そして彼は、歌い出す。@My Dream TAKARAZUKA
2014年6月30日 タカラヅカ 『My Dream TAKARAZUKA』の、まっつの胸キュンポイント。
最後の大階段、エトワールとして真ん中に立つ、その瞬間。
小さっ!!
小さな羽を背負ったまっつの、身体の小ささに、びっくりする。
まっつが小柄だということは、知っている。
専科・管理職を除いた現役男役で、最低身長だ。
でかければそれだけで有利であるこの世界で、この小さな小さな人が、闘ってきた。
努力と実力で、ひとつひとつの障害をねじ伏せてきた。
小さいことはひと目でわかるけれど、芝居中、あるいはダンス中は、ここまで小さくは見えない。
確固たる技術ゆえに、存在感ゆえに、身体の大きさを不問にしている。
だけどこうして、なにもせずにただ大階段の真ん中に出てきたとき。
大きな劇場の大きな階段の真ん中に立ったとき。
その「小ささ」が、そのまま出る。
むき出しになる。
小さっ。
こんなに、小さいんだ。
それこそ、娘役並みに。
こんなに小さい。
それが、胸キュン。
まっつが、愛しくて、たまらなくなる。
階段の真ん中に立つまっつは、「チガウ」と思うのね。
タカラヅカのトップスターになる人ではないと思うの。こうやって真ん中に立って「小さっ」と思う人は、トップになってはいけないと思うの。
それが「タカラヅカ」だと思う。
そうでなくてはいけないと思う。
まっつのような人がトップスターになってはいけない、それが「タカラヅカ」というところだと思うの。
わたしが愛する「タカラヅカ」は。
どんだけ巧くても、どんだけ美しくても、どんだけ人気があっても。
まっつは、チガウと思う。
チガウからこそ、「タカラヅカ」は美しく、特別なところなんだと思う。
「トップスター」というのは、特別なモノなのだと思う。
そうでなくてはならないと思う。
それとは別に。
まっつが真ん中に立つ姿を、乞うていた。
贔屓がトップスターになることを求めていたかというと、少しチガウ。正直それは、考えてなかった。
結果としてそんなことがあればいいけれど、長年のヅカヲタ意識が邪魔して、そっちはあんまし考えられなかった。
ただ、まっつが舞台で活躍してくれることだけを求めた。それは芝居で主要な役をやることだったり、素敵なダンス場面に出ることだったり、単純に出番が多いことだったりした。
トップスター向きではない。それこそが、まっつの魅力だと思っている。
番手にこだわったのは、それが得られるのが今のタカラヅカでは番手スターのみだからであって、まっつがまっつらしい活躍をしてくれるなら、どんなカタチでも良かった。
……んだけど、まっつがトップになってくれてもうれしかったし、「チガウよな」と言いながらもよろこんだろう。それがファンってもん。
まっつがトップになったら、「それはタカラヅカ的におかしい」と思うくせに、そうなればうれしいと思う。
トップにならない人は、いつまでも番手スターにいるモノではない。組が停滞してしまう。それもわかる。正しいと思っている。でも、それが理解出来ていてなお、まっつに今の番手でいて欲しかった。
矛盾していた。
わたしが愛した世界は、わたしの愛する人を認めない。
だけどわたしの愛する人は、その世界にしか存在しない。
キミなしでは生きていけない。でも、キミとは生きられない。……そんな感じ?
矛盾したまま、ただ、まっつを眺めていたかった。
彼を「世界でいちばん美しい」と思い、彼が創り上げるモノを観るのが、好きだった。人生のよろこびだった。
その矛盾が、むき出しで突きつけられるのが、最後のエトワール。
小さっ。
これが、まっつの現実。
ファンでもわかる、大階段の真ん中に相応しくない小ささ。
それでも。
それでも、彼を美しいと想う。
この小ささごと。
いや、小さいからこそ。
胸を張って言える。
このぽつんとしたちっちゃな身体で、ここまでやってきた「男役・未涼亜希」が、愛しいのだと。
誇らしいのだと。
胸キュンポイント。
大きな劇場の、とてつもない大階段の真ん中に立つ、小さな男役の姿。
この美しい人と出会えた。
この人を好きでいられた。
そのよろこびを世界に叫びたくなる。
そんな一瞬。
最後の大階段、エトワールとして真ん中に立つ、その瞬間。
小さっ!!
小さな羽を背負ったまっつの、身体の小ささに、びっくりする。
まっつが小柄だということは、知っている。
専科・管理職を除いた現役男役で、最低身長だ。
でかければそれだけで有利であるこの世界で、この小さな小さな人が、闘ってきた。
努力と実力で、ひとつひとつの障害をねじ伏せてきた。
小さいことはひと目でわかるけれど、芝居中、あるいはダンス中は、ここまで小さくは見えない。
確固たる技術ゆえに、存在感ゆえに、身体の大きさを不問にしている。
だけどこうして、なにもせずにただ大階段の真ん中に出てきたとき。
大きな劇場の大きな階段の真ん中に立ったとき。
その「小ささ」が、そのまま出る。
むき出しになる。
小さっ。
こんなに、小さいんだ。
それこそ、娘役並みに。
こんなに小さい。
それが、胸キュン。
まっつが、愛しくて、たまらなくなる。
階段の真ん中に立つまっつは、「チガウ」と思うのね。
タカラヅカのトップスターになる人ではないと思うの。こうやって真ん中に立って「小さっ」と思う人は、トップになってはいけないと思うの。
それが「タカラヅカ」だと思う。
そうでなくてはいけないと思う。
まっつのような人がトップスターになってはいけない、それが「タカラヅカ」というところだと思うの。
わたしが愛する「タカラヅカ」は。
どんだけ巧くても、どんだけ美しくても、どんだけ人気があっても。
まっつは、チガウと思う。
チガウからこそ、「タカラヅカ」は美しく、特別なところなんだと思う。
「トップスター」というのは、特別なモノなのだと思う。
そうでなくてはならないと思う。
それとは別に。
まっつが真ん中に立つ姿を、乞うていた。
贔屓がトップスターになることを求めていたかというと、少しチガウ。正直それは、考えてなかった。
結果としてそんなことがあればいいけれど、長年のヅカヲタ意識が邪魔して、そっちはあんまし考えられなかった。
ただ、まっつが舞台で活躍してくれることだけを求めた。それは芝居で主要な役をやることだったり、素敵なダンス場面に出ることだったり、単純に出番が多いことだったりした。
トップスター向きではない。それこそが、まっつの魅力だと思っている。
番手にこだわったのは、それが得られるのが今のタカラヅカでは番手スターのみだからであって、まっつがまっつらしい活躍をしてくれるなら、どんなカタチでも良かった。
……んだけど、まっつがトップになってくれてもうれしかったし、「チガウよな」と言いながらもよろこんだろう。それがファンってもん。
まっつがトップになったら、「それはタカラヅカ的におかしい」と思うくせに、そうなればうれしいと思う。
トップにならない人は、いつまでも番手スターにいるモノではない。組が停滞してしまう。それもわかる。正しいと思っている。でも、それが理解出来ていてなお、まっつに今の番手でいて欲しかった。
矛盾していた。
わたしが愛した世界は、わたしの愛する人を認めない。
だけどわたしの愛する人は、その世界にしか存在しない。
キミなしでは生きていけない。でも、キミとは生きられない。……そんな感じ?
矛盾したまま、ただ、まっつを眺めていたかった。
彼を「世界でいちばん美しい」と思い、彼が創り上げるモノを観るのが、好きだった。人生のよろこびだった。
その矛盾が、むき出しで突きつけられるのが、最後のエトワール。
小さっ。
これが、まっつの現実。
ファンでもわかる、大階段の真ん中に相応しくない小ささ。
それでも。
それでも、彼を美しいと想う。
この小ささごと。
いや、小さいからこそ。
胸を張って言える。
このぽつんとしたちっちゃな身体で、ここまでやってきた「男役・未涼亜希」が、愛しいのだと。
誇らしいのだと。
胸キュンポイント。
大きな劇場の、とてつもない大階段の真ん中に立つ、小さな男役の姿。
この美しい人と出会えた。
この人を好きでいられた。
そのよろこびを世界に叫びたくなる。
そんな一瞬。