わたしはこの作品の「ヒロイン」に重きを置いていないのだなあ、と思った。
 新人公演『新源氏物語』を観て。

 本公演でも、ヒロインの藤壷の「顔が見えない」、思い起こすといつも彼女は後ろ頭だったり斜め後ろだったりしても顔を観た覚えがない。演じているかのちゃんに含みがあるわけでもなく、なんでじゃろうのう、単にみりおくんの美しい顔を眺めるのに必死になっているだけかしら、と大してまともに考えもせずにいたんだけど。
 新公を観てわかった。
 演じている人は関係ない、この作品のヒロインに興味ないんだ、わたし。
 新人公演でもやはり、ヒロインの顔を見た記憶が薄い。

 「光源氏」という圧倒的に強い主人公……つーか、主人公のひとり芝居でも大丈夫、てなぐらいそこしかまともに描かれていない作りの作品ゆえに。
 光源氏のみに注目して観ちゃうんだな。


 「ヒロイン」としての藤壷の描き方が、好みではないんだろう。わたしならこうするのに的なもどかしさを終始感じる。
 藤壷をろくに書き込んでないわりに、六条御息所には派手な見せ場があるとか、バランス悪いなっていうか、六条の生き霊は「源氏物語」の花形エピソードだと思うんではずせないのはわかるけど、安直な盛り上がりにかまけて大事なとこおざなりなイメージ。
 それならほんと、六条御息所ヒロインでもよかったな。藤壷をもっとイメージだけにして、六条の目から見た源氏の君を描いちゃえば……って、すでにそれは「わたしが書きたい源氏物語」であって、柴田せんせと別モノ過ぎるわ。

 それはともかく。

 役が少ないと、新人公演が楽しくない……。

 や、名前のついた役はそれなりにあるけど、個別エピソードがないっていうか、にぎやかしに出て来るだけ、の人ばっかで、これじゃ誰がナニをやっていてもよくわかんないよ~~。わたし目もアタマも悪いのよ、個別認識する前に終わっちゃうわ。

 次代の若手スターってなんの役でどこに出ていたの。
 日本物のお化粧だってことも加わって、さらにわかんなくなっていた模様。
 新しい出会いもないまま、今まで知っている人ばかりを見て終了。……って寂しいなヲイ。


 頭中将@マイティーが、美しい。
 うん、知ってる。←

 マイティーがなんか余裕でね。ちょっと引いたところからカレーくんを眺めている感じが、実に頭中将っぽかったの。
 反対に、前回の新公ではどんだけいっぱいいっぱいだったのか、わかるっていうか(笑)。
 新公主演経験者が脇に回って舞台を支える姿は大好物です、その余裕に男らしさを感じるのです。


 顔が好みだったのはなんつっても六条御息所@帆純くん!
 や、あのテの顔好きだわ。友人の水ファンとふたりして、終演後に帆純くんの「顔が好み」と盛り上がった(笑)。

 芝居としては、女役だからな~~。実力がよくわかんない……。男役が見たいっす……。


 弘徽殿の女御@かのちゃん、すごくよかった。なんかなつかしい感じがしたのは、重責のトップ娘役ではなく、活き活きとお芝居していた宙組時代を思い出したから?
 うまくて愛嬌もあり、かわいかった。

 乙羽ちゃん休演が残念っす。朧月夜見たかった……。
 愛乃一真くん注目の新人さんなんだが、うーん、子役だとうまいのかどうかわかんない……。
 春妃うららちゃんは日本物の方が映える顔立ちかもな、と本公演も合わせて考える……きれいだわー。好きだわー、あの鼻。
 ゆーなみくんはいつものゆーなみくん。うまくて安定していて、でもそれ以上前へ出て来ることがないっていうか。しかし、彼自身の本役との差のない役作りというか、……えーと、2番手の役だよねこれ……? ほんと役のない芝居だな。

 わたしの基礎力の低さゆえに下級生ちっともわかんなかった、次回に持ち越しだ、次の新公こそは新たな魅力を持つ下級生くんとの出会いを……。
 と考え、次の瞬間がくりと肩を落とした。

 次、『ミーマイ』じゃん……。
 総モブ必至か……。個別認識できないまま終わる公演2連続か……はは、は……。遠い目。
 なんかすごいことになってるなと……。
雪組公演『るろうに剣心』制作発表会
2015/10/22
10月20日(火)、宝塚歌劇雪組公演 浪漫活劇『るろうに剣心』~原作 和月伸宏「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」(集英社ジャンプ・コミックス刊)~ の制作発表会が行われました。
  
以下写真記事が続くので省略

 今は公式HP発表より先に、リアルタイムで情報が流れる。10月20日の時点で、制作発表会の模様や主な配役、ポスター画像は世に氾濫した。
 6月に演目発表があってから、じらしにじらして、一気に発表か……。

 なんつーかもー、お祭り感半端ナイ。

 花組新公の日に発表するもんだから、集まった友人たちとも当然その話になるし。
 以来、ヅカヲタでない人々にまで、声掛けられるよ、「こあらちゃん、なんかヅカで『るろ剣』やるって?」って。中身まで読まなくても、芸能ニュース欄に載るから、気軽に「ヅカといえばこあらだな」と話題を振ってくれる(笑)。

 いやあ、見事よね、ヅカの三次元化能力。
 『銀河英雄伝説@TAKARAZUKA』でワクテカした、あの興奮再び。
 今回は贔屓組でだから、さらにテンション上がるわー。

 大ちゃんがここに入るのか、とか、れいこがここに食い込んできたのか、とか、えー、だいもんオリキャラかよー、つまんねー! とか、いろいろ思うところはあるのですが(笑)。


 わたしは、ぜんぜん違うことで遠い目をしておりました。

 雪組のみなさん、(というか、主にちぎだいもんに対して)こんなことやってるんだあ、という溜息。

 こんなこと、って、えーと、『るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-』の制作発表ですがナニか?

 『るろ剣』って来年の公演よね。本公演よね。そうよね、そりゃもう次の公演の話するよね。

 わたしの頭の中、まだ『星逢一夜』で、晴興と源太なのに。

 えええ。
 もう『るろ剣』?

 ちぎくんが剣心のコスプレしてなんかやってる……。
 つか、だいもんさん、あーた何者……?

 や、『るろ剣』以前に雪組はもう次の全ツとバウが控えていて、そっちのお稽古はじまってるわけで、晴興も源太もどこにもいないことはわかっているのに。
 こうやって「実際に、目で見せられる」と、がーん、となりますなあ……。
 動画で観ちゃうとね……あー、ほんとにもう、「次」へ進むんだ、世界は進んでいるんだ……。わかっているのに、わかってなかった。


 わたしの頭の中では、陸奥で静かに暮らしている晴興さん(総髪。もう月代を手入れする必要ナイから)と、はるばる彼を追ってやってきた源太(実は生きていた? それとも晴興の生み出した幻?)の物語や、そこへ突然、蟄居を解く、江戸へ戻れという吉宗の命令が来て、混乱するふたりの物語とか、さらには江戸編とか、いろいろドリームが渦巻いていてだね……!!
 まだまだ他の物語の入る隙がないのに、もう「次」なの?! 現実って容赦ないわ!!(笑)

 タカラヅカってすごいね。
 次から次へと供給されていく。
 立ち止まっていられない。

 贔屓がいたときはソレに追われて、ブログをゆっくり書くヒマもなかった。

 贔屓を失い、ライトなヅカヲタである今の立ち位置だからこそ、岸辺から急流を眺めて嘆息する。
 ほんとすげえや、タカラヅカ。


 未来は楽しみだけど、わたしはもう少し自分のペースで、過去を愉しんでいたい。

 ……しかし、楽しみだな。れいこかっけー!! だいもんのラスボス感!!
 わくわくっ。←結局ノセられている
 『相続人の肖像』について、文句をしこたま書いておりますが。

 ムカつくー! きらーい! と思うと同時に、打開案も考えているのよ。
 ぶっ壊れてる、ありえねー!作品だけど、立て直すことは可能。
 わたしは1から別モノを書き直すのではなく、「今あるモノ」をできる限りそのままで、最小限の改稿だけで「別モノ」に作り直すのが好き。
 そういう構成し直しっちゅーか、アタマの体操するのが好きなのね。

 『相続人の肖像』は、1箇所直すだけで、別モノにすることが可能。

 『相続人の肖像』の問題点を整理すると、

・主人公チャーリーが最低最悪
・ストーリー破綻

 というのが、内容的な二大問題点で、わたしはこれによって、

・最低最悪の人物を「魅力的」とする世界観
・ぶっ壊れたあり得ない話なのに、誰も指摘せずに進む(作者の都合)

 ことが逆ツボ、生理的に許せない。

 フィクションだから、主人公が人格者である必要はない。最低な卑怯者でも犯罪者でも、フィクションならアリだ。そこに作劇上の誠実さと、作品内での魅力があれば。
 どっちもないから問題。
 その上、ストーリーが破綻してるときたもんだよ。しかも破綻を隠すためにキャラクタの人格破壊したり、滑稽なお笑い芝居にして誤魔化そうとしたり。

 こんだけ大きくてわかりやすい問題点があると、かえってリカバリがしやすいのよ。

 最初の二大問題点は「今の作品の根幹」だから、そのままとする。ここを変えると、作品を1から作り直すことになってしまう。
 だから、変えるのは後者の二点。最初の問題点によって起こる事象、これを変更する。

 簡単です。

 チャーリーに、ツッコミ役を付ける。

 チャーリーは最低最悪な男だ。これは変わらない。邪悪でバカだからこそ、他人を傷つけ攻撃し、とんでもない騒ぎを起こす。辻褄も整合性もない、ありえないストーリー展開になる。それはすべて、今のまま。

 わたしがダメなのは、チャーリーが最低なのに「魅力的な人物」だとこの世界では思われていること。や、他のキャラクタに責められたりはしてるけど、結局のところ「ボク苦悩してます」とソロ歌ったりして、「正当化」されてるでしょ? ずんちゃんかっこいいし、この歌だけ抜き出して考えたら、なんかいい話みたいだし?的な。
 おかしいのに、「この世界では、おかしくない」とされると、気持ち悪い。や、どこの世界でもおかしいから!

 この矛盾を、「ツッコミ役を作る」ことで、解消できる。

 チャーリーが最低なことを言い出す。→ ツッコミが「アホかお前」と言う。
 チャーリーがバカなことを考え、実行しようとする。→ツッコミが「アホかお前」と言う。

 今のままだと、チャーリーが最低でもバカでも、誰も突っ込まないから「最低でバカがこの世界のふつう」になってしまってるの。感覚が異次元なの。
 それを、ツッコミ役を出すことで、「あ、チャーリーが最低なんだ、最低だと思うわたしはおかしくないんだ」と、感覚の摺り合わせをしてくれる。

 ストーリーを進めるためにあり得ない言動を取らせているのだとしても、そこでいちいち「なんでそんなバカなことをするんだ? おかしいだろ?」と突っ込むキャラがいれば、「作者の都合であり得ない言動をしているんじゃない、あり得ない言動をすることすら、計算なんだ」ということになる。
 だって、作者自身が「ありえねー」って作品中でツッコミ入れてるんだもん、それは「わかった上でボケている」ってことになるよね。
 あ、ツッコミ付きだから今よりずっとライトに、コメディタッチに。


 ……てことで、具体的にどういうキャラを出せばいいのかを次項で語る。
 『相続人の肖像』を、キャラクタもストーリーも今のままで、別モノにしてみよう。改善案を考えてみよう、その2。

 この物語に必要なのは、ツッコミ役。

 チャーリーはおかしい。ストーリーもおかしい。
 だけど、作者自身が「んなアホな」とツッコミをしていけば、その「おかしい」ことが「必然」になる。

 ツッコミ役は、新キャラでもいいし、ハロルド@りくでもいい。
 チャーリーを幼い頃から知っていて、気の置けない間柄。ずばすば本音で話せる相手。

 たとえば幼なじみの「親友」役だとすれば、「お前って昔からそうだよな」とチャーリーのアホな言動にツッコミつつ、ときに叱り、ときになぐさめ、相談相手になり……「そんなバカなことをしたら、お前もみんなも不幸になる。それでもやるって言うなら、もうオレは知らないからな」とケンカ別れエピソード付けて。
 チャーリーは親友のツッコミのおかげで、自分の考えややっていることが「最低」で「バカ」だとわかっていて……それでも、そうせずにはいられない、というあとに引けない状態になっていて。
 それでどれだけたくさんの人を傷つけて、みんなみんな不幸にして、自分も含めてつらいだけだとしても……「僕は、そうしたかったんだ」。

 自分がどんだけ「最低」か、主人公はそれを自覚している。
 そして、その「最低」な男を、「お前は最低だ」と言いながらも、味方になってくれる友人がいる。
 この「自覚」が必須なの。

 壊れた話のキチガイキャラクタたちは、最低なことをしているのにそれを自覚しない。主人公は自分が心地よいというだけで、その行いを「正義」だとし、主人公の信者(作者は友人だと思っている)は、それを止めるにしろ応援するにしろ主人公の正義自体は認めている。
 この行動は「間違っている」、だけど、自分はこうしたい。
 親友の行動は「間違っている」、だけどそんな親友を切り捨てられない自分もまた「間違っている」……そう、「自覚」している。
 主人公を「正義」にするために、世界を歪める……それがいちばん気持ち悪い。植爺とスズキケイの作風の最大の特徴。
 正義でなくていい、間違っていていい、「世界」は歪めるな。

 聖人君子のみが「主人公」にあらず。別に主人公は未熟でも卑怯でも犯罪者でもいい。それは「設定」のひとつだ。その設定を元に、なにを描くか。
 大切なのは、そこだろう。

 主人公は最低。だけど、その事実から逃げず、受け止めている。その上彼には、なにがあっても見捨てず、そばにいてくれる「親友がいる」。
 友人の有無はその人間の「格」に関わる。つまらない男には、ろくな交友関係しかない。権力によって不当に放校されたチャーリーのことを、助けてくれる友人がひとりもいなかったようにね。

 ケンカ別れした親友は、それでもクライマックスで、ここぞ!というところで、チャーリーの味方をしてくれるんですよ。盛り上がりますねえ。

 このツッコミ役を「親友の男」とするのも、ヅカヲタ的にはおいしいです。男同士の友情モノってのは強いニーズがありますから。
 今の友人役として出て来るハロルドくんは、「家が近所」ってだけで、友だちかどうかもあやしい、薄いぺらぺらな関係だから、チガウ。そんなんじゃない、ほんとうの「親友」。


 でも、いちばんいいのはツッコミ役を「幼なじみの女の子」にすることだな。
 古くから屋敷にいる同世代のメイドとか。ぽんぽんケンカして、「ほんとバカですねー」「メイドのくせに主人をバカとか言うな」的な会話をして。
 政略結婚大作戦も、イザベルに恋しちゃったどうしよう!も、そのアホな考えを全部メイドに話していて、その都度きついツッコミされて。
 そして最終的に、そのメイドとくっついちゃえばいいよ。どんだけ最低でもバカでも、なにがあっても赦してくれる、そばにいてくれる、存在。チャーリー、バカだから「メイド」ってだけで軽んじて恋愛対象にしたことなくて、気づいてなかっただけで。

 主人公のチャーリーが人格破綻しているだけあって、ヒロインのイザベルも感情移入しにくい無神経な子なんだよな。
 最低男と無神経少女の恋にときめけ、ってなにソレ、難問過ぎ。
 最低男が主人公なら、ヒロインはその最低さを受け止められる度量が必要。

 ヒロインの設定間違えてるよなー。


 親友でも、恋人でもいい。
 チャーリーが「間違っている」ことを、ストーリー展開が「おかしい」ことを、ツッコミまくり、それでも「すべてを肯定し、見守る」キャラクタをひとり出す。

 これだけで、『相続人の肖像』は今のまんまのキャラとストーリーで、帰結できる。


 ……てさー、考えながら、なんかデジャヴってたんだよねー。
 あれえ? あたしこれなんか知ってる、似たようなことしてたよなー?

 『Victorian Jazz』だ。

 http://koala.diarynote.jp/201212040306192575/ 彼の、生きる目的。@Victorian Jazz
 http://koala.diarynote.jp/201212041521276258/ 人を騙す仕事。@Victorian Jazz

 まず、主人公の言動おかしいって話。↑
 そして、作者の作劇の不誠実さを嘆いている。物語を「軽く」考えているのが引っかかる、と。

 http://koala.diarynote.jp/201212050404506559/ すべての動機は、愛ゆえに・その1。@Victorian Jazz
 http://koala.diarynote.jp/201212050424207288/ すべての動機は、愛ゆえに・その2。@Victorian Jazz

 で、打開案。↑
 キャラもストーリーもそのままに、ひとつ変更するだけで、すべての問題点をクリア出来る、と。

 デジャヴ……つーか、デビュー作から、作風変わってないのか、田渕せんせ。
 不誠実な作劇、ってソコ、わたし的にはいちばんダメだわ……。
 つか、デビュー作と構成的な欠点は同じで、最新作の方がさらに手抜き感強い、って、退化してるってことっすか?
 こわいなソレ。
 いい加減、たぶちくんうきーっ! 以外のことを書こう(笑)。

 『相続人の肖像』は、ずんちゃんバウ初主演おめでとー!公演。

 いやあ、ずんちゃんは学年上がるにつれ、どんどん「美形!」様になっていくねえ。大人になって、頬のまるぷく感がおさまってきて、途端美貌のエンジンかかった感じ。

 チャーリー@ずんちゃんはほんと、カッコイイ。
 クラシックな紳士スタイルが似合う。ノーブルな美しさがいい。
 歌もうまいよねー。

 あと、持ち味が軽くないのが、いいと思う。
 この作品だとずんちゃんの無駄にシリアスな芸風が裏目に出ているのかもしれないけど、チャラくない、真面目な持ち味は「正統派」に通じる。
 マジにドシリアスとか悲劇モノ見てみたいなあ。かっこいいだろうなあ。

 ……だからほんとにもお、作品のひどさが気の毒で。
 なんでこんなキチガイ役をやらされてるんだ……かっこよくもなんともないクズ男を演じつつも、それでも外見はかっこよく見せなければならない、という試練? そんな試練いらない、素直にかっこいいと思える役が見たい……。

 でもほんと、作品がカスな分、ずんちゃんの株は上がった。
 こんな役を、よくがんばって演じた……!


 ハロルド@りくくんはなー……。
 ほんと、へたやなー……(笑)。

 ビジュアルは好みですとも! 昔から一貫して、りくくんは好きだー。
 だからこそ、切ないな。あんなにバリバリ上げられていた時期があったのに、下級生主演バウの脇役をやるようになっちゃったか……。
 ほんとに、もう少し、うまくなってくれればなあ。「ザ・タカラヅカ!」という容姿の持ち主なだけに、惜しいなあ。
 昔のタカラヅカなら、それでももう少し違ったのかもな。以前は「いちばん大切なのは顔と華」で、「実力は不問(音痴大歓迎、問題なし)」だったもんな。今もそりゃ顔と華は重要だけど、「ある程度の実力(歌唱力)」が必須になった模様。歌ウマ好きとしては今の路線基準は大喜びなんだけど……基準変更により路線スターの立ち位置が変わるのを見るのは切ないな。(や、そんな単純なことではないと思っているけれど)

 でもりくくん、楽しそうだ。
 活き活きと舞台にいる姿を見られるのはうれしい。

 しかしハロルドって、どういう役で、どこを狙って作った役なんだろう。
 たぶちくんの脚本も大概だが、演じているのがりくくんなので、さらに破壊力が上がった気がする……。

 演出家の問題以外で、もっとも大きな原因は、ずんちゃんとりくくんの芸風の違いにあるんじゃないかな。
 ずんちゃんのクラシカルな歴史モノ少女マンガみたいな絵柄と、りくくんの現代モノ少年マンガ風の絵柄がミスマッチ。
 ずんちゃんは女性の描いた美形キャラだけど、りくくんは男性の描いた二枚目半キャラなんだよねえ。
 少女マンガを読みたい女性客(タカラヅカファン)には、少女マンガ画風で統一してくれた方が親切だったと思う。
 りくくんは持ち味少年マンガ(の、美形キャラ。顔は濃い)だけど、だからこそ意識して少女マンガのキャラを演じさせるべきだったと思う。
 や、りくくんの破壊的な瞬発力、ある意味ツボだけどさ(笑)。


 株を上げたのはベアトリス@もあちゃん。
 年増のメガネブス(だからひどい扱いしてもヨシ)、という男性向けマンガの記号みたいな扱いのキャラだが、ここはタカラヅカで男性向けじゃない。ヒロインよりもよっぽど感情移入しやすい。

 かわいくていじらしくていいよね!
 ……ただ、観客が揃ってベアトリスに肩入れしちゃうとまずいんじゃないかと思う……作者が想定した役割は「勘違いおバカキャラ、憎めない可愛さはあるけど、主人公がこんなコ選ぶわけないじゃん、問題外!」だと思うので、こんなに真っ当にかわいくていじらしくてよかったのかどうか……。
 ベアトリスがいい子だから、主人公もヒロインも間違いなくより株を下げたわ(笑)。


 下級生バウの楽しみは、大劇場本公演だとモブでしかない子たちの活躍を見られること。
 本公演半分以下の人数、かつ、本公演よりも長い時間使ったミュージカルだ、役が下級生たちにも行きわたる。
 ……が、なんかこの芝居、役が少なかったような。
 ほとんどが屋敷の使用人かー……。
 それぞれ個性出そうとしてたけど、本筋に絡まないので「なくてもいい」モブ会話だけが見せ場とか。
 リピーターなら楽しめるかな。1回だけじゃ彼らの「ストーリー上不要な人間関係」を整理するために意識を向けるのは、あまり楽しいことではなかった。や、2回観たんだけど、2回目も「本筋に関係ない」とわかって観るとさらに、さーっと流れちゃって……わたしには。
 本筋に関係ある上で、その奥の人間関係も匂わせる、なら読み解くのは楽しかったろうけど。
 るいまきせくんの休演が残念だったけど、彼がいたとして使用人のひとりだったわけで……ほんと役がないなー。

 わたし、『the WILD Meets the WILD』は好きじゃなかったんだけど(生田株が暴落した・笑)、今になって「いっくん、やっぱうまいなー」と思った。
 コワレっぷりは『相続人の肖像』とどっこいだけど、とにかく、役が多かった。本筋忘れるくらい、ごちゃごちゃと(笑)。
 モブに近い役でも、なんか萌えがあった。「リピートできたら、あの子もあの子もチェックするのに!」と前のめりにもどかしくなった。

 あの「萌えキャラ尽くし」という厨二な作風は、ヲタクならではだよなー、いっくん。

 美月くんがさー、作品内ではちゃんとした役がついてるにも関わらず、萌え度でいったらちょい役だった『WMW』の方がはるかに上だったなと。
 ベアトリスパパ、他のキャラクタと同じく整合性なさすぎ……この作品の登場人物ってみんなこんなんや。
 しょぼん。
 『相続人の肖像』、ヒロインはイザベル@まどかちゃん。

 主人公チャーリーのことばかりあーだこーだ書いてきたが、ヒロインのイザベルもひどい。

 最初から、なんか変な子ではあったけど……。

「喪も明けていないのに、パーティなんて!」とその恥知らずさをヴァネッサにさんざん嘆かせておいて。
 ヴァネッサの娘で、母に似た「やさしいいい子」として描くつもりだったろう、イザベルが、父の喪中だけど白いドレスを張り切って着ちゃいました、だってダンス踊りたいんだもん!!って……えええ?

 あかん……この子も、無神経や……。

 若い娘さんだから、ドレスやパーティにものすごーく強いあこがれを持っていたにしろ。
 はじめて会うハンサムな義兄チャーリーに惹かれていて、理屈を付けてダンスを踊りたかったにしろ。

 父の喪中にしていいことやないやろ。

 いや別に、してもいいとは思うよ。
 そこは考え方の違い、喪服を着続けることだけが「死者を悼む」ことじゃない。華やかに振る舞いつつ、心の中で悲しみに暮れている場合だってある、「喪中に不謹慎な!」と単純に揚げ足を取りたいわけじゃない。

 そうじゃなくて、彼女の場合、母のヴァネッサが「喪中にパーティなんて!」と強い拒絶を示している。
 母の悲しみを理解している娘なら、自分が継父の死をどう思っているかだけでなく、母の気持ちを慮らないか?
 母を傷つけることになる、と想像しないのか?
 母を傷つけても平気なんだ、とは思わない。そんな子じゃないのはわかる。でも、結果そんな行為を易々としてしまうのだから、想像できなかった、ということだろう。
 …………おバカさん?

 で、この最低主人公とヒロイン、ダンス1曲踊っただけで心変わりするし。
 いがみ合ってたのに、惹かれ合うよーになる。

 ひでーなー。

 チャーリーに比べればよっぽどマシだけどさ。
 ハロルドを振るんだけど、イザベルは最初からずーーっとハロルドの求愛には「迷惑・困惑」という態度だったから。
 カネのためにベアトリスの心を弄んで捨てたチャーリーとは、根本からチガウ。

 にしても、無神経なツンツンキャラは、観客の感情移入を得ることが難しい。
 性格の難をフォローするには、よほどの美貌か演技力か……天性の愛嬌が必要。

 ……なんでこんな難しい役を、研2のお子さまにやらせるかな。

 まどかちゃんは研2のキャリア不足新人にしては、十分よくやっている。よくやってはいるけど……不利だなあ。

 ヒロインをやることだけで手一杯、脚本の粗を補填できるだけの地力がない。

 新人公演『王家に捧ぐ歌』のアイーダは、大任ゆえの必死さが、そのまま役に結びついたと思う。お手本もあったし。
 しかし今回の作品と役は、ただ必死にやっているだけだと、愛らしさが出ないんだよなあ。

 たぶちくんも、まどかちゃんの少女っぽさに着目して「妹キャラ」を振ったのだと思うけど。
 かわいい系にも生意気系にもメーターの振り切れていない、中途半端な妹キャラに、どう萌えればいいのか、正直とまどった。
 てゆーか恋愛部分、雑すぎるやろ……。「1曲デュエットすれば恋に落ちる」って、ヅカの演出家はお約束に頼りすぎてるわ。

 せっかくの若いロリっ娘的新進スターだもの、いっそ思い切り萌えキャラを演じるところを観てみたいわー。
 アイーダのときより太った? って感じの健康的なほっぺを見ながら、どんな役が合うのかしら、と考えた……。
 まあともかく、これ以上丸くならないでほしいなー。


 ヴァネッサ@せーこは、この作品の良心。彼女だけがまとも。
 うまいよねー。ありがたいよねー。
 せーこちゃんって、ずんちゃんとお芝居のカラーが合っていると思うの。
 重みとか陰影とか。
 だから、もっとまともな芝居でずんちゃんと絡んでほしかった……。


 おばーさま@まりんは、なまじうまい人だからか、偽善者を演じると憎らしさ半端ないな。
 ブラックネル夫人@『Ernest in Love』は良かったんだけど、その前のマックス@『エリザベート』がひどかったからさ……その記憶が鮮烈すぎて、「うわ、マックス系再び!」と震撼した。
 自分しか愛していないシシィパパはこわかったわ……そりゃこんな男の血を引き、この男にあこがれている娘の人格と人生、さもありなん、つーか。
 冷血パパを演じたこわい人……その記憶を思い起こさせるような、まりんさんの人でなしぶりがこわかったっす。
 いーやーだーー!!
月組公演『GOLDEN JAZZ』におけるお客様参加の演出について
2015/10/27
月組公演『GOLDEN JAZZ』(宝塚大劇場2015/11/13~12/14、東京宝塚劇場2016/1/3~2/14)では、お客様と月組出演者が主題歌にのって一緒にご参加いただける場面を予定しております。

振付は月組出演者たちが動画でレクチャーいたしております。
ご観劇の際には、ぜひご一緒にお楽しみください。

 勘弁してくれええ。
 おばちゃん、振付とか参加とか無理なんや。運動神経もリズム感もないんや。勘弁してくれええ。

 えーと。
 マジな話、客席参加って、求められてるんですか?

 もちろん、それが楽しい、好き、やりたい、って人もいるだろう。
 でもさ、客席参加が需要あるなら、なんで100年も経つのに参加型の公演が基本になってないの?
 男役と娘役に分かれたように、男役がヒゲをつけたように、それが必要なら、歴史の中でそれが「あたりまえ」に進化していくでしょう。
 100年経ってもなお、観客は客席で歌ったり踊ったりしない、てのはつまり、不要だから、やっていないってことじゃないの?

 ステージと一緒に踊りたい人は、ヅカではなく他のジャンルに行けばいいだけじゃん。
 ヅカはあくまでも「観劇」なんだからさー。

 コンサートの直後の公演でコレっての、ほんとにやだなあ。
 コンサートで味をしめてまたやりたいと思った、ってこと……のように思えて。

 ジェンヌさんはね、楽しいと思うの。いつも一方的に与えるばかりで、目に見える反応が薄くて。
 でもコンサートやると、生の反応が返ってくる。それはライブパフォーマンスを生業とする人にとって、とても快感なんだと思うのよ。

 でも。
 タカラヅカって、そういうところじゃないし。

 星組がコンサートやってから「タカラヅカ」からはずれた方向に盛り上がっていったように、コンサートって諸刃の剣だなあと思う。
 安易に盛り上がるけれど、「タカラヅカ」からは乖離する。

 このまま、「客席参加」がタカラヅカのスタンダードになったら嫌だなあ。

 個人のコンサートなら、わたしはありがたくないにしろ、「アリ」だと思ってるけど……大劇場本公演では、勘弁してくれ。
 ナニも知らずにやってきた団体のおじーちゃんおばーちゃんがぽかーんとする、内輪ウケ状態は嫌だ~~。わたしが町内会の幹事なら「これがタカラヅカなら、来年の観劇会は別の劇団にしよう。タカラヅカってファン以外は置いてけぼりにされるモノなんだわ」って思うわ~~。

 はあ。
 せめてチケット発売前に発表してくれよ。
 もう何枚もチケット買っちゃってるんだよ。定価でさばけると思えないあたりがまたつらいし。(ごめんよ~~、でも現実問題……)
 しょんぼり。
 フォンダリ@すっしーのひとり勝ちに見えた。
 宙組全国ツアー『メランコリック・ジゴロ』のフォンダリ一家。

 ルシル@うらら様を観ながら、不自由な人だなあ、と思った。
 なんでこんなに似合わない格好してるんだろう、せっかく美人なのに。
 そう思った。
 まずビジュアルから違和感を持ったわけだ。
 ……「ルシル」として生きているなら、思わないよなあ、「似合わない格好」とは。だってルシルはそのテイストでその年齢まで生きて、日常を送っているんだもの。
 美しいのも品があるのも考えもの。なんとも収まりが悪い。
 そして、「柄違いの役」をねじ伏せるほど、演技力に恵まれた人でもナイので……彼女の最大の武器「美貌と、そこから出る雰囲気」を使えないと、アウェイ感丸出しになっちゃうのな。

 ミスマッチのおかしさ、というものはある。
 気品ある美女が下品な格好で野蛮なことを言う、ギャップゆえの面白さ。
 演出家もそれを狙って配役したのかもしれない。

 でもそれなら、相手役は彼女の芝居を受けられる人にしないと……。
 ルシルの相手役は、バロット@愛ちゃん。

 愛ちゃんはコメディを得意とするスターさん。
 でも、彼の得意なお笑いキャラって、バロットと対極にあるキャラじゃね?
 能動的というか、自分からガツガツおかしなことを言い、笑わせるタイプ。
 バロットは正塚作品らしい「間」で笑わせるキャラクタだからなあ。正塚芝居出来ない人がやると、キャラの色がくすむなあ。

 うらら様と愛ちゃんは、シリアスに愛を語るとかの方がハマるんじゃないかな。
 正塚芝居のコメディリリーフは任じゃないというか……向いてなさ過ぎて分が悪いというか……。すっしーひとり勝ち。


 てなわけで、わたしにはよりくっきりと、主役ダニエル@まぁくんが浮かび上がって見えた。

 ああ、ダニエル主役だねえ……。
 彼がこの物語の中心にいて、彼がなんやかんや言いつつ回しているんだねえ。
 や、そもそも主役ってそういうもんだけど。『メラコリ』って主役がいちばんふつうで常識人、周囲はとんでもない人ばっかで大変、へたすりゃ主役目立たないよ!的な作りだから。
 ふつーの言動をしてるだけでも、ちゃんと主役として立ち、話を進めていることに感心。
 かっこいいなあ、まぁくん。

 フェリシア@みりおんは、言うほどトロい女の子には見えず……図書館でも先輩とフェリシアだと、先輩の方がイラッとくるキャラだよな、と思えちゃうあたりなあ……(笑)。
 ダニエルとの場面も、台詞もちょっと変わってる? どこか忘れちゃったけど、観ていて「あれ? 違う?」と思う箇所があったよーな。
 つか、ラストがいちばんちがっているような。

 みりおんが演じると、リアルになる。現実味のある女の子が浮かび上がってくる。
 だから、いかにもフィクションなトロ子ではなく、現実の範囲内の不器用な女の子になるんだろうな。
 ファンタジー感は薄れるのだけど、それはみりおんの持つ味、カラーってやつだから、それゆえの魅力を出していけばいい。

 まぁ様は適度に嘘くさい人(褒め言葉)なので、みりおんの現実味とバランスが取れるといいな。


 なんか勝手に「正塚ってかずきそらタイプ好きじゃね?」と思い込んでいたので、そらくんがモブっていることに違和感を持ちました。や、勝手に。なんの根拠もなく。メインキャラじゃなくても、もっとオイシイ使い方するのかなと。勝手に。
 『スカウト』でだいもんモブなんだー、へー、と思ったのを思い出した。や、だから根拠なし、ただなんとなく、わたしの中でこの辺つながっているらしい(笑)。


 全ツは再演作品が基本とはいえ、まぁくんに正塚が来るとは意外だった。
 だって正塚作品のまぁくん、扱いがいつもひどかったからなー。
 『La Esmeralda』新公では台詞ひとつふたつのモブ(同期や下級生が番手役)、『カナリア』再演では3番手役が7期も下の子で、まぁくんは4番手役やってたんすよ、大劇場本公演で3番手役を役替わりで演じているようなときに、別箱公演で番手オトされるって……。
 まあ、正塚せんせ、個性的な配役するからなー。
 『カナリア』を観たモノとしては、感慨深いっす……正塚作品で主役を演じているまぁくん!!

 ただ、なんつーか、まぁくんは正塚役者ではないんだなあ、と思った。正塚芝居で主役を演じているからこそ、感じた。
 育ちってのは出てしまうものなのか……まぁくんって現代の若者なんだけど、植爺-谷ラインにがっつり育てられた人、という感じ。大芝居系っていうか。
 だからこそ正塚とは接点なくきたんだろうな、とか、だからこそ真ん中向きなんだろうなとか、とりとめなく考えた。

 まぁくんの持つ嘘くささ(褒め言葉)は、ヅカの骨組みである「大仰な嘘」にしっかり根っこを張って育ってきたところにあるのかなと思ってみたり。
 タカラヅカに必要なのは「幻想(嘘、ハッタリ)」だもん。
 植爺や谷の歌舞伎や時代劇は、タカラヅカというファンタジーを作る方法のひとつだった。や、現代では古すぎて、そのまんまじゃ無理なんだけど。
 まぁくんは花組御曹司として劇団重鎮に育てられたもんだから、その古い基盤をしっかり踏襲していて、その上で今風のチャラい芸風を後天的に意識的に身に付けたもんだから……イイ感じにミックスされてる。

 これからも愉しみだなー。
 全国ツアーは再演作品になる。
 これは基本。だから、再演自体に問題はない。

 ただ、新鮮味のない「再演」はつまんないなあ。
 特に、ショー。

 中日公演の『シトラスの風II』を観ていないので、わたしが『シトラスの風』を観たのは前世紀が最後だ。84期初舞台公演、宙組創設公演。
 たかちゃんファンだったわたしはもちろん複数回ナマで観ているし、新しい組の誕生にどきどきわくわく、感動して観ていた……のを覚えている。
 再演を観ていないんだから、17年ぶりの『シトラスの風』体験になるわけだ。

 なのに。
 『シトラスの風III』の、新鮮味のなさはどうだ。

 ぶっちゃけ、「明日へのエナジー」見飽きた。

 この17年の間に、「明日エナ」何回やったよ……。

 『シトラスの風』はこれでようやく2回目の再演なのに、「明日エナ」だけは何回も何回もあちこちで、えんえん。

 「名場面」と言われる場面を、1回限りの使い捨てで終わらせるのは惜しい。ショーなんて場面ごとが独立した存在だから、名場面だけ別の作品に入れても構成的には破綻しない。だから、リサイクルする。
 ……のは、別にいい。実際「明日エナ」は素晴らしい場面だ。

 しかし、そうやってリサイクルに出した作品は、もう元の作品としては不完全である。
 1枚の絵から、「この風車だけはよく描けたんだよねー。このまま埋まらせるのは惜しいから、今描いてる絵に貼り付けようっと」と、一部分切り抜いた。新しい絵はそれで1枚の絵に仕上がったかもしれないが、元の絵は、一部分が切り取られて空洞になっている。
 その空洞になった絵を、「商品です。お金出して買ってください」と出してくるのはよせ。
「空洞じゃないですよ、切り抜いた風車はまた新しい絵から引っぺがして、元の場所に貼りましたから!」……って、そういう問題じゃない、切り取ったあとが残ってるし、この風車を使った別の絵で商売したあとじゃん!

 繰り返すが、「明日エナ」は名場面だから、使い回すこと自体は別にいい。
 でも、「明日エナ」ありきの『シトラスの風』を再演するのは、「なんかチガウ」と思う。
 なまじ、「明日エナ」が正しく機能していた初演『シトラスの風』を知っているから。
 あちこちで便利使いされて色褪せた「明日エナ」を「貼り戻した」様を見せられてもなあ。

 なんで今、『シトラスの風』で、なにが『シトラスの風III』なんだろう?
 まぁ様と新生宙組に、はたしてこの作品がベストか? 他に選択肢は、可能性はなかったのか?
 何故『シトラスの風』の焼き直し、『シトラスの風III』か。

 ……わたしには、ただの手抜きに見えた。


 まあねえ、岡田せんせになんの期待もしてないけどさー。
 過去作品の切り貼りだけでなんとか体裁取り繕ってるご老体だもんなー。
 『Rose Garden』の薔薇を水仙に変換しただけで『ナルシス・ノアールII』にしちゃうくらい、プライドも意欲も霧散した人だからなー。テーマ部分変えたら意味ナイ、ってふつーの創作者なら思うことを、まったく考えず、楽することしか頭にないっぽいもんなー。

 それでもみっちゃんの全ツ『Amour それは・・・』は成立していたと思う。
 みっちゃんが昭和スターで、岡田作品と合っていたからだ。
 スターに合うなら、昭和でも過去の遺物でもなんでもいい。タカラヅカはスターありき。

 しかし、まぁくんとみっちゃんを、同じ手法でまとめるのはよせ。

 まぁくんも実は古いタイプのスターさんだと思ってはいるんだけど、それでもみっちゃんとはチガウから! まったくもってチガウから!

 岡田せんせの「ナニも考えてない」ところが痛いです……。

 まぁくんの客席降りの長さはナニゴト。

 みっちゃんはまだ、成立した。
 本気で歌ウマ、プラス、主張の激しい歌声だから。押しつけがましいから、声だけでも存在感ある。や、悪い意味に取らないでくれ、昭和のスターさんってのはそれくらい「やさしくない」強さががあった。
 でも、まぁくんはチガウ。
 空っぽの舞台を客に何分間も眺めさせて問題なし、なほどの圧倒的歌声、では、ごめん、まったくない。歌唱力も、表現力も、押しつけがましさも、すべてにおいて。

 星組全ツと同じく3階席だったんだけど、ちょー歌ウマみっちゃんでも「演出家クソだな(毒舌)」と思ったのに、まぁくんでも同じことをするとか、わたしの岡田嫌いにさらに拍車が掛かりました(笑)。

 創作者としていーかげんな人が嫌なのよ。
 手抜きとか不誠実とか、ほんと無理なのよ。

 創作者として、誇りとこだわりをもって作劇していたら、過去作の切り貼りとか恥ずかしくて出来ないじゃん?
 過去は過去として大切にしたいけど、「それよりもっといいモノを創ってやる」と思うじゃん? 「私の最高傑作は次回作だ」であるべきでしょう?
 そうでなければ、クリエイターなんかやめちまえ。

 と、思っちゃうのよねえ。他人事だから、気軽に。


 今の岡田さんは「終わった人」だと思っているけれど。

 「明日へのエナジー」は素晴らしいと思っている。

 見飽きたとか言ってごめん。
 見飽きるぐらい何度も安く再演され続けてきた、それでも風化しない力強さのある名場面だと思う。

 いいものは何度観たっていい。
 感動する。

 だから。

 こんな素晴らしいモノを創った人に、誠意のナイ作劇をされるのが、エンタメ好きフィクション好きとして、とてもとても残念なんだ。
 『シトラスの風III』の創作意図はどこにあるのだろう?

 『シトラスの風』初演は「宙組スタート」として意欲に満ちたものだったんだなあ、と、焼き直し作『シトラスの風III』を観て、改めて思う。

 初演は、新しく出来た組、新しい意識の組、タカラヅカの未来を担う組……その希望と誇りがびんびん伝わってくる公演だった。
 「タカラヅカ」としてやれること、全部やっちゃいます的な。それが行きすぎて、「高校生の創作ダンス・青年の主張演説付き」みたいな、トホホな場面があったりな。

 宙組創設公演の作品を、新生宙組スタートに再演する。
 それだけなら、「スタートだ!」というわくわく感があり、まぁ様率いる新生宙組、今の宙組に相応しいモノだと思える。

 ……けど、実際はどうだろう。
 新生宙組スタート、っぽくなってるか?
 どのへんが?

 初演時は、トップコンビのずんはな、2番手たかこ、3番手ワタル、と、きれいにピラミッドが出来ていた。つか、当時のタカラヅカはそれがあたりまえだった。
 もともとタカラヅカは、トップを中心としたピラミッド制度が似合うカンパニーだった。妙齢の女性だけで構成された劇団ゆえ、表現できるモノに制約がある。限られた範囲で「世界」を構築するのは困難で、それを潤滑にするツールのひとつとして「スター制度」「明確な序列」が有効なんだ。
 なんで何十年もこのシステムで来たのか。それが、有効だからだ。「みんなが主役」「公演ごとに序列が変わる」だと、興行として成立させるのが難しかった。長い歴史の中で、有効なシステムが自然と構築され、根付いた。
 大階段でのパレード、最後に大羽根を背負ったトップスターが登場する、など、無から突然ソレが出来たのではなく、必然的にソコへ行き着いたのだと思う。
 有効だから。
 『シトラスの風』初演もまた、その「タカラヅカの基本」を、「有効なツール」を、当時としてはごくふつうに、そのまんま活用していた。

 のに、『シトラスの風III』では初演のスター配置を無視し、近年のタカラヅカの迷走ぶりを表している。
 つまり、初演のきれいなピラミッドは影を潜め、「トップコンビとその他大勢。番手ぼかしが最優先事項」という構成。

 テル時代の宙組は、トップ以外は誰ひとり立場が決まっておらず、2番手が誰か3番手が誰か不明なだけでなく、トップ娘役が誰かも秘密になっていた。
 たぶん、トップ娘役はみりおんで、2番手がまぁくんなんだろうけど、実際の舞台は、たぶん、としか言えない曖昧なモノだった。
 わたしは裏トップ娘役兼裏2番手のヲヅキファンだったので、彼が宙組で「トップの次の位置」にいるのを、愉しまなかった、というとまったくもって嘘になっちゃうのだけど、古いヅカヲタとして、そーゆー宙組の状態に疑問も持っていた。愉しんでるくせに不満ってなによダブスタひどい。そうなのよ、ダブスタなのよひどいのよ、でも本心。

 テルキタ時代が終わり、新しい時代が来た。
 まぁくんの治世に合わせて組替えしてきたマカゼは、入団前から折り紙付きのトップ候補生、揺るぎない路線人生を歩んできたスターだ。番手ぼかしされることなんてあり得ない、鳴り物入りスター様。
 お披露目公演の『王家に捧ぐ歌』は男役2番手がやるほどの役のない、番手ぼかし作品のひとつだったけど、マカゼに限ってソレはない、たまたま『王家に捧ぐ歌』だっただけで、彼は宙組の単独正2番手だ、今度こそ宙組で、美しいピラミッドを観られるんだ……そう、思っていただけに。

 なんで、せっかくの「新生宙組」で、宙組誕生の番手はっきり『シトラスの風』を持って来て、「番手ぼかしが最優先事項」やっちゃうかな。

 初演で2番手が演じていた役をすっしーに、そして3番手中心だった場面は消去。
 おかげで2番手に大きな役はなくなり、3番手に至っては場面も持たせてもらえず。
 トップコンビ以外は目立たないように気を遣う、宙組の悪しき伝統再び。

 えーと、まぁくんの宙組もこーゆー体制で行くの……?
 まぁくん時代の「はじめてのショー」で、トップから3番手まで全員出演したショーでこういうことされると、「ああ、そうなんだ」と思われても仕方ないよねえ?

 なんで初演でも人気のあった「トップ娘役(美女)を、トップスター(美男子)と2番手(美男子)が争う」という、タカラヅカ定番場面を、「トップコンビの場面」にしてしまうのか。
 たかはな時代はたしかにそうやって、たかはな以外は活躍しないよう気を遣われてきたし、テルキタ時代も番手ぼかしに精を出していたけれど。
 代替わりしてもまだ、そーゆーことをするのか。

 いやあ、たかこの演じた2番手役ですっしーが出て来たときは、アゴが落ちました。
 中日再演時は「2番手」がそもそも出演していない公演で、「トップスター候補」以外にこんな大きな役をやらせるわけにはいかない、ということで、あえてすっしー、という「宙組らしい」配役も仕方なかったのかもしれないけど。(若手にやらせりゃいいじゃん!とわたしは思うけどなー)
 マカゼという劇団お墨付きの「トップスター候補」にすら、「大きな役をやらせるわけにはいかない」のか。宙組って……。
 や、前後にマカゼ中心の、2番手に相応しい場面と役が用意されていて、それゆえにこの役をやることが出来なかったんだと、勝手思って観てたから、それすらなくてさらにアゴを落としたのですよ……宙組ェ………。

 3番手はたぶん愛ちゃんなんだと思うけど、彼にはろくに見せ場がナイ……。真ん中に並んでたから、あの場面は愛ちゃん中心とカウントしていいのかな?程度の、よその組なら番手外の若手でもやっていそうな役割のみ。
 初演では、ワタルくんがやたらめったら長い場面を、タキさんとふたりして任されてたっけ……ちょーびみょーな場面だったけど、それでも「3番手」として立ち位置を示すことは出来た。

 トップコンビ以外は、扱いが軽い。
 今までの宙組と変わらずに。違和感なく。

 新生宙組も、こうなんですかい。
 せっかく『シトラスの風』なのに。
 新しい風が吹かねえ……。


 はじめてのショー作品なんだ、トップから3番手まで勢揃いして出演しているんだ。
 この体制でやりますぜ!! と、お披露目してくれてよかったのに。

 「代替わりしました、でも現状維持です、ヨロシク」てのは、わくわくしない……。
 新生宙組だー! とか、まぁくんとマカゼががっつり組んで全ツってわくわく! とか、まぁくん時代のはじめてのショー作品! とか、いろいろ期待があるけれど。
 ちょっと待って、わたしなんか忘れてる。

 ……はじめての、ショー作品。
 て、ことは、だ。

 まぁくん、初主演?!

 ショー作品にて。

 芝居なら、それこそ新公からはじまって、何十回と経験してきたろうけど。
 役として真ん中に立つのではなく、「朝夏まなと」本人として真ん中に立つのは、はじめて?

 おおお?
 なんかすごくね?

 と、実は幕が下りてから気づいた、『シトラスの風III』初日。

 ショーの主演、てのはトップスターだけの特権と責任だからねえ。
 そうか、まぁくんがついにトップスターかあ……あの貧ちゃんがねえ……。(こあらはまぁくんが貧ちゃんを演じた回を観劇してます。それがまぁくんを個別認識した最初でした)

 それまで完全モブだったのに、『マラケシュ・紅の墓標』新公で突然主演に抜擢された研4のときから、丸10年。「スター」と扱われ続けたまぁくんなので、「ショー初主演」だからナニ?ってもん。
 こちらもすっかり忘れてました。
 まぁくんは真ん中に立つ人、と、ずーっとずーっとあたりまえに劇団が示してきた通りに。
 違和感なく受け止めていた。

 でもなんか、疲れたなあ、と思って。

 幕が下りたあと。
 楽しかったんだけど、なんだ? なんか、疲れたぞ?

 なんでだろ、と考え、まぁくんなんか力入ってたな、テンション上がって力んでるっていうより、なんだ、抜くことが出来ないから硬いままって感じで…………あれ? あ、そういえば、初主演??

 遅ればせながら、気がついた。
 そうか、はじめてだったんだ。そりゃ力も入るわ。
 ベテランの域であることと、はじめてであることが融合して、なんとも疲れるアツさがあった。

 あとになればなるほど、ちょーしこいて……もとい、調子に乗っていくようで、彼のスピード感が頼もしく、でも完全安心も出来ない感じがスリリングで。
 いいよなあ、まぁ様(笑)。


 そして思うんだ。
 あれ、マカゼ氏も……ひょっとして、初全ツ2番手?

 マカゼ氏もほら、抜擢続きでここまで来た、超路線スター様じゃないですか!
 入団した翌年には、大劇場で薔薇の花くわえてせり上がりしちゃうような(新人公演)、とんでもない扱いを劇団からされてきた人ですよっ(笑)。
 しかも若手時代から大物感漂う人でしたから。

 ピンときてなかったわ……こちらも初体験だったのね……。

 マカゼ氏はショーの新公主演経験者なので、キャリア面でまだマシっちゃーマシだけど。
 でもマカゼって全ツ経験自体圧倒的に少ないよね。いつも別箱で芝居やってるイメージ。

 組替えしてきてそれほど経っているわけでもなく、経験自体僅少の全ツで、組としてはじめてのショーで、いきなり2番手スターとして全国回れ、てか。
 そりゃ大任だなああ。
 いっぱいいっぱいにもなるか。

 新公のときは貫禄すらおぼえたのに、今回はなんか余裕ナイ感じだなあ、と思って観てたんだ。そりゃそうか、はじめてなんだ。顔はちょーベテランだから、わかってなかった……。

 といってもわたし、マカゼ氏がノリノリでちょーしこいてるとこ、観たことナイわ。彼はいつも余裕ナッシングな感じ。わたしが初日ばっか観てるせいかもしんないけど。
 表情乏しいせいもあるかもしんないけど。


 まぁくんのギリギリぶりはアツく外に向かっていて、マカゼのぎりぎりぶりは静かに冷や汗かいてる感じ。
 いいコンビじゃないですか、このふたり?

 芝居もショーも、初日の段階ではあまり噛み合っているとは言えず……や、別に悪くないんだけど、相乗効果による+αがなかったので……きっとこれから、なんだろう。
 このふたりは、これからはじまる。
 持ち味の違いが、きっと思いもしない化学反応を起こす。
 わくわくっ。

 見た目の格好良さは、周知のこと。長身の男前がふたり並んでるだけで、なんという破壊力。「ええもん観た~~!」感。
 これで芝居の相乗効果まで加わったら、こわいものなしだな!

 わたしが宙ファンなら、すっげー楽しみに全ツを追いかけただろうなあ。
 ダニエルとスタンは掛け合い命の役だし、ショーは「これから」変わっていくことが予想できる余白がいっぱいだし。

 いいなあ、宙組。
 わくわく。


 みりおんは、なんつーか、変わらずみりおんで。
 いやはや逞しい(笑)。

 まぁくんとマカゼでみりおんを取り合う、ドシリアスなメロドラマとか観たいなああ。
(だから『哀しみのコルドバ』が観たかったってばよ……)


 あ。
 ショーではやたらとかずきそらが目に入りました。
 かずきそら、って実はふたりか3人いるんじゃね?(てくらい、やたら見かけた。どうした、わたしの目)

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