それじゃあ、どうあれば好みだったのか。
 『金色の砂漠』の主人公ギィを考える。

 今のギィは好みじゃない。
 愛を求めるだけで愛しはせず、相手を理解もせず、成長もしない、幼いメンタルの小さな男。
 ギィでいちばん好みじゃないのが、彼が「復讐」を考えるところだ。
 作品のキャッチコピーに使われているくらいだから、興行側のいちばんの「売り」、作者のテーマなんだろう、なのにそこがわたし的にいちばんひっかかる、という悲劇。……や、好きなのにひっかかるって、悲劇です、わたしには。

 『金色の砂漠』は魅力的な物語だ。
 愛を選ぶのがお約束の「ヒロイン」なのに、愛よりも誇りを選ぶタルハーミネはいいキャラだし、王女と奴隷、出生の秘密、復讐と王位奪還、という設定と筋立てもイイ。
 だから、それらを全部そのまま使って、わたし好みのファンタジーにするなら。ひっかかりをなくすなら。

 ギィの精神的立ち位置を変える。

 ギィが幼いまま、ちぃせぇ男のまま、ってのが、わたしの好みじゃないので、彼を大人の男に成長させる(笑)。

 幼い子どもが幼いメンタルなのは別にイイ。でも、成長したら、心も成長してくれないと、つまらない。おもちゃを欲しがって泣く駄々っ子に、大人のわたしは恋出来ない。わたしはママになりたいんじゃないもの。

 ギィは「なんであいつはありがとうって言わないんだ?」とふくれている、小さな男の子。
 自分の行動に、見返りを求めている。
 子どものうちは、それでいい。
 子どもだから、ノープランのままタルハーミネを求めて、駆け落ち失敗しちゃった。
 助けてあげたんだから、感謝されるはず。
 愛したんだから、愛されるはず。
 自分の定規で決めつけて、タルハーミネに見返りを求めていた。

 だけどタルハーミネは、ギィの思うようにはならない。収まらない。
 「奴隷を愛したことなどない」と宣言するタルハーミネを見て、ギィは知る。

 彼女が、ひとりの人間であることを。

 や、そんなことはわかっていたけれど。
 それでも、そのときまでは「なんでありがとうって言わないんだ」と思っていた、子どもの頃のままの思いだった。
 自分の思うままに、相手を変えることだけを考えていた。だから、彼女を奴隷の妻に変えようとした。

 愛していると、妻になると言った、それが真実であるにも関わらず、彼女は王女であることを捨てられなかった。
 そんな風にしか生きられない。
 それが、タルハーミネだ。
 なんでありがとうって言わないか? 言わないのが、タルハーミネだからだ。

 そのことに、はじめて気がついた。

 ありがとうって言って欲しかったら、言ってくれる子を愛すればいいだけのこと。
 言わない子を愛した。
 「誇りなんかどうでもいい、愛が大事」「恥辱なんか平気、愛さえあればいい」そう言う女が欲しかったら、最初からそういう女を愛せばいい。
 誇りを捨てるくらいなら、自分の心も愛する男の命も捨てる、そういう女を、愛したんだ。

 そういう女だから、愛したんだ。

 ギィを見下ろし、「殺せ!」と命ずるタルハーミネに、ギィは微笑みかける。
 自然と浮かんだ微笑みだ。

 ああ、そうだよなあ。あなたなら、王女タルハーミネなら、そうだよなあ。
 そう思ってしまった。
 だから、ギィは微笑む。

 間違っているとかいないとか、誠実ではないとか、裏切りだとか。
 そんな次元の話じゃない。

 そういうあなただから、愛したんだ。

 微笑むギィを見て、タルハーミネは動揺する。激しく。
 それでも彼女は、王女として毅然と立ち続ける。

 そこから先の展開は同じ。
 拷問されて死にかけているギィを、アムダリヤが救う。そして、出生の秘密を告げる。
 男ゆえの潔癖さと身勝手さで、「貞女二夫にまみえず」とならなかった母アムダリヤを激高したその瞬間だけ責めるけれど。
 ねじれた宿命の出口を、母の話に見いだす。

 ギィが復讐を誓う展開も同じ。

 そして、7年後。
 反乱軍のリーダーとなったギィが、仇であるジャハンギール王を倒し、力尽くで王国を得るくだりも、タルハーミネを妻にすると宣言するのも同じ。

 タルハーミネがひとり砂漠へ出て行き、ギィがそれを追うのも同じ。

 ただ、チガウのは、ギィの精神的立ち位置。
 「復讐」を歌いながら、彼の心は別のところにある。



 ……というところで、翌日欄へ続く。

日記内を検索