が、近づいてくる。
 足で踏むための段が、絨毯が、目の前に迫ってくる。
 このままだと、顔から落ちる。
 階段に、絨毯に、顔から着地する。
 そして、やべ、と思った。手、ふさがってる。利き手はトートバッグ持ってるから使えない。

 ちょ、待て、顔面から?
 それまずくね?
 まずいって!!
 ひえーーーー!!

 スローモーション。つか、意識のみが高速回転?
 つまずく→こける の間なんて1~2秒? そんな間に、いろーんなこと考えた(笑)。
 てゆーか、階段が目の前に迫ってくる、自分が顔から落ちている、あの感覚、あの視界……今でも思い出すわー。こーわーいー。

 へたすると死んでるわねー。首の骨折ったら逝ってるわねー。こあら、宝塚大劇場にて死す。……本望だけど、そんな傍迷惑な。
 生きてるから笑いごとだけど。

 高速回転でいろんなこと考えてたのに、実際、建設的なことはなにも考えられず。
 自分がどう落ちたのか、おぼえてないの。

 顔からダイビングしたはずなのに、顔から階段に激突することはなかった。
 咄嗟に顔をかばったみたい。
 そのときはわかんなかったけど、あとになって右の手のひらと左肩が痛んだので、咄嗟に右手(トートバッグ持ってたのに)突いて、左肩から落ちたみたい。
 そのあとで、顔も着地。顔はぶつけるのではなく着地、そのときに、あ、絨毯ふかふか、と思った。

 さて。
 顔から階段に激突、という状況は避けられた。
 しかし、「顔から階段落ちた」のは事実。その場合、どうなってしまうか。

 答え。
 起き上がれません。

 頭を下にして、階段にうつぶせで寝っ転がってる状態ですよ。うつぶせ大の字ですな。
 頭が下で、足が上。階段に沿って、逆立ち状態。

 起き上がろうとするんだけど、立てない。
 どこに力を入れればいいのかわからない。逆立ちしてるんだもの、足を動かしたって上体は倒れたまま。腕を動かそうにも、体重が上半身に向かってかかっている状態じゃ、ちょっとやそっとじゃどうにもならない。

 え、嘘、起き上がれない。……てことで、プチパニック。
 自分の身体が自分の意志で動かせない、って、あせるね。

 階段から落ちて、顔から落下(大ケガ)だけは避けられた、となればもう、あと考えることってひとつじゃん?

 恥ずかしいっっ!!

 少しも早く、ここから逃げ出したいっ!!

 わたしが起き上がれずにもがいているあたりで、「大丈夫ですか?」と声をかけられたと思う。
「大丈夫ですっ」
 めっちゃ本気の声で、即座に返して、転がるようにして起きた。
 身体を丸めるしかないんだね、逆立ちから起き上がるのって! 広がったまんまじゃ重力に負けて、動けない。勉強になったよ!

 身体丸めて転がるみたいに踊り場へ降りて、ぺたんとお尻ついてる状態で、そっから立ち上がって。ええ、段階踏んで、ようやく立ち上がれた。
 落ちても転がってもトートバッグは肩にかけたまんま、脇でしっかり挟んでて、落ちた携帯も拾い上げて、あとはダッシュ。
 階段降りて、ラウンジの方へ逃げた。

 逃げた。
 まさしく。

 階段の裏側であるラウンジからは、わたしが転んでいる様が絶対に見えないから。
 目撃者のいないところへ、逃げた。


 そこまで行ってからだ。
 あらためて、こわくなったの。

 よ、よく無事だったなヲイ。
 そこではじめて、手のひらと肩が痛んでいることに気づき、ついでに脛をぶつけていたことにも気づいた。階段で逆さ大の字になっているときは、痛みどころじゃなかった。

 そしてつくづく、幸運だった、と震撼した。

 いちばんの幸運は、周囲に誰もいなかったこと。

 わたしひとりが落ちて死のうが骨折しようが自業自得だけど、周囲に誰かいて、落ちるときに巻き込んでしまったら……?
 わたしみたいなデカい肉の塊に降ってこられたら、大抵の女性は吹っ飛ばされ、わたし以上の勢いで階段オチすることになるだろう。

 幕間の半端な時間で、ロビー中央階段にはわたしとあとひとりくらいしかいなかった。
 そのひとりが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた人だと思うけど、わたしが落ちてから何拍も経過してからだったと思うから、咄嗟に声もかけられなかったんだろーなーと思う。わたしだって、目の前で「顔から階段落ちして動かない」人がいたら、びびって石になるわ。
 その人が騒がずにいてくれたから、人だかりになることもなく、係員を呼ばれることもなく、わたしはそそくさと逃げることが出来た。

 危なかった……あと少し動けずにいたら、人を呼ばれて騒ぎになっていたかも。

 スカートじゃないから見た目的にもそう見苦しい姿で倒れていたわけじゃないと思うし、血は服の下で外からは見えないし、フタのないトートバッグなのに脇を締めていたから中身飛び散ってないし、バッグのポケットに入っていた携帯電話は飛びだしていたみたいだけど、何故か起き上がったときに「あ、携帯落ちてる」って冷静に階段から拾い上げられたし……不幸中の幸いっていうか、「落ちた」あと、リカバリ完璧じゃね??

 不幸と幸運に、心臓ばくばく。
 てゆーかケガしたところもそこに脈打つモノがあるみたいにバクバク(笑)。

 そして思った。しみじみと。

 大劇場の絨毯、やわらかい……!

 95周年のときだっけ、絨毯張り替えられたの。『太王四神記』初日の鏡割りのとき、大劇場に入って「あ、絨毯変わった……!」って思ったっけ。エントランスだけで、階段はどうだったっけか。
 あのとき、絨毯の柄よりナニより、踏んだときにふかっとして、そのやわらかさで「変わった」と思った……あのやわらかさを、まさか頬で味わうことになるとは。
 いやあ、出来れば一生知りたくなかったなー。(笑顔)

 や、いい経験をしました。長く生きてると、いろんなことがあるもんですな。
 てゆーか気をつけような、年寄りなんだから、足元には!!

 『新源氏物語』『Melodia』の、3回目の観劇時のことです。たしかポスカプレゼントがあった日のことニャ。
 いまさらですが、『A-EN』ARTHUR VERSIONの、UPしそこねていたあれこれ。

 わたしはるねくんがわからない……(笑)。

 たぶん彼は「美形」で「耽美」な人なんだと思う。
 新人公演も、そしてこの『A-EN』でも、彼はそういう役割、アテ書きがされている。

 でもわたしには、彼が美形で耽美な人に見えなくてなあ……。
 ここぞ! という耽美場面で美形登場! で彼が出て来ると「え」と思う。

 スタイルがとてもいいこと、学年的に破綻しない実力があること、は、わかるんだけど……美形……耽美……うーん?

 失礼なことを言って申し訳ない。
 ただの好みの話、わたしにはこう見える、思える、というだけだ。

 耽美キャラとして鳴り物入りで登場するるねくんを観るたび、「彼の魅力は別の方法の方が活きるのではないか?」と首をひねっている。
 ハムスターのような愛くるしい顔立ちを活かした、役割。あの子かわいい!と、大人のおねーさま方のハートをくすぐる方法は、「エロエロ耽美」「女装させたいほどの美青年」ではなく、むしろだめっこ少年ではないのかな。
 素直さとか誠実さとかを武器に、いじらしく一途にがんばっちゃう系。ちょっと自虐入っている、自信ナイ系。うつむいて涙目で、ダメダメなんだけど、いちばん大切なときにしっかりがんばれる男の子。

 勝手な妄想です。
 ただほんと、ルーベルトくんって、わかりやすい美形がやるから面白い役で、美形でない子がやってもただのカンチガイ男で格好良さがわからないっていうか……ごめん。
 アーサー@あーさに匹敵する美形が登場してくれないと、ライバルとして成立しないっていうか……。美形だけど変な人、だからキングにはなれない(アーサーが優勝)、という役だよね? 最初からアーサー以外選択肢のないコンテストじゃないよね?
 2部のショーでも、たぶんこれは美形枠なんだよなと……。

 もりえちゃんを思い出す。
 お顔は残念なんだけど、スタイル抜群だった。
 そしてもりえちゃんも、最初はわたし「お顔残念」と思っていたけど、晩年は「もりえかっけーー!!」って感嘆していたから、単に学年の問題かもしれない。
 大人になって、顔立ち以上に「男役」としてのビジュアルを磨き上げてくれたなら、スタイルの良さも加わって「最強!!」な美形に仕上がる。
 今はまだ、過渡期なだけかも。

 お顔が個性的なおかげで、大劇場のどこにいても「あ、るねくんだ」ってわかるもんな。これはすげー強みだし。
 今現在、偏った好みのこあらが、こんなことほざいてるけど、将来「あんなこと言ってごめんっっ!!」とひれ伏しているかもしれないし。(前科アリ。もりえとか、めぐむとか!)
 ソレを楽しみに、今現在の違和感を記す。


 単なる好みの問題、その2。

 かわいいヲカマちゃんアダム@佳城くんは、なんとも不思議な味わい。
 わたし、ヲカマちゃんは美形がやるものだと、勝手に思っていたの。女性向けコンテンツでは、オネエキャラって大抵美形だから。男性向けだと、ゴツイ不細工だったりするけど。
 『A-EN』は少女マンガだと思って観ていたから、アダムくんのビジュアルが不思議で。少女マンガ的「女より美しい美少年」ではなく、ふつうにクラスにいそうなビジュアルの、男の子。
 アダムの言動は少女マンガのオネエキャラの鉄板なのに、見た目は少女マンガではなくて、現実的。
 それが不思議で……初見では違和感だった。
 マイルズ@まゆぽんに迫って、最終的にオトしてしまう子なら、もっと美形であるべきでは……? 何故にムーミン系の子がやってるの……? と。

 でも、なんかソレもアリかなー、とは結果思うようになった。
 少女マンガ的美形じゃなく、丸顔のふつーの子がオネエで「プロムキング候補」にもなる好感度高い青年の恋のお相手になっても……それはそれで、楽しいか。

 てゆうか、うまいよね、佳城くん。
 ビジュアル含め、存在がリアルで困る(笑)。ヲカマキャラなんてイロモノで、しっかり芝居してるんだよなあ。

 マイルズが最後、アダムくんを否定しないのが、いいんだよな。
 アダムくんが美形なら「顔がいいなら男でもいいのか」と片付けられてしまうかもしれないけど、そうじゃないから、マイルズの男前度が上がるというか……顔ではなく中身で、アダムくんが魅力的だということだし。
 実際、いいヤツだし、アダムくん。好きだもん、あのキャラ。おかげで2回目はオープニングから佳城くん探しちゃったし。


 わたしが丸顔全般苦手なので、るねくんも佳城くんも絶対割り食ってる。
 でもでも、これだけ文字数使って語りたいくらい、気になってる。

 いやほんと……彼らの次の役が、出演作が気になる。
 やだ、なにこれ、ツンデレ感想? あ、あんたたちのことなんて、好きでもなんでもないんだからねっ。的な?
 『A-EN』ARTHUR VERSION千秋楽、楽しく観劇したのだけど……ラストだけが、残念だった。

 千秋楽だから、サプライズはあるだろうなと思っていた。
 ダブル主演の暁くんが、挨拶にくるだろうなと。
 わたしの記憶に、ダブル主演ワークショップ『さすらいの果てに』の前半バージョン、えりたん主演千秋楽の挨拶時に、後半バージョン主演のキムくんが挨拶に来た、というのが焼き付いている。ああいう感じのが、あるだろうなと。

 そしたら実際、お芝居に登場。ARI VERSIONのキャラでアーサー@あーさに絡むのは、公演の宣伝にもなるし、いち早くそのキャラを観られたことは観客的にもお得でうれしいことだし、千秋楽のサービスとして、いい感じ。
 終演後の挨拶程度かと思っていたから、芝居のサプライズ登場は「やるな」と思った。

 しかし……。

 終演後、全プログラムを終えたあーさたち出演者挨拶時に、暁くんも呼ばれた。
 せっかく駆けつけてきてくれたんだもの、ここで舞台上に招くのは正しい。えりたん楽で、キムくんが挨拶したように。
 そこまでは、いい。

 挨拶の場に呼ばれ、登場した暁くんの姿に、驚いた。

 暁くんは、ポスター衣装(フィナーレの正式衣装)に身を包んでいた。
 えっ……?

 お芝居のブレザー姿か、あるいはもう、私服に着替えているかと思った……。
 ちなみに、『さすらいの果てに』のキムくんは、私服+素顔でした。あくまでも、「ご挨拶」に登場しただけ。

 わざわざ着替えて、スタンバイしてたんだ……。

 まあ、お芝居と違って、ショーのフィナーレ衣装に混ざるんだから、私服じゃ気の毒か……。
 そう思って見守っていると。

 いる。
 いつまでも、いる。

 幕が閉まる。
 カーテンコールの手拍子が続く。
 幕が開く。
 客席から声が上がる。
 千秋楽。

 が。
 ただひとり、千秋楽に無関係な人がいる。真ん中に。

 主演のあーさ(青)よりも、派手な衣装(赤)を着て。

 カーテンコールが続く。
 千秋楽おめでとー!!

 その中に、いる。
 いつまでも。
 関係ない人が。

 いちばん派手な衣装で、真ん中に、無関係な人が、居続ける!!

 ぽかーん……。

 あのー……。

 なんなんすか、これ……??

 千秋楽っすよ?
 このメンバーで迎える、最後の最後の瞬間っすよ?
 なんで、関係ない人がいるの?
 一緒に舞台作り上げた子たちが隅っこで、出演していない人が、真ん中にいるの?

 キムくんは挨拶だけで退場し、カーテンコールはえりたんたち、実際に公演を行ったメンバーだけだったよ?

 幕が閉まるたびに「次こそは、暁くんいないよね?」と期待し、幕が上がるたび、裏切られた。
 暁くんは真ん中にいた。
 キラキラ衣装を着て。ばっちり舞台メイクで。
 主役のひとりであるように。

 うあー……。

 月組、こわい……。

 またしても、思ったよ……月組容赦ない……。
 あーさ主演バージョンも、暁くんセンターか……。


 芝居に「役のキャラとして」登場したように、これは「決められた演出」なんだと思う。
 暁くんが出しゃばって、無関係なのにキラキラ衣装でセンターで手を振っているのだ、なんて、まったく思わない。
 演出家なりプロデューサーなり、キャスト以外の大人が指示したことだと思う。
 子どもたちは「みんな仲間」だから、一緒になって盛り上がっているのだと思う。内心「変じゃね?」と思っているかどうかは知らないが。

 だが、劇団のこの「暁くん推し」は、無神経だと思う。
 千秋楽は劇団のものかもしれないが、ファンのモノでもあると思う。
 舞台は観客なしでは成り立たない。同じ空間で、同じ空気を共有する、観客もまた、舞台を構成している一部なんだ。
 明らかな劇団推しのないあーさが、それでも半分だけとはいえ主演し、同期の絆とか演出でさんざん盛り上げた、その有終の美を飾る瞬間に……「劇団の本命様登場、センターに陣取ります」は……冷水浴びせられた気分だ。

 キラキラ衣装で挨拶に出てくれてもいいけど、カーテンコールは遠慮するべきだろう。
 カテコは「出演者」に贈るモノであって、「無関係な人」にいられても困る。

 暁くんも、居心地悪そうに見えた。わたしには。
 もちろん、終始笑顔だ。や、そうするしかないよな、彼としては。
 自分がこの舞台を作り上げたひとりなら、もっと別の表情をしていただろう。

 結婚式で盛り上がっているチャペルで、新郎が親友を壇上に引っ張り出し「僕の親友です、次はこいつも式を挙げるんですよ」と紹介したら、そりゃ参列客は拍手喝采するだろう。
 でもその「次に式を挙げる人」が、そのあともずーっと新郎新婦の間に立っていたら、おかしいじゃん。え、あの人いつまでいるの? 空気読めよ、ってなるじゃん。

 みっちゃんトップ初主演『大海賊』千秋楽に、出演してないのにキラキラ衣装のベニーが出て来て、センターでカテコまでずーっとニコニコ手を振ってたら、どんなことになると思うよ……。逆に、ベニー主演の『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』千秋楽に、出演していないみっちゃんが登場して、何回幕が下りても退場せず、真ん中で手を振り続けたら、どうなるよ……。
 そのときの、客席の空気は。ファンの気持ちは。

 暁くんは、そういう感じになっていた。


 暁くんバージョンの千秋楽にも、あーさは出演するだろう。
 それはダブル主演ワークショップのお約束というか、「すでに公演した実績」をひっさげて、「2バージョン全体の千秋楽」として登場するわけだから、アリだと思う。
 らんとむとみわっちの『くらわんか』なんて、その上専科さんのサヨナラショーまであったしな。
 しかし、まだ公演してもいない暁くんに「公演終了、よくやったカーテンコール」はおかしい。

 そのおかしいことを、暁くんにだけさせる劇団に、ドン引きした。
 こんなことしても、暁くんのためにならないだろうに……。芝居のサプライズ出演と、終演後に私服で挨拶、だけで、詰めかけたあーさファンは「ありちゃんかわいい!!」となったろうに。
 あーさの晴れ舞台を奪うカタチになったら、意味ナイだろうに……。

 月組こえぇ。
 そして、つくづく思う。

 月組って、プロデュースへたすぎる……。
 こんなことしてたら、人気スターを作れないよ。『A-EN』という作品自体は、スター人気を高められる作りなのに。
 マカゼ主演キターーッ!
2016年 公演ラインアップ【シアター・ドラマシティ、神奈川芸術劇場】<2016年5月・宙組『ヴァンパイア・サクセション』>
2015/11/06

11月6日(金)、2016年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、【梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ】【神奈川芸術劇場】の上演作品が決定いたしましたのでお知らせいたします。   
宙組
■主演・・・(宙組)真風 涼帆

◆シアター・ドラマシティ:2016年5月3日(火)~5月11日(水)
一般前売:2016年3月6日(日)
座席料金:全席7,800円

◆KAAT神奈川芸術劇場:2016年5月17日(火)~5月23日(月)
一般前売:2016年4月3日(日)
座席料金:S席7,800円、A席5,000円

ミュージカル・プレイ
『ヴァンパイア・サクセション』
作・演出/石田 昌也

ヴァンパイアが、不幸な過去を持つ少女との触れ合いの中で命の尊さを知り、「人間」になろうとする物語。これまでの耽美でシリアスなイメージを覆し、様々な弱点を抱えつつ21世紀に生きるヴァンパイアの親近感溢れる姿を、コメディタッチでありながらもハートフルに描き出します。
現代のニューヨークに甦ったヴァンパイア・アルカードは、700年という時の流れの中で、「退化という進化」を遂げ、生血の為に人を襲うことも十字架を恐れることもなくなっていた。ヴァンパイア研究家の末裔であるヘルシング16世とも友情を育み、彼のゴースト・ライターとして自らが過去に見聞してきた出来事を「幻想ロマン小説」として執筆する日々を過ごしていたのだ。ある時、出版記念を兼ねたハロウィンの仮装パーティに「ヴァンパイア役(本人役)」で参加したアルカードは、歯科医を目指す大学生のルーシーと出会う。次第に彼女に惹かれていったアルカードに人間になりたいという欲望が高まるが、それは「永遠の命」を持つヴァンパイアにとって、「自殺」に等しい決断だった。
 えー、なんか楽しそう。

 わたし、イシダせんせは苦手なんだけど、彼は最低限「商業演劇」レベルの作品は提供してくれる。物語になってないとか、作劇の基本から出来てないとか、そーゆーことだけはない、と思える。
 ふつーに楽しいエンタメ作品を書いてくれるんじゃないかな。ベタに笑わせて、泣かせる系の。
 その点では、楽しみ。
 …………わたしとツボがチガウというか、むしろ逆ツボにはまることも多いんだけどね。それは作劇とかじゃなく、スピリッツ、感性の問題。そこだけ不安なんだけど……。

 てゆーか、イシダでヴァンパイア、ってのが、楽しみだ。

 というのも、イシダせんせにはそういう「ファンタジックなもの」を理解する素養がない、ように思っていたので。
 彼の作るモノって、時代がどうあれ現実的。魔法とか妖精とか、「目に見えないモノ」にロマンを感じている様子が、まったくない。
 厨二的要素皆無のおっさん視点作品を作り続ける人。
 そういう印象だから、ここにきて「ヴァンパイア」という「ロマンチック」な題材を持ってくるとは……興味わくじゃないですか!

 あらすじ読む限り、ふつーのヴァンパイア物ではなく、イロモノ系みたいだけどな……。

 ヴァンパイアよりも、現代モノってのが、いちばんの不安要素かな。
 臓器移植キャンペーンが出ませんように。切実。


 博多座は『王家に捧ぐ歌』。
 まあ順当かな。『王家』は好きだけど、……あうー、アムネリス役が別の人になったら、遠征考える。←
 思うんだけどさー、マイルズ@まゆぽんって、アダム@佳城くんのこと、ヲカマだから嫌がってるわけじゃないよね。

 と、まだ『A-EN』ARTHUR VERSIONの話。
 てゆーか、マイルズ×アダムの話。

 アダムはマイルズロックオン、なにかっちゃーくねくねモーションかける。
 そしてマイルズは嫌そうに避けるし、逃げ回る。

 最初はヲカマに迫られて嫌がる男子、ごくふつーの反応、だと思ってた。
 でもアダムが本気で告白して、マイルズはそれを拒絶しなかった。
 え、アリなの? とみんながびっくりしたのち……やっぱりマイルズはアダムに迫られて嫌がってる。
 「ヲカマに迫られて嫌がる男」ってのは、定番のコミカルネタよね。ヲカマの出て来るマンガには絶対ある。だから、「マンガあるある」ネタだけで出来上がってる『A-EN』でも、それはあって当然。
 否定しなかったとは言え、やっぱり嫌がるのは「お約束」だから仕方ないのかな。否定しなかっただけで、ラヴラヴカップルになったわけじゃないし。
 笑えるから、いいのか。

 でも、あとになって思うの。
 マイルズくんは、アダムが女の子だったとしても、同じ態度を取るんだろうな、って。

 ラヴラヴカップル、てわけでもないのに、くねくねウッフン、とベタついて来られたら、相手が女の子でも「やめろよ」って引きはがすんだわ、マイルズくん。
 相手が積極的だから、とおいしくいただいちゃったりしない。流されもしない。
 嫌なモノは、嫌。

 ヲカマだから気持ち悪い、触るな、しっしっ、……ではなくて、まだつきあってないのに、べたべたすんな、なんだわ。

 なんか、開眼。
 目からウロコ。
 ラストのマイルズ×アダムが引っかかってたの。

 卒業後もマイルズはあたりまえにアダムと会ってて、アーサー@あーさに、「趣味が違いすぎるんだよなー。ぜんぜん好みじゃない服プレゼントしてくるし、まいったなー」てな愚痴こぼしてたり。
「でもソレ、着てるじゃん」「仕方ないだろ、すっげーうれしそうに持ってくんだもん」……てな。
 アーサーは(なにソレのろけ?)と思いつつ、とりあえず聞いてやる、とかな。
 話だけ聞いてると、女の子とつきあってるのとなんにも変わらない。
 マイルズの中では、区別はない。
 ダブルデートしたりなー。ヴァイオラ@小雪ちゃんとアダムくんは、ふつーに女子トークしながら盛り上がってて、アーサーとマイルズは「これだから女って……」と閉口してたり。

 あらやだ、楽しい。
 いくらでも想像できる。

 あー、好きだなー、マイルズ×アダム。

 うんほんと、好きだわ。(ムーミンゆったくせに!!)←だからごめん。
 年寄りなので、昔話をする。

 2002年月組で上演された『ガイズ&ドールズ』で、わたしの萌えはビッグ・ジュールとナイスリーにあった。

 脚本上ではこのふたり、特に絡みはない。
 BJが絡むのはハリーとスカイとネイサンぐらい。
 脚本上では。

 でもこのふたり、脚本外で絡んでいた。

 ナイスリー・ナイスリー・ジョンソンは、つかみどころのないお調子者。「ナイス、ナイスでやんすよ」が口癖の、陽気で人なつこい男。初対面でもハグ基本。つか、キス魔だよね。キスしようとしてかわされるの、ハリーにもスカイにも。
 ピンク×黒のスーツなんてトンデモないモノをキュートに着こなした、優男。長い手足を持てあますようにへらへら動き回る。
 テキトーな性格は問題アリだけど、ハンサムだからすべて許される。……そーゆータイプ。
 いつもご機嫌で、いつもお菓子を食べている。……舞台の上で、ほんとーに食べている。

 シカゴの大物ビッグ・ジュール。どう見てもマフィア、という貫禄の中年男……なんだけど、何故か手にはテディベア。寡黙というか他に問題があるのか、「クラップやろうぜ」以外口にしない、極端に無口で無表情の不気味(笑)な紳士が初登場し、ネイサンがたじたじになっている場面にて。
 ナイスリーはポップコーンを食べながら、チャラチャラと現れる。
 舞台中央では物語が進んでいるんだけど、ナイスリーは関係なく、下手端でへらへらしている。

 この下手端で。
 ナイスリーとBJはニアミスする。

 や、BJがナイスリーの前を通り過ぎて下手袖へ引っ込む、というだけのことなんだけど。
 ナイスリーはここで必ず、BJに絡む。

 ナイスリーとBJはこの時点で、まだ面識がナイ。ネイサンはBJと対面しているが、ナイスリーは遅れてやって来るので「BJの紹介場面」にいないのな。
 だからナイスリーにとっては「知らない男とすれ違った」というだけ。
 しかもこの「知らない男」は、手にテディベアを持っている。
 ふつー、テディベア持った強面の中年男が歩いてくるのを見たら、びびるよな? 「触れちゃいけない人だ」って視線逸らすよな?
 だけどナイスリーは何故か、自分からBJに絡む。
 にこやかにポップコーンを勧める。

 ここが日替わりっちゅーか、いつも好き勝手にアドリブしているところで。……たぶん、ポップコーン勧めること自体、アドリブだろう。ふつーに考えたらおかしいから。
 でもお調子者のナイスリーは毎回仏頂面のBJに、ポップコーンを差し出していて。
 BJはそれを無視して通り過ぎたり、振り払ったり……してたと思う。最初は。
 でも気がついたとき、BJはナイスリーからポップコーンをもらうようになっていて。
 あの仏頂面のまま、ナイスリーの差し出すポップコーン受け取って、食べる。
 いや、だからあの、あなたたち、初対面で。
 見知らぬ男から食べかけのポップコーンの箱を差し出されて、食べるかふつう? キモいよね? アヤシイよね?

 ナイスリーとBJ、という役の上では、こんなことをしているのは、おかしい。
 見知らぬ他人同士で、通りすがりのすれ違いざまに、ナニやってんだ。

 ただ単に、ナイスリーとBJの、中の人たちが仲良しだった、というだけだ。

 仲良しだから、アドリブで絡む。
 ふつーの客は中央の芝居を見ている、ビデオカメラだってストーリーに関係ある真ん中を映している、舞台端のモブがナニしてるかなんて、一部の人しか気にしてないだろう。
 それをいいことに、遊び過ぎだ、お前ら(笑)。

 ええ。
 BJはナイスリーのポップコーンを食べるようになっていた。
 けど。
 あるとき、ナイスリーってば箱ではなく手でポップコーンを差し出したんだよね。
 あーん、って、BJに。
 そしたらBJ、食べるし。
 ナイスリーの手から、直接、口で。

 ちょ……っ、お前ら……!!

「あーん」「ぱくっ」
 って、どこのバカップルだよ!!
 スーツのにーちゃんと、強面のおっさんで!!

 萌え死ぬかと……!


 クライマックスの教会場面でも、ナイスリーはBJにちょっかい出しまくりだしね。
 いちゃいちゃ、いちゃいちゃ、ナニやってんだお前ら。

 カメラに残らないところで、ストーリーに関係ないところで。

 いやあ、楽しかった。
 真ん中観てる場合じゃない、モブに紛れているふたりを観るので大忙しだった(笑)。
 それが、わたしにとっての『ガイズ&ドールズ』。

 甘いハンサムでとんでもないチャラ男のナイスリー@ゆーひ。強面無表情、キレるとヤバイBJ@ケロ。
 ナイスリーがBJ好き過ぎて、BJが迷惑そうに振り払って、でもまんざらでもなさそうで。
 横でハリー@越リュウがはらはらしてて、ベニー@さららんとラスティー@みっちゃんがニコイチで空気読まずにわちゃわちゃしてて。
 ハリーが「BJにちょっかい出すな」とナイスリーを牽制する様とか、それでもへらへら首を揺らして笑ってるナイスリーとか……かわい過ぎ。

 楽しかったな。
 ゆーひくんをいちばん好きだった頃かなあ。や、ご贔屓はケロちゃんだったんだけど、『ガイドル』の頃はケロよりゆーひくんに夢中だった。
 ナイスリーが好き過ぎて。
 プルミタス@『血と砂』とのギャップが……(笑)。

 ああいう底の見えない優男、好きなんだよなあ。


 なつかしい。
 再演を観ながら、ただもう、なつかしくて、愛しくて、切なくて、……あたたかいさみしさを噛みしめた。
 2002年の再演時、『ガイズ&ドールズ』の原作小説を読んだ。

 デイモン・ラニアン作『ブロードウェイ物語』。全4冊。

 ブロードウェイ界隈を舞台にしている、というだけで内容は個々まったく無関係な短編集。時代と舞台が同じだから、同じキャラクタや店が出て来る場合もあるけど、「オムニバス小説」と呼ぶには弱い。別の短編小説と捉えていいと思う。

 特徴は独特の語り口。
 すべて一人称の伝聞調、そのうえ現在形で書かれている。

 文体はクールでスパイシー。起こっている出来事はけっこうトンデモないんだが、飄々と語られてしまう。

 プロットが巧みで複数の事件やキャラクタが絡み合い、思わず「にやり」とする結末に行き着く。

 が、収録作品のクオリティの差がひどく、1~2巻と3~4巻の落差にショックを受けた(笑)。
 1~2巻は面白いのよ。でも、3~4巻のテキトーな感じときたら……。盛大な肩すかし。
 面白いプロットを組める人なんだと思う。それゆえに、「いつものパターン」で軽く書き飛ばすことができるんじゃね? 3~4巻収録作品はそんな感じ。「いつものパターン」「さらりとまとまってるけど、つまらない」「軽い、浅い」「マンガ的トンデモさ・ドタバタ感」。

 それにしても、文体の勝利だわ。「おれ」の目線と語り口が素敵でね。ある意味全編が叙述トリック入ってる感じ。

 ミュージカル『ガイズ&ドールズ』の原作になっているのは、1巻収録の「ミス・サラー・ブラウンのロマンチックな物語」The Idyll of Miss Sarah Brown(1933)。
 「ザ・スカイ」という渾名の男が、伝道師の美女、ミス・サラー・ブラウンに恋をした。彼はなんとか彼女に振り向いて欲しいが、賭博師の彼を彼女は嫌ってしまう。伝道師のサラーのために、ザ・スカイは賭博師のブランディ・ボトル・ベイツと魂を懸けた賭をする。ザ・スカイが勝てばブランディ・ボトルはサラーの教会で魂を救ってもらう、ブランディ・ボトルが勝てばザ・スカイが彼に千ドル払う。この噂が広まったため、たくさんの賭博師たちが押し寄せてくる。ザ・スカイは負け続け、ついに破産。そこへサラーが現れる。ザ・スカイ自身の魂を懸け、サラーと勝負。
 勝ったのはサラー。ザ・スカイは伝道師となり、サラーと結婚。
 だがこれはみんなザ・スカイの計画で、ブランディ・ボトルと一芝居打ったのだ。

 てな話。ほんと短い、さら~~っと終わっちゃう短編小説。
 …………なんか、ぜんぜんチガウんですけど。概ねラインは同じだけど……いちはん根っこになる部分がチガウ。
 サラーを騙して結婚、って、それ、まったくチガウじゃん、これじゃ別の話じゃん。

 ラニアン的にはこの方が正しい。この「騙して終わる」方法は、彼の得意パターン。作品の大半がこういうオチなの。突き放した文体で語られ、ウエットになりすぎず、皮肉っぽい。
 でも、ロマンチックかと言われるとねえ。『ガイドル』の方がロマンチックよね。
 ラニアンの小説のろくでなし共は、ほんとどーしよーもない奴らなんだけど、みんな憎めないというか、かわいいのよ。
 でも、このザ・スカイという男は好きになれないわ。

 それともうひとつ、原作としてよく引き合いに出される短編。「勝ち馬はどれだ」Pick the Winner (1933)。3巻収録。
《穴馬(ホット・ホース)》ハービーとミス・キューティ・シングルトンは、婚約してもう10年近くなる。金ができたら結婚する、と言いつつも、予想屋のハービーではどうにも金が貯まらない。マイアミでウッドヘッドという大学教授をカモにしようと、ハービーはキューティに水晶玉占いをさせた。水晶玉に映ったものを、ハービーは「南風号」だと信じて教授に賭けさせる。しかし南風号は大負け。教授はかんかん……ではなく、なんとキューティと駆け落ちしてしまった。教授から届いた詫び状は、婚約者を奪ったことではなく、水晶玉占いの勝ち馬のことだった。彼は水晶が映したものは「ミストラル号」だと思って、ハービーに内緒で賭けて大儲けをしたのだ。……ちなみにおれも賭けたのは南風号ではなく、「レッグ・ショー号」……風でご婦人のスカートが舞い上がる脚のショーのことさ。

 この話はほんと、おもしろくなかった。
 単に10年近く婚約したまま、男はギャンブラーってだけが『ガイドル』と同じなだけ。
 「ミス・サラー・ブラウン」の方がまだマシだな……っていうか、4冊の中で3巻がいちばんレベル低いものばかり収録されてる……。


 こんだけ「まったくチガウ」話から、モチーフだけ借りてミュージカル『ガイズ&ドールズ』を作ったのはGJ。
 元になっている原作より、ミュージカル『ガイズ&ドールズ』の方がずーーっと好き。

 ただほんと、元になっている短編が好みじゃないだけで、他の話は面白いのよ。
 いちばん好きなのは「サン・ピエールの百合(リリー)」かなー。これ原作にミュージカル作ってくれ……!
 悲しい、やるせない物語なんだけど、ただのウエットな物語におさまらず、ぴりりとした後味。
 すごく、かっこいい物語。
 数ある短編作品の中で、この話を全4巻の1発目にもってきたわけだ。テクニカルであり、デイモン・ラニアンという作家の作風が顕著に出ている。
 ろくでなしで、飄々としていて、ユーモラスで、かっこいい。

 同じハートで「レモン・ドロップ・キッド」も好き。とてつもない愛の物語。泣いた。
 プロットの巧みさでいちばん好きなのが「ブロードウェイの出来事」。こんな話書きたい。

 他のくっだらない話も、大体好き。マンガ的というか、ラノベだろこれ、とか思う(笑)。
 いかにもアメリカな、ブラックすぎる笑いについて行けず、閉口したりもするけどさー。

 語り口のせいかもしれないが、悲惨だったりトンデモだったりする話もみな、ファンタジックだ。

 ナイスリー・ナイスリー、ベニー・サウスストリート、ラスティー・チャーリー、ネイサン……知った名前のキャラクタが、『ガイズ&ドールズ』とはまったくの別人としてあちこちで現れるのもまた、楽しい。
 ビッグ・ジュールとブラニガンが恋敵だったりな……(笑)。ビッグ・ジュールとブラニガンが幼なじみで、ブラニガンが二枚目の若い男、でもって恋愛絡みってことは、BJも見た目のいい若い男なんだろーなー、とか、BJってば恋人からは「ジュリー」って呼ばれてるんだなにソレかわいい、とか。
 わたしはハリー・ザ・ホースが好きだった。バカでまぬけでかわいいの。

 小説を原作に舞台化するなら、これぐらい自由にしてもいいよね、ってくらい、原作とは別モノの『ガイズ&ドールズ』。
 キャラクタもストーリーもナニもかもチガウけど、原作の持つ「空気」はちゃんとあるんだもの。
 2002年月組の『ガイズ&ドールズ』では、ナイスリー@ゆーひくんの歌う主題歌に泣かされた。

 ピンク×黒のお洒落スーツに身を包んだ美青年が、明るくコミカルに歌い出す。

「♪男達が星を欲しがる みんな女の子のために」

 雨の中待ち続ける男、高い家賃を払う男、貯金して毛皮を買う男……すべては女のために。

 ナイスリーの背景には、女の尻に敷かれた情けない男達が登場する。
 荷物持ちしたり、赤ん坊の面倒をみたり。
 なんともかっこわるい、滑稽な姿。

 女のために生きる男はかっこ悪い。笑える。
 そう表現するように。

 だけどこの「滑稽な姿」は、なんともあたたかい。

 ナイスリー自身も「女のために生きるなんてくだらない」と言っているわりに、その「くだらない」者たちへの態度がやさしい。

 物語の「クールな男」たちは、女を泣かせて自分の生き方を貫く。物語は大抵そーゆー男をもてはやす。
 女ごときに足を取られない、むしろ女を足蹴にする男こそがかっこいい、と描く。
 『ガイズ&ドールズ』に出て来る男たちだって、ろくでなしばかりだ。ギャンブルに明け暮れて、女を不幸にする。(ここでアデレイドちゃん、くしゃみヨロシク)

 ろくでなしを描き、「女のために生きる男はかっこわるい」と言いながら……じつは、とても女にやさしい。

 ナイスリーの後ろで女の尻に敷かれているモブの男たちの、しあわせそうなこと!

 女のために滑稽になっている男たちは、ちゃんとしあわせなんだよ。
 自分の意志で、そうしているの。
 そして、それを揶揄しているようなナイスリーたち3バカトリオもまた、そんな男たちを結局のところ肯定している。唾棄するような目で見ない。

 ろくでなしのスカイが、ネイサンが、愛した女のために生き方を変える。
 かっこいいギャンブラーをやめて、かっこわるい勤め人になる。サラとアデレイドが妄想した「マイホームパパ」姿のように。

 自分を捨てて生き方を変える、おもねる、曲がる、流される……女のために、それが出来る男たち。
 しあわせそうに、やってしまえる男たち。
 それは滑稽かもしれないけど……最高に素敵。

 人生指南本には書いてあるよ、「他人を変えることは難しい、まず自分が変わりましょう」。
 でも我らがヒロイン、サラとアデレイドは「愛する男の生き方を変えさせる!」「それで結婚するわ!」と拳を握る。
 えー、そんな無茶な。
 でも、その無茶が通ってしまう。
 2時間かけて「生き方は変わらない、変えられない」とやってたのに、サラとアデレイドが「♪結婚するわ」と歌った次の場面では、変わっているし。

 だからそれは、愛の奇跡。

 男たちは、愛の前に敗北した。
 生き方を変えてでも、愛を選んだ。女を選んだ。
 嫌々ではなく、渋々ではなく、意気揚々と。
 主題歌を歌うナイスリーの後ろで女にへこへこ踊っていた男たちのひとりに、なったわけだ、我らがスカイもネイサンも。
 愛に敗北したこと……「♪すべては女のためにすること」と、誇らしく。

 だから泣けるの。
 「ガイズ&ドールズ(野郎どもと女達)」というこの主題歌に、「まさに主題歌!!」を感じて。

 この物語のテーマそのまま、愛に敗北することに、胸を張る男たちの歌。

 それを歌うのが、ナイスリーたち3バカトリオだってのがいいよね!
 たぶんいちばんなんにもわかってない奴らが歌っちゃうのがいいね!
 ナイスリーたちって、この物語の「スタンダード」な男たちだもの。中庸っていうか、基本値っていうか。
 そういう男たちが歌い、最後は主人公の物語がそこに帰着する、というのがいい。


 大好きな主題歌と場面だから、今回の星組再々演版でもたのしみにしていたんだけど……。

 ここでは、泣けなかったっす……。

 さやかさんはうまいから、はじめて(←)まともに歌詞が聴き取れた!てなもんだけど……うまさとは別。
 さやかさんのナイスリーは賢そうで、ゆーひくんのあっけらかんとしたバカさとはチガウのな。

 なにより、見た目が……。

 女に不自由しないだろう美青年が歌うから、よかったのよ~~。
 さやかさんのナイスリーだと、彼を愛する女は、彼自身、彼の中身に惚れてるんだと思える。人生の真理を知った中年男が歌うのは、チガウのよ。
 ゆーひナイスリーだと、中身より外見で惚れる女が後を絶たないだろうってもんで、「愛のなんたるかを知らない」のーみその軽い男の子が歌うのが、よかったのよ。

 や、あくまでもわたし限定のツボの話。
 再演のときの感涙ポイントが、「わー、歌詞わかるー、ふつーにうまいー」で、まったく意味合いのチガウ場面になっていたことに、おどろきました。
 や、もともとナイスリーはでぶ中年の役で、ゆーひくんが特異だったんだってことは、わかってる。さやかさんのが正しいことは。

 でも、正しいことに感動するとは限らないわけで。

 わたしはイレギュラーな再演版のナイスリーと彼の場面に、勝手な視点でテーマを解釈して感動していたのよ。

 勝手上等。
 それが間違いで、そんなこと思っていたのがわたしだけなら、なおさらラッキー、感動できて得したわ~~。


 今回の再々演版は、ツボは別のとこにあるからね。
 別のところで、泣けるから。
 違ってていいんだ。
 それこそが、再演の楽しみ。
 2002年月組のときとは違い、星組『ガイズ&ドールズ』は「恋愛モノ」として楽しんでいる。

 02年月組は、個人の恋愛というより、もっと大きな愛の真理みたいな、漠然としたモノに感動していた。
 街に生きる人すべて、いや、この世界のすべての男と女、的な。

 でも今回はシンプルにスカイ@みっちゃんとサラ@風ちゃんの恋愛に感情移入してる。

 たぶんわたし、風ちゃんのお芝居好きなんだわ。チャンネルが合う気がする。
 風ちゃんは好みの顔でないため、ふつーにしていると視界に入ってこないというか、観ているけれどそれ以上ではナイ、感じなんだけど、彼女が「主人公」を演じていると強引に視点を合わされるのね。
 他にピントの合ったフレームを眺めているのに、風ちゃんが自力で自分にピントを合わせるの。
 あれ、なんか急に関係ないとこにピント合った……世界の焦点が変わって、自動調整かかった。……そんな感じ。
 関係ないっていうか、彼女はヒロインなんだからむしろ彼女にピント合ってて当然なんだけど、わたしがよそ見してたもんだから。
 で、風ちゃんにピントが合うと、世界が一気にクリアになる。
 当然よ、だってヒロインだもん。彼女を中心に物語が作られているんだから、そこへピントが合えば辻褄が合う。よそを観ていた方がおかしい、物語ってのは主人公に合わせた画面がいちばん楽しめるように設計されている。
 確かにその通りなんだけど、正しく「中心」に合った画面が提供され、「観やすい」ことに驚く。
 へえええ、こんな画面なんだ、こんな世界なんだ。……脇観る癖、端を観る癖が染みついたモノに、「真ん中」の視界を見せつけてくれる。

 強引にそれをされちゃうのが、面白いんだよなあ。

 サラに視点が合うと、こんなに「王道ラブストーリーなのか!」と驚くわー。やだ今まで気づいてなかったーー。
 あとはスカイの外見がもう少しわかりやすい二枚目だったらなお良かったんだけど、存在的にかっこいいからいいのか。
 スカイは二枚目っていうより、柴犬的な愛くるしさがある男なのかも。美形タレントが演じるより、性格俳優が演じる的な? 福山雅治よりも大泉洋的な? 02年が色男キャラだったからそのイメージで観ちゃって混乱したけど。

 サラに感情移入して、スカイに恋をする。
 ドキドキしたり、甘えたり、不安になったりする。
 それが、心地いい。

 フィクションの醍醐味だわー。

 02年月組が恋愛脳ナシに観ていただけに、「世界の凝縮感」が心地いい。
 「人間っていいわね。愛しいわね」とGoogle Earthで俯瞰して世界全体を眺めていたのが、視界がぎゅーんと狭くなって、地図がみるみるうちに拡大されていって、ストリートビューで顔がわかるとこまで持って行かれた感。
 で、そこにいた女の子の物語がはじまった。地図ではなく物語がはじまったの。動き出したの。

 楽しい。

 今回もまた、やっぱり『ガイズ&ドールズ』は楽しい。

 オープニングの街の場面からもお、目が足りなくて大変。
 本編も、ギャンブラーたちもっと観たいのに、なんでいつも一斉に出て来るの(笑)。
 サラ中心の視界だから、ギャンブラーたちとはあまりかぶらなくて、そこは助かってるけどラストの教会はマジ目が足りないし。
 組担は楽しいだろうなあ、リピートするたび発見があって。02年はそうやって楽しんでいたもの。

 アデレイド@ことちゃんが観るたびうまくて……初日はそれでも「男役」感があったのに、公演重ねるとそれもなくなり、かといってタカラヅカの娘役でもなく……「外部のミュージカル女優」になってる。
 めちゃくちゃうまいんだけど、タカラヅカの舞台ではちょっと違和感。この子このまま外部臭付けすぎるとまずいから、早く男役に、タカラヅカに戻してやって!と思う。
 あと、場の空気に馴染まない存在感はみっちゃんと双璧(笑)なので、みっちゃんとガチンコ勝負して欲しいと思った……芝居で。

 ネイサン@ベニーとことちゃんは合っていると思う。
 ベニーは良くも悪くもタカラヅカというか、タカラヅカでないと存在しないスターだと思う。
 だからこそ、そんなベニーの横にいることで、ことちゃんのタカラヅカらしくなさが緩和されている気がした。
 いいカップルだと思う。「ことちゃん、このまま紅さんのお嫁さん(トップ時の相手役、つまりはトップ娘役)になって!」という声があるのに、ある意味納得。
 ……でもやっぱりことちゃんは男役で!(笑)
 スカステで、『GOLDEN JAZZ』の振付講座を見た。

 え、けっこう長い……というのが、いちばんの感想。
 もっと一瞬で終わるモノかと思った。
 こんだけまとまった尺踊らされるの?

 んで、いちおー、繰り返される振付を見ながら、手を動かしてみた。

 そこでの疑問。

 何故、ミラーで踊ってくれないんだろう??

 「右」という声を聞きながら、目には向かって左の手を上げている姿が映る。
 耳は「右」と思い、目は「左」と思う……混乱。

 世の中の人は、視覚の左右逆転を瞬時に出来て、身体をそれに直結して動かせるものなのか。

 や、世の中の人はそうなんだろう。
 エアロビとかスポーツジムで、みなさんふつーに向かい合う講師を見て踊ってるわけだし。みんなはそれがふつーに出来る。

 だがわたしにはそれが出来ない。

 「右」と言いながら「左」手を上げられたら、右を上げたらいいのか左を上げたらいいのか、咄嗟にわからない。目で見たモノを脳内で「ん左? チガウ、右」と考える、その無意識の一瞬、遅れが生じる。んで、遅れたら最後、もう置いて行かれる……わたしが「目では左だけど右のはずだから右」とがんばって上げたときにはもう「左」とジェンヌさんの次の指示が耳に入っていて、目と耳の情報の差が広がっている。
 視覚情報と理屈の処理が、なめらかにいかない。頭で理解しないと、身体が動かないの。
 ふつーに「右」と言いながら「右」手を上げられたら、それをそのまま真似ることはできるんだけど。
 頭を使わずに出来る動作に時差はあまりない。頭を通すと、無理。

 自分の運動神経と、それを司るのーみそが普通以下だという自信はある(笑)。

 しかし、普通以下の人のことも考えてくれていいんじゃないのか……? と、うらめしく思った。
 出来る人には出来ない人の気持ちがわからないんだよな~~。

 高校のときのダンスの授業がつらかったなー、とか、余計な記憶まで甦っちゃったよー。
 高校でつらい科目って、なんつっても音楽とダンスと体育だった(笑)。音感と運動神経が大幅に欠けているもんでな……。体育は仕方ないにしろ、音楽とダンスは選択科目にしてよ、なんで必須なのよ、他の学校の友だちは「そんなの選択しなけりゃいいじゃん」って言うけど、うちの学校は必須なんだってば。わたし中学で音楽の授業なかったよーなもんだから、楽譜も読めないしピアノも弾けないのに、試験あるのよ勘弁してよ。ツーステップできなくたって生きていけるもん、平均台の上で前転できなくたって人生に関係ないもん。
 はー。目に見えて優劣がわかるものって、残酷よねええ。ウドの大木で悪かったわねえぇ。
 ダンス教室の鏡張りの壁に映る自分が嫌いだったなー。ピアノ練習室の小さな空間が息苦しくて嫌いだったなー。

 あー、でも、ダンスの試験の前に、グループでタカラヅカ観に行ったりしたっけ。イメトレ大事ってことで。あれは楽しかったか。
 ……でも、かえって「あたしらダメダメじゃん」って落ち込む結果になったような……や、プロと比べてどうする、てなもんだけど、自分たちの出来なさ具合をより思い知らされたり。
 若かったなあ……。
 じゅうななさい、とかかあ……。

 なんじゅうねんまえやそれ……。
 げほごほ。


 と、ともかく。

 けっこう長い時間かけて何度も踊って見せてくれるのに、一度もミラーでやってくれないので、音痴なわたしは即あきらめました。
 若き日の経験でわかってるんです。わたしが向かい合って立つ人の真似をして踊るためには、まず振りを大まかに頭に入れて、あとは耳だけで「右」「左」を聞いて踊るしかないって。「右」と聞きながら目で「左」を上げている姿を見たら混乱して動けなくなるって。
 自動変換機がついてないの。左を見て「あれは右」と変換できないの。
 努力すれば越えられる壁だけど、努力したくない。そこまでする義理はない。

 ので、あきらめた。

 無理。


 はあ。
 人並みの能力が欲しかった。

 こんだけ劣った人間だから、それを思い知らされる「客席参加」は嫌いなのよ~~。さめざめ。
 ねえねえねえ、どーゆーことですか?

 タンバリン、売り切れてるんですけど?!

 『舞音』『GOLDEN JAZZ』初日!

 客席参加公演苦手だし、チケット代以外の「観劇必需品」でお金を徴収されるの嫌なびんぼー人ですが、タンバリンは買うつもりだったの。

 『DRAGON NIGHT!!』のときにうだうだ語ったよーに、

>1000円までは「記念品」として買えるけど、2000円は無理ーー。

 やっぱ、「プログラムの倍」の料金は出せないし、大劇場には2000円の席がある、「もう1回観劇できる料金」を、客席参加グッズに費やすのは、びんぼー人には違和感がある。それなら客席参加せんでいい、ふつーの公演をもう1回多く観るわ、てなもんで。

 されど、タンバリンは600円。
 2000円は出せないけど、1000円までなら出せる。
 また、本公演ならリピート観劇するから、減価償却できる。3回観れば1回あたりのグッズ代は200円。
 2000円出せないびんぼー人でも、200円ならぜんぜん平気。

 ということで、劇場についてまず、キャトルレーヴへ行きました。タンバリン買うぞーー!

 えーと。
 今日、「初日」です。
 今日から、はじまるわけです。
 そして、今日からはじまる公演は、「客席参加」を謳い、えんえん「タンバリン買ってね!」「一緒に踊ってね!」と宣伝しまくっていたわけです。
 ダンスの練習動画までテレビやネットで流し、「タンバリン必須!」な印象を植え付けてます。
 タンバリンも本日「15.11.13 発売」とHPで予告されていました。

 なのに。

 タンバリンが、売ってない。

 えーと。

 劇団、バカですか?(素)

 や、バカなのは知ってたけど。
 これだけ煽っておいて販売出来ないとか、企業としてありえないお粗末さだなあ。
 毎回、グッズが足りなくなって、販売出来ない日々が続いて、「リピーター」と「それ以外」の客席空気格差を強くして、公演が終わる頃にようやく再販売して、でもその頃にはもう誰も買う気をなくしていて、売れ残ったグッズがいつまでも正価のままキャトルレーヴの片隅で売られ続けている……何回同じ失敗を繰り返すの?

 大劇場キャトルレーヴには、何故か「サイリウム」が売ってます。
 2009年上演の客席参加公演『RIO DE BRAVO!!』で「ポンポン買ってね!」「ポンポン振って一緒に踊ってね!」とやったはいいけど、すぐに売り切れて、客席空気格差が広がるばかり、これじゃいかんとあわててサイリウムを仕入れて「ポンポンの代わりにサイリウム振ってね!」とやったんだけど、どこで買っても同じサイリウムなら、無駄に高い劇場でなんか買わず、100均で買った方がいいし、振るモノがサイリウムでいいなら、使い捨ての地球に優しくないサイリウムより何度も使える手持ちのペンライト振った方がいいって。
 で、その無様なグッズ仕入れ大失敗の傷跡として、未だに売り場に置かれているの。仕入れてしまったから、捨てるわけにもいかず、売り続けてるのね。6年間。
 ……「劇場で振らないでください」と注意書きされた、よそで買うより高いサイリウムを、劇場で買う客がいると思う? それでも売り続けることをおかしいと指摘する社員がいないみたいなの。

 以来、「客席参加公演」のたびに、グッズ入荷数を読み間違えて、公演が終わる頃にようやく再販売して、売れ残って、黒歴史を増やしている。
 キャトルの隅っこに、過去の「売れ残り」がひっそり売り続けられているのよ。
 一度も売り切れず残り続けているモノたちも切ないけど、悲惨なのは「すぐに売り切れ、再入荷したときにはすでに不要品」だったグッズよねえ。買いたかった人も、売りたかった人も、みんなが不幸になった、負の歴史。

 それでもまだやる、宝塚歌劇団。
 失敗し続ける。

 だから知ってた、バカだってことは。

 ただ、さすがに今までだって大劇場初日開演前に存在しないほど、完全に入荷数を間違えることは、なかったはず。
 前述のポンポンだって、公演がはじまってしばらくは誰でも購入できたわ。売り切れたのは期間中によ。

 別箱イベントじゃないよ、大劇場よ?
 2600人収容で1ヶ月公演する、国内有数の巨大演劇興行よ?
 その間ずーーっと「タンバリンで一緒に踊ってね!」とやり続けるわけよ? 1ヶ月かかって売るだけの量を発注しているはずよね? そのあと東宝でも1ヶ月公演することがわかっているんだから、多めに作っていても、最悪東宝で売ればいいんだし、大劇場分は余裕見ることができるよね?
 それが、発売日の朝から公演の幕が開くまでの間に売り切れる、なんてことは、物理的に不可能よね?
 劇場のキャパと公演数を考えれば。

 ……数を間違えた、としか思えない。
 人為的ミス。

 そうであってくれ。

 「こんなもん、買う人なんかいないわ。たくさん作る必要ナイナイ(笑)」と軽んじていたために、わざと個数を減らしたとか、「完売! 手に入らない! と煽った方が箔が付くから、人気操作に使いましょう」と、わざと完売するような少数しか作らなかったとか、だったりしたら、悪質すぎる。
 「一緒に踊ってね!」と練習映像でがんばっているジェンヌさんにも失礼だ。


 とまあ、わたしは最初からかなりテンション落ちました。
 や、練習映像見たけど、ミラーになってないし、わたしには無理だなと即あきらめたので、せめてタンバリン振って気持ちだけでも参加しようと思ってたの。
 踊れないことを誤魔化すために、タンバリンを求めてた!とも言う(笑)。

 それとも初日に駆けつけるような「真のファン」なら、情報収集して公式発売される前になんとか購入するべき、または発売日朝イチでキャトルに行って、買い逃すかもしれない友だちの分まで多めに買い占めるのがあたりまえ、気合いを示せ、初日の客席は全員タンバリンあたりまえに持ってるわ!!
 ということなのか、と身がまえたけど。

 えーと。

 タンバリン持ってる人、少なかった。

 友会席だったんだけど、わたしの周囲はほとんどいなかった(笑)。見渡す限り。気になったから、見回しました。客席明るくなるし。
 音は聞こえるから、持ってる人もそりゃいるんだろうけど。

 初日観劇の客が全員買ったわけではナイのに、何故タンバリンは売り切れているのか?
 観劇しない人も買うだろうし、ひとりでたくさん買う人もいただろうけれど、それにしたって2600×45公演分を何人で買い占めたというの……?

 劇団がアホなんだなと思うしか……。

 舞台の上でまさおさんはじめ、月組のみなさんは「タンバリン買ってくださいねー」とか宣伝に余念がないんだけど、売ってねーよ!!と心の中で突っ込む人も、わたしだけではなかったはず。
 『舞音-MANON-』初日観劇。

 期待は大きい、景子タン新作。
 わたしはなんやかんや言って景子せんせ作品好きです。なんだろ、狭い世界で自己完結している作風が、わたしの好みに合うんだと思う。
 同じ町内とかクラスとか社宅の奥様社会とか、狭い世界で生きて、自分の目に映るモノだけがすべてで、それだけで満足しちゃうお茶の間感覚。女性ならではかもしれん、巣を守って納得する感じが、見ていて落ち着く。や、国とか革命とか大袈裟なモノを舞台にしていても、描かれている内容はお茶の間的だから。
 破天荒な冒険ばっかじゃ、身も心ももたないからねえ。小箱の中のような物語も必要。

 原作の『マノン・レスコー』は知らないけれど、宝塚歌劇団の『マノン』なら知っている。ひっでー話で、抱腹絶倒だった(笑)。
 中村Aならお笑いになったとしても(なにしろ『お笑いの果てに』の人だからな!)、景子せんせならきっと美しい作品に仕上げてくれる。
 そう思える安心感ってば。

 んで実際、ポスターが美しすぎる。

 まさおさんの美しいこと!!
 景子タンのポスターはこだわりまくりの塗りまくりで元の画像と距離があることはわかっちゃいるが、それにしたってこの美しさは美形のまさおならではだ!
 ちゃぴの透明感あふれる美しさといい、「こんなタカラヅカが観たいんだ!」と思えるポスター。

 それにタイトルの『舞音-MANON-』もさー、景子タンの傑作のひとつである『舞姫-MAIHIME-』と同じシリーズっぽいしねー。異国で繰り広げられる、踊り子と異邦人の許されざる恋。

 期待するじゃないですか!

 ……期待に不安が入ったのは、配役にもう一人のシャルル・ド・デュラン[シャルルの真実の心を表す存在]@みやるりなんてのがあるのを知ったときからです……。
 もう一人のシャルルて!!
 黒天使@『エリザベート』とか、BJの影@『ブラック・ジャック』とか、あんなやつ……?
 しかも、みやるり? 主要キャストのひとりが「影」? しかもみやるりって、景子タンのお気に入りジェンヌじゃん!!(名もなき下級生時代から、景子作品になると役付きが上がる。もう新公主演はナイのでは、と危ぶまれていた立ち位置だったが、研7ですべり込み新公主演したのも、景子タン作品)
 つまり、かなりの比重よね、「影」が。
 あ……なんか、やな予感……危険信号……一気に駄作臭が……。


 えーと。

 予感は的中しました。

 わたしは景子せんせ作品好きだけど、好きを根っこにおいていてなお突っ込んでしまう。ツッコミ大好きな粗探し屋ですから。なんやかんや文句を言う、クリエイターやファンのみなさまからしたらウザいヤツですすみません。

 なにかしら不満があり、文句を言う……それはどの作家、どの作品でも同じ、要はそれでもメーターが「好き」に傾くかどうか。
 景子タンは「好き」な作家さんのひとり。彼女の作るこだわり抜いた美しい世界が好き。
 しかし。
 この『舞音-MANON-』は。
 悪い景子タンがてんこ盛りだーー!!

 うっわー、悪い方へ転んだかー……。
 こりゃきついわー。


 1回観るだけでもなかなか大変だったんだが。
 キャストのファンや月担の人たちは、この公演に何十回と通うことになるのよね……うわー、大変やな……。

 いやその、感じ方は人それぞれなので、世の中的には名作で感動作で「何十回観ても飽きない!!」モノだったりするのかもしれないけれど、わたしにはいろいろとキツかったっす……。
 苦手だ……。

 『相続人の肖像』観て不快指数MAXでぷんすかしてた、そういう腹立ちはないんだけどね。
 ただ、基本出演者のファンしか観ない、短期決戦パウ公演と、大劇場本公演で東西合わせて2ヶ月、組の総力戦で挑む公演とでは、責任の重さがチガウからなあ。
 まあ、植爺や谷作品より遙かにマシだから、いいっちゃいいんだが。下を見たらキリがないんだが。

 期待した分、がっかり感半端ないっす。
 『舞姫-MAIHIME-』みたいなタイトル、付けないで欲しかったなああ。
 景子せんせの娼婦萌え作品、第何弾……『舞音-MANON-』

 景子せんせは今までにも、「ヒロインが娼婦の作品」を書いてきている。
 思いつくだけで、『堕天使の涙』『HOLLYWOOD LOVER』『My dear New Orleans』『近松・恋の道行』……。
 娼婦好きだよねー。

 や、萌えネタのひとつに「娼婦モノ」ってのはあるから、それ自体は別に不思議じゃナイ。
 わたしは腐女子ゆえ、「同人の定番ネタというモノは、普遍の萌えネタである」という認識の仕方をしている。
 「記憶喪失モノ」「中身が入れ替わっちゃうモノ」「監禁モノ」「(元作品が異世界や別時代作品である場合の)現代学園モノ」とか、「お約束」として存在するパロディネタ。整合性はさておき、そのシチュエーションに萌えるためにある、だから無理矢理でも「お約束ネタ」にはめ込んで遊ぶ。
 その定番メニューにあるもん、「娼婦モノ」。大抵受キャラが娼婦になってるのなー。切ない恋物語なのなー。

 同人といわず、過去の文学作品にも多く描かれているのだから、普遍的ニーズのあるテーマなんでしょう。

 ただ、現代日本で、娼婦ヒロイン物は共感を呼びにくい。
 二次創作でアリなのは、すでに「愛されている作品とキャラ」があって、そのキャラを使って別の物語を、別腹で楽しんでいるから、そのときだけの「娼婦設定」は楽しめる、ってこと。

 パロディではない新規作品で、しかも90分という短い時間で、現代女性が好意を持ちにくい「娼婦」という存在を使って、客席の女性を魅了しなくてはならない……って、大変な作業っすよ。

 しかも、主人公の男は、娼婦に惚れて身を持ち崩す、どんどんみじめにみっともなくなる、という、これまた現代女性が魅力を感じにくい造形。
 女のために地位や身分を捨てる、てのは女性視点では魅力になる要因ではあるけれど、それは相手の女性が、観客の尊敬や共感を得ている場合に限られるからねえ。

 やたらめったら難しい要素を積み上げて、それでも客席を味方に付けて感動のフィニッシュへどうなだれ込むのか、景子タンのお手並み拝見!! ……な、わけだが。

 えーっと。

 共感、得られてました?


 タイトルロールであり、物語の中心となるヒロイン、舞音@ちゃぴ。
 彼女が主人公シャルル@まさおに愛される以上に、まず、観客に愛されないと、この物語は成立しない。

 ちゃぴにファム・ファタールをやらせる、男を狂わせる高級娼婦役をやらせる、という段階で、期待したんだ。
 ちゃぴは美女というよりはかわいい系、女王様というより村娘、女豹というより子犬、妖艶な大人の女というより健康的な少女。
 この持ち味のちゃぴを使って、ファム・ファタール物をやるというなら、ちゃぴの魅力を最大限に使った新しいファム・ファタールを観られるのだと、期待した。
 よくある魔性の女ではなく、女性が観て納得できる魅力を持ったキャラクタなのだと。

 だがしかし。

 登場した舞音は、よくある魔性の女だった。

 他のジャンルでも、タカラヅカの舞台でも、飽きるほど観た、「ふつーのファム・ファタール」だった。
 「ファム・ファタール」と言われて、まず最初に想像する類いの、テンプレートみたいなやつ。

 まず美貌で男のハートを射貫き、小悪魔的なわがままを言って翻弄し、蝶のように男たちの間を飛び回る。他の男に触れさせたくない、自分だけのモノにしたいと、男たちは目の色を変える……。
 あー、うん、「ふつー」のファム・ファタールだねー。

 や、ふつうでもいいんだけどさ……造形がふつうなら、ビジュアルもふつうにしてくれないと、混乱する……。

 つまり、ふつーに、わかりやすく、美貌の女。
 セックスアピールがあり、男たちが恋愛対象として見るだろう肉体。

 ちゃぴ舞音は残念ながらそのー、わかりやすい美貌でもないし、色気もない。スレンダーで筋肉質で、抱き心地も悪そう。

 男性を瞬時に虜にする魅力が、伝わらない。

 そして、「特別な女性が登場した」という演出もない。
 ふつーに小さなステージに女性ダンサーが複数登場する、というだけ。そのステージのセンターを務めているのが舞音である、ということだけが「特別」らしい。
 あとは「もっとも人気のある踊り子である」という説明台詞があるのみ。
 舞台の上に作られた「店」の中の「ステージ」よ。めっちゃ小さいの。そこのセンターの踊り子さんに、シャルルは一目惚れする。
 え、ファム・ファタールとの出会い演出これだけ?? マジすか。

 いや、踊り出したときは店の中の小さなステージでも、シャルルと目が合うなり、ステージも店も他の人たちも消えて、広大な舞台に舞音とシャルルふたりきりになる……くらい、演出でどーんとカマしてくれよお。
 シャルルにはこれくらいの衝撃だった、彼女以外ナニも見えなくなった、的な。

 前述の通り、ちゃぴの持ち味は美貌や妖艶さではなく、清潔で健康的な愛らしさだ。
 異性に肉感的な意味で好まれるタイプではなく、同性に共感を受け好ましく思われるタイプ。
 なのに、ちゃぴの持ち味無視の「テンプレ美女」演出……。

 せっかくファンの多い(=女性に好まれる)ちゃぴを、彼女の魅力無視の、女性から共感を得にくい美女演出で使うとか、ありえねー。


 『舞音-MANON-』を観て、「悪い景子タンがてんこ盛りだーー!!」と思った。

 はい、景子せんせの欠点のひとつ。

 アテ書きしない。

 景子作品って基本アテ書きしないのよね。まず「作品」が先にある。
 景子タンの描く人たちはみんな美しいから、タカラヅカスターなら誰でも演じられる造形、ゆえに番手順に当てはめるだけで、ハマることが多いってだけで、「このスターにこの役を!」という作り方はしない。(そりゃ、例外もあるけどね)

 景子タンの悪い癖。
 キャストの持ち味無視、自分の作品イメージの方が大事。

 「ちゃぴでファム・ファタールを描く」なら、いくらでも夢が広がるってもんなのに……。
 ちゃぴの魅力を全開にした、ちゃぴならではのファム・ファタール。

 でも、景子タンは。
 「ファム・ファタールを、ちゃぴに演じさせた」、なのね。
 いーやーだー。(リプライズ)
『タカラヅカスペシャル2015-New Century,Next Dream-』におけるお客様参加の演出について
2015/11/16
『タカラヅカスペシャル2015 -New Century,Next Dream-』(梅田芸術劇場メインホール:2015/12/19~12/20)では、お客様と出演者が一緒にご参加いただける場面を予定しております。

振付は動画でレクチャーいたしております。
ご観劇の際には、ぜひご一緒にお楽しみください。
  
『タカラヅカスペシャル2015 -New Century,Next Dream-』振付講座
※お座席にお座りのままでご参加くださいますようお願いいたします。
※周囲のお客様のご迷惑にならないよう、皆さまのご協力をお願いいたします。
 なんだこりゃあ。
 やっぱりタカラヅカはこれから、「客席で一緒に踊る劇団」になってしまうの??
 100年の歴史を捨て、アイドルのコンサートのノリを目指すの?

 生きにくい世の中になった……。
 よぼよぼ。

 かなりブルーな気持ちになって、振付動画も見てみたんだけど。

 あれ。

 客の立場に立ったレクチャーになってる。

 出演ジェンヌが後ろ向きに椅子に坐り、「坐ったまま客席で踊るとはどういうことか」を実践して見せてくれている。

 これなら、11月12日欄で嘆いていた、

> 「右」という声を聞きながら、目には向かって左の手を上げている姿が映る。
> 耳は「右」と思い、目は「左」と思う……混乱。

 という混乱が起こらない。

 見本のジェンヌさんが「右」と言って上げる手は、ちゃんと「右手」だからだ。「向かって左手」を「右」と言われるストレスがナイ。

 踊りやすい。これなら、踊れる。

 振付動画が進化してる……!

 こうして客席と同じ目線で踊って見せてくれる、というのは、世の中にはわたしと同じ、「右上げてと言われて向かって左を上げられると混乱する」人たちが一定数いるってことよね?
 誰もが「見るだけで即同じ動作が出来る」、というわけじゃない、ってことよね? ね?

 つか、こういう教え方ができるなら、『GOLDEN JAZZ』のときからやれよ……!


 タカスペはいちおーお祭りで、コンサート寄りの公演だからなあ。
 客席はファンのみだから、大劇場本公演と違って「コアなファン以外置き去り」ってな事態にもならないだろうしな。
 まだ「アリ」っちゃー、アリだと思うけど。

 ヅカは客席参加型にする必要ナイと思う。
 『舞音-MANON-』を観て、思った。

 「もう一人のシャルル」いらんやろ。

 もう一人のシャルル……[シャルルの真実の心を表す存在]だそうですよ。
 なんなんすかね、これ。

 舞台は小説ではないので、キャラクタの「真実の心」てのは表現しにくい。台詞にして言っていることと、本心がチガウ場合は解説が難しい。
 テレビのように表情アップにならないし、キーとなる動きや表情をしていたって、観客がそこを見ているとは限らない。舞台上のどこを見ていてもいいんだもの。
 だから、誰にでもわかるように、「キャラクタの心情だけを表す役」を作って、舞台上に置いておく、というのはひとつの手だ。

 が。
 そんなもんなくてもわかるよーに演出するのが基本だし、それでもあえて「解説役」を置きたいのだとしても……。

 シャルル@まさおって、すごくわかりやすいキャラだよね?

 そんな、「もう一人のシャルル」なんて作らなくても、シャルルだけで十分やん。

 シャルルが心裏腹キャラだっつーなら、必要かもしれんけど、彼は「感情一途」「思い立ったら暴走上等」の単純男だ。
 思った→思った通り行動した→別のことを思った→思った通り行動した、てな、感情と行動がイコールの、シンプルなイキモノだ。
 このわかりやすい男のどこに、「真実の心を表す存在」が必要なんだ……?

 もう一人のシャルル、いらねー……。
 うろちょろしてて、邪魔だー……。


 まず、この「もう一人のシャルル」、「もう一人のシャルル」だということが、わかりにくい。

 「この世にナイ存在」だということが、わかりにくいの。
 だって、映像じゃナイから、ふつーに実体があって、舞台にいるからね。
 ファンタジックな姿をしているわけではなく、ふつーに軍服とか着てる。
 これが唯一無二の服で、シャルル@まさおと同じ姿ならまだしも、「軍服」じゃあ唯一無二にならない。シャルルと寸分違わず同じ服だとしても、「同じ階級の軍人さんがもうひとりいる」になってしまう。だって「制服」だもの、同じ物がたくさんある前提。

 最初に配役表に目を通してないと、わからなかったろうなあ。
 初見の団体さんとか、最後まで意味わかんないだろーなー。

 「もう一人のシャルル」だとわかりにくい、ふつーに生身の人間に見える、そしてシャルル本人だけで問題なく話が進む……もう一人のシャルルの存在意義はどこに??

 意義があるとすればソレは、みやるりが演じている、ということ。

 美しいみやるりがいつも舞台にいて、話の内容と関係なく、真ん中にいる。
 画面に入ってくる。
 あー、みやるりきれいねえ。
 美しいっていいわねえ。
 美は正義よねえ。

 ……それだけ。
 それだけで十分、かもしんないけどな。
 けどな。

 いいのか、それで?

 「もう一人のシャルル」だから、ダンスだけで喋らないし。歌わないし。
 この学年の男役が、番手付きスターが、台詞なしって……!!

 わたしがみやちゃんの声や歌の大ファンだったら暴れてるわーー!!
 それが必要な役ならまだしも、不要な役で台詞なしって!!

 や、厳密に言うと、「もう一人のシャルル」にも台詞はある。
 あるけど。

 あんな台詞なら、ナイ方がマシだ。

 はい、景子せんせの欠点のひとつ。

 ラストに「作品のまとめ」を台詞で解説する。

 せっかく台詞なしでダンスだけで美しさだけで、表現し続けてきた「もう一人のシャルル」が。
 ラストのラストで、突然、「この物語のテーマを20文字でまとめました、模範解答」台詞を語り出す。

 キターーッ!
 景子タンの悪い癖キターーッ!

 今までマイク付けてなかったみやちゃんが、ラストは胸に燦然とマイク付けてるの見て、「嫌な予感」が稲妻のように背筋を貫いたけれど。
 みやるりに声出させるの? それじゃこれまで90分かけてやってきたこと台無しじゃ……で、でもまだ、なんとかマシな声の出し方なのかな……? マシであってくれ……。
 祈るような気持ちで見守ったけど。

 最悪のカタチで、喋り出したー!!

 台詞なし、ダンスと存在のみで表現してきたみやるりに、あったまわるい「まとめ」を喋らせた。
 うわー……かっこわる……。

 景子タン、変わらないなあ。
 留学から戻ってからずーーっと、一貫してるよね、この芸風。
 揺るがないわー。

 あまりにも「景子タンの悪い癖、キターーッ!」だったので、笑いツボ入っちゃったわ。
 来るぞ来るぞ、キターーッ!てな。

 せっかく美しい世界を作れる人なのに、いつも自分でそれを泥臭くしちゃうのよね。
 それが景子タンの愛嬌かしら。
 ブランド物のスーツを着こなしたクールなキャリア女性の、足元が何故かミもフタもナイご近所サンダルで、ああ、あわてて飛びだして来てまちがえたんだな、でも気づいてないからスカしてプレゼンしてるわー、かわいいなあ、的萌えどころかしら。
 『舞音-MANON-』を観て、シャルルが許されるためには、ナニが必要か、を、考えた。

 主人公のシャルル・ド・デュラン@まさお。
 [インドシナ駐在を命じられた、フランスの若きエリート海軍将校]だそうだ。

 このシャルルくんは美しい婚約者も、優しい親友も、恩ある上官もいるのに、それらすべて裏切って、捨てて、恋に走る。
 女にゼイタクをさせるために、犯罪にまで手を染める。
 でも、女を守ることも出来ず、女は政府に捕らえられ、拷問された上に結局殺されてしまう。

 シャルルくんは、あまりにも無力だ。
 てゆーか、なんにもしてない。

 わたしは彼があまりにしどころがなくて、驚いた。
 や、だって、主人公ですよ……? トップスターの役ですよ……?
 なんでこんなにも、いいところ皆無なの……?

 原作『マノン・レスコー』がそういう話なんです、という逃げ口上はいらない。そういう話はしていない。
 宝塚歌劇『舞音-MANON-』の主人公シャルルの話だ。

 シャルルのいいところ、って、ナニ……?
 家柄とか身分とか地位とかは、全部捨てちゃうから、ナイのと同じ。
 えーっとえーと、シャルルのいいところ……。

 顔。

 ハンサムだ。きれいだ。美形だ。

 …………以上。
 え、以上? これだけ?

 他はもお、ろくなことしてないか、ろくなこと以前にナニもしてない……。

 これじゃ、この主人公に感情移入できない、好意を持てない。

 いったいどうすれば、ナニがあれば、シャルルは「主人公」としてアリになるだろう? 許されるだろう?

 『舞音-MANON-』は、たぶん『舞姫-MAIHIME-』と関連している。
 モチーフがかぶるんだ。作者自身、意識して似せているんだろう。
 シャルルの造形は『舞姫-MAIHIME-』主人公の豊太郎と酷似している。

 家族も仕事もありながら、赴任先で踊り子に恋をして、義務と責任を捨てて色欲に走る。
 踊り子とはベッドでのラブラブいちゃいちゃシーンもあり。
「目を覚ませ」と親身に意見してくれる親友もいる。

 この上豊太郎は、結局踊り子エリスを捨てて日本へ帰るんだよね。捨てられたエリスは哀れ発狂。

 最後まで舞音@ちゃぴを愛し抜くシャルルの方がまだマシじゃん?
 なのに、「ナイわー」度は、断然シャルルが上。

 シャルルの描き方が間違ってるんだと思う。
 出世をあきらめるとか婚約者を捨てるとか犯罪に手を染めるとか、「愛のために」彼がやっていることは、「独りよがり」で彼を魅力的に見せない。個人的なことなんだよね。
 「彼女のために、(親に買ってもらった)馬を売る!!(ドヤァ!!)」と言われても(中村A作『マノン』の名台詞)、はぁ?だし。ものすごい犠牲払ってるつもりなんだろうけど、別にソレ、アンタの勝手で、ぜんぜん犠牲になってなくね? てなもんで。
 愛に生きる、プラス面として描いている部分が、マイナスに見える。

 そして、シャルルが「優秀」な面を描けていない。
 ベトナムにやって来たシャルルは、「はじめての海外旅行♪ どんな出会いが待っているかしら、もうひとりの自分の存在に気づいた気分」とふわふわ夢見る若いOLさんみたいなことしか、していない。
 えーと、軍人さんなんだよね? 将校なんだよね? どんだけお花畑……。
 軍人としての実績、優秀であるという具体的エピソードもないまま、「運命の出会い」をして、会った数時間後にベッドイン、キャッキャウフフ、突き放されてがーん、お前なんか嫌いだー! でもやっぱり好きだー! 婚約者さよーならー!
 で、あとはもう身を持ち崩してるし。舞音の取りまきに嫉妬したり器の小さい言動しか取らないし、彼女が捕らえられてもナニも出来ないし。

 豊太郎が許されたのは、彼が優秀な官僚で、仕事もばりばりやってたからだな。差別や偏見と闘いながら、心優しく真面目に生きていた。
 まず彼のいいところをしっかり描いておいて、「こんなに素晴らしい男が、愛ゆえにすべてを捨てる」というカタルシスへつなげた。

 シャルルは最初の「優秀な人間」「愛すべき人間」であることを、描けてないんだわ……。
 しょっぱなから、マイナス要因ばっかなんだわ……。

 それともうひとつ。
 ストーリーの軸が、シャルルの恋だけでなく、独立運動にもあった。
 てゆーか、シャルルはナニもしないので、ストーリーのアクション部分、「動く」部分はシャルルとは無関係の独立運動が担う。
 これでシャルルが独立運動の中枢としてがっつり働くならいいけど、そうじゃないのに「動く」部分が見た目派手なレボリューションに置かれてしまうと、「蚊帳の外」のシャルルはそれだけでマイナスが付く。

 これじゃシャルルに好意も持ちにくいし、感情移入もしにくい。
 不要な「もう一人のシャルル」はちょろちょろしているし、「革命だー!」「自由、平等、博愛!」「シトワイヤン行こうーーー!!」てな、「横暴な権力者に歌で対抗」がはじまったり、え、これなんの話だっけぽかーん……うわ、みやるり喋ったー!! つかその台詞いらねーー!!

 という、怒濤の客席「置いてけぼり」展開。

 まあとりあえず、舞音死ぬから客席泣くし。
 人が死んだら反射的に泣く層は、絶対いるからねー。
 『長崎しぐれ坂』のラストのホモ心中舟でも、客席泣いててわたしはぽかーんだったもの。


 はい、景子せんせの欠点のひとつ。

 主人公が、ナニもしない。

 描きたいことが他にあるもんだから、主人公ってただのコマなのよね。
 主人公を書き込むことを忘れてるから、出来上がったあとで「あれ? ぶっちゃけ、主人公いらなくね?」になる。

 アテ書きでもないからねえ。
 それでも踏みとどまって、自力で魅力を出すのがトップスターの仕事、ともいう。
 『銀二貫』初日観劇。

 泣いた。

 いや、泣ける話だというのは知ってたけど。
 それでも。

 大泣きした。
 2幕は泣き通し……つか、嗚咽が上がりそうになるくらい、マジ泣き必須。
 おそろしいわ……なんて作品なの……!

 物語の持つ力。

 それに、膝を折る。
 脱帽する。
 舌を巻く。

 地味な日本物、そのなかでももっともビジュアル的に残念な、江戸時代の町人物。
 ドレスや軍服のきらきらしたコスチューム物を求められる「タカラヅカ」で、もっとも人気のないジャンル。
 だからこそ、物語自体に力が必要。

 いや、もう、なんつーか。

 谷正純の本気を見た。

 役者がね、まず、谷せんせのお気に入りばかりなのよ。
 エマさん、みつる、という専科さんはもとより。
 雪組ではいちばんのお気に入り役者じゃないかと常々思っている、がおりを筆頭に。
 にわにわ、桃ひな、あす、あり、まから。
 叶、まち、あんこ……。

 谷作品でお馴染みの面々が、ずらり。
 谷せんせは、キャスティングというか、振り分け権利はかなり強いモノを持っていると聞いているし。まあ、劇団の重鎮だから、さもありなん。
 おかげで雪組に谷作品が来ると、高確率で同じ顔ぶれになる(笑)。
 や、いいよいいよ、その本気っぷりやヨシ!

 『心中・恋の大和路』がそうだったように、音痴皆無、歌ウマだらけ!の舞台ってすげえよ。タカラヅカでこれはすっげーゼイタクっすよ!
 ……って、えっと、たしかみつるさんは歌唱力に不自由しているスターさんのひとり、だったはず……だけど、今回は歌えてるし! てゆーかみつるが壊滅的なのはショーの歌で、芝居歌はそこまでじゃないのよ、演技力で歌っちゃうから!!

 仕事の出来る人たちを集めて、適材適所にがっつり固めて、感動必須の出来上がった原作を使って、「物語」を創る。
 音楽や舞台装置や、役者が加わって、すべてが揃ってようやく、呼吸をはじめる、「物語」という、イキモノ。

 そのイキモノが産声を上げ、歩き出す様に見入った。

 というのもだ。

 主役のかなとくんは、「物語」に乗せられている状態なの。

 産声を上げたイキモノの上に、乗っている。
 かなとくんがそのイキモノなのではないし、そのイキモノを操っているわけでもない。
 乗っている。ただ、上に。

 主役が他の誰かであっても、物語は自力で動き出したかもしれない。
 それくらい、周りのキャストが強力だ。
 かなとくんが自分で立てないとしても、問題なく進むくらい、「物語」が自力で立っている。

 だから、すごい。
 物語が生まれ、立ち上がった。過去の名作とやらでもなく、海外からの輸入名作でもない。
 原作があるにしろ、「ミュージカル」になったのはこれが最初、まったくの新作、誰もまだ見たことのナイ作品。
 その、「新しい、まだナニモノでもないナニか」が産声を上げた。立ち上がった。
 それを目の当たりにする感動。
 ドキドキした。

 かなとくんは乗っているだけと書いた。
 彼でなくても成立するかもしれないとも書いた。
 だが、かなとくんがダメだと言っているわけじゃない。

 かなとくんが自力で立てなくても問題ないほど「物語」が自立している……そう思うのは、かなとくんが、物語に「正しく」乗っているからだ。
 きっと、もっとヘタな人や、感性の違う人が松吉を演じたら、「物語」自体が崩れていたかもしれない。
 周囲と物語をすごいと思わせるほどには、かなとくんは松吉を、真ん中を、きちんと務めている。

 ただ。
 乗りこなしては、いない。

 彼に主導権がナイ。
 彼の乗っているイキモノの操縦桿は、かなとくんの手にナイ。
 それはまだ、誰の手の中にもナイのだろう。

 今はまだ、背に乗って、運ばれているだけの状態だと思う。
 それでもこんだけ泣けるのよ……おそろしい……おそろしいわ……。

 だから思う。
 このまま公演を重ねて、かなとくんが主導権を得るようになれば。

 この「物語」というバケモノは、どこへ向かうのだろう。


 かなとくんが今さら日本物で主演って、ヤだったのよ。
 しかも駄作メーカーの谷作品。『サン=テグジュペリ』みたいな史上に残るレベルの駄作だったらどうするよ? 日本物の雪組、その御曹司かしげの『ささら笹舟』だって、キムくんの『やらずの雨』だってひどかったわ……気の毒だったわ……。
 ヅカヲタには「谷だったら観ない」という層が少なからずいて、「日本物だったら観ない」という層が確実にいて、初主演で駄作に当たるとその後の路線人生の険しさが増すのに駄作の確率が非常に高い演出家あてるのはよせ、と心から思った。
 また、駄作であろうとなかろうと、かなとくんの得意分野は日本物で、苦苦苦と耐える男で、苦手分野がショーとダンスで、舞台で華やかさを出すこと、……なのに地味な日本物で主演しても、今必要なのはそれじゃナイだろ感ゆんゆんというか、ええいっ、れいこに『A-EN』やらせろ、ツンデレ強引ドSで壁ドン顎クイさせてキザりまくらせろ、ショーの真ん中でど派手衣装着て存在感出す訓練させろ……っ、と歯がみした。

 ……のは、事実です、ええ。
 そんなわたしでございますが。

 『銀二貫』を観て、心から、わくわくした。
 この「物語」の力を借りて、れいこはどこへ行くだろう?
 どれほど、成長するだろう?

 実力者たちに担がれた、計算され堅牢に作られた神輿の上で。
 月城かなとは、なにをする?

 ただ担がれているだけでは、いないはず。

 実際、幕開きと終盤では、変化を感じた。
 彼は変わる。
 この「物語」を得て。

 なんかすごいな。
 すごいところにいるな。
 キャストも、そして、観客も。

 そう思える感動。

 だから。

 かなとくん、バウ初主演おめでとう。

 君は正しく、そして幸運だ。
 某物語のキーワードを、ここぞと記す(笑)。ロールプレイングする快感を込めて。
 雪組バウ『銀二貫』初日観劇。

 ナニを危惧したかって、かなとくんの子役!!

 『銀二貫』って物語の大半が子役なんだもの。
 そして、我らが月城かなとは、子役が苦手。

 『星逢一夜』新人公演にて、子役を披露したかなとくんの自爆っぷりは、記憶に新しい。
 子どもの服を着て、子ども言葉を話す、残念な大人がそこに……。
 つんつるてんの着物が似合わなくて、痛々しかった……。

 東宝の新公ではちゃんと子どもに見えたけど。
 それでかなりほっとしたけれど。

 苦手分野であることは、変わらない。

 『星逢一夜』はまだ「武士」だったから、少年時代もまだ格好は付く。
 しかし『銀二貫』は「丁稚」だ。
 誰がやったってカッコよくならない。それがわかっているだけに……心配ですってば。

 それで、えーと。
 実際に観て、危惧したほど悲惨なことにはなったなくて、助かった。
 似合っているわけではまったくないが。
 それでもなんとか……大丈夫よね? わたしの贔屓目、ってだけじゃないよね?
 てゆーかさー、この公演で3番目にでかい男に、何故子役をやらせるかな。
 おかげで誰と芝居するときも、丁稚さんてば無用にでかくて画面がおかしいわ。

 早く大人になってくれ……と、手に汗握りつつ観劇していたわけなんだが。

 いやあ、まさかの1幕まるまる子役!!

 幕が下りてきたとき、「子役のまま幕降りた!!」って内心叫んだもの。
 タカラヅカなのに……1幕全部子役て……(笑)。

 いやはや、かえってもう、ツボりました。
 ナイわー。こんな作品、他にナイ。


 もひとつツボったのが、がおりさん。

 2幕になって、突然がおりさんがカーテン前でオンステージ。

 キターーッ!
 役も番手も関係なく、がおりに突然1曲朗々と歌わせるのは、谷せんせのお約束よね(笑)。
 キタキタ、これがナイと谷作品ぢゃねえってばよ。

 がおちゃんは研5の終わりに新公主演してるんだよね。
 研5主演ってスターだよねえ。
 その主演した1回限りの作品は、もちろん谷せんせ作。
 でもって入団以来、雪組の谷せんせ作品では、がおりさん皆勤賞だよね。絶対振り分けられるよね。で、役がどうあれ番手がどうあれ、彼のための見せ場がある、と。どんだけお気に入りなん。いいぞもっとやれ(笑)。

 これからも、谷せんせとがおりさんはこのままでいてください。ツボです。

 あとはあすくんにも、この路線を継いで欲しいっす……。
 谷せんせ、あすくんも好きだと思うし!


 とまあ、作品内容とは関係ない部分の注目点を先に書いてみる(笑)。

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