たっつたひとつの台詞の有無で。@星逢一夜
2015年9月20日 タカラヅカ 盛り上がっていた気持ちが鎮静した、東宝『星逢一夜』。
実際、不思議だ。
同じ作品なのに、ムラで観たときほどわくわくしないのは何故。
脚本・演出共に大きな変更があったわけじゃない。変更してほしいところもいろいろあるのに、変更なし。
ムラで超好評だった源太少年の「待って~~」がなくなったくらいか、わかりやすい変更部分って。
超好評だった「待って~~」をなくした、演出家の真意はわからない。公式発表されているわけじゃないからな。
ただ、想像は出来る。
リピート前提、「作品ファン」<「役者ファン」であるタカラヅカの特性として、源太の「待って~~」自体を「かわいい」と思って笑う人より、源太を演じているだいもんがかわいい・だいもんだから「かわいい」と思って笑う人が圧倒的に多い。ゆえにそれは「待ち構えた笑い」であり、作品への反応ではない。
作品とは無関係に、ファンが目当てのスターを観て過剰反応している。作品無視。だいもんがかわいければ、作品なんかどーでもいー。……極論を言えば、そういう類いの反応なわけだ。
それは、クリエイターとしては面白くないだろ。面白くないし、作品の本質を損なうモノだと判断して、削除する可能性はある。
あくまでも可能性、わたしの想像だ。
どんな理由があったのかはわからないけれど、好評だったモノをわざわざ削除することも(観客よりも自分の作品が大事?)、また、もともと「必要だから」あったモノを削除したことによる作品全体への影響を考えても(作品よりも自分のプライドが大事?)、あまりいい印象のない変更だ。
源太の「待って~~」がなくなったことは、観る前から知っていた。東宝初日からすでに人の口に上がっていたので。
ムラでの客席の過剰反応を知っているから「仕方ないか」と思ったし、その程度の変更は「ささやか」だと思っていた。だって所詮台詞ひとつ、あってもなくてもかまわない程度のものだと。わたしはだいもん好きだから残念だけどさ~~、てな。
が、実際に「待って~~」のない『星逢一夜』を観てみると、「待って~~」のあるなしでかなり印象がチガウ。
かわいいだいもんが観られなくて残念、というファン目線だけでなく、子ども時代編の緩急、源太のキャラクタ、晴興+泉、と源太、という関係性に変化が出る。
で、こんだけ作品自体に影響があるのに、ただ削除しただけで、なんのフォローもされていないことに疑問を持った。
計算してなくしたというより、ただ単に削った、と思えた。
「待って~~」はいいガス抜きだったんだな。あそこで観客が笑い、劇場全体の空気が変わる。そこで切り替えが出来たあとで、紀之介たちの「希望」のある場面に続くわけだ。
「待って~~」がなくなったことで、ガス抜きナシの同じ重さのまま子ども時代は終始する。せっかく子ども時代ラストは「希望」なのに、メリハリ薄く、前景から同じ角度で上向いてきただけ。
次に少年時代に続くのだけど、ここで氷太@大ちゃんがことさらな笑いを取る。ここの「笑い」は「笑わせるための滑稽な芝居」であり、それまで抜くところがないまま進んできたゆえ、とても唐突だ。
大ちゃんのキャラクタも加わり、氷太という役が作品の中で特殊な目立ち方をする。つまり、「イロモノ」「笑わせ役」としてだ。
作者は氷太をそういう意味で使っているのだとわかってはいるし、大ちゃんの舞台クラッシャー資質を見込んでのアテ書きであり、彼の正しい使い方だとも思っている。彼ひとりで十分空気をクラッシュ出来るから、作者の予定では「笑い」は氷太の滑稽さのみ、だったんだろうなあ。
それはそれでいいと思うが、ムラでの緩急が心地よかったため、東宝の「同じテンション芝居がえんえん続く」「突然大ちゃんひとりでどっかん」は、バランス悪く感じた。
改悪された、と思った。
実際、不思議だ。
同じ作品なのに、ムラで観たときほどわくわくしないのは何故。
脚本・演出共に大きな変更があったわけじゃない。変更してほしいところもいろいろあるのに、変更なし。
ムラで超好評だった源太少年の「待って~~」がなくなったくらいか、わかりやすい変更部分って。
超好評だった「待って~~」をなくした、演出家の真意はわからない。公式発表されているわけじゃないからな。
ただ、想像は出来る。
リピート前提、「作品ファン」<「役者ファン」であるタカラヅカの特性として、源太の「待って~~」自体を「かわいい」と思って笑う人より、源太を演じているだいもんがかわいい・だいもんだから「かわいい」と思って笑う人が圧倒的に多い。ゆえにそれは「待ち構えた笑い」であり、作品への反応ではない。
作品とは無関係に、ファンが目当てのスターを観て過剰反応している。作品無視。だいもんがかわいければ、作品なんかどーでもいー。……極論を言えば、そういう類いの反応なわけだ。
それは、クリエイターとしては面白くないだろ。面白くないし、作品の本質を損なうモノだと判断して、削除する可能性はある。
あくまでも可能性、わたしの想像だ。
どんな理由があったのかはわからないけれど、好評だったモノをわざわざ削除することも(観客よりも自分の作品が大事?)、また、もともと「必要だから」あったモノを削除したことによる作品全体への影響を考えても(作品よりも自分のプライドが大事?)、あまりいい印象のない変更だ。
源太の「待って~~」がなくなったことは、観る前から知っていた。東宝初日からすでに人の口に上がっていたので。
ムラでの客席の過剰反応を知っているから「仕方ないか」と思ったし、その程度の変更は「ささやか」だと思っていた。だって所詮台詞ひとつ、あってもなくてもかまわない程度のものだと。わたしはだいもん好きだから残念だけどさ~~、てな。
が、実際に「待って~~」のない『星逢一夜』を観てみると、「待って~~」のあるなしでかなり印象がチガウ。
かわいいだいもんが観られなくて残念、というファン目線だけでなく、子ども時代編の緩急、源太のキャラクタ、晴興+泉、と源太、という関係性に変化が出る。
で、こんだけ作品自体に影響があるのに、ただ削除しただけで、なんのフォローもされていないことに疑問を持った。
計算してなくしたというより、ただ単に削った、と思えた。
「待って~~」はいいガス抜きだったんだな。あそこで観客が笑い、劇場全体の空気が変わる。そこで切り替えが出来たあとで、紀之介たちの「希望」のある場面に続くわけだ。
「待って~~」がなくなったことで、ガス抜きナシの同じ重さのまま子ども時代は終始する。せっかく子ども時代ラストは「希望」なのに、メリハリ薄く、前景から同じ角度で上向いてきただけ。
次に少年時代に続くのだけど、ここで氷太@大ちゃんがことさらな笑いを取る。ここの「笑い」は「笑わせるための滑稽な芝居」であり、それまで抜くところがないまま進んできたゆえ、とても唐突だ。
大ちゃんのキャラクタも加わり、氷太という役が作品の中で特殊な目立ち方をする。つまり、「イロモノ」「笑わせ役」としてだ。
作者は氷太をそういう意味で使っているのだとわかってはいるし、大ちゃんの舞台クラッシャー資質を見込んでのアテ書きであり、彼の正しい使い方だとも思っている。彼ひとりで十分空気をクラッシュ出来るから、作者の予定では「笑い」は氷太の滑稽さのみ、だったんだろうなあ。
それはそれでいいと思うが、ムラでの緩急が心地よかったため、東宝の「同じテンション芝居がえんえん続く」「突然大ちゃんひとりでどっかん」は、バランス悪く感じた。
改悪された、と思った。