今更だけど、宙組バウ『双頭の鷲』の話。

 2回目を観に行った。
 泣いた。
 最初っから泣けて泣けてしょうがない。

 張り詰めた空気。決まっている悲劇に向かい進んでいく緊迫感。それでもそこに生きる彼らに同調して未来を忘れ、光を見出す切なさ。

 美しいということ。

 まったく同じ脚本、同じ演出だったとしても、美しくなければこの物語は成立しない。それは「タカラヅカだから」ではなく、もっと根源的なところで。
 美しい、ことがテーマのひとつなんだと思う。いや、最大の、と言ってもいいのかもしれない。他のことを表現したいのなら、もっと別のアプローチがあるはず。あえてこうしているのは、「美しくあること」を追求するがゆえ、と思える。

 宙組で公演するのも、それゆえなのかと思う。
 パパラッチはいらない役だし、わたしは彼らが出てくると集中や物語をぶった切られて不愉快だ。だが、まだ宙組だからこれで済んでいるのかとも思う。

 宙のモブさんたちはうるさくない。パパラッチたちはそれぞれキャラクタがあるのだが、キャラがあってなお「薄い」。
 宙組というと「動く大道具」「トップコンビと背景」だった歴史の長い組。スターを生み出さずみんなでモブをがんばり、他組から降ってくるスターを支える、というシステムで運用されている。
 今現在の宙組がどうなのか、これからの宙組がどうなのかは置いて、過去はそうだった。テル時代も「組子ほとんどモブ」の大作ばかり続き、まぁくん時代になってから3作本公演があったが、うち2本が大作で組子はモブだ。
 宙組の育成基盤が、そうなっているのかもしれない。他組からのスターを受け入れやすいように、いつも平らに均してある。突出したモノは作らない。
 組体制の是非ではなく、そういった土台の組ならではの「真ん中を盛り上げる美しさ」を、この作品においてありがたいと思う。

 だからシンプルに、「美しさ」に酔う。
 美しいものを見て、その美しさに息を詰まらせ、涙を流す。

 美しいモノには、多幸感と、一抹の哀しみが必要なのだと思う。
 もしくは、その真逆。
 満ちる哀しみと、一条の光。

 それが、「美しさ」を際立たせるのだと思う。


 みりおんは宙組の美しさに合うと思う。
 花組では薄くて輪郭が分からなかった。花組自体が色濃い組だったから。
 でも宙組ではみりおんの端正さはきれいに周囲にはまり、かつ、一定の重さを持った。
 今回のみりおんを見ながら、きれいな輪郭と世界観に合った薄い色彩を感じた。それでいて、たしかに重みがあることに気づいた。
 そうか、彼女には影がある。
 陰でもない翳りでもない、物理的な、影。光を遮って出来るもの。

 影がある。
 この嘘のように美しい世界で、影がある。

 そこに、在るんだ。

 そんなことを、しみじみと感じてみたり。


 エリザベート役をやった直後にこの作品の「王妃」をやるのは、わざとというか、計算なんだと思う。景子タンにしろみりおんにしろ、観客に『エリザベート』を想像するな、『エリザベート』を上演したことは忘れろ、とは言ってないはず。
 『エリザベート』を上演した組で、エリザベートを演じたみりおんで、この物語を作る意味。
 『ジャン・ルイ・ファージョン』に感じたモノと同種の気概を感じるな、景子せんせに。〇〇といえば**先生の『☆☆』、という一般認識に対する一石というか。景子タン、好戦的だなと。

 みりおんはあらかじめ描かれたガイドラインに沿って忠実に線を引いてくるイメージ。
 景子作品に合う。
 正しく美しく仕上げてくれる。

 そういうところがわたしには物足りないんだろうなとも思う。
 それも含めて、「美しさ」だと思う。景子タンの求める世界。濃すぎたり主張が強すぎると美しさを通り越してグロテスクになったりするから。今の薄さと端正さが必要なんだ。
 だからもう素直に美しさに酔い、涙を流す。
 それが、カタルシスだ。

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