2014/06/04

宙組トップスター・凰稀 かなめ 退団会見のお知らせ


宙組トップスター・凰稀 かなめが、2015年2月15日の東京宝塚劇場公演『白夜の誓い ―グスタフIII世、誇り高き王の戦い―』『PHOENIX 宝塚!! ―蘇る愛―』の千秋楽をもって退団することとなり、2014年6月5日(木)に記者会見を行います。

なお、会見の模様は当ホームページでもお知らせ致します。

 タカラジェンヌはみないずれ、卒業していく。
 わかっているからこそ、わたしは極力そのことについては考えない。
 演目その他から予想することはあっても、発表があるまでは考えない。

 ただ……。
 舞台から感じてしまうことだけは、どうしようもない。

 『ベルサイユのばら―オスカル編―』の舞台を観ながら、唐突に思った。
 かなめくん、退団するのかな。

 「この表情、この仕草から、こう読み取れるのです!」というような、根拠だーの理屈だーののあることじゃない。
 まぁくんが全ツ主演でかなめくんがDSなんて、退団するから以外に理由が見当たらない……ということが知識としてあっても、観劇している間はそんなもんいちいち考えてない。忘れてる。現に初日に観たときは思わなかった。

 中日を過ぎての2度目の観劇、相手役は盟友ヲヅキ。
 そのときのことだ。
 ふと、思った。
 そういうことなのか、と。

 クライドを思い出す、かなしい姿。
 いちばん好きだった、いちばん魅力的だった、凰稀かなめ。
 それを思い出したときに、思ったんだ。もう決めているのかなと。


 今、思い出すのはアルセスト@かなめくんだ。
 ヘタレでダメダメの二枚目くん。くしゃくしゃの笑顔。
 大好きだった、『君を愛してる』。

 コメディのかなめくんが見たかったなあ。優男でお金持ちで、すべて持ち合わせてそうなのに、どこか残念感漂うダメンズで。
 作品最悪だったけど、『忘れ雪』のかなめくんは、いいかなめくんだったなとか。前半のチャラいとことか。ヲヅキさんの硬質なイヤラシサもハンパなかったなとか。
 なまじっか美形様だから、番手が上がってからは演出家が彼に夢を見すぎていて、自由な役が回ってこなかった気がする……。

 彼のオスカル様を見て大泣き出来て良かった。
 次の公演が、彼の魅力を、タカラヅカ力を、存分に発揮出来るモノになりますように。
 『一夢庵風流記 前田慶次』『My Dream TAKARAZUKA』稽古場映像を見ました。

 えー、とりあえず、『一夢庵風流記 前田慶次』の方。

 3番手が映ってない稽古場映像を、はじめて見た。

 スカステはとても番手・学年忠実というか、現実のポジションや扱いがどうであろうと、公に発表されている番手を遵守するところです。
 内容的にもどうでもいい、まっつがひとこと喋るところをわざわざ映した『愛と死のアラビア』のように、「他に見せ場らしいものはナニもない」状態でも、とりあえず、無理にでも、喋っているところを映す。仕方ない、番手・学年的に、どんだけ見せ場なくても映さなきゃなんないんだから、という義務感、しぶしぶ感、苦肉の策がまんま見える。
 あー、スカステの中の人、気を遣ってるなあ、苦労してるなあ、と察するのも楽しみ方のひとつっちゅーかね。

 そーゆースタンスの放送で、まっつがまったく映らない……あえてカットしているのは、なんなの。
 ネタバレを避けるなんて理由は、ありえない。数秒流すだけで作品が成立しないネタバレなんてあるわけない。作品よりも、スター重視がスカステの姿勢だから。
 ナニかのっぴきならない事情がない限り、ありえない。

 考えられるのは、ふつーになにか喋ってたり歌ってたりする場面を流すつもりで用意していたけれど、土壇場で本編からその場面がなくなったため、映像はお蔵入り、流すことが出来なくなった……てことかな?

 大野せんせが大作ミュージカルを書き上げてしまったため、95分のショート作品に収めなきゃならず、本編はカットの嵐。
 早々に配役と相関図が出たけれど、その相関図のまっつ絡みの部分がいつの間にかカット、なかったことにされているのがその一例。その後もいろいろ変更がありました。

 ……てなことかな、と、危惧します。

 頼むよ、大野先生。
 素顔で演技しているまっつを見られる貴重な機会が、1回失われたんだよ。プロダクション・ノートもないから、もうムラの稽古場まっつは一切見られないってコトだ。


 終わりがはじまるけれど、考えない。
 考えずにいる。
 芝居が、とてつもなく大野くんでした。

 『一夢庵風流記 前田慶次』『My Dream TAKARAZUKA』初日観劇。

 芝居、『一夢庵風流記 前田慶次』はマンガやゲーム、ドラマなど、いろんなジャンルでも有名人の、前田慶次を主人公とした物語。
 原作は、その前田慶次を有名にした隆慶一郎作『一夢庵風流記』。
 ヲタクの大野タクジィ演出の舞台だから、原作を読んでおくにこしたことはない、と思ったので、前もって読んでみた。
 でも。

 『一夢庵風流記』のミュージカル化、というより、『一夢庵風流記』の二次創作だわ、これ。

 キャラと基本設定だけ借りた、大野くんオリジナル(笑)。

 ガチな原作至上主義な人が観たらショック受けるレベル。『銀英伝』で言うなら、「ちょ……っ、キルヒアイスが男装の女の子になってるよ!!」的な。
 原作をマンガ化した『花の慶次』もかなり大胆にアレンジしてあったから、二次創作上等!なスタンスの原作なんだろう。

 原作まんまじゃなくして、ナニをしているか。

 キャラクタ増量。

 盛ってます。とにかく、盛ってます。
 あっちこっちでなにかしらあって、大変です。

 大野せんせの、もっとも大野せんせらしいと思うところ。

 密度、濃ゆっ。

 さすがの設定厨、モブのみなさんまで設定背負って登場しているので、すげーうるさいです。ごちゃごちゃしてます。どこを切っても濃密です。
 だから、リピート前提の組ファンには、楽しいと思われる。

 反対に、初見かつ二度と観ない人には、どうなんだろう……?
 『エドワード8世』のときも思ったんだけどね……。

 幼なじみの引き裂かれた恋、天下を揺るがす陰謀……は、ありがちネタゆえ軸にするのはいいけれど、聚楽第のあたりはがんばって描いてるわりに効果薄い気がする。原作やマンガ・アニメは「なにがどうして慶次がこんなにすごい!!」と長々解説してるんだもん。それナシで、なにがどうして慶次がすごいのか、伝わってるのかなあ?

 キャラ立てのせいもあるんだろうけど、『若き日の唄は忘れじ』全ツ版再びな感じ。
 まっつとともみん、まんまじゃん……(笑)。大野くんってアテ書きするのはいいけど、イメージ固定過ぎ~~。

 なんにせよ感心したのは、アニメーションを使っても、サイトーとはまったくチガウことと、馬を使っても、植爺とはまったくチガウということ(笑)。
 松風@馬は、この作品のアイドルですな。てゆーか劇団、なんで松風ストラップとかマスコットとか売らないの? 芝居観たあとは客が勢いで買っちゃうと思うよ?(笑)

 えりたんはとてもえりたんで、慶次は彼の得意分野。
 友情あり、笑いあり、恋愛+ガチなラブシーンありと、盛りだくさん。

 桜のセットが美しい。
 日本物っていいなあ。

 雪丸@まっつは絶対出番削られてる(笑)。前半、違和感のあるところで説明的に名前が出て、ああきっと本当ならなにかしら出番があって、この台詞につながったんだなあと、遠い目になっちゃったよ。
 それでも後半のたたみ掛けはすげー愉快で、彼の悪役ぶりとエロっぷりを堪能できる。
 タクジィ、まっつというと女を利用するために抱く悪い男認定なの……?(笑)

 いちいち「まず声から登場」したり、雷鳴轟いたり、高笑いしたり、面白すぎる。

 で、ストーリーのめんどくさいところ全部、雪丸という都合のいいキャラクタを作ってまるっと押しつけてる気がしないでもない……このへん、全ツ版の武部と一緒。
 まつださんはいい仕事してる……モブにまざらないインパクトのある人だから、「ストーリーにいまいちついていけないんだけど、たぶんみんなあの人が悪いのね。策略なのね」という、観客の意識を安くまとめる力がある。
 全ツもさ、「それで父の殺された陰謀ってなんだったっけ? よくわかんないけど、みんな武部が糸を引いてたのよね?」で誤魔化しちゃったのと、かぶるかぶる(笑)。
 大野くん、まっつ使いがうまいなあ。←誉めてる

 この作品が面白いのかどうか、よくわかんない。
 大野作品らしくごちゃごちゃし過ぎていて。
 ただ、リピート前提の組ファンは、楽しめるはず。

 個人的に、ラストシーンが全員集合であることがいちばん、感動した。

 卒業するトップスターが最後、銀橋に出るのはお約束。
 そのとき、本舞台で組子たちがトップスターを見送るのも、お約束。
 その「見送る組子たち」が、限定メンバーではなく、全員だってことが、ありがたい。や、舞台に乗り切れてない子もいるかもしんないけど、プログラムには「ほか全員」って書いてあるから。

 贔屓が悪役チームだとわかったときに、実は肩を落としたもの。ああこれで、ラストシーンのトップスター見送りには出られないんだ、って。
 その昔、悪役チームだったがゆえに、『アデュー・マルセイユ』にてオサ様を見送れなかったのよ。ラストの感動シーンに参加出来なかったの。

 でも今回、悪役なのに、死んじゃうのに、ちゃっかりラヴラヴしながら登場しちゃうんだもん!!
 泣いたわ。

 あのラストシーンだけで、全部全部昇華される。


 『My Dream TAKARAZUKA』は、今のところドン引きしているので、評価対象外(笑)。

 なんつーか、オサ様のサヨナラショーを思い出した。
 思い出のタカラヅカ曲で出来上がったショーなのに、突然毛色の変わった、「え、なにこれ?」というよくわかんない曲が最後で、ぽかーんになった。
 なんでもおえらいさんがわざわざ、オサ様の卒業のために書き下ろした新曲なんだって?
 外部の人の、身もフタもない「わたしが想像するトップスターの心情♪」てな、日記帳みたいな歌……なんでこんなことに……ふつーのヅカ曲でいいのに……。

 と、考え、あ、どっちも演出家、中村Bだ。と思い至る。

 愛情があふれてるのも、やる気まんまんなのもわかるけど、ありがたいけど。

 中村B、サヨナラ公演、向いてないよ……。


 リピートすれば、慣れるかな。
 サヨナラショーは慣れる暇がなかったからな。


 結論。
 大野タクジィも中村Bも、とっても通常営業。
 わたしの立ち位置は不問でお願いします。
 『My Dream TAKARAZUKA』を観て、中村B先生へ、勝手に話しかける。一観客ってのはとってもワガママなモノなのさ。なにしろナニサマオレ様お客様だからさ。


 なあ、中村B。
 今、オレからキミへ伝えたいことは、ひとつだ。

 自分に、もっと自信を持て。

 そりゃあ、オレだっていつも、勝手なことばっかぬかしてるさ。ちょっと不満があればぶーぶーぶーぶー、うるさいったらないよ。
 でもさ、キミの仕事を認めてないから言うんじゃないんだぜ?
 なんていうかさ、長年のつきあいから来る甘えみたいなもんだよ。オレとキミのつきあいだから、ぶっちゃけちゃってもいいよな、的な。
 長いつきあいじゃん? バウから観てるさ、『大上海』『香港夜想曲』……思わず口ぽかーんだったな。その後ショー作家に転身して、英断だと思ったもんさ。
 先日、懐かしの『ラヴィール』スカステで見たよ。当時のオレはしいちゃんロケットボーイにうはうはだったけど、今はまっつ探しに血眼さ。研1まっつがかわいかったな……ロケットでは娘役の間にまぜられてさ……って、そういうことじゃなくて!
 話を戻す……えっと、とにかく昔から観てきて、そうやって、もうネタだよな?てないじり方してきたさ。「上から順番、1・2・3」「マスター、いつものヤツを頼むぜ」……そのワンパ……いやその、ブレない作品作りをな。

 そうやってキミは、長い間タカラヅカの座付き演出家としてやってきたわけだ。キミの売りは、タカラヅカらしいオーソドックスさだ。目新しさはなくても、裏切らない「タカラヅカを観たわー」感があること。
 その堅実な作風は、十分誇っていいはずなんだ。
 タカラヅカを愛し、生徒を愛し、タカラヅカのレビューを作り続けてきたんだろう? 初見作品でも次の展開が読めるくらい、同じようなモノばかり作り続けているのは、それがタカラヅカの王道をバカ正直になぞっているためだ。
 そうやって積み重ねてきた、タカラヅカの座付き演出家・中村Bとしてのスキルが、よその畑の人間よりも、劣るはずがないんだ。

 「タカラヅカ」という特別な場所で。
 タカラジェンヌという特別な舞台人を魅力的に見せる仕事をしてきた。
 そのことに、自信を持って欲しい。

 少なくとも中村Bは、「よその世界の有名人」が「よくわかっていないまま依頼されて作った曲」よりも、素晴らしい曲を作れる。
 それだけの年月を、思いを、経験を積み重ねてきたはずだ。そうだろう?
 当然じゃないか。

 だって、宝塚歌劇団100周年なんだぜ?

 100年の歴史があるんだ。それだけ特別なところなんだ。代わりがきくなら、こんなに続いてやしないさ。よその権威者がちょいと首を突っ込んでどうにかなる、そんな浅いモノじゃないんだ。
 中村B作詞・西村耕次作曲の「My Dream TAKARAZUKA」の方が、あの作文か日記みたいな曲より、遙かに素晴らしいんだよ!
 あのよその人の曲だって、ここがタカラヅカじゃなければ、いい曲なのかもしれないさ。名を成した人には、相応の力がある。でも、あの人たちの曲が活きるのは「ここ」ではなかったってことだ。
 ここはタカラヅカだ。タカラヅカなんだから、タカラヅカで勝負しようよ。してくれよ。

 黒燕尾群舞からデュエットダンス、よその有名人の名前を押し出した場面より、ずっとずっと美しく、泣ける選曲、演出じゃないか。
 トップスターへの、退団者への餞というならば、よその権威者の名前に頼るのではなく、中村B渾身のタカラヅカ力を駆使して、「これがタカラヅカだ!!」という場面を、曲を、書き下ろして欲しかったよ。

 なあ、中村B。
 もっと自分に、そして、「タカラヅカ」に、自信を持ってくれ。
 キミなら出来るさ。
 まつださんのお茶会で聞いたんですが、『一夢庵風流記 前田慶次』のラストシーン、ただ闇雲に「登場人物全員出てきましたー」じゃないそうっすよ。

 舞台上に段がいくつかあるわけなんですが、その上にいる人たちは全員、死んでいるそうなんです。
 移動する場合も、死者は必ず台の上を通る。
 平地にだけいる人は、生きている。
 一見チームごとに動いているように見えるけど、秀吉の妻ねね@カレンは、生者ゆえに秀吉@はっちさんたちとは一緒におらず、官兵衛@きんぐに手を引かれて途中から別行動。

 なんつーかもお、大野くん……。

 ちょっと、背筋寒くなった。

 雪丸@まっつと一緒にいる加奈@せしるは、もう死んでるんだって。
 まつ@あゆっちに「自害は許しません」と言われたけれど、やっぱり自害してるんだって。
 ……そうだよね。あの助右衛門@ちぎの妹が、主を裏切ってのうのうと生き長らえるわけないよね。主自身に許されてとしても、自分を許さないよね。

 そして。

 雪丸の中の人曰く、「意外に本気で好きだったらしい」そうですよ。雪丸は、加奈のことを。

 ただ騙して利用しただけじゃなくて。
 そこに、愛があったのだと。

 ……まあねえ、考えてみりゃ、愛がある方が最悪よね。

 自分を騙すために、利用するために近づいて来た男に、真実の愛があったりしたら。
 愛0パーセント、全部嘘と打算だけ! よりも、そのどこかにホンモノの愛がある方が……騙されるよね?
 憎みきれないし、あきらめきれないよね?
 たちが悪いよね。

 加奈は雪丸に抱かれ、そのまま主まつを裏切った。だけど、ぎりぎりのところで雪丸を裏切り、助右衛門に報せに行った。
 前に雪丸と関係したときは、彼の命乞いをして逃がした。でも今回ばかりは、雪丸も無事ではすまないだろう。それがわかっていて、欲を捨て、義を選んだ。

 まつも慶次も無事、そして雪丸は死んだ。……そこまで確認した上で、覚悟の自害を遂げたんだろうと思う。
 自分がしでかしたことの結末を見届けず、逃げるように死ぬことは、しないと思うから。
 すべて片が付いたあと、主まつの沙汰を待って、彼女が許そうとしてくれていることまで受け止め、それでも自害したのだと、思う。
 けじめをつけるために。

 そんな彼女だから、ラストシーンで雪丸と共に在るんだろう。
 雪丸は穏やかな表情で、加奈をエスコートする。
 愛が見える。

 とってつけた「ラストシーンだから、登場人物全員集合だから」というだけで、雪丸と加奈がいちゃいちゃしているのではなくて。

 このふたりに、なまじ愛があったから、ややこしいことになったんじゃないの?

 と、思うんだ。

 てことで、次項で雪丸さんについて、考える。
 『一夢庵風流記 前田慶次』のザ・悪役! 雷鳴と共に登場する、タランテラな彼。
 雪丸@まっつって、よくわかんない。
 彼はいったいナニがしたかったの?

 忍びの家に生まれた彼は、表舞台で輝くことは出来ない。でもそんななんじゃ嫌だ! 陽のあたる世界で成功してやる! と、野心を抱いた。
 てな意味のことを、作中で言っているので、それが理由なんだろうけどさ。
 その「目的」に対する「手段」の選び方が……よくわかんない。

 せっかく前田利家@にわにわの小姓だったのに、前田家の家老の奥村家乗っ取りを画策。失敗して放逐。
 で、次は前田慶次@えりたんを焚き付けて前田家のお家騒動を狙う。
 えーと。
 どんだけ、利家スルー状態?

 雪丸って一貫して前田家に固執……というか、前田家周辺をうろちょろしている。
 だけど、前田利家には直接当たらない。

 最終目標は利家打破。
 そのために、奥村家(助右衛門@ちぎ、加奈@せしこ)を狙い、慶次を狙う。
 えーと。

 利家と、助右衛門と、慶次。
 どう考えても、利家がいちばん落としやすいだろう。

 この作品では、利家は愛嬌のあるまぬけおじさんとして描かれている。
 助右衛門は誠実な秀才、慶次は豪快な天才だ。
 この3人を並べて何故、利家を避けて他のふたりへ行くかな。
 傀儡として操るにしろ、出自の低さを超えて取り立てさせるにしろ、手中に収める相手は御しやすい者を選ぶべきだ。
 どう考えても、手のひらで転がしやすそうなのは利家だよね。加奈を手に入れ助右衛門を殺して奥村家の家督を得たとしても、結局は利家が上にいるわけだし。また、慶次を御せるとも思えないし。
 バカですか?

 …………雪丸様が実はアホなんです、という説は却下だ。うすうすそんな気はしているっていうか最初からそんなニオイがぷんぷんしているが、わたしは認めない(笑)。
 雪丸様はアホではない、それを前提にして考える!

 た、たぶん、利家には近づきたくなかったんだよ。
 もともと利家に飼われていた忍びで、利家に見初められて小姓になった。そこにはなんかしらこだわりや鬱積があって、雪丸様は利家には近寄りたくなかったんだ。
 うん、きっとそーだ。
 大野くんの大好きな『バナナフィッシュ』だよ、アッシュとゴルツィネだよ!(笑)

 それでまあともかく、前田家の周囲をうろちょろすることが、雪丸様の第一目標。
 まずは前田家乗っ取っちゃうもんね……というミッションにおいて、彼が選んだ手段は。

 加奈の誘惑。

 数年前、奥村家乗っ取りをたくらんだときも。今回、前田家お家騒動を画策したときも。
 やることは、一緒。

 ……バカですか?

 数年前、まだ雪丸の正体を知らない加奈が、ずっぽり無邪気に掘れきっていたときですら、失敗したのに。
 加奈の裏切りによって破滅したくせに。
 今回もまた加奈に迫って……裏切られて、自滅。
 バカなの? バカよね?

 同じ方法で、同じ失敗して、最初のときより悪い結果になる……って、霊長類のすることですか! 学習しようよ!!

 だ、だからその、雪丸はアホの子ではないという前提でね……。

 加奈は助右衛門に知らせに行ったのだという。そのために助右衛門が兵を動かし陰謀は終了。
 ……逃がすなよ。
 加奈を自由にさせてたんかい。もしくは簡単に逃げ出せるような扱いをしていた? なにその詰めの甘さ。

 雪丸のたくらみは、関白暗殺。その場へまつを人質に慶次を呼び寄せ、仲間に引き入れようとする。
 えーと、これもよくわかんない。根回ししとこうよ! ナニこんな土壇場、あとのないめんどくさいところではじめて口説いて、断られてんのよ。
 なんつー計画性のない……。

 慶次に断られたあとがもう悲惨の一途よね。
 捨丸@みゆちゃん相手に斬り合って、勝てないの。彼女を斬ったはいいが、「刀を離せ!」……少女に腕力で負けるとか。
 いくら肉に刺さってるからとはいえ、今まで刺した相手から刀を抜くことぐらい当たり前にしてきただろうに、ここで抜けないってはやはり捨丸が離さなかったから……いくら文字通り死にものぐるいだったからって、10代の女の子だよ? 負けるなよ、大の男が……。

 んで、圧倒的優位、だと思っていたときはあの通り上から目線ばしばしだったのに。
 「えっ、嘘、やばくね?!」と思うなり、パニックになる。
 うろたえまくり、情けない声出して、部下たちに数頼みで片付けろと訴える。
 え、ナニこの小悪党。

 そして、もっとも雪丸様がアホに見えるのは、その最期。
 家康@ヒロさんの顔を見るなり、「家康様、家康様、いかがいたせば……?!」子犬のようにうろたえて、飼い主にすがりつく。
 や、それいちばんあかんでしょ、黒幕の名前連呼して「悪いのはこの人だよ!!」って宣伝するって……どんだけ。
 で、んなアホなことしたら口封じられるのわかりきってるのに、自分から刀を渡して、案の定斬り捨てられるし。
 バカ?
 ここであくまでも知らん振りを通し、黒幕を守ればあんな殺され方はしなかったのに。

 雪丸様アホ説を否定したいのに、やることなすことアホアホ過ぎてつらい(笑)。
 ストーリーの粗を全部、押しつけられてるせいなんだよね。
「Q.なんで雪丸は無意味なことをするの? 雪丸にとっても得るものはないのに、雪丸さえ余計なことをしなければなんの事件も起こってないのに?」→「A.雪丸がアホだからです」(本音・だって事件起こさないと物語にならないじゃん!」
「Q.なんで雪丸は前もって計算して行動しないの? 国家存亡を行き当たりばったりでっておかしすぎない?」→「A.雪丸がアホだからです」(本音・だってそうしないと盛り上がらないし、収拾しないじゃん!)

 こんだけ無理矢理なことを背負わされてるのに、とりあえず初見ではアホだと思わせず、「なんかすごくカッコイイ悪役だ」と思わせる。まつださんはすごいです。
 まつださんの存在感だとか有無を言わせない説得力だとか、黒さやエロさあってこそ、この無茶振り役なんだと思います。ヘタな人に任せたら、作品が転覆する。

 にしても、雪丸様がアホアホ過ぎて……。

 だがしかし。
 わたしは、あくまでも、雪丸アホアホ説を、否定する!

 ということで、次項で独断の雪丸様論を語る!(笑)
 雪丸様は言います。
「これからなにをいたすかは、この傷が教えてくれよう……」

 教えてください。
 ナニをどうするんですか?

 『一夢庵風流記 前田慶次』の雪丸様は謎の人。ナニがしたいのかわかんない。
 ということで、前振り長かったけど、ついに本編です、雪丸論(笑)。

 雪丸様のわけわかんなさを、いちばん表している台詞が冒頭に挙げたコレだと思う。

 一見カッコイイ台詞だけど、ふつーに考えてわけわかんないっす。
 雪丸様の顔の傷は、加奈@せしこにつけられたもの。
 出世のために騙していたことがわかり、斬りつけられたそうな。女騙して刃傷沙汰っすよ。
 えーっとそれ相当カッコ悪いんですがそんな傷がナニを教えるっていうんですか雪丸様。

 一見カッコよくて、実はかなりカッコ悪い、というのが雪丸様のデフォ、彼に注目すればするほど「雪丸ってアホの子だよね?」と思えてくるけど、あえてわたしは、それを全否定する。
 その上で、雪丸様はアホアホではない、雪丸様はカッコイイ!と語る!

 そうそして、このもっともわけわからん台詞、「これからなにをいたすかは、この傷が教えてくれよう」こそに真実があるのだと信じて話を展開させる。

 さあて、「この傷」とはなんぞや。
 前述の通り、加奈につけられた傷だ。
 加奈は元カノ。男女関係にあった相手。そうやって斬りつけておきながら、加奈は雪丸の助命を嘆願、雪丸は殺されることなく、追放になっただけだった。

 そこからわかることは。

 雪丸の顔の傷は「愛の証」なのだ。

 許せないから傷つけた。だけど殺すことも出来ない。許せない、でも死なないで。
 そこにあるのは、愛。
 むしろ、愛しているからこそ、許せなかった。

 そして。
 次に考えるのは、「何故、同じことをするのか」ですわ。

 雪丸サクセス物語第一弾「色仕掛けで奥村家乗っ取り♪」、第二弾「家康様に取り入っちゃうぞ♪」、このふたつの野望メラメラ行動において。
 雪丸が取った行動は、同じ。

 すなわち、「加奈に色仕掛け」。

 ちょっと待って雪丸様、あなたソレしかないの?! なんでなにか事をなそうとすると、行動しようとすると、加奈を口説くのよ?!

 それも、2回目はさらにハードル上がってるのよね。
 1回目のときは、加奈もナニも知らない。自分に近づいてきた美貌のお小姓が野心ゆえに自分を騙すつもりだなんて、夢にも思ってない。
 んな真っ白状態のときですら、加奈を手中に収めることは出来なかったんだよ、「あなたのためなら兄も殺します、主も裏切ります(はぁと)」ってくらい、加奈を惚れさせることは出来なかった。
 加奈は義と欲で義を選んだ。雪丸を糺弾する側に立った。

 なのに、2回目のチャレンジって……。
 加奈はもう、雪丸が悪人だと知っている。自分に近づくときは下心あり、なにかよからぬことをたくらみ、利用するためだと知っている。
 ……こんな状態でそれでも、わざわざ加奈を口説いてまつ@あゆっちを誘拐する。それ、すげえリスキーじゃ……?

 案の定、加奈は土壇場で雪丸を裏切り、雪丸は今度こそ命を落とすことになった。

 この、加奈に対する一連の行動でわかること。

 雪丸と加奈は、両思いだった。

 口ではなんと言っていたとしても、加奈が本心では雪丸を愛し続けていた……ということは、最初の事件で雪丸の助命を願い出たことでもわかる。
 だから雪丸は、そんな加奈の恋情につけ込んで、今回も利用しようとした……というだけなら、加奈はは早々に切り捨てられていたはずだ。
 まつを誘拐した段階で、用済みだから。
 以前裏切ったことのある女だ。用が済めば殺すべき。
 なのに雪丸は、そうしなかった。

 加奈が雪丸を殺せなかったように、雪丸も加奈を殺すつもりはなかったんだろう。

 以前失敗した同じ方法を、ハードル上がってるのにそれでもまた繰り返したのは、勝算があったから。
 すなわち、ふたりがマジに愛し合っていたこと。
 加奈は否定するけれど、雪丸は鼻で笑う。騙されていた、なんて逃げ口上。愛の存在は、当人同士がいちばん理解していた。
 1回目のときは、最初から騙していた。その偽りが許せなくて加奈は雪丸を拒絶した。
 じゃあ今回、最初から真実を告げれば? 悪も欲もすべて差し出し、そのうえで愛を求めれば、どうなる?
 雪丸は加奈に要求した。家も主も、すべてを捨てろと。ただのひとりの女になり、俺と共に生きろと。

 ということで、雪丸様が、愛に一途であることが導き出される。

 同じ女に二度トライ! ですからねー。拒絶されたら即落命、てなハードル高い女なのにねー。

 で、雪丸様が愛に一途な男だとすると、他のことにも説明が付くのです。
 慶次@えりたん、家康@ヒロさん、又左衛門@がおり……みんな。何故雪丸が、あんな行動を取ったのか。


 次項へ続く!!


 『一夢庵風流記 前田慶次』雪丸様語り、後編!

「これからなにをいたすかは、この傷が教えてくれよう……」
 ってナニ?
 この傷は「愛の証」と定義する。
 それを元に雪丸様の行動を読み解いてゆく。
 

 雪丸様は、慶次@えりたんを仲間に誘うんだけど、これがすげー雑な誘い方で。
 まつ@あゆっちを誘拐して、「これから関白殺すよ!」という大作戦の舞台に慶次を連れてきて、「さあ、これから一緒に関白殺して、新しい世界で羽ばたこう!」と口説く。
 ……ひどくね?
 関白暗殺するもっとはるか前に、慶次は味方にしておくべきでしょ? んな土壇場で大きな作戦打ち明けるってどうよ。

 案の定、慶次にはあっさり断られる。

 なんで前もって根回し出来なかったのか。
 前田家の跡取りであったはずの慶次が、利家@にわにわに権利を奪われ半端な身の上になっている。利家に取って代わりたいと思っているはず……と、信じていたから?
 それならなにも、まつを絡めて語る必要はない。
 わざわざ「利家の妻と不倫してるくらいだ、利家は敵だよな? 利家やっちゃったら、家も女もお前のモノだぞ」と言うのは。

 「惚れた女を取り返す」ということが、人生を懸ける理由になると、思っているからだ。

 雪丸自身が。

 まつと不倫している慶次は、まつを正妻にするために前田家奪取するに違いない。
 そう考えている雪丸こそが、そういう価値観なんだ。
 愛する女を手にするために、戦も起こす。そーゆー考え方。そんな自分のものさしで計っちゃったから、今回の杜撰な作戦になった。

 雪丸の中では、「慶次はまつとの真実の愛を貫くために、実の叔父と闘う」と、決まっていたんだ。
 武力と後ろ盾を約束すれば、愛のために立ち上がるはずだと。

 なんなの、このロマンチスト。

 恥ずかしいわ、雪丸様……。

 慶次に拒絶されてキレるのも、自分が思う「愛のカタチ」以外を突きつけられたから。

 また、家康@ヒロさんの前で、しっぽ垂れたわんこみたいになってすがっていったのも、愛ゆえに。
 雪丸様は、家康様が好きだったんだと思うよ。
 そっちの意味(笑)かどうかは置いておいて。
 ただほんとに、シンプルに、好きだったんだろうなあ。信じてたんだろうなあ。

 愛ゆえに、生きる人だから。
 愛を信じている人だから。

 弟の主馬@翔くんも、突然戻って来た雪丸を当たり前に受け入れているし、それが許されるくらい、この兄弟にもふつーに愛情関係はあったんでしょう。

 庄司又左衛門@がおりと庄司甚内@かなとを口説いたのも、言葉通り。「哀れと思ったから」……雪丸様があの悪人面で言うからわかりにくいけど(笑)、ほんとに、犬死にさせたくなかったから、声を掛けたんだよ。
 「たかが傀儡」といのうは本当だもん。万の兵を挙げるってときに、わずかな傀儡衆をわざわざ口説いて味方にする必要、ないじゃん。
 助けたかったから、仲間に引き入れた。

 すべては、愛ゆえに。

 そう説明出来る。

 てことで、最初の台詞に戻る。

「これからなにをいたすかは、この傷が教えてくれよう……」

 加奈がつけた、雪丸の傷。
 雪丸は、加奈と相愛だと知っている。
 だから前田慶次に近づき、彼に前田家を取らせようと考えたとき、「よし、加奈に手伝わせよう」と思った。
 もしも加奈とのこの「愛の証」がなく、彼女の心を疑うなり、雪丸の気持ちが冷めるなり、していたら。

 加奈にも前田家にも近寄らなかったかも?
 慶次がまつのためにお家騒動起こす(=愛がすべて!)とも考えなかったろう。
 家康の手下として大名たちの隙をうかがうことはしていたとしても……愛を基点とした考え方はしなかった。

 雪丸の顔にきざまれた、愛の証。
 それゆえに雪丸は、人々の愛を信じて行動する。

 家康の愛を信じて彼の手先となり、慶次とまつの愛を信じ、ふたりがそれを貫くために利家を討つと信じ、加奈の愛を信じ、自分のためにすべてを捨てると信じた。利家から足蹴にされた(=愛されなかった)主馬とその部下たちが利家を捨てると信じた。

 誰よりもピュアに、「愛」を信じた男、雪丸。

 そして雪丸は、「愛」に裏切られる。
 加奈に、そして家康に。
 慶次とまつに。

 るーるーるー。
 なんて悲しいの……。


 そんな悲惨な最期を迎えた雪丸だけど。

 最後の場面で、彼は穏やかに微笑んでいる。

 加奈と寄り添って。
 加奈をエスコートして、手を握って歩いて。

 表面的なあれこれではなく、彼の真実……愛に滅んだ男であるという事実が、ラストのこの姿に結びついたんだ。

 たぶんこれが、彼の本来の姿。
 慶次と関わった者たちは、飾らないありのままの姿で最後の場面に現れる。
 だから雪丸と加奈はラヴラヴなカップルとして登場した。

 じーん……。
 いい話だわ……大野くん……。


 という、独断と偏見による雪丸論でしたっ。
 これが真実だとはまったく思ってないが(笑)、可能性のひとつとしてアリでしょ?
 花組中日公演『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』初日観劇。

 ……最近とみに日付の感覚がなくなってて、「みりおくんのプレお披露目公演」はまだまだ先だと思い込んでました。漠然と、「まず雪組公演があって、その途中から花組公演がはじまる」というおぼえ方。間違ってない。
 んで、はじまった雪組公演に走り回って。
 ふとスケジュール帳を見ると、6月12日がぽっかり空いている。休みを取ってある、のに、チケットはナニも持ってない。なんでこの日、まるっと空けてあるんだろう? でもまあ、たぶん雪組を観るつもりだったんだろう、と「雪」シールを貼り、「当日券」と書き込む。
 その翌日だかなんだかに、友人がタカラヅカニュースについてつぶやいているのを読んだ。花組『ベルばら』のことを。
 …………?
 『ベルばら』……?

 は……っ!!

 あわてて、確認する。
 6月12日って! 花組初日じゃん!!

 いやあ……びびりました……。

 あんだけ観に行く気満々で、ひと月も前にスケジュール空けてたくせに。
 のーみそもハートも許容量オーバーで、ぽろっと抜け落ちてたみたい。
 や、抜けていたのは、日付感覚。
 みりおくんのお披露目と、だいもんアンドレのことはずっとアタマにあった。
 でも「蘭寿さんが卒業したの、ついこの間だし」という気持ちがずっとあったしなー。
 そ、そうか、もうらんとむさんラストディからひと月経つのか。

 んで、あわててチケット探して。
 日付感覚ほんとにおかしくなっていて、「え? 今日何日だっけ? 今からチケットって無理過ぎね? あれ? 明日が12日だっけ?」と、アタマを抱えたのが9日。……9日の翌日は12日じゃないっすよ……。
 仕事とムラ通いとで日常もなにもあったもんじゃなく、わけわかんなくなってる……。

 それでもなんとか、チケットと近鉄の優待券を押さえて。
 スケジュール帳の「雪」シールをはがして「当日券」の文字を消し、「花」シールを貼りました。


 ともかく、GOGO名古屋!
 行き慣れた旅程、片道4時間!

 みりおくん、トップお披露目おめでとう。

 なんで『ベルばら』、なんでみりおくんでフェルゼン。その思いはあったけれど。
 実際に観てみて、目からウロコが落ちた。

 中日版『フェルゼンとマリー・アントワネット編』ときたら、雪組『フェルゼン編』の焼き直しだった。
 目が点。
 2006年の星組『フェルゼンとマリー・アントワネット編』を焼き直すんだと思っていたよ……。雪組『フェルゼン編』は大駄作、星組『フェルゼンとマリー・アントワネット編』はまだずーっとマシな作りだった。タイトルが『フェルゼンとマリー・アントワネット編』なわけだし、ずっとマシだった星組版をやるんだと思った。何故、わざわざ超駄作の『フェルゼン編』をベースにするんだ……。

 うん、なんとなく、想像はしているんだ。
 植爺はもう、昔の作品はおぼえていないんじゃないかって。
 タイトルが『**編』となっていたって、何年も前の『**編』のことは、おぼえてないし、また資料探して記憶の掘り起こしをするのはめんどくさい。
 それよりも、直前に上演した『※※編』ならまだおぼえてるし、いちいち勉強しなくて済む。だから『**編』であっても、『※※編』を使う。
 宙組『オスカル編』だって、2006年の雪組『オスカル編』は使わず、直前の月組『オスカルとアンドレ編』や数年前の外伝ベースだよね。
 だから今回も、直前の『フェルゼン編』。

 最悪の『フェルゼン編』ベースで、他にもいろいろいろいろ問題山積みで。
 うわ、みりおくん、大変……、と嘆息した。

 それでも。

 みりおくんの、「主役力」に感服した。

 えーらいこっちゃ!になっているのに、その真ん中でみりおくんが、舞台を牽引する。

 なまじわたしは、『フェルゼン編』をアホほど観ていて。脳裏にいろいろ焼き付いているわけで。
 その記憶と二重写しになる「フェルゼン」を、考える。

 えりたんのフェルゼンは、あまりにもえりたんだった。
 タカラヅカの「フェルゼン」という人は、明らかにおかしい。最悪な人間だ。
 だがその最悪さを煙に巻く必要がある。観客に最悪だと気づかせてはならない、観客をムカつかせてはならない、とても難解なミッションがある。
 えりたんは、ハッタリと本人の持つ飄々としたキャラクタゆえに、見事に煙に巻いた。よくわかんないけどアリでしょこの人! と、思わせた。
 いわば、変化球だ。
 どどーん! とか、ばばーん!! とか、少年マンガの描き文字みたいな効果音の似合う、素敵キャラ。破天荒な現実味のなさで、煙に巻く。

 それに比べて。

 みりおフェルゼンは、正統派ヒーローだった。

 正しく、「真ん中」。
 貴公子。王子様。ヒーロー。
 白馬に乗って囚われの姫君を助けに来る系。

 うっわー……。

 口ぽかーん状態っす。
 これが、「フェルゼン」……。
 正しき「真ん中力」で押し切る姿。

 どんだけおかしな台詞を言わされていても、みりゼン様が言うと、「そうなんだ」と思えてしまう。
 有無を言わせぬ、説得力。
 だって彼はヒーロー、だって彼は主人公。世界は彼を中心に回っている。

 フェルゼンが抜き身の剣みたいに、間違った世界をまっすぐに貫き、よそ見をしている暇がない。
 エクスカリバーを抜いたアーサー王を見るような気持ちだ。
 彼の足元に跪き、正しき王を讃えたい。

 植爺による間違いまくった台詞や倫理観を、「この人変。あきらかに変だけど、ま、いっか」と思わせるのがえりたん。
 そして、「変なことを言ってる? ううん、この人は正しいことを言ってるんだわ!」と思わせるのがみりお。

 すげえ……。

 えりたんの、えりたんならではのファンタジックなフェルゼンもいいけれど、みりおくんのヒーローなフェルゼンもいいわ。

 みりおくんは、真ん中に立つために生まれてきた人だなあ。
 そのことを、心底実感した。

 駄作を力技で支える! みりおくんは、タカラヅカのトップスターとしての最初の仕事を見事にこなした!!
 花組中日『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』で、もっとも憤慨したこと。

 だいもんの、無駄遣い。

 植爺作品の主演コンビ以外の配役は、大人の事情が見えすぎて嫌なんだけど、今回はまた格段に酷い。

 駄作『フェルゼン編』を焼き直しているのに、そこから少ないアンドレの出番を削り、「『ベルサイユのばら』というタイトルにファンが期待する名場面」を削る……って、ありえない。
 アンドレは衣装1着っすか。私服場面なしだから。そしてオスカルは「フェルゼン愛してる」と言った次の場面で「この戦闘が終わったら、結婚式だ」とアンドレに言うわけですか。ひどすぎる。

 もったいないなあ。
 「できる」人なのに、使ってもらえない。まず舞台の上に出してもらえない。
 機会を与えられれば、いくらでも舞台を厚くすることが出来る役者なのに、名古屋くんだりまで行って、舞台にろくに上げてもらえないとか……もったいない。
 わたしがだいもんファンだからフィルターかかってるにしても、ただ一観客として、できる人の舞台を観たいよ。他の誰かを下げる意味ではなく、舞台なんて上限なくプラスできる場なのに、そのプラスの機会を演出家が閉ざすってのが、口惜しい。


 アンドレの扱いがおかしなことになっているけれど、それだけではなくいろいろと大人の事情満載で微妙な作りになっているんだな、今回。

 今回の『フェルゼンとアントワネット編』を作る上での要点は、

・蘭ちゃんの見せ場を作る。
・キキくんに、オスカルをやらせる。

 ということがまず念頭にあり、次に、

・トップスターみりおくんのお披露目である。
・専科生になるみつるへの配慮。
・かのちゃんの組替えお披露目。

 を考えた結果かなあと。

 まずなんといっても、タカラヅカの代表作『エリザベート』のタイトルロールを演じるためにあえて残った、すでにふたりのトップスターの相手役を務めた、特別クラスの娘役・蘭ちゃんのことを考えなくてはならない。だって、タカラヅカへの功労者だもん。
 植爺は格式とか権威とかを、とても大切に考える人だからな。
 そして、キキくんは、オスカルを演じさせなくてはならない人。カラダのサイズとか持ち味とか実力とかは関係ない。その昔、新公主演すらしてないカチャが、なにはさておきオスカルを演じなくてはならなかったように。

 これだけの事情でも、作品の場面チョイスが決まってくるよね。
 『フェルゼン編』ではまったく出番のなかったアントワネットの出番を作る。1幕ではボートでのラヴシーンに、ソロ歌。2幕では『フェルゼンとアントワネット編』で評判の良かった夫・子どもたちとの別れの場面を入れ、新曲を書き下ろす。
 舞台にただひとり残ってピンスポ浴びての新曲っすよ。
 これだけ尺を取るために、他の場面をカットしなければならない。

 3人目のトップスターと組む蘭ちゃんと、今回はじめてトップスターになるみりおくんでは、蘭ちゃんの方が格上認識なのかな、と思ったのは、蘭ちゃんに新曲があり、みりおくんになかったことによる。
 タカラヅカは男役至上主義だから、もちろんトップのみりおくんに配慮されているけれど、植爺の中ではまた違うのかも。えりたんは一応、新曲書き下ろしてもらってたものね。みりおくんは、新場面にあたるところで、すでに前の場面で歌った同じ曲をもう一度歌う。え、この歌さっきも聴きましたが? 新曲書き下ろしてあげないんだ……と、かえってびっくりした。

 フェルゼンとアントワネット中心に場面の取捨選択をした場合、オスカルとアンドレの出番はかなり限られてくる。
 フェルゼンにとって必要なのは、「オスカルが片想いしていること」「オスカルが革命に身を投じ、戦死すること」だけ。アンドレはぶっちゃけいなくてもいい。『オスカルとアンドレ編』にアントワネットが出てこないように。
 だから「オスカル」という役の醍醐味である「バスティーユ」をキキくんのために残し、あとは「必要な場面」だけにした。
 その「必要な場面」てのは、「物語に必要」なのではない。「植爺キャスティング」に必要、という意味だ。
 植爺にとっての「役者の格」は長い台詞と豪華衣装。ストーリー的に無意味でも害悪でも、役者のためだけにそれを用意する。
 主人公であるフェルゼンと会話する場面。そして、ロザリー@かのちゃんが登場する場面。
 植爺が「格のある役者に台詞を増やしたい」と思っている場面のみ、オスカルの場面は残された。
 =アンドレはカット。
 かのちゃんの出番と専科生みつるへの餞は、都合良く一場面でまとめあげる。無駄に長い台詞、無意味な会話がえんえん続く場面だけど、植爺の目的が「台詞を増やすこと」なんだから仕方ない。

 まあそんな事情かな-、と、勝手に考える。
 あくまでも勝手に、だ。

 このみょーな場面チョイスと、みょーな配慮。
 出番がほとんどないだいもんは、何故かパレードでは2番手として階段降りする。
 言動不一致が謎のド・ブロイ元帥@みつるは、いちおー見せ場アリ。そして、プログラムではだいもんより上に写真掲載。
 途中までは「2番手?」という扱いのキキくんは、衣装ランクを落とされている。スターブーツを履いてないオスカル様は、めずらしい。オスカルの白パンツにふつーのブーツって、なんか収まり悪いわー。「台詞の行数と豪華衣装」にこだわる植爺らしい……特別扱いの差し引きとして、衣装を控えめにしました、て(笑)。プログラムの位置も後ろだし。
 かのちゃんの相手役であるがゆえに、ベルナール@がりんの比重アップ! みりおくんが演じていたベルナール以上という(笑)。
 いろんなところでバランスを取って、「みんな同じ、みんなで手をつないでゴールイン!」的な気持ちなのかなと思う。
 でもはっきりいって、いらんわ、そんな気遣い。

 役者への配慮のため、ストーリーぶっ壊すのやめて欲しい。
 重要な役を重要な役者にやらせればすむことじゃん。
 役としては2番手だけど、この役者は本来2番手じゃないから、衣装ランク下げましたよ~~、ほら、2番手じゃないでしょ~~?
 この役者に『ベルばら』的に重要な役はさせたくないけど、立場的にある程度の扱いをしなくてはならないから、今までにない役を新たに作り、豪華衣装を着せて何行も喋らせました! ほーら、重要な役でしょ~~?
 とか、勘弁してくれ。
 ふつーに公演を、作品を観に行くモノには、そのややこしいこだわりがめんどくさい。

 そして、いろんな配慮のあおりをモロに喰らったのがだいもんかなあ。
 つまりそれって、いちばん配慮しなくて済む、と思われたのか……。パレードで2番目に下ろせばオールオッケー、すべて帳消し、と思われてるっぽいところが、もう……切ないわ。
 ところで、花組中日『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』は、けっこうよくまとまってる、と思う。

 『フェルゼン編』を死ぬほど観た身からすれば、「え、まだぜんぜんいいじゃん!」と思う。……アンドレ@だいもん目当てで行ったからショックが大きくて、「もう見ないもん!(泣)」な気持ちになっただけで。

 『フェルゼン編』はほんと最悪だったよなあ……よくもあんなひどい作品を繰り返し繰り返し、時間とお金を使って通ったもんだよ……。ひとえに、ご贔屓がアンドレで、相手役も大好きで、「今宵一夜」があるだけで救われた、ことに限るなー。

 『フェルゼンとアントワネット編』は、『フェルゼン編』の焼き直しだ。
 オープニングにでっかいフェルゼンのポートレートがあり、その前でパペットダンスがあるところも同じ。
 ただし、全編通してアントワネットの比重がハンパなく上がっており、『フェルゼン編』のOPには「アントワネット」は登場してなかったのに(あゆっちの役は「パペットの歌手」)、蘭ちゃんはばばーんと「アントワネットです!!」と登場する。
 そのあと、カーテン前でおっさんたちがどーでもいい、整合性のない会話をえんえんはじめるのも同じ。心からいらない場面。このいらない場面に、ド・ブロイ元帥@みつるがいる。プロヴァンス伯爵@ふみか、ブイエ将軍@らいらいと一緒に。1幕でのド・ブロイ元帥の役割は、『フェルゼン編』のプロヴァンス伯爵とブイエ将軍の台詞を分けてもらってます状態。
 次の場面でお忍びフェルゼン@みりおくんを、オスカル@キキくんがお説教、逆ギレフェルゼンに責められる場面。ひとりごとオスカルのソロ、やはりひとりごとアンドレのソロ。
 オスカル相手にあんな態度のあと、夜のボートでラヴラヴデートするフェルゼンとアントワネット@蘭ちゃん。
 その頃の王様は……? てことですか、ルイ16世@さおたさんのお散歩場面。
 フェルゼン邸にてメルシー伯爵@エマさんのお説教場面。
 きれいなドレス姿でロザリー@かのちゃん登場、ジャルジェ家での説明台詞の洪水場面。
 フェルゼンとアントワネットの別れ→「オスカル、キミはひょっとしてボクのことを?」
 貴族のみなさんの説明台詞オンパレード、ド・ブロイ元帥ちょろっと→「フェルゼンが帰国の挨拶に参りました」で、「真実の愛を知ったからです(キリッ)」

 という1幕は、ほぼ『フェルゼン編』まんまなので、つまらない。
 それでも、アントワネットの出番があるし、逆ギレアントワネットがオスカルを罵倒する場面がないだけ、すっげーマシだ。オスカルを罵るアントワネットは、吐き気がするほど嫌いなんだもん。

 それでも2幕は、わりにドラマチックになっている。
 なんでかっつーと、アントワネットが主役だから。
 原作からしてフェルゼンってのはしどころのない役で、物語の中心はアントワネットにあるんだもの。フェルゼン主役だと物語が平板になる。アントワネット主役だと盛り上がる。
 つーことで、アントワネット主役になっている分、ちゃんと盛り上がっている。

 花祭りで何故かだいもんとキキくん……アンドレとオスカルがアルバイトしてる。変なんだけど、うらやましい。コレがOKなら、うちにもさせて欲しかったよ……ニコニコ笑顔でかわいく踊るご贔屓が見たかったさ……バスティーユに出ない以上、ダンス皆無だったんだもん……。
 スウェーデンのフェルゼン邸にジェローデル@ふじP登場、「オスカルは死にました」で、回想シーン。……が、いきなりパリの橋。
 アンドレは最初から橋の上、そこで死ぬから、ほんとほとんどキキくんの横に並ぶことのないアンドレでした……。
 バスティーユでオスカル編終了。衛兵隊のみなさんもここだけっすよ。
 回想終わって、アントワネット救出を決意するフェルゼン、「愛に帰れ♪ 愛に帰れ♪」
 そのころアントワネットは、フェルゼンのことなど忘れてパリで一家団欒、しあわせしあわせ。→ルイ16世、子どもたちとの別れ、蘭ちゃん渾身のソロ!!
 蘭ちゃん新曲のあとに、何故かさっきと同じ曲を歌って登場するみりおくん。国境警備隊とチャンバラするわけでもなく、「パリは遠いなー」と言うだけの場面。……いちおう、新場面……?
 アントワネット救出作戦を語るベルナールとド・ブロイ元帥、それに文句を言う死の天使ロザリー。歌アリ。
 よーやく国境近くまで来たフェルゼン→「ゆけゆけフェルゼン」
 牢獄でのアントワネット、ロザリーが来てベルナールが来て、メルシー伯爵が来て、フェルゼンが来て。千客万来。
「さようなら、フランス!」「王妃様~~!!」で、終了。

 …………フェルゼン、出番少なっ。
 だからこそ、話的には面白くなってる。
 『フェルゼン編』のフェルゼンに出番を増やすための水増し場面、ひどかったもの……フェルゼンの人間としての最低最悪さがさらに強調されてね。
 みりゼンは出番が少ない分、人格破壊が少ない。

 バスティーユをのぞけば、あとはフェルゼンがひとりで「愛に帰れ♪」「ゆけゆけフェルゼン♪」と歌っているだけで、残り全部アントワネットの話だもん。
 1幕で「悪いのは全部他人、なんて可哀想な私」と言っていたのに、「私は愚かでした」と成長し、ささやかなしあわせを手に入れていたのに、因果応報ですべてを失い、愛する男に見守られて死んでいく、というちょーハッピーエンド。
 原作通りの流れだから、「アントワネット物語」としては無理なく展開を眺められる。

 『フェルゼン編』の駄作っぷりと、「アントワネット物語」としてまとまった『フェルゼンとアントワネット編』……。どっちがいいのかなあ。

 ううむ……でも、作品的にマシでも、好きな人の出番があれだけだったら、リピートはきついな……。
 その点やっぱ、「今宵一夜」の破壊力はすごいんだなー。役者が誰であれ、この場面があるとテンション上がるもんなー。
 「アントワネット物語」としてまとまるよりも、話はぐだぐだになっても、「今宵一夜」を入れる方がヲタ向けではあるか。

 ちなみに、フィナーレは、『フェルゼン編』まんまだった。

 『フェルゼン編』で初舞台を踏んで花組配属、中日組に振り分けられた子たちは、同じ衣装で同じ振付でロケット踊ってラストは階段に並んでるわけか……。
 植爺……手抜き……。
 花組中日『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』において、2幕で不要な場面は、ベルナールとド・ブロイ元帥とロザリーの場面だ。

 ド・ブロイ元帥ってさ、今までにいたキャラクタの台詞や役割をちょっとずつつついただけのキャラクタなのね。
 植爺『ベルばら』の特徴として、「キャラクタはただの記号、人格なんかないから代用可能」というのがある。植爺都合で出なかったキャラの台詞を、別のキャラがそのまんま喋ったりするアレ。
 だからド・ブロイ元帥も、そうやっていろんなキャラのいろんな台詞や立ち位置を流用しているの。
 1幕冒頭とラストでは、プロヴァンス伯爵とブイエ将軍。2幕ではアラン。
 おかげで、彼の人格が初見ではわかんなかった……。バラバラの寄せ集めすぎて。みつるならたぶん、説得力あるキャラに仕上げてくれるだろうけど、初日だけでは無理だった。わたしには。

 王妃救出作戦に荷担しているというベルナール@がりんと、それを止めるロザリー@かのちゃん。
 ベルナールの同志として登場するのは、通常アラン。だから、アランで十分、ド・ブロイ元帥である必要はまったくない。

 というか、もともとこの「ベルナールとアランの王妃救出作戦、それを止めるロザリー」という場面自体、無用。
 そもそもが植爺配役ゆえに存在する、原作にも本作にも不必要な場面だからだ。つまり、ストーリーに必要だからあるのではなく、「格のある役者に台詞を喋らせるため」だけに存在する場面。
 だから、話している内容は整合性ナシの寝言レベルだし、「台詞の水増し」が目的だから、無意味に長い。
 トップ娘役がロザリーだから、あるいはベルナール役が準トップだから、アラン役が劇団推しの若手だから……など、あくまでただの「役者都合」。
 そもそも、ベルナールとアラン、ふたり登場する意味はない。もともとはベルナールひとりだった。配役事情でベルナールの台詞と役割を分けてアランを出した、というだけのこと。キャラはただの記号ですから。

 タカラヅカだから、スターに見せ場を作ることは間違ってないけれど、手法が間違っている。ロザリー、ベルナール、アランの見せ場なら原作に山ほどあるのに、わざわざ原作無視して珍妙なやり取りをさせ、キャラの人格を破壊する。原作を理解出来ない人が脚本演出をしている以上、仕方ないけどな。

 とまあ、もともと大嫌いな場面。
 話している内容は、「革命は失敗だった。だから国王一家を逃がす」というベルナールとアラン。
 この「救出作戦」がねえ……実態が見えなくて、すごくアホっぽい。「処刑せよとの声が高まっている。時間がないんだ」……って、それまったく説得理由にならないし!
 「ばあちゃん、オレだよオレ! 事故っちゃって(革命失敗しちゃって)今すぐ示談金がいるんだ(国王一家を逃がさなきゃいけないんだ)! 時間がないんだ、わかってくれ!」……最低の説得方法。
 それに対する、ロザリーの答え。「王妃様はフランス王妃として死ぬべきだから、反対」。
 説得する方もアホだが、される方はさらに斜め上過ぎて、口が開いてしまう。

 植爺のロザリーの破壊ぶりは凄まじく、彼女は「オスカルは死ぬべき」「王妃は死ぬべき」と、「生きる努力をするよりは、とっとと死んだ方が幸せ」論者。……ロザリーというか、植爺の人生観なんだろう。彼の育った時代のせいかもしれない。
 「生きて恥を重ねるより、潔い死を選ぶ」という考え方自体はありだと思うけれど、それは選択肢のひとつでしかなく、それの正誤は描き方や観る側の受け取り方によってチガウ。
 でも植爺は「選択肢のひとつ・価値観のひとつ」ではなく、「絶対の正義」として押しつけるし、根っこに「正義だから」という思い込みがあるため、「それおかしいんじゃね?」と思う人がいる現実を想定して表現していない。
 自分を絶対正義だと思い込んだ人の言動が他者から奇異に映るのはままあることで、植爺美学で「死ね、死ね!」と言い続けるロザリーはとてもキモチ悪い。

 原作のロザリーはそんな思想は持ってないし。
 彼女は波瀾万丈の人生を、泣き虫さんゆえにべそべそ泣きながら、それでも一途に生きてきた、心優しい女性。「恥をかくぐらいなら死んだ方がいい」という人や、「意志にそぐわない生き方をするぐらいなら、死んだ方がいい」という人がいたら、泣いて異を唱えるはずだ。「それでも生きて」と。「生きていれば、きっといつか幸せになれる」と。

 王妃救出作戦を語るベルナールに「危険だからやめて」と言うのはありだけど、「王妃は死ぬべきだからやめて」と言うのは、おかしい。

 大体、「革命は失敗だった」という記述は、原作にない。
 その獰猛な奔流に疑問を抱く作りにはなっていても、「失敗」と決めつけることはしていない。それはもっとあとの時代の視点だ。
 ベルナールとアランが、革命政府に疑問を抱くにしても、それは別の物語。
 全50話の大河ドラマなら、別作品のネタを融合させてもいいが、2時間半で全10巻の原作を消化しきれず破綻しまくった作りになっているくせに、別ネタを入れるとか、バカなんじゃないの。余計なことをする暇があったら原作のエピソード入れろっつーの。

 わざわざ尺を取って「フェルゼンの力を借りて、救出作戦やるぞ」と語るから、これからどんなことが起こるのだろう! と思ってみても、ナニも起こらない。
 次の場面では、「国王は1ヶ月前に処刑された」と農民たちが話していて、まだ国境も越えてないフェルゼンが「遅かったか!」とがっくりしている……って。
 計画もナニもないのかよ! まだフェルゼン、ベルナールと合流もしてないのかよ!

 ベルナールもアランも、そしてフェルゼンも、ただのまぬけでしかない。

 わざわざ「救出作戦やるよ!」「やめて!」とえんえんやってなければ、フェルゼンが国境で国王処刑を聞いてがっくりしていても、「間に合わなかったのね」で済むのに……大仰な前振りがあるだけに、「不可抗力」が「能力不足」になり、キャラの価値を暴落させる。

 とまあ、もともと百害あって一利なし場面だった。

 それが、さらに、パワーアップした!!
 最低の、まだ下があるとは……!! 植爺恐るべし!!
 花組中日『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』の新要素、ド・ブロイ元帥@みつる。彼が活躍する場面は、明らかにおかしい。
 役者に含みはない。あのよくわかんない役が成り立っているのは、みつるの演技力あってのものだと思う。
 だがしかし。

 植爺の改悪が、酷すぎる。

 という話の、前日欄からの続き。


 2幕の「王妃救出作戦」を話す場面。
 ベルナールとアランでもひどかったのに、アランの役割を、ド・ブロイ元帥という貴族のおえらいさんにした。

 革命派のひとり、一介の新聞記者でしかないベルナール@がりんが、何故そんな大貴族と知り合いになったのか。
 貴族がギロチンにかけられている時代に、ド・ブロイ元帥がどうやってのうのうと豪華衣装を身にまとい、パリの下町にいるのか。

 そんなことは、どうでもいい。
 おかしいけれど、植爺のことだから追求する気にもならない。
 描かれていないところでなにかしらあって、ベルナールとド・ブロイ元帥はお友だちになったんでしょう、と思うことはできる。
 描かれていないことは、知りようがないから。

 問題は、描かれていること、だ。
 実際に台詞として喋られていることが、キモチ悪すぎて、耐えられない。

 前述の通り、もともと不要な場面だ。
 物語に必要だからあるのではなく、タカラヅカ人事のために必要な場面。

 第一段階・「王妃救出」を考えるベルナールと、「王妃は死ぬべき」と語るロザリー、という内容。
 第二段階・人事事情によって、アラン役を追加。ベルナールの台詞と役割をふたつに分け、アランも出す。
 第三段階・人事事情によって、アラン役を別キャラに変更、ド・ブロイ元帥を出す。

 もともといらん場面なのに、それをさらに改悪して、まだその上改悪したのが今回。
 ちょ……、どこまで行くの?

 第二段階は、ただ冗長になっただけだった。ベルナールとロザリーの掛け合いだけで済む内容を、アランも交えて3人でやるから、水増し率がひどいことになっていた。
 そして今回、第三段階を迎えるにあたり、意味のない説明台詞の洪水に、「可哀想話」が加わった!!

 すごい。
 思いもしない論述が繰り広げられ、わたしののーみそは真っ白になった。

 え、えっと、ナニが起こってるのコレ?
 ナニがしたくてえんえん喋っているの?

「革命は失敗だった。この上王妃様まで処刑させてはフランスの恥だ。だから王妃様を救出する。フェルゼン伯爵が手伝ってくれる」
 こうベルナールが語ることまでは、ぎりぎり受け入れられる。この場面自体不要だけど、ベルナールならこう考えることは、あるかもしれない。
 許せないのは、ひとことで済む話を、えんえんどーでもいい説明台詞をベルナールとアランが入れ替わり立ち替わり垂れ流すこと。ロザリーを説得するために。
 わたしは無用な説明台詞と会話の重複が大嫌い。「それさっき聞いた!」「要点だけ言え」とイライラする。(自分の文章の重複は棚上げする・笑)
 会話が水増しされた分、短く要点解説出来ないベルナールはアホさが増したし、ロザリーも物わかりの悪さや頑固さが増しているわけですな。
 不快値が上がっているところに、ロザリーが「私は反対です。王妃様はフランス王妃として誇り高く死ぬべきなんです」と言い出す。
 ロザリーはそんなこと言わない!! キモチ悪い!!

 ……だったわけですよ、今までは。説得理由がアホ過ぎる(前日欄参照)とはいえ、一応、救出作戦の話をしていた。

 それが、今回は。

 ド・ブロイ元帥紹介になっている。

「ド・ブロイ元帥が、何故?」
「王妃様に責任はない、悪いのは我々貴族だ。だからフェルゼンの力を借りて王妃様をお助けする」
「ド・ブロイ元帥はフェルゼン様を糺弾していたはず。なのに何故?」
「他にしようがないためだ」

 あのー。
 ド・ブロイ元帥の情報はいらんです。ここで必要なことは、「王妃救出作戦とはなんぞや? 勝算はあるのか?」です。

 もちろん、ここにいるはずのない人の説明は最低限欲しいけれど、要点はそこじゃない。
 「王妃救出作戦」をたくらんでいるベルナールに、ロザリー@かのちゃんが「私に隠し事をしているでしょう、すべて話して」と言うから、計画を話しているんです。
 「何故なにをどうする計画」なのか話しましょうよ。

 なのに、ベルナールの説得会話のクライマックスは。

「大貴族で超権力者だったド・ブロイ元帥が、平民のオレに頭を下げて頼んでおられるんだ!! これだけ説明すれば、キミだって賛成してくれるだろう?!」

 すみません、ここでわたしのなかで、なにかがキレました(笑)。

 偉い人が、頭を下げて頼んでいるから。

 ベルナールが王妃を救出する理由が、それ?
 具体的にどう救出するのかではなく、ド・ブロイ元帥がプライドを捨てて「平民ごとき」「フェルゼンごとき」の力を借りる……それがどれだけつらいことかを、えんえん語る。

 君、帰っていいよ。
 つらいんだろ? 嫌なんだろ? だったらしなくていいよ。
 たしかに、大貴族の元帥様が、平民に頭を下げるのはつらいことだろうさ。だから、なに? 「こんなに屈辱に耐えているんだ!」から、言うことを聞けと?

 そしてベルナールの、人格破壊の凄まじさ。
 ここにいるのは、革命の闘士ベルナールじゃない。

 このベルナールはきっと、革命前の贅沢三昧の王妃様が、「ベルナール、あなただけが頼みです、お願いします」と頭を下げたら貴族側に寝返る人だわ。
「だってあんなに偉い人が、オレに頭を下げたんだぜ?」と。

 さすが、「アンドレが可哀想だ」という台詞を衛兵隊士に吐かせた植爺だわ。
 目の見えないアンドレを、衛兵隊の仲間たちがパリへ連れて行くのは、アンドレが「可哀想」だからですよ。
 オスカルが革命に身を投じるのは「弱い平民たちを守るため」ですよ。

 植爺が誰かのために行動する理由って「可哀想だから」なんだなあ。
 上から目線で、憐憫ゆえに動く。しかも、押しつけがましく。
 そうすることで、自分の優越感を満足させる。

 ド・ブロイ元帥の「こんなに屈辱的な状況を押して決意した」とえんえんえんえん語るのは、衛兵隊のみんなの前でアンドレが這いつくばって哀願する、あの行為ですわ。
 そしてベルナールが言うわけです、「ド・ブロイ元帥が可哀想だ、協力してやろうよ」。

 ド・ブロイ元帥が可哀想であることと、王妃救出作戦は、なんの関係もない。
 なのに、作戦参加の理由としてド・ブロイ元帥の苦労譚を語り、「これだけ説明すれば、キミも賛成してくれるだろう!」とドヤ顔するベルナールに、絶望しました。

 それに対するロザリーの返答は「王妃は死ぬべきだから反対」だし。

 キモチ悪すぎて、無理。
 花組中日『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』の2幕の、ド・ブロイ元帥@みつる、ベルナール@がりん、ロザリー@かのちゃん場面について、その3。


 あと不思議なのが、「何故、王妃救出なのか」。

 この場面の前で、ルイ16世@さおたさんが革命政府からの呼び出しを受ける、という場面がある。
 ……呼び出しを受けただけ、だ。処刑されたとは言われてない。
 2006年の『フェルゼンとアントワネット編』でも、ルイ16世呼び出しのあと、ベルナールとロザリーが「国王一家救出」について話している。
 今回のベースとなっている『フェルゼン編』でも、ベルナールとアランとロザリーが、「国王一家救出」について話している。

 なのに今回は「王妃救出」としか、言っていない。

 王様は?

 もしもこの時点でルイ16世処刑済みならば、台詞で言うよね? 「国王陛下が処刑された今、一刻の猶予もない」てな。
 でもそんな台詞はなかった、よね? 終演後に友人と話したんだけど、ルイ16世の生死に関してはノータッチだったと思う。死んだと明言されていない。
 ただ当たり前に「王妃様」「王妃様」と、王妃のことだけを話している。

 そして、「ブルボン王朝の血を絶やさないため」王妃を助けるそうな。
 あのー。
 アントワネットは、ブルボン王朝の血は引いてないっすよ? 外国人ですから。

 救出すべきはルイ16世、あるいは王太子でしょ?

 外国人の王妃を救出して、王様や王太子見捨てる、ってなにそれ?

 「国王一家救出」と言っていた今までは、疑問じゃなかった。でも今回、わざわざ台詞が全部「王妃」に変更されている。
 ……ので、わからない。
 アントワネットを救出して、なんの意味があるのか。

 「フランスに咲いた百合♪」なんて歌わさなければいいのに。
 アントワネットは「ベルサイユのばら」であって、「フランスの百合」ぢゃないっす。
 ブルボン家の百合の紋章を受け継ぐのは、アントワネットじゃない。

 この時点で国王処刑済みで、誰かひとりしか救出出来ないとすれば、選ぶのは王太子でしょ?
 アントワネットが死んでも、ルイ17世が生き残っていれば問題ないし、ブルボン家の血筋は他にもいるし。
 植爺、どこまで耄碌してるんだろう……。

 今までの「国王一家処刑なんてフランスの恥」だから救出作戦やるんだよ、という理由の方がはるかにマシだ。


 なんで「国王一家」を「王妃」にしたのか、理由はわかってる。

 今回の公演目的のひとつが、「アントワネットを持ち上げる」ことにあるためだ。
 物語よりも、役者の格が重要。

 「国王一家のため」危険な作戦を企てる……よりも、「王妃ただひとりのため」とした方が、アントワネットの格が上がる。

 ルイ16世も王太子も、フランスも革命も、どうでもいい。
 ただただ、「素晴らしいアントワネット」「アントワネットのために」とやるのが目的。

 2幕は、オスカル戦死のバスティーユ場面以外は、すべてアントワネットのための場面。
 本人が出ていないところも、フェルゼンが「アントワネット様、アントワネット様」と念仏のように唱え続け、ベルナール、ド・ブロイ元帥、ロザリーが「アントワネット様救出」「いいえ、アントワネット様は気高く死ぬべき」と歌まで歌って大騒ぎ。
 それに、「アントワネット様救出は、オスカルの意志」と、オスカルの名前もたびたび出して「この世のすべての善人・素晴らしい人は、アントワネットのために動いている」、ことさら革命失敗、醜い権力争いと説明台詞を繰り返し「アントワネットを糺弾しているのは、欲に目がくらんだ愚か者だけ」という図式を作っている。。

 すごいわー。この徹底ぶり。

 でも、方法が間違ってるから、意味ないけどな。

 ほんっとに植爺キライだわ(笑)。
 花組中日『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』で、いちばん感動したのはメルシー伯爵@エマさんの演技だ。

 『フェルゼン編』、『フェルゼンとアントワネット編』共に、「もっとも不要」「もっとも苦痛」と誰もが言う最悪場面が、「メルシー伯爵のお説教」場面だ。

 広い広い舞台に、登場するのはふたりだけ。
 ひとりはトップスター演じるフェルゼンだからいいとして、もうひとりは専科のおじさま演じるメルシー伯爵。
 このふたりが向かい合って椅子に坐り、ただ話すだけの場面。
 しかも、メルシー伯爵がひとりで何十行もの台詞を喋る。内容は「説明台詞」で、2行で済ませてもいいことを何十倍に水増しして喋り続ける。フェルゼンはそれに相槌を打つだけ。メルシー伯爵の独壇場。
 メルシー伯爵の話は要するに、「不倫はやめろ」という至極もっともなこと。ひとのものに手を出してはいけません。幼稚園で習いましたね?
 それに対してフェルゼンが、逆ギレ。「えらそーに説教するけど、自分がかわいいだけじゃないか!」
 「じゃあこのまま一国の王妃と不倫し続けるつもり? そんなことができると本気で思ってる?」……そこでさらにメルシー伯爵に正論を吐かれ、フェルゼン沈黙。

 画面として美しくないし、舞台に動きはなくて退屈だし、どーでもいい説明台詞の洪水で退屈通り越して苦痛だし、その上「正しいことを言われて逆ギレ、自分の悪は棚上げで相手を攻撃、最終的には論破されてへこむ」という、擁護出来ないくらい最低な姿を「主人公」がさらす。
 誰ひとり得をしない、百害あって一利なし場面。

 だがこの場面は、植爺がもっとも愛する場面なので、他のどんなに重要だったり人気があったりする場面をカットしたとしても、ここだけは絶対にカットしない。かわされる会話も、追加されて延びることはあっても、削られることはないという、渾身の場面なのだ。
 2005年の全ツ版では、「今宵一夜」も「バスティーユ」も全カットだったのに、この「メルシー伯爵のお説教」だけはフルバージョン入ってたさ。

 だからフェルゼンをトップスターが演じる場合、「メルシー伯爵のお説教」もセットだと考えなくてはならない。
 どんなに苦行であっても、それが現実である限り、受け入れるしかないのだ。ああ、なんて人生の縮図。


 とまあ、あきらめて挑んだ初日観劇。

 目からウロコが落ちました。

 メルシー伯爵のお説教が、うざくない。

 もちろん、いらない場面であることは変わらない。もしも神様が「一場面だけ植爺のアタマの中から存在を消してあげましょう」と言ってくれれば、間違いなくこの場面をお願いする。
 間違ってるしつまらないし、とても不快な場面であることは、たしかだ。

 しかし。

 ストレス度合いが、違った。

 なまじわたしは、去年の雪組『フェルゼン編』をアホほど観ている。リピートしている。この場面だって笑える回数観てきた。
 その記憶があるだけに……驚いた。

 エマさんのメルシー伯爵は、偉人には見えなかった。

 悪人ではないのだろう、たしかに善良ではあるのだろう……しかしなんというか、小人物だった。
 小役人っぽいというか。
 へこへこせこせこした感じ。気のいい商人のおじさん。

 善良なのはたしかだから、親代わりに見守ってきたマリーちゃんがかわいくて、彼女の思い出を目を細めて語る。
 そして、彼女の幸せを思って、彼女を悪の道にそそのかす色男に「別れてくれ」と頼む。
 そんなメルシーおじさんを、正義のフェルゼンが一喝する。「あなたは身勝手だ」。
 マリーちゃんの幸福と言いながら、自分の保身しか考えてないじゃないか!!
 おじさん、痛いとこ突かれて、がーーん! 思わずキョドりつつも反論「で、でも不倫は不倫だろ。このまま続けるなんてむ、無理に決まってる!」。
 マリーちゃんの保護者ってことで、たしかにいい目もみてきたわけだけど、メルシーおじさんは悪人じゃない。得をするから育ててきたんじゃない、ほんとにマリーちゃんがかわいくて、その幸せを願っているんだ。
 メルシーおじさんを責めても仕方ない。フェルゼンは聡明な青年なので、膝を付いて懇願するメルシーおじさんに、それ以上反論するのをやめた。

 ……という図式に見えたの。

 そうか。
 今まであんなに不快だったのは、メルシー伯爵が完全な人格者だったからだ。それゆえにどうしても、フェルゼンが下から上のモノに噛みつく、ように見えた。
 メルシー伯爵は本当に年齢的にも経験的にも格上の存在で、「偉人だから、正義オーラがにじみ出ているのは仕方ない」状態だったんだな。
 メルシー伯爵の役割は、「正論を説いて、間違ったことをしているフェルゼンを改心させる」……わけだから、礼儀正しくへりくだっていても、基本一歩も引かないというか、えらそーな人だった。
 実際、トップスターよりはるかに格上の専科さんが演じるわけだし。その舞台人のとしての年輪も含め、威厳を持って若造を圧倒する場面だ。
 正義のメルシー伯爵にたてつくフェルゼンはますます邪悪で、どうしようもないアホに見えた。

 それを、どうだ。
 メルシー伯爵を「ふつーのおじさん」にしてしまえば、同じ脚本でも、こんなに違う。
 間違ったことは言っていなくても、彼に隙があるため、フェルゼンが刃向かっても、フェルゼンの株を下げない。
 本人は「王妃様のため」と本気で思って言っているんだけど、フェルゼンに反論されるとびくっとする。聖人でもない限り、自分の言動に1ミリの欲や打算がないがないとは言い切れないものね。

 またみりおくんのフェルゼンが、ヒーローオーラ、ゆんゆん。

 こずるさのある小者相手に、「私が正義ですが、ナニか?」ってな風情で対峙する。

 まさかの、フェルゼン>メルシー伯爵。
 今まで砂を吐くくらい繰り返し観てきたいろんなバージョンの「メルシー伯爵のお説教」は、フェルゼン<メルシー伯爵、だったのに。
 正しいのも優勢なのもメルシー伯爵。間違っていて負け犬として逃げ出すのがフェルゼン。

 それが、ひっくり返された。

 メルシー伯爵を小者にすることで、こんなに違うのか!
 ちゃんと主人公が正しく、主人公がかっこいい。
 それでいてメルシー伯爵も悪人じゃない。ちゃんと「いい人」だ。
 だから2幕の最後、牢獄のアントワネット@蘭ちゃんに会いに来るところも、じーんとするんだ。
 観客が感情移入出来る、等身大の「いい人」だ。

 いやあ、感動しました。
 メルシー伯爵の、『ベルサイユのばら』の、新しい可能性だなあ。
 植爺にずっと、聞きたかった。

 ルイ16世とアンドレが、同い年だって知ってますか?

 アントワネットやオスカルとは、ひとつしか違わないんだよ?
 原作を読んだことのない植爺は、知らないのかもしれないけどなー。

 ということで。

 植爺版『ベルばら』のルイ16世は、概ね苦手だったんだ、わたし。
 だって、不自然におじいさんなんだもの。

 王様=えらい=老人、という図式が植爺の中にあるんでしょう。
 ちなみに、植爺が大好きなメルシー伯爵だって別に、老人じゃない。原作ではロマンスグレーのおじさまとして描かれている。
 だけど植爺は、えらいおじいさんが大好き。えらいおじいさんが豪華な服を着て、みんなに尊敬されたり、バカな若者に説教する話が大好き。

 また、特別感を出すつもりなのかなんなのか知らないけれど、妙な棒読みで喋らせる。
「ふぇるぜん、キカセテクレホントウノキコクノワケヲ」的な、非人間的な棒読み。
 王族はこういう喋り方をする、という演劇界の決まりがあるんですか? それとも史実がこうなの?
 決まりだろうが史実だろうが、アントワネットはふつーに喋っているのに、ルイ16世だけカタカナ棒読みは変。
 最初に観たときは「あの王様はなにか精神に問題がある設定なのか?」と思ったもんだった……だってひとりだけ、金属的な声で棒読みするんだもの。

 時代と共に喋り方はマシになってきたけれど、老人もしくはかなり年配であることは変わらず。
 組長や専科さんの役という認識。演じる人が悪いわけじゃない、専科さんたちは学年相応の見た目と芝居をしているだけで、そんなキャスティングをする植爺のセンスの問題。

 人格者だとやたらと語られるわりに、「今晩中にこの錠前を開けなくてはならないのだ。たかが百姓の暴動ではないか、軍隊で鎮圧しろ」「暴動ではございません、革命でございます!」……ごとっ(箱を落とす)、てな、アホの子として描かれるし。

 なんとも苦手だ。

 しかし、花組中日『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』

 ルイ16世が、ストレスじゃない!!

 まず、若い。

 青年ではないし、アンドレと同い年にも見えないけど、少なくともおじいちゃんじゃない。

 おかしなカタカナ喋りもしない。ごくふつうだ。

 この「ふつう」ってのが、得がたい。
 優しく気の弱そうな男の人。一歩腰が引けているというか、「たしかにこの人だったら、アントワネットのこと苦手だろうなあ」と思える、説得力。
 統治者としてや政治家としての優秀さはまったく感じないけれど、おっとりとした気品があり、国の象徴として王座にいてくれる分には納得の愛されキャラ。
 三部会開催まで切羽詰まった情勢の中、国王だけはちゃんと人気があった(アントワネットには拍手なし)というのがわかる。あー、好かれてたんだろうなあ、この人。

 おじいさんだから若いアントワネットにガン無視された、ではなく、性格的なことやいろんな掛け違いがあったために、今の状態なんだなとわかる。
 そして、ふつうにいい人だから、その掛け違いがなくなる革命後は、夫婦としていい関係を築けたのだと、納得出来る。

 さおたさんはほんとやさしげな、不器用そうな男の人に見えた。
 夜の散歩がうざくないって、すげえよ。あ、わたし王様がお小姓連れて庭を散歩するシーン、キライです。不要だと思ってます。子ども相手に夫婦関係の愚痴を言い出す老人とか、嫌すぎる。しかもなにを言われても黙って従うしかない立場の者に、一方的に。
 年寄りでもなく、「王族ですから」とロボットみたいな喋り方もせず、ごくふつうに優しく頼りなさそうな男の人が、ほんとに楽しそうにしている。王妃への愚痴も、どこか優しいユーモアをにじませている。
 あー、この人いいなあ、好きだなあ。

 1幕ラストの「困る」発言も、2幕のアントワネット@蘭ちゃんとのほのぼのぶりも、ストレスなく観られた。
 植爺のルイ16世キライだからさ~~、わたしにとって相当ストレスなのな~~。
 唯一心から「いらんっ。間違ってるっ」と思うのは、1幕冒頭の「暴動ではございません、革命でございます」「(ごとっ)」場面のみだ。ここはいくらさおたさんが好演していても、やってることがなにもかも間違いすぎてて、無理。

 今回のさおたさん観て、『あさきゆめみし2』を思い出したなあ。
 終演後友人と「さすが、タカラヅカ一、寝取られ役が似合う男!」と、頷き合った(笑)。
 さおたさんってラスボスもよくやるけど、正反対のそーゆー役もハマる人。……実に素晴らしい芸風です、組長!


 わたしの大嫌いなメルシー伯爵とルイ16世が、今回の『フェルゼンとアントワネット編』では両方ともストレスが少なくなっていて、大変感動しました。
 や、どっちの役も植爺脚本だから間違いまくってるんだけど、その間違った中で最善の役作りをしてくれていた。

 エマさんがメルシー伯爵で、さおたさんがルイ16世という配役は良かったなあ。ふつーに考えたら逆だもんなあ。
 「中日『ベルばら』どうだった?」っていろんな人に聞かれて、「ルイ16世良かったよ、アントワネットとの別れの場面とかじーんとするよー」てな話をするとき、大抵「そっか、エマさん出てるんだよね」とか「エマさん経験者だしね」とか返ってくる。
 待って待って、ルイ16世@さおたさんだよ! と言うと「え? たしかエマさん出てたよね?!」と言われ、エマさん=ルイ16世認識なんだと知る。
 で、エマさんがメルシー伯爵だと言うと、意外そうな反応になる。
 植爺『ベルばら』の刷り込みすごい。
 「意外」なキャスティングだったけれど、ここだけは本当に良かった。
 花組中日『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』、キャスト感想。

 フェルゼン@みりおくんは、トップスターとしての責務を見事に果たしている。
 もともとうまい人だけど、真ん中に立つことでより腰が据わったというか、方向性がぴしっと一点を向いていて、気持ちいい。
 でもってわたし、みりおくんの歌声好きだなあ。

 1幕ラスト、フェルゼンが客席降りするんだけど、客席から起こったどよめきがまた……(笑)。大劇場でペガちゃんが飛ぶのと同じ! みりおくんひとりでペガちゃん並みに客席沸かせるのか!! と、感心した。


 アントワネット@蘭ちゃんは、正直1幕はどうなることかと思った。
 ボートの場面の薄ら寒さというか、ええっと、キミらぜんぜん愛し合ってないよね? お互いを観ずに芝居してるよね?!
 でも2幕、ルイ16世@さおたさんとの芝居は良かったし、牢獄場面も盛り上がった。

 他の人と組んでいるときの方がイイ感じに見えたんだけどな、蘭ちゃん……。
 あんましみりおくんと合ってない? たまたま、わたしにそう見えただけ?


 アンドレ@だいもん。
 アンドレというか、プロローグの貴族の気合い入りまくった笑顔が、すごかった。
 ちょっとないくらい、「本気!!!!」に作った笑顔で……だだだだいもんすげえなおい、とびびった(笑)。

 アンドレは違和感なくアンドレというか、クドくてねばこくて大芝居で、そして歌声はもちろん耳福で、おお、きっちり仕事してるわー、こりゃ2幕が楽しみだなあと思った。
 オスカル@キキくんがあまりにデカ過ぎて画面破壊系である分、「今宵一夜」がどうなるのか、ワクテカして……幕間に、ないとわかり、驚愕した。
 そ、そうか……ないのか、「今宵一夜」……。そんな扱いなのか……それであのすっげー気合い入ったプロローグなのか……。ほろり。

 でもって橋の上、撃たれときの痛そう感がハンパなかった。

 い、今までわたし、考えたことなかったよ……そ、そうだよな、痛いよな……。
 何発被弾するのかどこを撃たれたのかとか、髪の乱れとか動きとか、そんなことを気にしていて、「撃たれると痛い」ってことを、失念していた。や、だってアンドレ13~4発撃たれるよね? いちいち痛がってられないというか、衝撃の方が強いんだろうなとか。
 だいもんさん、最初の方本気で痛そうで、観ててびびった……そこをリアルにするのかキミ……で、撃たれすぎるともう痛みがないみたいで、ただ衝撃に吹っ飛んでる……って、そのリアリティやめて、観てて痛いから!!(悲鳴)
 ほんと素晴らしいっすよ、アンドレ様……。どんな扱いでも超絶全力疾走。

 あー、でも、アンドレのカツラはもう少し、なんとかした方がいいんじゃないかと思ったっすよ、望海さん……。


 ド・ブロイ元帥@みつるは……、うわーん、わたし、みつるなのにきちんと咀嚼出来なかった。みつるだからきっとなにかしらわたしを「おおっ」と思わせてくれると期待して注目していて、……よくわかんないまま、終わった。
 脚本がひどすぎて、アタマがついていなかったの……。きっとリピートすればわかるんだと思う。


 ジェローデル@ふじPはイイ感じにファンタスティック。胡散臭さがいい。ジェローデルってまっとうな貴公子力に加え、ちょい癖がある方がいいんだよね。


 ベルナール@がりんは、とりあえずビジュアルが好みだ(笑)。
 ずっと女の子っぽい持ち味だったがりんくんは、大人になって「女の子」から「少女マンガの男の子」になったなと。
 少女マンガにしかいそうにない甘さが、クドい花男たちの間で可憐に見える。
 でももう少し役割に相応しい、太い声が出ればなあ。


 ロザリー@かのちゃんは、なんつっても声がなぁ。娘役は声が重要。歌がヘタでもドレスの着こなしがヘタでも、「ヒロイン声」で喋ることが出来れば、ヒロインとして説得力があったりする……んだが、かのちゃんはせっかく歌える人なのに、声で損してると思う。


 花組って植爺に当たってない組なんだなあ、と今さら思った。
 最後に当たったのが2008年と翌09年の『外伝』? でもってその前は90周年の『天使の季節』まで遡っちゃうの?
 てゆーか、10年間で、植爺一本モノが皆無?!
 『天使の季節』は30分の短編、『外伝』は片方全ツだし、どちらにしろ90分でショーと2本立てだ。
 なんつー幸運な組……。
 自分の贔屓が花組にいるときは、気づいてなかった。なにしろ『天使の季節』で新公、『外伝』2本とも出演と、被害を真正面から被ってたからさ。
 そっかあ、植爺芝居当たってないんだ……。

 というのは、植爺芝居の出来てなさぶりに、目を見張ったんだわ。
 前を向いて一列に並んで声を張り上げる、あれ。独特で時代錯誤で大仰で、わたしはキライなんだけどねー。
 キライだけど、すでに「植爺芝居」として確立されているので、仕方ない。確立したモノが、足りていない・出来ていないと、「あれ?」と思う。
 『ベルばら』は植爺の脚本もひどいけど、それを差し引いたところで、すべてにおいて古くさい。それを「これはこれ」と納得させるには、その古くさい植爺芝居を……「植田歌舞伎」と呼ばれるモノを、モブの下級生まで体得して一丸となって世界構成しなければならないんだ。
 それが出来ていない分、観ていてけっこうつまづいた。あれ? あれ? と。

 大変なことになっているなと思うのは、大抵オスカル@キキくんの場面。
 えーとあれ、キキくんだよね? オスカルじゃなくて、キキくん。
 『Mr. Swing!』の女役のときも思ったけど、キキくんはキキくんなんだなあ。カツラをつけて、ドレスを着たキキくん。女役でも、男役の女装でもない。
 キキくんが技術的にいろいろ大変な人だということはわかっているけれど、今回は画面的にも大変なことになっているし、他の人たちも植爺芝居に手こずってるしで、助けてくれる人がいない。力技で支えてくれたかもしんないだいもんは出番ないし、みつるも絡まないし。

 あと不思議に思ったのは、オスカル場面の巻き状態。
 オスカル側の場面のテンポが、身に染みついた『フェルゼン編』よりずっと速いの。すっげー駆け足っていうか、「時間ないから端折るよ!」って感じで。あくまでおまけですから、本気で描く気ないです、って感じで。
 真ん中の人の技術のなさに加え、演出的にも重きを置いてない様子がわかるってのはほんとにつらいわ……。

 キキくんがオスカルでなければならないというなら、こんな「オスカルをやりました」という実績のためだけですてな扱いしないで、本気でやりやがれ。
 彼が真ん中として成り立つ脚本と演出をひっさげて、見た目も実力面もカバー出来る態勢を作り、おためごかしや言い訳なしでやればいい。
 ジェンヌさんたちはみんな、いつだって一途に与えられた役割を務めているのに、なんでこんなことをしちゃうんだろう、植爺って。
 さて、『ベルばら』書ききったぞ、次は『ノクターン』だ!! ……のつもりが、チケットなくて敗退。サバキ待ちしたんだけど、ぜんぜん出なかったよう! しくしく。
 最近、心を入れ替えてマメに観劇感想書こうとしてはいるんだが……めっきり友会当たらなくなっちゃったなー。『ノクターン』もだが、雪東宝どうしたもんだか……。


 ということで、書き溜めてある(笑)雪の感想に戻る。

 『一夢庵風流記 前田慶次』は、映像がたっぷり使われている。
 この映像使いに、演出家の個性が出るもんだな、という感想。

 オープニングは、どこのゲーム?!状態。
 月と松風のシルエット、それを狙う忍者たち、舞台上の生身の役者の演技と、映像がリンクする仕組み。それがもお、すごくゲーム画面っぽい。
 というかゲーム出してください。

 慶次@えりたんを操作して、松風(ヒロイン)を守れ!!
 てなゲーム。飛んでくる敵の攻撃を刀でカキンカキンたたき落とすのな。
 ステージごとにボス戦があり、1面目のボスはもちろん主馬@翔くんだ!
 わたしのコントローラ操作でえりたんが飛んだりはねたり! やだ楽しい! ゲージを溜めて必殺技「村雨」を繰り出したり。(ちょっとチガウ)

 ゲームっぽいのはいいけど、あの巨人はなんなのか。
 オープニングの半ばで、スクリーンに巨人が登場するんだな。

 初日に観たときは「このテイストの作品なのか!」と思ったけど、んなこたぁーなかった。オープニング映像のみだ、あんな世界観。
 忍者が合体して巨人になって大暴れ! えりたん巨人と戦う!! ……本編がこのテイストだと、それタカラヅカぢゃない……。
 それとも、当初の脚本では慶次がゲームやアニメばりに巨大モンスターと戦うような演出があった? その場合、敵になるのはやっぱ忍びたちで、へたしたらまっつが巨大カエルの上で高笑いしてたかもしれん、と思うと胸熱。(いろいろチガウ)

 ともかく、本編の世界観と合っていないので、巨人登場だけはいらないと思う、オープニング映像。お金かけて作っちゃったから、あとから変更かけるなんてもったいないことできないんだろうな。それで「あれ? 巨人と戦う慶次はやりすぎ演出だったな。でも今さら削れないや、てへ」ってことになった?

 手裏剣をたたき落とすえりたんはいいけど、巨人の剣を受けて「ううう~~」となっているところを観るのは、正直「…………」で、いたたまれない感がある。だって相手、アニメーションの巨人よ……? それに合わせて「ううう~~」よ?

 しかし、巨人を撃破したえりたんのドヤ顔で、すべて許せる気がする(笑)。ビバえりたん!

 初日から何回か1階席で観て、「この映像、2階からはどう見えるんだろう?」と思った。サイトーくんの『JIN-仁-』のオープニング映像は、2階からは見えなかったんだ。だから初日に「オープニングかっこいーー!」と沸いた人々の何割かは、キムくんたちの顔は見えないまま拍手していたはず。
 んで、2階のいちばん後ろ、当日B席から確認。

 さすが大野先生! 2階17列目からでも映像が見える!!

 もちろん上の方は見切れるんだけど、切れても問題ない作りになっている。サイトーくんみたいに、「せっかくのキャラクタの顔がまったく見えない!!」なんてことにはなってない。

 タイトルも見えるし、それを斬り裂くえりたんの剣さばきごとアニメーションが見える。
 そのあとの、「前田慶次 壮一帆」までばっちり。席代2千円しか出してない人も、ちゃんとお客さん扱いしてくれてるよ!!


 オープニング以外でも、映像はあちこちで使われている。
 ここでもやはり重要なこと、2階席からでも、問題なく見える。

 主人公たちの顔がまったく見えないままはじまり終わったサイトーくんの『JIN-仁-』は問題外としても、イケコの『眠らない男・ナポレオン』だって、せっかくのスペクタルな背景映像が、2階席からは、見えなかった。
 そのため2階席は、盛大においていかれた。
 演出家も劇団のおえらいさんも1階席からしか観ないんだろうけど、生憎劇場には2階席というものがある。2階席の視点を想定しない演出はいかがなものかと、わたしは思う。

 大野せんせはカーテン代わりに映像スクリーンを使っているので、2階からでも見えるのなー。ちなみに、イケコは舞台のいちばん奥で映像を流していたので、2階の奥からはまったく見えなかった。


 京の町のにぎわいを表すアニメーションも個性的だし、梅の花のアニメーションも美しい。
 アニメーションといってもいわゆる「アニメ」ではなくて、屏風絵が動く感じ。

 物語の中の季節が、言葉による説明ではなく、映像を含めた演出で、移り変わっていくのが気持ちいい。
 雪の金沢からはじまった物語が、舞台を京に移して、あざやかに梅の花が咲く……水墨画のような色の抑えられた画なのに、その前で踊る娘役たちのきらびやかさを映して華やぐ。
 そして、舞台全面の桜の木。最初はまだ枝だけで、花はほんのわずか。
 それが次の場面では満開になっている。人の心を狂わせる夜桜のもと、慶次とまつ@あゆっちは積年の想いをあふれさせる。
 その桜が盛りを過ぎる頃、慶次とまつの恋は終焉を迎える……。

 実際に劇中で何日何年時間が流れてるのかは(台詞で明言されていること以外)わかんないけど、説明を超えたところで美しくまとめてあるなと。

 てゆーか、「散らば花のごとく」と桜を作品テーマにしているくせに、「この恋は、この桜の花のように散っていくのですね」とか言わさないところがいい。植爺なら絶対言わせてる(笑)。


 あと映像が小気味いい!と思うのは、最終章の導入部。(わたし、ドラマヲタクでもあるんです……最終回のひとつ前あたりを「いよいよ次週、最終章突入!」とその前回の予告でやたら煽るよねー)

 秀吉@はっちさんに代わり、天下人の輿に乗って現れた家康@ヒロさんが高らかに宣言する。「陣触れをいたす!!」

 そこで戦旗がぶわーっとはためくのが、掲げられるのが、小気味良い。
 舞台で映像を使う、って、こういうことだ!!

 映像、アニメーションである意味。
 「動く」ことの意味。

 ただ直接的な「生身で演じてもええやん」なものを映像にするのでなく、「背景、セットでええやん」なものを映像にするのでなく。
 映像でなきゃ、アニメでなきゃいけない、この効果はのぞめない、ということを、短くやって見せて、すぐに次の場へ移る、てのがいいね。
 せっかくのナマの舞台で、長々と映像見せられてもしらけるしね。
 ……って、だからこそちょっと、オープニングの長さは残念かな。
 巨人のくだりはカットしても……(笑)。
 『一夢庵風流記 前田慶次』を、ちょー個人的ツボ語りする。

 庄司又左衛門@がおりが、カッコよすぎる。
 良い役だなー、いい役者だなー。

 又左さんは原作由来のキャラだから、息子といつも連れ立って登場しているんだけど、このキャラクタのポイントは「二人連れ」ってことよね。
 ひとりだと、又左さんの格好良さはここまで出ていない。
 彼がひとりで登場してべらべらひとりごと言ったり、慶次@えりたん相手に聞かれてもいないことを喋り出したりしたら、興ざめ。男が下がる。
 相棒がいることで、会話が自然になり、情報伝達量が格段に上がる。
 ではその相棒はどんなモノでもいいのか、つーと、んなこたぁーない。やっぱ「男を上げる」には、「優秀な男」が「又左衛門を敬愛している」ことが重要。
 阿呆に惚れ込まれ、持ち上げられてもあまり意味はない。もちろん、微笑ましい図だし、その阿呆が愛すべき三枚目として機能し、場を盛り上げる効果はある(=慶次と重太夫@ともみん)が、それはあくまでも主役サイドで、尺を取ってその関係性を書き込む場合。短い出番と少ない台詞では、相棒が阿呆だと「あんなまぬけにしか認められてない残念な男」という印象になる。
 だから、出番が限られている以上、相棒は「優秀な男」がいい。「あんなに優秀な男が敬服し、付き従っているのか!」という付加価値大事。
 で、出番が短い以上、その「優秀な男」と又左さんの関係をくどくど説明するのは難しい。主従萌えというジャンルが形成されているくらい、ここは重要ポイントなんだが、「部下」だと、「なんで部下がいるの?」ってことになり、説明が煩雑になる。ただでさえ説明することが山ほどある舞台なのに、いらん設定と説明台詞は抑えたい。

 ということからも、「息子」ってのはうまい設定だよなー。
 「こちらは私の息子」とひとこと言うだけで、全説明完了。誰もそれ以上の解説を必要としない。

 や、原作が親子だからということじゃなくてな。庄司親子はオリキャラにオリジナルストーリー扱いだから、こういう描き方をしているのは大野くんだもの。

 又左さんのいちばん多い台詞は「甚内」、そして息子の甚内@かなとのいちばん多い台詞は「父上」、ってくらい、ふたりだけの世界。

 親子でなく、傀儡の衆の長と副官にした方が、腐女子向き設定だけどな(笑)。絶対同人誌出るレベルだけどな(笑)。
 でもここはストイックに親子で!!

 又左さんのいちばんかっこいいところは、わたし的にはラストの立ち回りよりも、いちばん最初の、刀を収めるところ!!

 加賀@ヒメ、国@さらさに鼻の下のばした慶次が反対に襲われちゃって、甚内が捨丸@みゆを取り押さえて、又左衛門は抜刀して慶次の背中を守って。

 緊迫した空気ののち、慶次が寝たふりしている重太夫に蹴り入れつつ訊問しているとき。
 観客がゆかいなともみんを見て大笑いしているそのときですよ、がおりさんがちょーかっけーの!! みんな、上手側のがおりさん見て!!

 無言で刀を鞘に収める姿が、ぞくぞくするくらい、かっこいい。
 おっさん役なのに。白髪入ってるのに。
 いや、おっさんだからこそ、白髪入ってるからこそ、かっこいいのだ!!
 若造ではないからこその、美しさだ。


 『一夢庵風流記 前田慶次』は、とても男性的な物語だと思う。男子の萌えがいっぱい詰まってるから。
 重太夫はまさに「男子向きエンタメのお約束キャラ」だし、この庄司又左衛門というキャラも、恥ずかしいくらいの「男の夢」まんまだ。

 又左さんがこんなキャラになっているのは、大野せんせ主導なのか、それてもがおりさんゆえなのか、知りたいところだ。
 というのも、又左衛門はあまりにも「男子の夢」であり、「女子向き」ではないためだ。

 ぶっちゃけ、この役、専科さんでもよくね? や、専科さんにこれ以上出て欲しいわけじゃない、組子だけで十分、がおりで十分、がおりだからいい。
 そうじゃなくて、「役」があまりにも「専科のおじさま」的。

 役として十分機能しているんだけど、それは男子マンガ的な意味であって、少女マンガとかタカラヅカ的には、ちょっとチガウと思うんだ。
 つまり。
 色気がない。

 庄司又左衛門という役の設定、台詞など、資料だけ渡されたら、もっと色気のある……なんつーんだ、「現役感」のある役を想像すると思うんだ。
 ここまで、男として「枯れた」感じじゃなくて。

 白髪交じりのおっさんでいい、傀儡の長としての重責や思うように生きられない挫折感でうちひしがれていてもいい、それゆえに道を誤ってもいい、……それでもなお、あるだろう、色気が。「美形悪役」的な。

 がおりんてば、なんでこうも枯れてるんだ……。
 本モノの専科のおじさまが演じているようだよ……。

 又左衛門が美形おじさまとして匂い立っていれば、またチガウと思うんだ。
 エロは雪丸@まっつ担当、と決めつける必要はない。色気には娼婦の色気と尼僧の色気と2種類あるんだよ、闇属性の色気はまっつに任せて、がおりんは心正しきゆえの色気を、又左衛門で出すべきだったんじゃないか?

 大野せんせが「又左は男の夢、女向けのフェロモン不要」と指示し、がおりさんは枯れた本専科さんみたいになってるの?
 それとも。
 がおりさんがふつーに又左を演じると、枯れてしまうの……?

 えーと。がおりで、エロエロな役ってなにか、あったかなあ?
 今まで見たことあったっけ……? 『ロシアン・ブルー』新公のラスボスとか……?
 『若き日の唄は忘れじ』の加治様……?
 (どれも大野作品)

 がおりんはとてもうまい人で、得がたい役者さんだと思っている。
 でもなんか、こういう「二枚目役」で、色気を出してこない芸風に、危惧をおぼえる。
 たとえばきんぐなんか、どんだけおっさん役でもちゃんと美形で色っぽいぞ? そういう「スターならでは」の部分をきちんと押さえてるぞ? 同期の朝風くんだって、悪役だろうと善人役だろうと、いつも必ず欠かさずエロいぞ?
 本当に枯れるのは、まだ先でいいじゃん。がおり、90期なんだから。まだ研11なんだから。
 おっさん役が出来るのは強みだし、これからの雪組、そしてタカラヅカに必要だけど、それはそれとして、美形役もおいしく調理出来る脂っぽさを持っていて欲しい。


 ……と言いつつ、今の枯れた又左さん、好きなんだよなー。
 がおり、ほんといい男だわー。だからこそつい、老婆心であれこれ言っちゃうのよ。
 『一夢庵風流記 前田慶次』の、ちょー個人的ツボを語る!!

 てことで。

 質問、質問!
 誰か答えて。

 庄司甚内@かなとくんって、どんな人?

 よくわからないの。
 わからないから、見てしまうの。
 てゆーか釘付けレベルなの。
 ちょっとコレってナニ、やばいわ、ツボ過ぎるんですけど彼!!


 甚内くんには、台詞があまりない。
 いつもパパの又左衛門さん@がおりとニコイチ。
 パパに従順で、「甚内!」の一言でウメガイを投げる。なにソレ、ふたりの間に言葉いらないの? なにそれ、らぶらぶ?

 概ね無口で無表情。
 でも穏やかな性格ではないらしく、たまにクチを開くとけっこう毒舌で乱暴。
 無口な分、口より先に手が出るらしく、ウメガイ投げちゃう。甚内様、危のうございます……まったくな。

 そして、なんか知らんが、大きな瞳が、うるうるしている。
 無口で腕が立ち、有事には誰より先に武器を取る、険呑な青年なのに……何故そんなに、いつも瞳がうるうるしてるんだっ。
 犯罪だろそれはっ。けしからん!

 でもって、パパが大好き。
 パパにだけは、すっげー無邪気な笑顔を見せる。

 なにそれひどい、反則よ、ありえないわ、萌えキャラ過ぎる!!

 又左さんと甚内くんの登場シーンは、必見です。
 慶次@えりたんが傾奇者相手に大暴れしてるあたりで、上手花道に出てきます。
 ここでは甚内くん、すげー素直に笑ってます。大きな瞳キラキラさせてます。パパと仲良し過ぎます。
 パパもそんな息子が可愛くて仕方ない様子です。
 息子はパパよりでかいのに、子犬みたいになついてます。パパも自分より大きな男相手に目を細めてます。やだもうこいつら、いちゃいちゃしすぎ!!

 そのかわいいふたりが、不穏な空気を感じるとさっと戦闘モードになるの。
 パパの「甚内!」のひとことだけで、甚内くんはウメガイをばしっとな。
 その変わりっぷりがたまらん。萌える。

 慶次に向ける楽しそうな目も、重太夫@ともみんを鼻で笑うのも、いちいちかわいいです、素敵です。

 そうやって慶次に好意を持ったっぽいのに、傀儡のアジトに慶次が現れたときは、甚内くんはあったりまえに刀に手をかけてるしね。
 パパ以外、誰も信用してない。……だから、いちいち、いちいち、たまらんて!

 でもって、そんだけパパが好きで、パパだけが世界の中心で。

 なのに、そのパパの最期を見届けるのも、甚内くんの役目で。

 パパに絶対服従だから、「お前は手を出すな」と言われたら、ほんとにもう、ナニもしないの。
 ただ黙って、パパが決闘して負ける様を見ることになるの。

 又左衛門さんが、マジいい男でねえ。いい男過ぎてねええ。
 こんだけいい男が父親だと、そりゃ息子も大変だわ。

 又左さんは、その生き方で、息子を育ててきたんだと思う。
 口で説教するのではなく、自分の生き様を見せることで。
 不器用かもしれない、間違っているのかもしれない。だけどその志一途な背中を見て、息子は育ってきた。誰よりも、父を愛して。尊敬して。

 甚内へ遺言を残し、又左衛門は父としても傀儡の長としての役目も終える。すべては息子へ託した、
 だから、又左衛門はひとりの男として、慶次と対峙する。
 闘う必要なんかない。殺し合う必要なんかない。
 慶次の敵となったのは傀儡の長として必要だったからだけど、こんだけぐたぐたになったあとで、慶次と命のやり取りをする意味はない。
 だから、長としてではなく、ただの男として、刀を握る。

 役目を背負って生きてきた父が、すべてを投げ捨てて、己が欲望のみに動いている。
「父は意地を押し通す」

 意地を通すために死を選ぶとか、あり得ない。女性目線だとそうだよね。
 だからこれは、ほんと男子脳で出来上がった作品で。
 自分が心酔した男だからこそ、闘いたい。破れることはわかっている、死ぬことはわかっている、それでも、己れの腕を試したい、闘って死にたい。

 そんな父親の姿を、黙って見守る息子。

 意地を押し通して死ぬ父を目の前にした息子は、これからどう生きるのだろうか。

 言われた通り手出しせずに、なにもせずに見守って、倒れた父にすがりついて泣きわめいて。
 彼の慟哭が、激しすぎて。


 慶次と敵対してからはずっと、険しい表情しか見せてなかったけど、登場したときは彼、笑ってたもの。ひとなつこいわんこみたいに、パパになついてたもの。
 その無邪気な少年の顔が記憶にあるだけに。


 そして、ラストシーン。
 エピローグの合戦シーンにて、銀橋で主題歌を歌う慶次を取り囲むように、次々となつかしい人々が現れる。

 そのなかに、庄司親子もいる。

 出演者全員が舞台上に現れるのだが、よくある「全員集合」ではない。
 死んだ人と生きている人は、きっちり線引きされている。
 舞台上の台の上を通る、台の上にいる人は、この世にいない人。

 庄司親子は下手から登場する。いつもそうであったように、ふたり連れ立って。そうそれは、見慣れた光景。
 舞台の反対側、上手の台の上に雪丸@まっつが加奈@せしこの肩を抱いてラブく並んでいるのと、対照的。
 見慣れない光景と、見慣れた光景。

 でも、又左衛門ひとり、舞台奥へ進もうとする。
 甚内は父を止める。「行かないで」と首を振る。
 大きな瞳をうるうるさせて、「いやいや」をするみたいに、首を振るんだよちょっと!!

 父は息子と別れ、ひとりで舞台奥の台の上へ。
 父に置いてゆかれた息子は、キッ、と表情を改める。
 そして、ひとりで歩き出す。

 雪丸と加奈が手を取り合って歩いて行くのと反対に。反対方向に。


 最後の「いやいや」がね……破壊力MAX。

 ナニしてくれんだよ……萌え殺す気か。


 登場シーンの、「パパにだけ見せる無邪気な笑顔」と、最後のこの「いやいや」は、セットですよ!
 両方観てこそ、完結するのですよ!!

 はー……。

 わかんないわー。
 甚内くんってナニ。
 ナニあの素敵な萌えキャラ。

 いまいちすぱっと答えの出ないところがもう、萌える。
 たまらんわー。

1 2

 

日記内を検索