素朴な疑問。
 みんな、客席参加って、そんなにしたいもんなの?
『タカラヅカスペシャル2016 ~Music Succession to Next~』におけるお客様参加の演出について
2016/12/01
『タカラヅカスペシャル2016 ~Music Succession to Next~』(梅田芸術劇場メインホール:2016/12/22~12/23)では、お客様と出演者が一緒にご参加いただける場面を予定しております。

振付は動画でレクチャーいたしております。
ご観劇の際には、ぜひご一緒にお楽しみください。
 お客様と出演者が一緒にご参加いただける場面って、いただける、って、なんだろう?

いただける【頂ける・戴ける】
( 動カ下一 )〔「いただく」の可能動詞形から〕
① もらうことができる意の謙譲語。 「案内の葉書を-・けるとありがたいのですが」
② 飲食することができる意の謙譲語。 「毎日の食事がおいしく-・けます」
③ 評価できる。受け入れられる。多く「いただけない」の形で用いる。 「あの絵は-・けないね」
④ (補助動詞) 「いただく④ 」の可能動詞。 「詳しく話して-・けませんか」 「今度お越し-・けるのはいつでしょう」 「御理解-・けましたでしょうか」
     【大辞林 第三版】より

 「参加してもらうことができる」って意味よね。
 参加してもらうことが出来る……つまり、観客は「参加したい!」と思っている。それが前提の考え方よね。
 参加させてさせて、お願い歌劇団様! しょうがないな、そこまで言うなら望みを叶えてあげますよ、はいどうぞ、待望でしょう、そちらの要望に応えるわけだから「参加いただける」という表現ですよっと。
 劇団側からの要求なら、「参加をお願いする場面」よね?

 そうか、タカラヅカファンっていうのは、客席で踊りたい人たちなんだ。観劇するのでなく、一緒に演技したいんだ。
 見解の相違。
 生きにくいわ。

 や、別に強制でないことはわかってるし、そんな意味で言ってないことはわかっているけど。
 こんなうれしそうに「ご参加いただける」とか言われるとね。いや、望んでないし!とすねたくなる(笑)。
 新人公演『金色の砂漠』観劇。

 タルハーミネというキャラクタが好きなわたしは、新人公演のみれいちゃんのタルハーミネを楽しみにしていた。
 ……が、新公はまさかのダブルキャスト。ひとつの役をひとつの芝居の中で、ふたりの役者が分担して演じることになっていた。

 タルハーミネ、子ども時代と現在が別人過ぎる……!!

 音くりちゃんのタルハーミネは、彼女の本役である第三王女シャラデハと同じ破壊力を持っていた。
 わたし、シャラデハは苦手。現実にも物語にもこういう人間はいるだろうけど、関わり合いになりたくないタイプ。や、物語においてはわかりやすく「悪役」として描かれるよね。学園モノだったら、ヒロインを苛めるグループのリーダー(優等生)とか。
 実際、『金色の砂漠』においてもシャラデハは「現代の価値観にて、悪い王族の典型のひとつ」として描かれている。
 だから本公演の音くりちゃんはそれでいい。露悪的に描かれているんだから、見ただけで「うわ、嫌なキャラ」と思わせてくれる演技は正しい。
 でも、タルハーミネをそれと同じテイストでやられちゃうと……。
 確かにタルハーミネもワガママで傲慢な、「悪い王族」の見本みたいな言動の女の子だけど。でも、シャラデハと違って、ソレだけではないキャラクタなのよ。
 音くりちゃんが意識してタルハーミネを「記号のような傲慢キャラ」に演じているとは思わない。タルハーミネとシャラデハが同じでいいなんてアタマ悪いことは考えないはずだ。
 だから、本人的には演じ分けているんだと思う。実際、違うんだろうと思う。
 だけどわたしには、同質の「苦手」を感じる。細かい演技分けなんぞ吹っ飛ばすほどの「破壊力」を感じる。
 それはたぶん、わたしが彼女の芝居を苦手とする根幹部分なんだろうなと思う。

 うまく表現できないが、「酷い人」を演じる音くりちゃんは、ふだんの彼女が醸し出す「苦手オーラ」をさらに純度高く放ってくれるのだわ。
 単なる「酷い人」の役が酷くてもいいけど、「実は酷い人じゃないんだよ」の役が酷いと……つらい。
 幼いタルハーミネは、なんというか、気持ち悪かった。ただワガママとか傲慢とかいうんじゃなく、人として傾いている気がした。
 なんだろ、ふつーの人が生まれつきまっすぐに持っている芯が、微妙に斜めになっている感じ。そして、それゆえに世界を見る角度が違っていて、酷い言動や感情の爆発につながっている。彼女にとってはその傾いた軸が「当たり前」だから、他人との違いなんか想像することもなく、その傾いた目線ですべてを断罪する。
 そう、断罪。齟齬はすべて、攻撃して叩きつぶすの。正義の鉄槌として。
 王女だから、という後天的理由によるズレではなく、先天的なズレ。芯が傾いている。
 という、キモチ悪さ。
 どんだけ気持ち悪くても、シャラデハなら「嫌な王女ねー」で済むけど、タルハーミネはそうじゃない。ヒロインなんだから、彼女の心を理解し、愛さなければ、物語を楽しめない。

 ……その生まれつき芯が傾いている感が「特別な女性」を表しており、音くりちゃんが大人時代も通してタルハーミネ役を演じることが出来たなら、大きなカタルシスにつながるナニかを秘めていたのかもしれない。
 でも、彼女はあくまでも「タルハーミネの一部」でしかない。その一部でしか計れない。

 芝居は好みの寄るところが大きいので、あくまでもわたしにとっては、というだけの話。
 わたし以外の人に好評ならそれでいいのだろう。
 しかし、わたしはめっちゃ戸惑った。

 要するに、子ども時代のタルハーミネが苦手過ぎて、「タルハーミネ」というキャラクタに感情移入出来ない。うわ、この子キライ、と思ってしまって、タルハーミネちゃんがその後どんなにがんばっても切ない思いを抱いて苦しんでいても、心がそこに寄りそわない。

 大人のタルハーミネ@みれいちゃんは、子ども時代の音くりちゃんとはまったく別人で、こっちは苦手感はないけど、あの嫌な子どもと同一人物と言われてもキモチがついていかない。

 困った。

 正直、困った。
 新人公演『金色の砂漠』を観て、とても困ったこと。
 ひとさまがどうではなく、わたしが。

 音くりちゃんの演じるタルハーミネを観て、とても困った。

 繰り返すが、芝居は好みの問題なので、音くりちゃんに罪はなく、わたしの問題だ。すまん。
 彼女はとても芝居がうまい。歌がうまくて台詞が良く聞こえて、学年以上の実力を持っている。
 そう納得していてなにがここまで無理なのか、説明する言葉を持たないことがもどかしい。

 彼女が悪いわけではないし、わたしでない人は彼女の演技に感動したり感情移入したりして、ふつうに楽しんでいるのだろうから、これはもうほんと、「困った」としか言いようがない。

 実際、音くりちゃんはいい人やかわいい人の役をやる分にはただ好みじゃないとか、苦手だなーと思うだけで、ここまでの破壊力を感じないので、「この手の役」が鬼門なのかもしれん。
 この手の役……本役のシャラデハがそうであるように、無神経な役。相手の気持ちを想像出来ない人の役。

 音くりちゃんに非がなくても、わたしの目線では「このタルハーミネはナイわー」となってしまっているので、作品をちゃんと味わえていない。
 未熟だわわたし。なんでこう引きずられてしまうの。

 子ども時代のタルハーミネは気持ち悪いと思うけど、それは一旦忘れよう、現在のタルハーミネとは別人よ、と思う。
 思うけど、それならそれで、なんで別人がひとつの芝居で同じ役をやっているの、という演出意図への疑問がわいてこれまた集中出来ない。
 未熟。

 それでもクライマックスを迎える頃には、みれいちゃんのタルハーミネを受け入れられた。
 いやあ、みれいちゃんは大河ロマン調のタルハーミネですな!
 運命に翻弄されつつ、流されることなく立ち続けたヒロイン、って感じゆんゆん。
 ギィ@あかちゃん相手にぎゃーすかわがまま言ってた女の子、というよりも、タルハーミネの周囲をギィがぐるぐる回ってなんやかんや言っていたような、物語の重心がギィではなく彼女へ移動しているような、色の強さがある。
 ああ、これぞみれいちゃんだな、と思う。
 この強さ、ドラマを自分に引きつける力が彼女の武器。

 長い別人格の子ども時代が真ん中にえんえん入っていたり、タルハーミネとしてぶつ切り過ぎて、わたしにはナニが「タルハーミネ」なのかよくわかんない。
 ただ復讐者ギィが城に攻め入るあたりの「王女タルハーミネ」の持つドラマは、女性向けエンタメとして正しく機能しているなと思う。
 ヒロインに感情移入できないと、ラブロマンスは面白くならない。
 や、感情移入ってのは「わたしがタルハーミネになって、ギィに愛されるの、疑似恋愛するの♪」とかいうことではなくて。物語を動かすキャラクタの感情を理解出来ないと、物語自体意味不明になるということ。
 みれいちゃんの「わたしがヒロイン!」「わたしが物語を動かす!」というパワーに巻き込まれて、なんか一緒になって怒濤展開を味わい、最後は「おおっ、なんかいいもん観たな」と思わせてくれた。

 ラスト、デュエットダンスまで入れてくれ、と思ったよ。
 芝居部分だけで幕、だとつらい。
 本公演でも、デュエットダンスで泣けたもの。ああ、よかったね、って。
 メリバだとしても、芝居だけでENDはつらい……と思うくらいには、最後で一気に持って行ってくれた。


 ……とはいえ、やっぱりわたしが観たい「タルハーミネ」ではなくて。
 みれいちゃんはうまいけど……や、限定項はまずいか、みれいちゃんも、うまいけど……。
 うーん、わたしは一体ナニを求めているんだ。

 とりあえず、これで3人のタルハーミネを観た。
 そしてわたしは新公後にもこの芝居を観る。……から、最後に本役、かのちゃんのタルハーミネで締めるの。やっぱりこの役は、かのちゃんの役だなあ、とも思うから、本公演を観るのが楽しみだ。
 ヅカブログではありますが、昔はここ、単なるヅカヲタの日記であり、日常のことも書いてました。
 その名残で、第34回『1万人の第九』メモ。

 朗読は佐々木蔵之介だった。
 ……いやあ、蔵之介氏が朗読やるってわかったときの、女性陣の食いつきすごい。
 わたしが『1万人の第九』のレッスンに通っている、と知っている人たちが、それ自体にはなんのコメントもなかったのに、出演が発表になるなり「佐々木蔵之介出るんだって?」と複数の人から声を掛けられた。え、そこ食いつくんだ。ちなみに、男性からはなんの突っ込みもなし。
 うーん、同年代女子に人気高いんだな、蔵之介氏。や、わたしも大好きだ(笑)。

 実際、佐々木蔵之介の朗読はすごかった。

 わたしは2年前の井川遥の朗読しか知らないわけなんだけど、そのときは間違いなく「朗読」で、文章を正しく声に出して読んでいた。
 1万人の合唱団と数千人の観客と何百人のスタッフと何十人のオーケストラとマスコミとテレビカメラに注視され、広大なホールでただひとりスポットライトを浴びて古めかしい詩を朗読する、ってどんだけ緊張するだろう。
 噛まずに読むのだけでも大変だよなああ。仕事とはいえ、重責だなああ。
 そんな風に思って、眺めていたっけ。

 それがアタマにあるもんだから、蔵之介氏にはもう、第一声からびっくりさせられた。

 蔵之介氏は、吠えた。

 「朗読」ではなかった。
 突然、「演劇」がはじまった。

 読んでいる詩は、同じモノなんだけど。
 表現方法が、まったくチガウ。

 古典劇でも観ているかのような、パワーの塊が叩きつけられた。
 言葉に熱と重さが加わり、物語が形作られる。
 物語の一片であり、それ自体が一篇の物語であるようにも思えた。

 す……っ、げえ……!!

 「朗読」って、こんなのもアリなのか。
 ここまでかっとばしていいもなのか。

 兄弟たちよ! 語りかけられ、拳を握った。
 熱いモノが確かにおなかの奥にずしんときた。届いた。
 そうだ、わたしたちはひとつになる。よろこびのうたを歌う。

 ……てことで、めっちゃ盛り上げていただきました、佐々木蔵之介! 彼の舞台演劇調の朗読から、ドラマチックに「第九」を堪能、歌うことが出来た。気持ちいい!(笑)


 ところで。
 意外に知られていない『1万人の第九』の小ネタっていうか“『1万人の第九』あるある”をひとつ。

 『1万人の第九』でいちばん驚かれることって、実は参加者は抽選で当選した者だけであるってこと。
 ほんとコレ、いろんなとこで驚かれる。毎年確実に、何人にも言われる。
 「週末空いてる?」「ごめん、第九のレッスンあるから無理ー」「え、第九歌うの?」「うん、『1万人の第九』って知ってる?」「ああ、名前だけ知ってる……へええ、あれに参加するんだー。レッスンとかあるんだ?」てな会話を、毎年必ずどこかでする。生活していたら、どうしても話題に出してしまう。
 そして言われる。
「『1万人の第九』って毎年あるけど、こあらちゃん、毎年行ってるの?」「毎年応募してるけど、去年ははずれちゃったから行けなかったよ。今年は当たったの」「……え? 抽選なの??」

 抽選なんです。
 1万人なのに、抽選で当たらなきゃ、参加出来ないんです。
 けっこう、狭き門なんです。
 当落発表時期は悲喜こもごもですよ。当たった、落ちたで話題になるもん。

 去年はわたし、はずれたから行ってない。
 参加出来たのは、2014年、第32回。

 まっつが退団した年。

 8月31日、『一夢庵風流記 前田慶次』『My Dream TAKARAZUKA』東宝千秋楽。
 翌日9月1日、18きっぷで東京を出て、雪丸様の公演二次なんぞを書きながらまったり列車に揺られ、夕方大阪へ。
 旅行荷物は先に宅配便に出してあるから、ふつうのバッグのみの軽装。なにしろウィークリーマンションタイプのホテルに腰を据えてのお見送りでしたからな。持って移動出来るような荷物じゃない。

 そして、旅のつづきで、大阪の街を歩いた。大阪駅から天満橋のエル・シアターまで。

 第九レッスンの1回目が、9月1日だった。
 未涼亜希がいなくなった最初の日。

 陽の傾いた中之島を歩いた。大川沿いを歩いた。難波橋の獅子を眺め、欄干からシルエットのように浮かぶ大阪の街を眺めた。

 ……あれから、2年。
 今年もまた、わたしは同じように梅田から天満橋まで歩いてレッスンに通った。……や、ふつーは歩く距離ではないらしいが、大抵どこでもてくてく歩いているわたしには、1時間以内は徒歩圏内だ。気に入った景色を撮影しながら町歩きするの好き。
 去年ははずれて参加出来なかったので、わたしの記憶は2014年で止まっていた。
 だから2016年のレッスンは、「前にここを歩いたときは、まっつが退団した年」と思い返しながら、となる。
 同じ風景を眺めながら、「2014年」を思い返していた。

 難波橋から中央公会堂を眺める光景がなあ、なんか泣けるんだよなあ。切ないんだよなあ。
 あれは2014年。それより前にここを歩いたときは、まだまっつがいて、父もいて……そんな風に、「間が何年か空いて、同じ風景を見る」ことで、記憶の海に溺れそうになるのさ。
 年寄りって大変ね。生きてきた分、切ないことが増えていく。

 そんな、切なさや愛しさや寂寥や悔恨なんぞを抱えて、どうしようもないもんをしこたま抱え込んで、集大成として、1万人のひとりとなって、第九を歌う。

 だからこんなに、泣けるんだよなあ。

 泣けますよ、『1万人の第九』。
 今回もまた。
 新人公演『金色の砂漠』観劇。

 新人公演を観たあと友人たちとごはんしながら、しみじみ語った。

「ギィは、みりおくんの役だね」

 拗らせ少年。
 鬱屈と爆発、そして歪み。
 この役をやって違和感なくハマリ、かつ魅力的に見せる、ってナニその高すぎるハードル。

 ふつうの男役には、無理だわ。

 つか、無理でイイよ。
 タカラヅカの正統派スターには、そんなスキルはなくても無問題。
 いじけててステキ、とか、歪んでて美しい、が出来なくても、堂々としてステキ、とか、まっすぐで美しい、が出来ればそれでいい。

 だからほんと、この役で新公主演するあかちゃんは、大変だなあと。
 出来なくても仕方ないよなあと。
 彼もきっと、ふつうのかっこいい主人公役なら、きっとふつうにかっこよく出来たんだと思う。

 新公のギィくんは、なんかずっと怒ってました。
 表情がずっと一緒。なにをしていてもどの場面でも、印象が変わらない。
 難しかったんだろうなあ。それしか出来なかったんだろうなあ。

 しかもこの主人公、途中で役者替わるし。
 子ども時代は別の子が演じる。
 子役を使う場合は通常なら1場面だけであっという間、のはずなんだけど、この作品の子ども時代は何場面もえんえん続き、しかもそこで語られるのがかなり重要な内容だ。
 作品の核のひとつを、主人公の核のひとつを、主人公役のあかちゃんは演じることが出来ない。別人が演じたモノに乗っかって芝居を続けるしかない。

 タルハーミネはふたりの演者が乖離しすぎていて、その後も見ていて混乱した。
 ギィに関しては、そこまでの違和感はなかった。子役の子、うまいなー、娘役ちゃんなのかー、と思って眺めたのみ。
 下級生娘役であっても、トップスターみりおくんの役だから、みりおくんと比べて「薄いなあ、軽いなあ」とは思ったけれど。
 この子ども時代をあかちゃん自身で演じていたら、もう少し違っていたのかな?
 鬱屈した時代のみだったためか、とにかく眉が逆八の字で固定されていた。

 自分のために恋人を裏切り死に追いやるタルハーミネも大概なキャラだけど、ギィもレイプに復讐とやってることだけ見れば問題アリまくりキャラ。
 そういうキャラクタを演じてかつ、観客に「それでも好き」と思わせるのは、大変なことだよなと。
 表面的な出来事を超えた魅力がないと。

 このややこしい役は、みりおくんのためにある役。こんな大変な役でそれでも成り立ってしまう明日海りおの美形力を改めて実感した。

 あかちゃんは、役の持つ複雑さは感じなかったけれど、若さゆえのアツさがあったから、アレな行動はすべて「若さゆえ」ってことでアリかなー、という感じはした。

 実力に破綻はないし、ナニより歌えるのはありがたい。や、一観客として、歌えるスターさんはありがたいんだ。ヅカの「スター」は音痴でも務まるジョブだけど、歌ウマであるにこしたことはない。
 今度はふつーのタカラヅカらしい二枚目役を見たい。

 て、ゆーか。
 役替わりではなく、通し役が見たい。

 ……今日の欄の冒頭に、「あかちゃん、単独新公主演おめでとー」と書きかけて、あ、コレなんかチガウ、とあわてて消したんだもん。
 みりおくんの演じる「ギィ」を、あかちゃんひとりで演じてない。子役の華優希ちゃんと分け合っている。公式には「主演・綺城ひか理」だけど、実質的には華ちゃんとふたりで「ギィ」というひとつの役を演じている。
 次はぜひ単独主演を……って、でも『ミーマイ』と『金色の砂漠』と2作主演しちゃったら、次は難しいか。3作主演だとガチ路線ってことになるから、劇団も慎重になるもんな。

 しかし劇団は、ひとりのスターに新公で日本物ばっか当てたりマンガ原作ばかり当てたり、役替わりばかり当てたり……なんでこう偏ってるんだ。
 新人公演『金色の砂漠』観劇。

 ジャハンギール@つかさがかっこよかった!!

 本公演をまったく語れていないのでなんですが、わたしはこの物語でいちばんジャハンギールが好きです。毎回ドキドキわくわくしっぱなしです。贔屓にやって欲しい役です。や、まじでまっつで見たかったっ。(落ち着け)

 もともといい役だけど、ソレに加えて本役のちなっちゃんがマジ美しくてかっこよくて、実力あって押し出しよくて、彼だからこそここまで形作った役。
 いくら役が良くても、演じる人によっては薄くなったり軽くなったり、するかもしれない。
 だから新公はどうなるのか、っていうか、そもそも誰がやるのか、配役チェックしてなくてぜんぜんわかってないまま見た。

 で、オープニングからして「??!」だった。
 一瞬誰かわかんなかった。
 かっこよくて。

 つかさか! ヒゲ似合うな!
 や、ヒゲ役はジョン卿もやってたけど、そのときよりはるかに「色男」としてガツンと来た。や、つかさくん本役も若き日のジャハンギールだけど。でもわたし、そっちの印象あんまりなくてな。新公でこそ、ガツンとキた!
 ちゃんと大人だわ。ワイルドでそれゆえの前のめり感がある。がっついているんではなくて、いかなるときも「引いていない」というか、生涯現役の前線に立つタイプの王様なんだなと。
 そのせいか、アムダリヤ@うららちゃんに対してのキモチがストレートになっている気がした。本役のちなっちゃんだともっとわかりにくいというか、隠されている感じがしたんだけど。

 やっぱわたし、ジャハンギール好きだなー。役者が違っても好きだから、役が好き。
 そして、役者が違っても好きだと思わせてくれた、つかさくんも好きだなー。
 彼は見るたびにかっこよくなっていて、毎回2度見しちゃうわ。


 それとそれと、アムダリヤ@うららちゃんが美しい!
 あの横顔! 大きな鼻! つくづく好みの顔だわー(笑)。

 うららちゃんは泣きそうな顔をしているときが実にいいと思うのです。役とか場面とかを問わず、瞳がゆらゆら傷ついているところが好みど真ん中なんです。
 アムダリヤ役は、そういううららちゃんをいろいろ見られてすげーお得感。
 気品あるよね。凛としているよね。それでいて哀しげなのがいい。
 わたしあんりちゃんも好きだったけど、あんりちゃんは陽性の魅力があり、うららちゃんは陰性の魅力があると思う。うららちゃんの持ち味好き。……これで頭身もあんりちゃん並にあればなぁ。そこだけ惜しい。


 ところで奴隷ピピ@ゆーなみくん。
 こちらも最初誰だかわかってなかった。エマさんの役やってるの誰、すごくうまい。台詞はっきり聞こえる、エマさんが滑舌いい人だから新公がべっちゃりしてたらつらいなと無意識に身がまえたけど、ぜんぜん大丈夫だ、聞きやすいし、老け役うまいなー、こんな別格職人の若手いたっけ?
 そう思ってよく見ると、ゆーなみくんだった。
 なるほど、うまいわけだ!
 組配属以来ずーっとスターとして抜擢されてきて、前回はついに新公主演したベテラン下級生。最後の新公は支え役に回ったってことか。
 や、「ベテラン」で「下級生」って矛盾してるけど、彼は抜擢とスター扱いが早かったので、もう何年も何年も「若手スター」をやっていて、見ているこっちからしても「いつもの人」「ベテラン並にずっと同じような位置にいる」印象であるため、この表現。

 新公主演経験者が、次の新公で専科や組長の役をやるのを、わたしは歓迎している。
 新公主演は連続してほいほい与えるもんじゃない、出し惜しみするくらいでいい。一段ずつステップを上がってついに真ん中を経験したなら、次は脇の支えを経験し、芝居に厚みを持てるようにしてほしい。真ん中のキラキラ二枚目しかやったことない人より、老け役とか辛抱役とか経験した人の方が、引き出しが増えるもの。

 ゆーなみくんは舞台を支え、いい仕事してた。
 今までの彼の役でいちばん好きかも。

 ……でもって、ここだけの話。
 今回のギィ役は、ゆーなみくんの方がハマってたかもなあ、と思った。
 やっぱ難しいと思ったんだ。このいろいろと拗らせた役。キャリアのある子の方が、表現出来ることが多かったかも。
 ゆーなみくんのキャリアと技術でこの難役を料理したらどうなったか、興味ある。
 あかちゃんがよくないとかいう意味ではなく、単に作品の可能性としての向き不向きから。
 新人公演『金色の砂漠』感想あれこれ。

 本公演の感想をちっとも書けていないのだが、本公演で「うっわー……」と思っているのが、テオドロスの銀橋ソロだ。
 その美しさに言葉もないのに……歌い出すと別の意味で言葉がなくなるという……(笑)。

 テオドロスの美しさはとんでもない。ナニこの二次元感、現実じゃないよね、アニメかゲームのキャラだよねこの人!! と、感嘆するレベル。
 その麗人が満を持して歌い出す……と、美貌に反するアレレな歌声に膝が折れる……というびっくり場面。

 新人公演でも、ソレを見事に再現していた!

 テオドロス@帆純くんは、美しかった。
 顔がちょい大きめではあるが、砂漠の国でひとりだけ西洋人、パツキン王子様キャラとして二次元美形感を出していた。
 いいよいいよ、テオドロスっていえばやっぱこの世界の違う美形ぶりだよなっ。そういう役割だよなっ。
 そして。
 銀橋ソロで、へにゃへにゃな歌唱力を披露。
 ……歌ダメまでがこの役の役割なのか!!(笑)

 ……そこまでカレーくんを踏襲しなくていいっす……(笑)。

 タニちゃんの役を、新公でちぎくんがやっていたことを思い出した。
 美形の役は美形が演じる。そして、音痴であることまで、本役に倣う。タカラヅカあるある。

 カレーくんの役は、「美形で歌えない子」限定なのか……タニちゃんのときのように。
 つか帆純くん、カレーくんの役何回目……。持ち味というか、武器になる魅力と不得手なジャンルが本役と同じ子がやりつづけると、不得手を克服する機会を失いそうで老婆心。


 ジャー@亜蓮くんは亜蓮くんらしくなかった。
 前もって配役をチェックしないわたしだけど、友人が前からジャー役に言及していたので、そこだけはおぼえていた。
 わたしが音くりちゃんに身がまえてしまうように、亜蓮くんに身がまえてしまう人もいるわけだ。
 でも、危惧した面はなりを潜めてたと思うな。友人も言ってたけど。
 亜蓮くんっぽくなく、真っ当にジャーだった。

 危惧した面とか、らしくないとか、なんだソレ説明になってねえよ。……でもほんと、うまく言葉に出来ないんだよなあ。
 彼の持つ固い部分が、「芝居」を円滑にしない、というか。
 固い、というのは「緊張で固くなっている」とかいうときに使う言葉ではなくて。
 「このゴムボール、ここだけなんか固いね、製造時の空気穴部分だけ強度が違ってるのかな」とか、「このチャーハン、ときどきごはんがダマになっててほぐれてない、そこだけ固い」とか、そっちが近い。
 本来の質感とはチガウ箇所が、不用意にある物体。
 そういうことを、亜蓮くんの芝居に感じる。
 それは彼の個性であり、魅力だと思う人もいれば、苦手だと思う人もいるってことで。
 ジャーという役には、円滑に流れることを期待したいので、固い部分で摩擦が起こることを危惧した。や、亜蓮くんはそれしか出来ないのでは?と過去の芝居から想像していたので。
 なんだ、んなことないじゃん、ふつうにやわらかいままお芝居できるんじゃん。
 てことで、ほっとしつつ。
 わたしは彼の「不必要に固い物質」っぽい芝居も嫌いではないので、持ち味のまま突っ走ったジャーも見てみたい……気はした。
 ……まあそんな芝居、ウエクミが許すわけないか。


 ジャーが2番手の役で、テオドロスは3番手の役。
 なんだけど、新公では逆に感じたな。
 ジャーはやっぱり、おいしくはない役なんだと思う。ふつうにやっちゃうと、物語に埋没する。テオドロスの方がわかりやすく目立つ。
 ジャーを2番手たらしめているのはキキくんの力なんだなあ、なんてことを、改めて感じてみたり。
 新人公演『金色の砂漠』感想あれこれ。

 ラクメ@映見ちゃんはどうしたんだ、今まででいちばん芝居がやばかった。てゆーか、やっぱ難しいのか、あの役。
 「熱いね!」がひっくり返っちゃったというか、浮きまくっててなあ……じゅりあ様でも吹き出しちゃうくらいトンデモ台詞のトンデモキャラだもんなあ。

 持ち味的に映見ちゃんは、じゅりあ様路線を期待されているんだと思う。
 きれいなお姉様枠で、かつ男役とも張り合える色悪キャラ。じゅりあ様は軍服着て鞭振るって高笑いするよーな、ものすげー独自路線もこなしちゃう人だからな。
 さすがにじゅりあ様レベルをふつーの娘役に求めるのはどうかと思うが、カテゴリ的に。
 仙名さんがポストいちかを目指すように鍛えられていたように、映見ちゃんはポストじゅりあなんだろうなと。
 それゆえに今回は女首領で「熱いね!」なわけだ。

 映見ちゃんには歌唱力という武器もあるんだし、色濃く豊かに育って欲しいと思う。
 ……けど、なんつーか、ここぞというところで弱いイメージだ……がんばれー。


 あきらは何故、子役だったんだろう……。
 いやその、最終的に大人になってはいるんだろうけど、三姉妹(長女でも17~8歳)の末っ子の特別な奴隷ってことは、確実に中学生年齢、末っ子の音くりちゃんが小学生に見えるから、必然的にあきらも小学生……。何故。前回ジョン卿やったおっさんに、何故今更小学生……。
 と、愕然とした、本公演。

 新公でほっとしました。
 若い子が若い役やってるー。目も耳も心も平穏でいられるー(笑)。
 プリー@聖乃くん。
 若くてかわいかった。
 うまいとは思わなかったけど、子役だからきんきん喋るのは仕方ないし。
 大人になったあともあまり印象変わらなかったが……とにかく、きれいな子だし、次は落ち着いた役で観てみたい。


 ビルマーヤ@ひらめちゃんは、いちばん違和感なかった。
 どの役も本公演踏襲しているので、あとは技術が足りているかどうかになるんだよなあ。ひらめちゃんは安心して観られるうまさだった。


 ナルギス先生@矢吹くんもふつうにうまかったけど……どうしちゃったんだろう、この役付き。新公主演後にやるならわかるけど、いきなり配役の方向性が変わったなあ。
 劇団はいい加減彼を「美少年」として売るのをやめたんだろうか。矢吹くんは「中性的な美少年」「女装が似合うフェアリー」よりも、男っぽさで売った方が魅力が出る、と昔から思っては来たが……男っぽさ通り越してじじい役って……やっぱり劇団とわたしは趣味がチガウみたいだ。
 今更だけど、宙組バウ『双頭の鷲』の話。

 2回目を観に行った。
 泣いた。
 最初っから泣けて泣けてしょうがない。

 張り詰めた空気。決まっている悲劇に向かい進んでいく緊迫感。それでもそこに生きる彼らに同調して未来を忘れ、光を見出す切なさ。

 美しいということ。

 まったく同じ脚本、同じ演出だったとしても、美しくなければこの物語は成立しない。それは「タカラヅカだから」ではなく、もっと根源的なところで。
 美しい、ことがテーマのひとつなんだと思う。いや、最大の、と言ってもいいのかもしれない。他のことを表現したいのなら、もっと別のアプローチがあるはず。あえてこうしているのは、「美しくあること」を追求するがゆえ、と思える。

 宙組で公演するのも、それゆえなのかと思う。
 パパラッチはいらない役だし、わたしは彼らが出てくると集中や物語をぶった切られて不愉快だ。だが、まだ宙組だからこれで済んでいるのかとも思う。

 宙のモブさんたちはうるさくない。パパラッチたちはそれぞれキャラクタがあるのだが、キャラがあってなお「薄い」。
 宙組というと「動く大道具」「トップコンビと背景」だった歴史の長い組。スターを生み出さずみんなでモブをがんばり、他組から降ってくるスターを支える、というシステムで運用されている。
 今現在の宙組がどうなのか、これからの宙組がどうなのかは置いて、過去はそうだった。テル時代も「組子ほとんどモブ」の大作ばかり続き、まぁくん時代になってから3作本公演があったが、うち2本が大作で組子はモブだ。
 宙組の育成基盤が、そうなっているのかもしれない。他組からのスターを受け入れやすいように、いつも平らに均してある。突出したモノは作らない。
 組体制の是非ではなく、そういった土台の組ならではの「真ん中を盛り上げる美しさ」を、この作品においてありがたいと思う。

 だからシンプルに、「美しさ」に酔う。
 美しいものを見て、その美しさに息を詰まらせ、涙を流す。

 美しいモノには、多幸感と、一抹の哀しみが必要なのだと思う。
 もしくは、その真逆。
 満ちる哀しみと、一条の光。

 それが、「美しさ」を際立たせるのだと思う。


 みりおんは宙組の美しさに合うと思う。
 花組では薄くて輪郭が分からなかった。花組自体が色濃い組だったから。
 でも宙組ではみりおんの端正さはきれいに周囲にはまり、かつ、一定の重さを持った。
 今回のみりおんを見ながら、きれいな輪郭と世界観に合った薄い色彩を感じた。それでいて、たしかに重みがあることに気づいた。
 そうか、彼女には影がある。
 陰でもない翳りでもない、物理的な、影。光を遮って出来るもの。

 影がある。
 この嘘のように美しい世界で、影がある。

 そこに、在るんだ。

 そんなことを、しみじみと感じてみたり。


 エリザベート役をやった直後にこの作品の「王妃」をやるのは、わざとというか、計算なんだと思う。景子タンにしろみりおんにしろ、観客に『エリザベート』を想像するな、『エリザベート』を上演したことは忘れろ、とは言ってないはず。
 『エリザベート』を上演した組で、エリザベートを演じたみりおんで、この物語を作る意味。
 『ジャン・ルイ・ファージョン』に感じたモノと同種の気概を感じるな、景子せんせに。〇〇といえば**先生の『☆☆』、という一般認識に対する一石というか。景子タン、好戦的だなと。

 みりおんはあらかじめ描かれたガイドラインに沿って忠実に線を引いてくるイメージ。
 景子作品に合う。
 正しく美しく仕上げてくれる。

 そういうところがわたしには物足りないんだろうなとも思う。
 それも含めて、「美しさ」だと思う。景子タンの求める世界。濃すぎたり主張が強すぎると美しさを通り越してグロテスクになったりするから。今の薄さと端正さが必要なんだ。
 だからもう素直に美しさに酔い、涙を流す。
 それが、カタルシスだ。
 『双頭の鷲』思いつくままに。 


 わたしは所詮トドファンなので。
 トドロキの美しさだけで泣ける。

 トド様というと学年からも立場からも芸風からも、骨太さ・男らしさを求められる。
 芸歴何十年、研いくつだっけ。の、駆け出しの若造には表現出来ない貫禄と重み。理事という肩書。そして、若いときから一貫して立役であった芸風。
 英雄で指導者で男くさくて、ヒゲが似合って野太い声で吠えている役が似合う、そんなイメージ。

 そんな役割を担ってきた人だが。
 いや、だからこそ。

 わたしがときめくのは、繊細で傷つきやすくてうつむいている、多感な青年の姿だ。
 『凱旋門』のラヴィックだとか、『オネーギン』だとか。

 『双頭の鷲』のトドは見たかったトドで、さすが『オネーギン』の景子たんだ、ありがとう!!
 2回目の観劇では、他は捨ててトドのみをオペラグラスで追った。
 『オネーギン』もそうだったなあ。「このトド様を一瞬たりとも見逃してはならない!!」と思えたから。

 心の揺れが細かく整った顔に映し出されて、観ていて心臓がハクハクする。
 特に最初の警戒と怯えのある顔が最高っす。反発と自棄に瞬間針が揺れて、またすぐ意志の力で強くこの場に踏みとどまって暗殺者の顔を作り……。
 暴挙に及んでいるけれど、脳筋なのではなく、繊細な文系青年ゆえに爆発してここにいるんだとわかる。

 彼を注視するだけで楽しい。
 泣ける。


 それでも、わたしは根本的にこのテの物語は好みではない。
 わたしはわかりやすいハッピーエンドが好き。死んじゃうENDは相当出来が良くないと、ふつーのハピエンにかなわない。世間の評価がではなく、わたしのなかで。
 特に、「美しく終わるための死にEND」はわたしの中で点数が下がる。
 だって簡単じゃん、手法として。
 生きて美しい・ハピエンで美しい、の方が創るのは困難。生きていたりハッピーだったりするとどうしても、ダサさが含まれるから。現実の泥臭さがあるから。
 どんな物語も、主人公殺してENDにするなら、ドラマチックだったり美しかったり出来る。構成に詰まったら主人公殺して終わらせればいい。主人公死ねば観客泣くし、お手軽感動作の出来上がり。
 『双頭の鷲』は計算された美しい作品なのでお手軽とは思わないが、それでも死にENDだからこそ出来た、というドーピング感はある。

 それに加え、同じ死んで終わりでも、「責任を投げ出して死ぬ」のが好きじゃないんだなあ。
 初日に観たときは、王妃としての再生を、政治と国とを全部まるっと投げ出すことに「ヲイ!」とツッコミ入れたもん。わたしはやっぱ、高貴なるものの義務を果たしてほしいと思うんだよなあ。
 や、原作があるからどうのという話ではなくてね。んなこといったら原作にパパラッチがいて歌い踊っているのかって話で、景子たん作品『双頭の鷲』の話をしているんだから。

 晴興@『星逢一夜』もそうだけど、わたしは「責任を投げ出し、自分だけが得をして終わる」主人公より、「自分にとって死ぬよりつらいことを背負い、自分ではない誰かのために責任を果たす」主人公が好きだ。主人公が死んでいいのは、そのあとだ。真に美しい死にENDは、そういう死に方だと思う。
 「死にENDならなんでも美しい」という観点で作られたもっとも極端な例が、植爺の『外伝 ベルサイユのばら-アラン編-』だと思うし。周囲の人間が「最後まであきらめるな。希望を捨てるな」と言っているのに、肝心の主人公は「もう無理、しんどいのは嫌だ、あとのことは知らない、誰かがなんかしてくれるさ」と言って自殺。それを美談として囃し立てる作品。死ねば正義。みんなどんどん自殺しようぜ!!
 植爺ほどアタマのおかしい死にENDを書く人はまずいないけど、カテゴリ的には『双頭の鷲』も同じになっちゃうのよ。わたしはソレが嫌。

 王妃には明るい未来があったのに、それを投げ出すことにカタルシスを求めていることも、理解しているけれど。本人だけの明るい未来じゃなくて、国の未来がかかっているから、わたしには無責任に思えて残念ポイント。
 や、わたしの好みの話。反対に、「国と国民の未来を投げ出すほどの愛ってステキ!」と萌える人だっていると思うし。ほら、植爺『ベルばら』のスウェーデン国王が「他国の王妃との不倫を貫け!」と臣下に大々的に命令することを「感動」とするように。そんなことしたら戦争になって多くの人が死ぬけど、たったひとりの愛の成就の方が国民の命より大事なんだ!! この狂った展開が感動場面なんだ!! 驚愕するわたしは少数派なんだ! てな風に。
 って、いちいちキチガイ例を出してごめん、でも植爺はわかりやすく狂ってるから、例にしやすくて(笑)。


 と、まあ、完全に好みではなくても好きだし泣けるんだから、すごい作品だとも思っている。
 なにより、このトド様だけでも感謝。
 はー、見られて良かった。
 『双頭の鷲』は、とことん美しいけどタカラヅカらしくない、というのも、わたしには残念ポイント。タカラヅカでしか出来ない美しい作品なのに、タカラヅカらしくないとはこれいかに。

 タカラヅカは大衆演劇であると思っているから。エンタメだと思っているから。『双頭の鷲』はチガウなと。

 『双頭の鷲』はエンタメよりも純文学寄りの作りだと思う。美しくあることを優先して、タカラヅカの持つダサい部分を排除した。
 芸術性の高さをすごいなと思う。
 けど、わたしは高尚なものより俗っぽいものが好き。アタマ悪いから、難しいモノは理解できないの。てへ。

 この高尚っぽい静かな凪のような作品で、突然ざっぱーーんとマンガちっくな波を立てる、愛ちゃんが素敵すぎる。

 愛ちゃんひとり、世界観違うんだけどいいのアレ。
 景子せんせの計算なのか、愛ちゃんにはアレしか出来ないのか、判断つかなくて混乱する(笑)。

 狂言回しのそらやパパラッチたちは、物語を割って入るからトドとみりおんのふたり芝居に集中してガーガー泣いてたりするわたしは、水を差されて正気に返り、水増し要因イラネと思う。
 が、彼らはべつに、世界観を壊すとは思わないんだ。
 彼らは演劇的手法でそこにいるだけで、いらないけど同じ作品内にいる、同じカラーを持っている。

 でも、愛ちゃんは逆だ。
 物語には必要な役。なのに、世界観が違う。
 繊細な筆致の絵画の中に、紙と絵の具や鉛筆の世界に、突然デジタルなアニメキャラが登場する。
 画材も次元も違いますがな、愛ちゃん今どきの今どきのフルCGアニメだよね? ちょっとマネキン入ってる、表情や動きが不自由な感じのやつ。

 愛ちゃんがあまりに愛ちゃんで、心震える。

 だって、愛ちゃんが出てくると、突然そこが「タカラヅカ」になるんだもの!
 タカラヅカを超えた高尚な舞台から、一気にただのタカラヅカになる。
 そしてわたしは、タカラヅカが好き。
 世界観ぶち壊して「ザ・タカラヅカ!!」をはじめる愛ちゃんに腹筋鍛えられる。マジ面白い。好き。

 景子せんせが狙ってやってるのか、ただの愛ちゃん効果なのかはわからないけど。そして、狙ってなくてああなって、それでも許容されているのだとしたら、さらにすごいことだと思うけど。
 いいなあ、ほんと。

 フェーン伯爵@愛ちゃんがスタニスラス@トド様と絡むとことか、素晴らしいわ。トド様がすっぽり腕の中に入ってしまう、体格差がイイ。愛ちゃんってほんとカラダ美形さん。

 高尚すぎず、ずっとこの「タカラヅカ」的世界観で作ってくれたら、もっと好きだったな、きっと。

 愛ちゃんがいてくれて良かった。
 『双頭の鷲』2幕最初。
 そらくんの客席登場があった。
 彼は解説をしつつ、客いじりをする。話しかける。「マドモアゼル」と呼びかける。
 特に、ひとりの客をつかまえて、デートの誘いをかける。パリジャンらしく、粋に。
 タカラヅカの男役冥利に尽きる役。現実の男がやったらサムイを通り越してアタマがおかしいと思われるレベルのキザ台詞の洪水。タカラヅカだからこそ成立するお遊び。

 それを、そらくんがやっている、というのが感慨深い。
 そらくんって、子犬キャラというか三枚目キャラというか弟キャラというか、「いわゆる、美形スター」という認識がなかったためだ。や、世間は知らん、わたしが。
 優等生でなんでもできるけどいじられキャラで踏まれてきゃんきゃん言ってる感じ……って、まぁくんのブリドリがかわいすぎたせいで、そっからイメージ止まってるのよ。
 それが最近かっこよく見えてドキドキ、というのが現在のわたしの立ち位置。

 そんな気になる彼が、客席登場して客いじりしてる。とことんキザに口説いてる……きゃあああ。
 とまあ。そのときはテンション上がった。
 わざとかっこつけてるそらくんを観るのは楽しかった。

 だが終演後、冷静になって考えると。
 べつに、うらやましくはないなあ。そらくんに「マドモアゼル」と一本釣りされている誰かのこと。

 いやその。
 まっつが客席降りして客いじりしてたら、うらやましかったと思うのね。目の前で立ち止まって顔覗き込まれてデートに誘われる人が。いいなあ、うらやましいなあ。あの席のチケット欲しいな、なんとかならないかしら、と強く思うだろう。
 でも、そらくんだとぺつに、そうは思わないなあ。あらあらいいわね、楽しいわね、と遠く眺めて拍手するだけ。

 そうか。まだ、ポストまっつは空席なんだなあ、と思う。
 この場合、そらくんだからうらやましくない、のではなくて。
 わたしの問題だ。
 そらくん大好きで、宙組観るときの観測ポイントのひとつなのにね。

 それとも。

 そらくんに「マドモアゼル」ってやられたら、一気に恋に落ちるかしら……。先日、レイラくんに顔のぞきこまれてドッキドキにときめいた単純おばさんだからなー。
 ご贔屓ではないけれど、各組にいる「かなり好き」な色男さんたち……そういうあたりの人から「君の瞳に乾杯☆」的な口説き文句を目を見て言われたら、こあらさん一気に落ちるかしら……。
 わたしがそらくんの「マドモアゼル」だったら? 次の瞬間から「そらくん追いかける、とりあえず今出てる彼のブロマイド全買いして、そらくんグッズ作って持ち歩く!」とか、痛ファン生活に目覚めたりするかしら……。
 や、わたしが彼のマドモアゼルになれるチャンスはもうナイので、考えるだけ無駄だけど。

 そんな夢を見られるくらい、そらくんはステキな役をやってました。
 ちくしょー。
 なんか、ちくしょー。……言葉悪いわね。

 もっともっとステキになってね、そらくん。
 もっともっとステキになるよね。
 『金色の砂漠』のジャー@キキくんが好きです。

 ドラマチックな物語のエキセントリックな人々の中、ただひとりまともで湖のような静かな青年。
 いい人、という設定の役を、ほんとうにただ「いい人」に、違えることなく形作っていることを、愛しく思う。

 ギィ@みりおくんとの双子設定は、正直どうかと思うんだけど……まあ、たぶん、双子でも育った環境の差で似ても似つかなくなるもんだしな。
 環境の差ってのはもちろん、彼らが付いた王女様の性格の差な。
 ギィだって、ビルマーヤ@べーちゃん付きの奴隷だったら、あんな性格にはならなかっただろう(笑)。

 ジャーはまともで、優しい。優しすぎるし、物わかりが良すぎる。嘘くさい。ご都合主義っぽい。作者の作為を感じる。作者が物語を転がすために、都合良く作って動かしているだけだろ、とも思う。作者の愛をいちばん感じない、他を全部設置したあとで齟齬を埋めるために作り出した、隙間家具みたいなキャラクタだと思う。
 ……けど、それでもなお、好きだな。いや、そういうところが萌えだと思うな。

 主人公より脇に魅力を感じる性癖があるので(笑)。
 ジャーの扱いの雑さにこそ、ときめく。
 この役がご贔屓だったらわたし、萌え狂ってると思う。その昔、『天の鼓』の樹役(鼓よりも軽い命!)にときめきが止まらなかったように!
 作者が愛してくれない分、わたしが愛するわ!的な、逆境ゆえに恋が花咲く感じ?

 なんて冗談はさておき。
 わたしの萌えツボに、「残された者」てのがある。
 ドラマチックに傍迷惑に、生きるの死ぬのと大騒ぎする主人公たちの横で、ドラマからは取り残され、生き残ってしまう人。すべてを見ていたけれど、なにもできずにただそこにいることしか出来なかった人。
 そういう人って、大抵やさしい、まともな人なのよ。そういう人に萌えるの。

 大騒ぎして燃え尽きられる人はいいよ。ある意味楽だもの。
 でも、それを見守っていた者は……そして、これからなおも、長い人生を、そのときの記憶やら後悔やら責任やらを背負って生きていかなければならない「ふつうの人」は、どんだけ大変よ?
 現在に、そして、物語には書かれていない「未来」にも、切なくなるの。

 『双頭の鷲』の感想でも書いたけど、わたしは「死にEND」は好きじゃない。死んで楽になるより、つらくても哀しくても、歯を食いしばって生きていく人が好き。
 だから、「残された者」が好き。彼がどう生きるのか、思いを馳せるのが好き。

 脇役体質、脇役萌えなんだと思うよ、根っからの。
 華々しく散る人より、地味に生き延びる人が好きなんだもん。

 ジャーの優しさが好き。
 そして、ジャーの良さをわかっているビルマーヤが、彼と同じタイプであるゴラーズさん@タソを選ぶのがわかる。そうだろう、そうだろう。ゴラーズさんもほんと、脇役体質な人だもんねえ。

 欲を言えば、ジャーにももう少し人間味というか、濁った部分・ものわかりのよすぎない部分が欲しかったけど……ここまで作者に都合良くせんでもええやん、と思うけど……とことんまで「きれい」にしたかったのかな、とも思う。
 ジャーの持つ透明感が、この美しい物語の方向性を決めているのだから。
 ……彼がいなかったら、もっとドロドロが剥き出しになっていたと思うよ。ジャーは紗幕みたいなもん、きつすぎる色をふんわり淡くする。
 『金色の砂漠』でもっともときめいたのは、ジャハンギール@ちなつ。

 男らしくてかっこいい。
 というのは基本スペックに過ぎない。
 彼が魅力的なのはなんといっても、「愛に膝を折る男」だからだ。

 わたしは、強い男が「愛のために信念を曲げる」瞬間が好き。
 愛に敗北する男が好き。

 『ガイズ&ドールズ』でも語ったと思うけれど、『ガイドル』という作品を好きなのは、愛に敗北する男たちを明るく肯定して描いた作品だから。
 浮気者が、強面が、愛する女のために一途になる、へなちょこになる。
 主題歌で歌われる、女のために右往左往する男たち、それをユーモラスに「しあわせなこと」として語った世界観が好き。

 女を泣かせて自己完結する男の方が、かっこいいよ、そりゃ。物語としては。盛り上げるための簡単な方法。
 行かないでとすがる女をうち捨てて、男は旅立つ。あらかっこいい。片手にピストル、心に花束、男は誰でも不幸なサムライ、花園で眠れぬこともあるんだよてなもんだ。
 反対に、女のために生きる男は簡単にかっこ悪くなる。女の買い物荷物を山ほど持ってよたよた後ろを付いて歩く姿、背中を丸めて赤ん坊にガラガラを振って百面相する姿、エプロン付けて赤ん坊背負って洗濯したり、って『ガイドル』にふつーに出てきた姿だけど、かっこ悪いよねええ。滑稽だよねえ。

 その、「簡単にかっこ悪くなること」をして、それがかっこ悪くならないくらいかっこいい男が、いいの。

 卑怯者や偽善者が好きな女のためになにかしても、かっこよくない。そもそも人生がブレブレだから、その上ナニかしたところで「ああ、自分がかわいいだけですね」だけど。
 強くストイックな男が犠牲を覚悟の上で愛を選ぶ……本来ならばソレは「かっこ悪い」選択なんだけど、それまでの生き方があまりにかっこいいから、多少マイナスが付いても高評価が揺るがないの。
 むしろ、これほどの人物がこんな愚かな決断をした、それほどまでに愛しているのか……! と盛り上がる。
 それくらいきちんと「いい男」が出来上がっていることが重要。

 フランツ@『エリザベート』が、「君を失うくらいなら信念も曲げよう」と歌う場面がめちゃくちゃ好き。
 それまでの彼の闘いを知っているから、苦悩に満ちた人生を知っているから、それすら投げ捨て愛を選ぶことに感動する。

 それゆえに。
 ジャハンギールが好き。

 アムダリヤ@仙名さんを愛してしまったがために、ジャハンギールの人生は変わった。間違った。
 欲しいモノは、力尽くで得る。己の才覚で、実力で、手に入れる。小細工も駆け引きもない。シンプルに猛々しく。
 そんな男らしさを誇っていた英雄が、ひとりの女を愛したゆえに、己の矜持を捨てた。
 女の子どもを人質に取り、自分のモノになれと脅迫する。
 戦争で敵を殺すのとはまったく意味が違う、卑劣な行為。
 何千人殺したとしても己の正義に胸を張れる、そういう生き方をしてきた男が、その手を汚した。心を汚した。
 どんな卑劣な手段でも、自分自身を許せなくなったとしても、アムダリヤが欲しかった。

 ジャハンギールは敗北した。
 不敗を誇った猛将は、愛の前に膝を折った。

 ジャハンギールが魅力的なのは、強くてかっこいいからではなくて、強くてかっこいいのに、愛のために道を違えたから。
 自分の心を殺して、自分ではない誰かの心を欲した。

 そして、その過ちを、罪を、自覚している。
 正しく、背負っている。

 だから彼は、アムダリヤを得るために生かした彼女の息子、イスファンディヤール@みりおくんに討たれることを、受け入れる。

 わたしの逆ツボ、「愛さえあればナニをしてもイイ」という感性と、対極にあるモノ。
 自分の歪みと罪を自覚した上で、そんな自分を嘲笑するキモチすら持ちながら、それでも、愛を止められない。

 ジャハンギールとアムダリヤの生活がどのようなものだったのか。
 強奪と脅迫ではじまり、夫婦として長年暮らす男と女は。
 最後の最後、自分を討ちに来た、死んだはずのイスファンディヤール、この結果を引き起こしたのがアムダリヤだと知ったジャハンギールの心中。
 ちなっちゃんの演技が秀逸で。
 あそこで一気に涙出る。

 ジャハンギールには、伝わっていたんだろうか。アムダリヤが彼を愛していたこと。
 知らないまま、誤解したまま逝っちゃったのかもなあ。
 せめて愛を告げない、ことを、矜持にしていそうだもんな、アムダリヤ。先王の妃として自決出来なかった咎を、自らに科していそうだ。

 強く、潔い生き様が切ない。
 ジャハンギールも。アムダリヤも。

 このふたりには、妄想がわく。彼らの物語を知りたいと思う。

 いやあ、王道メロドラマだよねえ。
 憎い仇に力尽くで奪われて、炎のような憎しみをたぎらせているのに、次第に惹かれていってしまう。憎い憎い、でも愛しい。
 強引なその男は、権力があってハンサムでセクシーで。
 強い男に嵐のように求められ、奪われる愛憎のドリーム。ああうっとり(笑)。

 ジャハンギールとアムダリヤでスピンオフ希望。
 大衆向け大劇場ではなく、ファン向けにトバしていいバウかDCあたりで、とことん熱っぽく。エロく。←
 『金色の砂漠』の主人公ギィ@みりおくんには、あまり興味がわかない。
 いいキャラだと思うし、みりおくん自身は美しくてこの難しい役を説得力を持って演じきっていて素晴らしいと思う……けど、このキャラはわたしの好みじゃないんだよなあ。

 タルハーミネ@かのちゃんは面白いキャラだと思うし、彼女のことはもっと突き詰めて考えてみたいと思うけれど。
 ギィはなあ。

 なんでこんなにギィに興味ないんだろう?
 わたし、間違ったキャラとか歪んだキャラ、大好物なのに。

 実際、ジャハンギール@ちなつは大好きだ。子どもを人質にとって女をモノにするようなひどい男なのに。
 自分を裏切った女の国に攻め込んで、力尽くで女を手に入れる、ギィもステキなこじらせっぷりなのに。

 と考え、あー、そうだ、この復讐が好みじゃないんだよなあ、と思い至る。

 フィクションにおける「復讐」は良いネタだと思っている。
 わくわくするじゃないですか、復讐。
 「なんでもいいから小説が読みたい」って書棚を眺めて、『ミミ・クインの復讐』というタイトルだけで「あら、面白そう」と手に取るくらい、「復讐」って萌え単語だわ(笑)。
 (あ、『ミミ・クインの復讐』はふつうに面白かったです。やっぱ女は競ってこそ華!よねえ)

 だから、親の仇とか悪者を成敗とかは別にいいのよ。や、主人公に義のない逆恨みでも別にイイ。
 わたしは物語に「正義」は求めない。聖人君子が心正しく生活する様なんか、別に見たくないもの。
 主人公は歪んでいても間違っていてもいい。

 だから、ギィの復讐が好みではないのは、「こいつ、なんもわかってねーのな」的ながっかり感があるためなのだわ。

 ギィがタルハーミネを愛した。
 タルハーミネもギィを愛し、奴隷の妻になる、共に逃げるとまで言った。
 ふたりで駆け落ちしようとし、力足らず失敗した。

 ここまではいい。

 ふつーなら、愛する男女は互いをかばい合い、自分の命と引き替えに恋人の命乞いをしたり、あるいはふたりで美しく心中したりするもんだ。
 だが、タルハーミネはふつうじゃなかった。
 ギィの命を差し出すことで、自分の命乞いをした。

 駆け落ち相手から、まさかの裏切り。かばうどころか、生贄にされるとか……!

 それでギィは復讐に燃える。あの女許すまじ。

 それはわかる。
 そりゃまーそーだろーよ。あの状態で見捨てられるとか、踏み台にされるとか、誰が思うよ?
 男のプライドずたずたですよ。カラダも心も痛いよ。

 そりゃそうだろうとは思うけど。
 でも。

 タルハーミネって、そもそもそういう女じゃん。

 あそこで「ギィを殺せ、でなければオマエを殺す」と言われ、素直に「愛のために死にます」と言う女じゃない。

 かかっているのが命だけだったら、彼女はおとなしく死を選んだだろう。タルハーミネは、誇りのために死ねる女だ。
 だが、天秤にかけられたのは、命ではなく、誇りだった。

 愛のためになら死ねる。
 だが、誇りを傷つけられて、死ぬことは出来ない。

 タルハーミネは、王女としての誇りを選んだ。

 奴隷ごときを愛した、とは、王女の矜持に懸けて、認められなかった。

 だから、ギィの死を選んだ。
 愛よりも自分の心よりも幸せよりも、誇りを選んだ。

 なんて苛烈な魂だ。


 なのにギィときたら。
 裏切られたから復讐する?
 ……ちぃせぇ男だな。


 翌日欄へ続く!

 『金色の砂漠』の主人公ギィ@みりおくんのキャラクタについてあーだこーだ言う、続き。


 ギィへの愛を否定し、王女としての立場を守ったタルハーミネ@かのちゃんを見て、ギィが感じるべきなのは「裏切られた」ではなく、「それでこそ、タルハーミネ!!」であるべきだ。

 タルハーミネという魂を理解し、丸ごと愛しているなら、復讐なんか考えないはずだ。
 王女として命令するタルハーミネに微笑みかけ、胸を張って処刑されるべきだ。そんな風にしか生きられない苛烈な魂を持つ恋人に「君は正しい、君は君らしく生きてくれ」とうなずいてやる。それが、タルハーミネを愛した男の任ってもんだ。

 ギィはあまりに未熟だ。
 彼がすべきことは、犯して連れて逃げることではなく、自分ひとりで城を出て、功を成すことだ。
 ジャハンギールがやったように、国でも盗って、堂々とタルハーミネに求婚することだ。
 タルハーミネはギィの妻になれても、王女であることを捨てることは出来ないのだから。ふたりで逃げても心中以外に未来はなかった。みじめな生活に、タルハーミネが耐えられるはずないのだから。

 タルハーミネを恨んで復讐するような男は、タルハーミネに相応しくない。
 結局、タルハーミネの魂なんて関係なく、自分の都合だけで恋してただけじゃん。
 カラダだけじゃなく、心まで小さい男。

 ……と思うから、好みじゃないんだよなあ。

 歪んだ人間は好きだけど、こういう虫けらハートの男は、主人公では見たくない。脇ならそれなりに萌えるけど(笑)。
 親の仇ってだけなら別に、復讐してくれてもいいんだけど、タルハーミネへの復讐は「チガウやろ」と思う。

 コトが大きいからわかりにくいけど、要するに「思ったように愛してくれないから、逆恨みする」ようなもんじゃん。
 仕事が生き甲斐の女性を口説き落とし、退社させてハッピーウェディング!にこじつけたはいいけど、結局「ごめん、やっぱり私仕事を捨てられない! 仕事を捨てたら、私は私でなくなるの」と言って結婚断られた……もう式場押さえて招待状出して上司の仲人も頼んであって、今さら婚約破棄ってちょっと待て俺の立場は?! かわいさ余って憎さ百倍、ストーカー一丁上がり!
 仕事を生き甲斐としている彼女を愛したんじゃなかったの? 彼女から彼女自身である仕事を取り上げて、自分の用意した箱の中に歪めて押し込むことが愛だったの? それ、彼女を愛してないよね? 愛したのも、大切なのも、自分自身だけよね?

 とまあ。

 タルハーミネはいいキャラだし、王女と奴隷、出生の秘密、復讐と王位奪還、という設定と筋立てもイイ。
 だからあとはほんと、ギィのキャラクタなのよねえ。

 ギィって、少年時代からまったく成長してないじゃん?
 「なんであいつはありがとうって言わないんだ?」とふくれていたときのまま。
 言わないのがタルハーミネなんだよ。たとえ思ったとしても、口には出来ないの。そういう女性を愛したんだって、何故わからない。

 タルハーミネに裏切られ、盗賊団のリーダーになっても、結局成長しないまま。
 ギィを自ら葬ったタルハーミネは、成長したのに。

 成長しない主人公は、つまんない。
 物語として。
 主人公の精神的変化が、カタルシスだもん。
 ギィにあるのは「立場の変化」だけなんだもん。
 ストーリーが動くから変化しているように見えているだけで、ギィ自身は幼少期から変わってない。

 ギィの幼少時代をみりおくん自身で演じる意味が、よーっくわかる。
 彼は妖精のように、変わっていない。
 幼く美しいまま。
 少年の潔癖さと自己愛に満ちている。

 みりおくんならではだと思う。
 この役をやってなお、美しく魅力的に見せるなんて。

 みりおくんはすごいと思うし、みりおくんにこの役をアテ書きしたウエクミもすごいと思う。

 ただ、ギィという男は、わたしの好みではない。
 それだけのこと。
 それじゃあ、どうあれば好みだったのか。
 『金色の砂漠』の主人公ギィを考える。

 今のギィは好みじゃない。
 愛を求めるだけで愛しはせず、相手を理解もせず、成長もしない、幼いメンタルの小さな男。
 ギィでいちばん好みじゃないのが、彼が「復讐」を考えるところだ。
 作品のキャッチコピーに使われているくらいだから、興行側のいちばんの「売り」、作者のテーマなんだろう、なのにそこがわたし的にいちばんひっかかる、という悲劇。……や、好きなのにひっかかるって、悲劇です、わたしには。

 『金色の砂漠』は魅力的な物語だ。
 愛を選ぶのがお約束の「ヒロイン」なのに、愛よりも誇りを選ぶタルハーミネはいいキャラだし、王女と奴隷、出生の秘密、復讐と王位奪還、という設定と筋立てもイイ。
 だから、それらを全部そのまま使って、わたし好みのファンタジーにするなら。ひっかかりをなくすなら。

 ギィの精神的立ち位置を変える。

 ギィが幼いまま、ちぃせぇ男のまま、ってのが、わたしの好みじゃないので、彼を大人の男に成長させる(笑)。

 幼い子どもが幼いメンタルなのは別にイイ。でも、成長したら、心も成長してくれないと、つまらない。おもちゃを欲しがって泣く駄々っ子に、大人のわたしは恋出来ない。わたしはママになりたいんじゃないもの。

 ギィは「なんであいつはありがとうって言わないんだ?」とふくれている、小さな男の子。
 自分の行動に、見返りを求めている。
 子どものうちは、それでいい。
 子どもだから、ノープランのままタルハーミネを求めて、駆け落ち失敗しちゃった。
 助けてあげたんだから、感謝されるはず。
 愛したんだから、愛されるはず。
 自分の定規で決めつけて、タルハーミネに見返りを求めていた。

 だけどタルハーミネは、ギィの思うようにはならない。収まらない。
 「奴隷を愛したことなどない」と宣言するタルハーミネを見て、ギィは知る。

 彼女が、ひとりの人間であることを。

 や、そんなことはわかっていたけれど。
 それでも、そのときまでは「なんでありがとうって言わないんだ」と思っていた、子どもの頃のままの思いだった。
 自分の思うままに、相手を変えることだけを考えていた。だから、彼女を奴隷の妻に変えようとした。

 愛していると、妻になると言った、それが真実であるにも関わらず、彼女は王女であることを捨てられなかった。
 そんな風にしか生きられない。
 それが、タルハーミネだ。
 なんでありがとうって言わないか? 言わないのが、タルハーミネだからだ。

 そのことに、はじめて気がついた。

 ありがとうって言って欲しかったら、言ってくれる子を愛すればいいだけのこと。
 言わない子を愛した。
 「誇りなんかどうでもいい、愛が大事」「恥辱なんか平気、愛さえあればいい」そう言う女が欲しかったら、最初からそういう女を愛せばいい。
 誇りを捨てるくらいなら、自分の心も愛する男の命も捨てる、そういう女を、愛したんだ。

 そういう女だから、愛したんだ。

 ギィを見下ろし、「殺せ!」と命ずるタルハーミネに、ギィは微笑みかける。
 自然と浮かんだ微笑みだ。

 ああ、そうだよなあ。あなたなら、王女タルハーミネなら、そうだよなあ。
 そう思ってしまった。
 だから、ギィは微笑む。

 間違っているとかいないとか、誠実ではないとか、裏切りだとか。
 そんな次元の話じゃない。

 そういうあなただから、愛したんだ。

 微笑むギィを見て、タルハーミネは動揺する。激しく。
 それでも彼女は、王女として毅然と立ち続ける。

 そこから先の展開は同じ。
 拷問されて死にかけているギィを、アムダリヤが救う。そして、出生の秘密を告げる。
 男ゆえの潔癖さと身勝手さで、「貞女二夫にまみえず」とならなかった母アムダリヤを激高したその瞬間だけ責めるけれど。
 ねじれた宿命の出口を、母の話に見いだす。

 ギィが復讐を誓う展開も同じ。

 そして、7年後。
 反乱軍のリーダーとなったギィが、仇であるジャハンギール王を倒し、力尽くで王国を得るくだりも、タルハーミネを妻にすると宣言するのも同じ。

 タルハーミネがひとり砂漠へ出て行き、ギィがそれを追うのも同じ。

 ただ、チガウのは、ギィの精神的立ち位置。
 「復讐」を歌いながら、彼の心は別のところにある。



 ……というところで、翌日欄へ続く。
 勝手に『金色の砂漠』妄想展開。
 主人公ギィがわたし的につまらないから、どうやったらわたし好みになるか、というアタマの体操、続き。


 ギィは、復讐などするつもりはなかった。

 理由があって、あえて「復讐」という言葉を使っていただけ。
 本当は、タルハーミネを恨んでなどいない。
 だって、タルハーミネがタルハーミネだから、愛したんだもの。彼女が誇りを選び、ギィを殺そうとしたのは当然のこと。そういう彼女だから愛した、むしろ惚れ惚れした……くらいなのに、恨むはずがない。

 ギィが求めたのは、因果応報。
 ジャハンギールは力尽くで王になり、先王の妃だったアムダリヤを妻にした。
 その話をアムダリヤから聞き、自分が成すべきはタルハーミネと逃げて貧乏暮らしをすることではない、自分が王になってタルハーミネを妃にすることだと気づいた。
 ジャハンギールが撒いた種は、時を経て、同じ花を咲かせる。彼がしたように、ギィも力尽くで王になる。

 復讐のふりをしたのは、その方がタルハーミネが楽になるから。
 復讐者に力尽くで奪われる。家族の命を盾に取られ、仕方なく従う。昔、自分がギィに惨いことをしたのだから、報復されるのも仕方がない。
 そう、彼女が彼女自身に言い訳を出来るように。

 たとえギィが立派な王になって戻って来ても、タルハーミネはギィを受け入れない。
 ギィを殺せと命じた自分を責め、苦しみながら生き続けるだけ。
 それなら、ギィはあえて悪役になり、復讐で惨い行為をしてみせることで、タルハーミネの心を救おうとした。

 ジャハンギールとアムダリヤが、愛し合いながらも「簒奪者と被害者」であり続けたように、ギィとタルハーミネも「復讐者と罪人」のまま共に生きることは出来る。
 ジャハンギールとアムダリヤが、それでも、愛し合いながら暮らしたように。
 共に生きることで、ギィとタルハーミネは、癒し合うことが出来ただろう。

 だからあえて、復讐という言葉を使った。
 苛烈な怒りを装った。

 すべては、タルハーミネのために。
 因果はめぐり、ジャハンギールは己の行いゆえに、身を滅ぼす。
 ギィもまた、いずれ応報を得るだろう。それでもいい。

 ただ、愛のために。


 だけどタルハーミネは、すべてを察していた。
 ギィが復讐するために戻って来たのではないことを、知っていた。

 だって、見てしまったから。
 ギィの処刑を宣言したタルハーミネに向けられた、あの微笑みを。
 ギィは、こんな自分をあるがまま愛してくれたんだ。
 そんな男が、復讐なんて考えるはずがない。
 それを装っているとしたら、すべては自分のためだ。

 誇りのために、愛する男を殺そうとした、そんな度しがたい女のために、悪鬼にまで堕ちてみせた……そんな男に、なにを返せるというんだ。

 砂漠へさまよい出るタルハーミネと、彼女を追うギィ。
 金色の砂漠を探して。

「焼け付くような憎しみの中で、俺はお前に恋したのだ!」
 キメ台詞は同じ。
 だけどタルハーミネは笑う。
「うそつき」
 復讐なんて、考えてないくせに。そんな愚かな人ではないくせに。
 あの微笑みが真実なのに、憎しみに憑かれたふりをして。
 優しい自分を殺して、冷酷なふりをして、何年も何年も、闘い続けた男。

 誇りのために、愛を殺すしかなかった女。
 そんな女を愛したために、自分を殺すしかなかった男。

 ふたりは金色の砂漠で、ようやくひとつになる。
 あるがままの、むきだしの魂で。


 ……というのが、わたし好みのギィ、わたし好みの展開。
 ストーリーも台詞もウエクミまんま。ラストシーンに補正を入れるだけで変更可能。
 ギィが復讐者になっていると、観客をミスリードして、最後に真実を明かしてどんでん返し。全部演技だったんだ、タルハーミネの心を救うための!と。でもってタルハーミネ、全部わかってたんだ!と。

 幼いメンタルしか持たなかったギィが、愛を知り、劇的に変化する。
 度量の深い大人の男になって、戻ってくる。それこそカタルシス。

 や、勝手な妄想です、アタマの体操です。
 ああ楽しい。
 『金色の砂漠』を観て。

 しっかしウエクミ、何回同じ話を書くんだろう、とは思った。

 『月雲の皇子』『星逢一夜』ときて、『金色の砂漠』で3回目?
 愛し合う主人公とヒロインが権力や立場ゆえに引き裂かれて、主人公が反乱軍を組織して為政者たる恋敵へ挑むけれど、主人公は力足らず反乱失敗、滅ぶ。
 というストーリーラインの物語。

 『月雲の皇子』も『星逢一夜』も『金色の砂漠』も、同じ話だよね?
 『月雲の皇子』の2番手役、為政者側を主人公にしたのが『星逢一夜』、『月雲の皇子』をさらにメロドラマ展開にしたのが、『金色の砂漠』。
 おかげで後半の展開同じ、反乱だー! 一揆だー!
 反乱成功しても、結局主人公滅ぶし。

 笑えるのが、反乱軍には、かっこいい女リーダーがいること。
 主人公が加わることでチームのリーダーは主人公になるんだけど、それまではかっこいい姐さんがリーダーだった。
 『月雲の皇子』ではチューちゃん。『金色の砂漠』ではじゅりあ様。
 『星逢一夜』は主人公が為政者側なので、反乱軍リーダーではなく主人公の戦場であった城内にいる、強く美しい姫君せしこ。

 主人公のそばには、彼を愛し見守る女丈夫が必須。
 ……って、そのマンガ的設定が笑える。なんつーんだ、俗っぽすぎて。
 3作連続ブレないってのは、ウエクミの性癖つーか、譲れない部分なんだろうなあ。俗っぽいなあ(笑)。


 同じ話の焼き直しを続けて、1作ごとに腕が上がっているので、次が楽しみだ。
 サイトーくんがその昔、同じ話を焼き直し続けていた。『花吹雪恋吹雪』書いて『血と砂』書いて『ヴィンターガルテン』書いた。全部同じ話。
 でも、進化はしなかった。つか、1作ごとに退化した。……や、ぶっ壊れてたけど『血と砂』は大好きだった……ここまではアリだけと思う……けど、『ヴィンターガルテン』は無理、ここまでひどいと許容出来ない。
 他にも『エル・アルコン-鷹-』の焼き直しで『TRAFALGAR』書いたりしてたな。『JIN-仁-』の焼き直しが『桜華に舞え』だしな。
 景子タンも『HOLLYWOOD LOVER』と『My dear New Orleans』とか、やってましたな。てゆーか景子タンの作品は大半が「クリエイター」が主人公だの視点だのの話で、根っこは同じなのよね。
 マサツカは「あの戦争」だし、谷せんせに至っては、ずーーっと同じ「俺の英雄」の話を書き続けていたなあ。

 焼き直しというか、同じ話を書くのはアリだと思う。
 ライフワークのように、同じテーマを突き詰めて書き続ける、てのは。
 要は、おもしろけりゃいい。
 面白ければ、同じネタでも、何度でも楽しめる。

 面白くない、ただの手抜き目的での焼き直しは最悪だけど。

 ウエクミはちゃんと面白いから、焼き直しでも別アングル作品でも、呼び方も含め、なんでもいいわ。


 ……いい加減、ハッピーエンドも観たいんだけどな。
 焼き直しの話が出たので、今ごろですが、『桜華に舞え』の感想で書き損なっていたことをば。

 わたしは、『桜華に舞え』は好きじゃない。
 『JIN-仁-』をさんざん観たから、もう飽きた。……というのは冗談だけど。いちいち『JIN-仁-』を思い出すのでめんどくさい。
 べつに、『JIN-仁-』も好きじゃなかったし~~。や、思い入れはあるし、面白がってはいたし、萌えはあったけれど、ぶっ壊れすぎていて、あくまでひとつの作品としては、わたしの好みではなかった。

 『桜華に舞え』は『JIN-仁-』の焼き直しだろう。わたしはそう思っている。白いジグソーパズルに別の絵を印刷したみたいな印象。絵は違うけど、ピース自体は同じ。
 そして、『桜華に舞え』は『JIN-仁-』ほど予算がなかったのか、同じことをやったら画面が寂しくなっちゃった感じ。『エル・アルコン-鷹-』の焼き直しで作られた『TRAFALGAR』が、予算が雲泥の差で残念になっちゃったように。(『TRAFALGAR』は軍服新調したらセットにかけるお金がなくなったんだろうなー、と)

 救いは、『桜華に舞え』が『JIN-仁-』の上位互換であること。
 元は同じであっても、『桜華に舞え』の方がまともな作りになっている。『JIN-仁-』での失敗を踏まえて、それよりは良いモノを作れたんだろうなと。
 ……というか、原作アリの『JIN-仁-』より、オリジナルの『桜華』の方が、サイトーくんのリビドーに合っているから、作りやすかったのだと思う。

 サイトーくんのリビドー。萌えシチュ。
 男ふたりの愛憎。クライマックスはふたりの決闘。死にEND。破滅萌え。
 主人公はチームのリーダー。義賊だと最高。男には「義」がなくちゃね! 権力者に逆らうのだ! そして、チームの仲間たちは戦って次々と息絶えていく。
 主人公を憎み、追い続ける妄執キャラ(顔に傷あり)。
 アニメ的「心の声」多用。
 ずばり、アニメ(もしくは実写映像)を使う。
 マザコン。実母にヨシヨシされる。
 ヒロインに求めるモノは母性。ヒロインにヨシヨシされる。

 ……てのを、高確率で満たしてるよね、『桜華』。てゆーか、初心に返ったかのように、萌えに忠実に作られてるよね。

 わたしはサイトーくんのリビドー作品好きだから、それは別にいいんだ。彼の恥ずかしいまでの赤裸々な欲望は、観ていて面白かった。
 多少ぶっ壊れていても、エンタメとして盛り上がれば良し。キャラ萌え、シチュ萌えは整合性はより優先してイイ。あくまでも、面白ければ。
 面白ければ正義。美しければ正義。

 ……なんだけど、『桜華』はわたし、面白さも美しさもいまいちだから、評価低い。

 幹となるストーリー自体は、いつものサイトーくんだから、それはいい。
 その幹を彩る枝葉が……タカラヅカ的じゃない。

 近代日本の戦争モノなんて、タカラヅカでは観たくないわー。
 美しくないんだもん。ファンタジーが少ないんだもん。
 しかも2番手格が西郷隆盛って、ヅカで取り上げるキャラじゃないでしょう。
 や、西郷隆盛でも徳川家康でも、なんでもタカラヅカ的にしちゃえばありよ、キラキラの美青年なら。
 『花のもとにて春』の武蔵坊弁慶@トドロキなんか、登場した最初の口上で「弁慶は中年の醜男だという説は忘れろ! この物語ではこの通りの美青年だ!」と観客に宣言して、「ああ、この作品ではこういう世界観なんだ」と納得させてくれたわ。
 タカラヅカを観に来た客は、「西郷隆盛がキラキラ美青年だなんて、さすがタカラヅカ」と思うだけのことよ。「タカラヅカってそういうもん」という認識が、一般人にも浸透しているのだから。

 で、台詞が方言重視で聞き取りにくいし。そんなリアルさは求めてない。
 『ベルサイユのばら』をフランス語で上演しないように、どこが舞台でも現代日本語・共通語で上演していいのよ。

 ファンタジーが足りない。
 ゆえに、好きじゃない。

 『Young Bloods!!』で太平洋戦争と東京裁判やったのと同種の自己中さを感じた。自分が好きだからやりました、この題材がヅカに合うかどうかは考えてません、的な。

 作品クオリティは『JIN-仁-』の方が遙かに低かったけれど、あっちはファンタジーがあったからまだマシだー。

 でもって『JIN-仁-』でも大嫌いだった「秘技オウム返し」がえんえんと、パワーアップして再現されて、かなり辟易したよ、『桜華に舞え』。

「日本が美しくあって欲しか」
「日本が」
  ~間、台詞ふたつ~
「おい達みたいなみたいなもんは足枷になる」
「足枷?」
「おい達侍は死して次の時代へのこやしになる」
「死して次の時代へ」
  ~間、台詞ふたつ~
「ボケ桜じゃあ」
「ボケ桜?」

 てな風に、オウム返しで会話が進む。
 わたしコレ、ほんとキライで。
 会話を進めるためのオウム返しはいいのよ。ふたりの人物が同等に会話しているなら。
 この「秘技オウム返し」は、喋らせたいのがひとりだけで、その「喋らせたい台詞」があまりに長いので、ひとり芝居じゃあるまいしキャラが正面向いてえんえん客席へ演説する場面にしたくないから、「合いの手係」を用意しただけ、という場合に使用する。
 よーするに、手抜き。
 
 『JIN-仁-』で主人公とヒロインの会話でやってたことを、そのまま今回も主人公とヒロインの会話でやるってのがもう、「焼き直しなのはわかったから、少しは取り繕ってくれ」と頭抱えたニャ……。
 台詞で主人公の考えだとか生き方を「解説」できるから、「ヒロインとのイイ場面」に使うんだろうけど、「ヒロインとのイイ場面」っていうのは「主人公の、今までのあらすじ」を解説することじゃないのになー。
 『JIN-仁-』にしろ『桜華に舞え』にしろ、恋愛部分が薄いのは、ラブシーンの有無ではなく、こういうところにあると思う。
 主人公とヒロインの場面で「恋愛」の発展がなく、「あらすじ解説」しかしない。サイトーくんが女性との恋愛に興味ないんだろうけどさー。手抜き反対ー。


 みっちゃんには合った作品で、みっちゃんがかっこよかったから、それだけで点数が底上げされてるけどさ。
 役が多くて組ファンなら楽しい、というのも『JIN-仁-』と同じで、そこはもちろん評価上がるけどさ。
 わたしは好きじゃないのだわ。

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