『双頭の鷲』初日観劇。

 この話、トドとみりおんのふたり芝居、あとひとり加えるなら、狂言回しのそらがいれば事足りる。

 あとの役はなくても問題ない。
 解説はそらがやるし、主役ふたりの長々続く会話劇ならではの説明台詞で補完可能。
 ずんちゃんの役はほんとおいしくなくて、リピートがもっともつらいのはずんちゃんファンだろうなと思う。台詞は多いけど、キャラに合ってないし、いなくてもいいし。
 愛ちゃんはスパイス的にいても良いし、と言うか、彼ひとりが「タカラヅカ」で、ここがタカラヅカである以上いてくれなきゃ困るけど、根幹を見れば別にいなくてもいい。

 それに比べて、ストーリーテラー@そらのおいしいこと!
 重要だし、オシャレだし、客席登場して客席いじりして、「スターここにあり!」という扱い。
 番手ではなく、技術で選んでくれて助かる、滑舌重要。そうだよね、『エリザベート』にはルキーニが必要だよね。
 舞台にずっといるし、他のみんなもいることはいるけど、ちゃんと見えるのはそらくんぐらいだし、なんなのこの破格の扱い。びびるわー。
 そらくんスキーのわたしは、彼が活躍してくれることがうれしい。こんなに喋ってくれる彼を見るのがうれしい。
 ありがとう景子せんせ!

 ……けど、わたしがいちばん「いらない」と思った役がそらくんなんだよなあ。
 そして、景子せんせ的に、そらくんの役は、絶対に必要なんだよなあ。
 どれくらい必要かというと、トドとみりおんがいなくても、そらひとりいればOK!……ってくらい、必要。
 そらがひとりでストーリー語って、最後に、テーマを言葉で語る。はい、トドもみりおんもいなくて無問題。
 本末転倒。


 わたしが景子タンのもっとも苦手なところ。
 ラストに、「このお話のまとめ」を解説すること。

 国語テスト。
 Q 作者がこの作品でもっとも伝えたかったことはなにか、20文字以内で答えなさい。
 A ラストシーンで解説役が説明しています。(19文字)

 どの作品も、どの作品も。
 まるでコピーライトかっつーくらい、ラストに「この作品は私のモノ」と景子たん印が押してある。
 どんだけ自分の作品好きなんだ。どんだけ自分好きなんだ。
 作品の見方、感じ方まで、きっちり指図する。自分が意図した以外の感想を持ってはならない。だから、最後に「まとめ」を台詞で入れる。

 せっかく美しい作品を観ても、感動しても、最後の最後で台無し。
 作者自身が舞台上に現れ、作品解説をはじめる。
 いやあのわたし、タカラヅカを観に来たんであって、タカラジェンヌを観に来たんであって、アナタを観に来たわけじゃないっす。もちろん、アナタの作品を観に来たのだけど、アナタ自身をタカラヅカの舞台上で観なくていいっす。

 これが景子タンの芸風で、そうしないことには作品を創れない人なんだろうとは思う。
 それがわかっていてなおわたしは、毎回作品を観ている間そのことを忘れ、作品世界に没入し、別世界で生きて笑って泣いて……そして、もっとも感動するラストシーンで、突然「はい、これは作り事です、私の作品です、出て行きなさい」と景子タンにホウキでお尻叩かれて追い出されるの(笑)。
 そして、ホウキを持って仁王立ちした景子タンが「私の作品はこう感じて観るのです」と説明をはじめるのを、ぽかーんと眺める。
 何度も何度も。
 そりゃあもう、景子作品のたびに。
 何度同じ目に遭っても、学習しないのよ。毎回、ホウキでお尻叩かれるまで、忘れてるの。そんなおっかないおかみさんのいる店だってこと。

 今回もまた、叩き出されてぽかーん。
 そして、幕が下りてようやく、不快感がじわーっとわき上がってくる。
 お客なのに、作品をどう味わうかはお客の自由であるはずなのに、ホウキで叩き出されたわ、ひどい!

 ということで、景子作品の初見は後味が悪い。
 や、忘れているわたしが悪いんだけどね。学習しないんだもん。「今回はラストのまとめがないかも」とか「ラストのまとめ方が、ガチガチじゃなくマシになってるかも」とか、夢を抱いちゃうし。
 でも大抵、「ひどいわー」とがっくり。

 2回目は、「ラストでまとめ来る」とわかった上で観るから、最後まで水を差されずに作品を堪能出来るんだけど。

 「わたしが思っていたこととまったくチガウことを感じろと強制された!」と不快に思っているわけじゃない。
 むしろ逆。
 「ソレ、観てたらわかるよね?」レベルのことを、大上段に解説しはじめるのが、ひたすら、かっこ悪い。
 せっかくの美しい物語が、最後でダサくなる。
 美しいタカラヅカの舞台に、突然、衿口の伸びた毛玉だらけのくたくたスウェット着た一般人が出てくる感じ。
 かっこわる……。

 だけどひょっとしたら、タカラヅカの観客のほとんどはその「ラストのまとめ解説」を必要としていて、みんなソレを聞いてはじめて「ああ、そうなんだ」とか思うものなのかもしれない。
 いや、観客は善良だから、そこで「そういう話だったんだ」と洗脳される? 自分が漠然と感じていたモノを手放し、作者が上から押し付ける「解答」を「自分が感じたモノ」だと塗りかえてしまう?
 景子タン、その確信を得てあえてやっているとか?


 まあともかく、この芝居に必要なのは、主役ふたりとそらくん。
 あとはいなくてもいい。

 それってどうよ。


 ……いやあ、そらくんが「ラストのまとめ解説」はじめたときは、ぽかーんでがーんで、じわじわ不快で、……そしていっそ笑えてきた。
 お約束キターーーー!!
 『ベルばら』のラストにペガ子キターーーー!!的な笑い。待ってました、やんややんや。

 ……この美しい物語で、ラストに作者自ら渾身の自爆芸入れなくてイイのに。

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