日生劇場『雨に唄えば』観劇。

 ひとことで言えば、「たのしいけれど、萌えない」。

 わたしは原作を知りません。そして、ストーリーなどの知識も一切なく観劇しました。
 たのしく笑いながら観たけれど、心に響くモノはありませんでした。感動もカタルシスもナシ。ただたのしかっただけ。
 もちろんエンタメなんだからそれでいいんだろうけれど、わたしにはとても物足りなかった。

 なにがいけなかったんだろう?
 それを真面目に考えてみる。

 この作品のクライマックスって、どこだろ?
 すべての出来事は、クライマックスの伏線。クライマックスでドカンと大爆発させるために、仕掛けをしていなければならない。
 クライマックスで果てしなく盛り上げたあとに、見事に大団円、すかっと胸のすくようなハッピーエンディング。……というのが、エンタメの望ましい姿。
 しかし、わたしにはこの作品のどこがクライマックスなのか、思い出せない。
 いちばんおもしろかったところは、トウコとまとぶんが悪態つきながらラヴラヴ演技をしているところだし、たのしかったところはトウコ、タニ、うめのタップシーンだとか、トウコがスタジオでうめちゃんを口説くところとか、あちこちにある。
 でも、クライマックスって?
 いちばんの盛り上がりシーンって、どこ?

 盛り上がるシーンと、ストーリー上の転機となるシーンが、噛み合ってないんだよなあ。
 わたしがわくわくしなかった理由のひとつは、それじゃないかと思う。

 銀幕スターのドン@トウコは、スター女優のリナ@まとぶんと組んでお仕事中。映画の中でカップルってことは、プライベートでもカップルである、とマスコミもファンも、そして当のリナも期待している。だけどドンの方はその気ナシ。彼は舞台女優志望のキャシー@うめと出会い、恋をする。
 映画界は今まさに革命真っ直中、トーキーの登場だ。無声映画でぶっちぎりの人気だったドン&リナとその所属映画会社は、突然存続の危機。とにかくトーキーでなければ売れないから、と、付け焼き刃でトーキー映画を作るけれど……前途多難。技術的なこともあるが、いちばん問題なのは主演女優リナの悪声だ。
 これを乗り切るために、ドンの幼馴染みの親友コズモ@タニは「吹き替え」という手段を思いつく。リナは姿だけで、声はすべてキャシーが吹き替えるのだ。
 こうして出来上がったドン&リナの新作トーキー映画は大成功。しかしリナは、これからもキャシーを自分の吹き替え役として利用するつもりで画策していた! このままではキャシーの女優生命が奪われてしまう?!

 主役であるドン@トウコに動きが少ないのが、ものすごーく気になるんだけど。
 なんで彼はこんなに受け身なんだ?
 ストーリーの重要ポイントに関与していないんだよなあ。主役なのに。
 ドンの身の上に起こったことは、「大スター」→「トーキー時代到来による危機感」→「他人のアイディアと他人の力によって危機脱出」→「やっぱり大スター」ということだけなのよね。恋愛パートの方は「キャシーと出会う」→「いったん逃げられる」→「再会。すでにハッピーエンド」と、なんかとってもお手軽。
 ドン自身の物語は、「サイレントからトーキーへ」「キャシーとの恋」の2本だよね。しかしこの2本柱が両方とも、なんとも盛り上がりに欠けるのよ。
 ひとつめの「サイレントからトーキー」、これって、ドン自身には決してマイナスな出来事じゃないのよ。だって彼はリナのような「悪声」ではなく、台詞も歌もちゃんと及第点の俳優だから。たとえ所属映画会社が時代に乗り損ねて沈んだとしても、ドン自身は実力で他の映画会社に行くことができる。簡単なことではないとしても、致命傷だとは思えないんだよね。
 自分で考えて動けば、決して危機ではないだろうに、なにもせずにひとりで危機に陥った気になっている。
 まあ、所属映画会社を簡単に裏切らない、という設定だから仕方ないけど、それにしてもやはり、ドン個人にはなんともぬるい展開だと思うよ。
 ふたつめの「キャシーとの恋」。これもまたぬるい。誰からも愛される大スターとして出会い、袖にされた。再会して告白、ハッピーエンド。だってキャシーもほんとは、大スターのドンに興味大だったんだもん。告られたら即OKしあわせしあわせ。
 トウコとうめちゃんが細かく演技してるから、ふたりが早々にラヴラヴになるのは納得できる。だからべつに、「こんなの変!」とは思わない。ただ、せっかく「物語」のなかで描くのに、こんなに簡単プーな恋愛でいいのかよ?と思うだけだ。
 ハッピーがウリの作品だし、陽気に雨の中を歌い踊るわけだし、暗い部分を描かず、ひたすら人生お手軽に表現しているんだとわかっちゃいるが、わたしの好みじゃない。ツボのちがいでしょうね。痛みもないまましあわせなだけじゃ、雨に唄われても「いいなあ、即席ラーメンみたいな幸福で」と思ってしまうのよ。

 キャシー、あるいはコズモ主役の方が、「物語」としての通りはよかった気がする。

 キャシーは「女優志願」→「大スターとの恋」→「大女優の吹き替え」→「このまま一生吹き替え役?!」→「大どんでん返し、大スターへの道の確立」と、波瀾万丈。この子が主役ならなんの問題もなくエンタメのできあがりだ。

 今回の舞台を見る限り、コズモは最悪だった。いや、わたし的に。
 というのも「この役、いらねーじゃん」と思ったから。
 映画会社(撮影所、と言っていたな)の人たち、所長@星原とか監督@萬あきら様とか宣伝マン@マリコ弟とかで代用OKの役所。ドンがそのときどきに会話をするだけの存在なら。
 「親友」である意味が感じられなかった。
 なんとも薄っぺらな存在。
 たしかに陽気で華やかなんだけど。でもあんた「親友」じゃないよね? ただそこでにこにこ笑ってるだけだよね? 同じ会社の同僚、昼休みに一緒にごはん食べるだけの間柄、って感じだ。もしくはクラス替えでたまたま最初に席が隣だったとか。最初に口をきいたから、以後なんとなく友だち、でも次にクラスが変わったら二度と会うこともないっていうか。
 ……悪いのはタニちゃんなのか、演出なのか。
 ま、それはさておき、コズモ主役なら、もっと切実だったよ「トーキー時代到来」は。だって彼はなにも持たないからね。しがないピアノ弾き。映画会社が傾けば、職を失ってしまう。裏側から映画を作る若者のひとりとして、物語の中心になることができる立場だ。いちばん大きな出来事を動かしたキャラだしね。

 作品を通して、たのしいシーン、しあわせになるシーンはいろいろある。
 だが、それらはストーリー上のポイントとなるシーンとは無関係だったりする。
 その散漫さが、わたしにはつまらなく思えてしまうんだろう。
 つーかどーして、ストーリー上の転機となるシーンを盛り上げないんだ?? クライマックスをスルーして、ただかわいいだけのシーンを盛大にアピールするんだ?
 観ていて落ち着かない……もどかしい……。

 もっともっと、盛り上げられるのに。

 たとえば、ドンとコズモの関係を「深く」することで、ドンの映画への関わり方のぬるさを解消できるのに。
 ドンが映画を愛しているよーには見えないんだもん、今のままだと。おいしいパイがあるから今とりあえずここに腰掛けしてる、って感じ。
 キャシーに映画と役者である自分を揺るがすよーなことを言われたあと、コズモに「おれはいい役者か?」てなことを聞くよね、ドンが。そしてコズモがそれを肯定して、ドンを救うよね。
 あのシーンをどーしてあんな、どーでもいい描き方をしちゃうのかな。
 あそこをちょっと心を込めて描くだけで、ぜんぜん変わってくるのに。
 ドンが弱音を吐く相手、唯一素顔をさらせる相手。そして、それを受け止めてくれる相手。
 ふたりの友情を描き、なおかつ、ドンが映画と今の撮影所の仲間たちを愛していることを表現しておけよ。どこでもいいなんでもいいからここでスターやってんじゃなく、今ここが、この仲間たちがいいから、ここでスターやってるんだってこと。
 コズモがただのお笑い担当でなく、きちんと「親友」であるならば、必然的にドンの恋も盛り上がるのに。
 コズモに弱音をもらすくらい、痛いことを言った女の子との恋だよ。その痛みが恋になるなら、そりゃあまっとーに「恋」だろうよ。簡単お手軽なレトルト恋愛じゃなく。

 と。
 これはもーたんに、わたしの好みじゃなかったってだけだよね。『雨に唄えば』。
 絵に描いた餅みたいな恋と人生。買ってきたお総菜で晩ごはん的なたのしさ。チープで簡単、とりあえず空腹は満たされてしあわせ、って。

 たのしかったさ。
 わたしはヅカファンで、キャストのファンだからな。
 終始たのしんでいたさ。

 でも。
 まったくもって、萌えなかったよ。

 ……しょぼん。


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