わたしはここにいる。@ゼルダ
2003年5月25日 タカラヅカ ひとり芝居『ゼルダ』。
出演、月影瞳。作・演出、荻田浩一。
このために、わざわざ東京まで遠征しました。
場所が原宿ど真ん中。……この芝居の客だけ、あきらかに周囲から浮いている……(笑)。
時代は1920年代。作家スコット・フィッツジェラルドの妻、ゼルダ。
狂乱の時代、狂乱の日々。時代の寵児としてもてはやされた若き作家とその妻のたどった人生を、ピアノの生演奏と美しくも不思議な映像を背景にして綴る、ひとり芝居。
美しい田舎娘のゼルダは、小説家志望の美しい若者、スコットと出会い、恋に落ちる。
ゼルダは貧乏を嫌悪するし、スコットもまた放蕩を愛する。結婚したふたりは、スコットの小説がもたらす莫大な収入を上回るほどの出費をつづけ、贅沢の限りを尽くし遊び暮らした。
スコットの小説のモデルは、いつも彼とゼルダだ。スコットはゼルダを紙の世界に描きつづける。ゼルダもまた、それを踏まえた上で破天荒な生活をつづける。
彼らにとって、毎日がバカ騒ぎ、毎日がパーティだった。
だが、どんなパーティもいつまでもつづくことはない。いつしかふたりはすれちがい、心の溝を大きくしていく。
精神の均衡を失っていくゼルダ。アルコール中毒になるスコット。
黄金の20年代は終わり、大恐慌の時代がやってくる……。
月影瞳、熱演。
休憩なしのノンストップで2時間弱。
絶頂期のゼルダから、発狂、そして死まで。
この物語を、表面通りの「ゼルダの一生」として見た場合は、どうなんだろ。
おもしろいのかしら。
一緒に観に行ったオレンジは、大して感銘は受けなかったようだ。
だがわたしは、感銘どころの騒ぎじゃなかった。
……こわかったよ。
これ、今、わたしが観ていていいのか? と思った。
本当にコレは、「ゼルダ」を描くのが目的だったのか?
描いてあるのは、ゼルダひとりの狂気なのか?
観ている途中から、わたしは舞台の上にもうひとりの影があることに気づいた。
ひとり芝居だから、舞台にいるのはぐんちゃんだけなんだけど。
スコット・フィッツジェラルド。
ゼルダの夫・スコットが、舞台にいる気がした。
ゼルダは乱れる。自堕落な生活。軽薄な日々。
ゼルダは狂う。現実の自分と小説の中の自分。魂は引き裂かれ、悲鳴を上げる。
それはすべて、スコット・フィッツジェラルドの姿ではないのか?
オギーは、ゼルダを通してスコットを描きたかったんじゃないのか?
スコットを主役とした作品なら、いくらでも世にあるだろうから、あえてゼルダに語らせたんじゃないのか?
スコットは、自分が経験したものしか書けない小説家だった。
だからこそ、すすんで小説のネタになる生き方をした。妻のゼルダにもそれを望んだ。ゼルダが実際に言った言葉、したことを小説に書き続けた。
狂っていくゼルダ。
それを小説にするスコット。
……何故?
何故、そうまでして、書くの?
書かなければならないの?
こわかった。
愛した女を壊してまで、それでも「作家」でありつづける男の姿が。
舞台の上にあったもの。
ゼルダを通して存在した、作家スコット・フィッツジェラルド。
こわかったよ。
わたし、これ、観てていいの?
わたしが、観てていいの?
わたしも、モノカキのハシクレなんですけど?
こんなコワイモノ、観てていいのかよっ?!
涙が止まらなくて、苦労した。
ゼルダの狂気はスコットの狂気。そしてそれは、わたし自身の狂気でもあった。
魂を壊してまで小説にしがみつき、表現しつづけ、書き続け、ついに魂の入れ物まで壊して、破滅した作家と、その妻。
彼らはそれでも、幸福であったのだと思う。
そこまで、書き続け、互いにしがみつき続けていたのだから。
……幸福だと思うのは、わたしもモノカキだからか? 作品のために破滅するなら、それもまた幸福だと思うからか?
まったく。
えらいものを観てしまった。
『左眼の恋』ほどのわかりやすさや、とっつきやすさはないのだけど。
痛さは……同じくらいだよ。
ぐんちゃんはきれいでした。
ただ、やっぱ老けたね。おでこのシワは健在。実年齢より上に見える。
あと、まったくのヅカメイクなのにも、おどろいた。こんな小さなハコで何故、そこまでのメイクを??
ぐんちゃんの芝居は苦手なときはとても苦手で、ムラの『凱旋門』のときなんか最悪だと思っていたんだけど、今回はよかったよ。あのリキみすぎてて気持ち悪いところが、なめらかになっていた。
プログラムはぐんちゃんの写真集(笑)。ファンならば買え、って感じ。
映像も不思議できれいでした。ええ、きれいでなきゃやってられない。
つーのも、チケット代6500円は高すぎだろ。目を疑う値段だったのは、映像が高かったせいじゃないかと思うんで。
ドレッサーの鏡がスクリーンになっているんだけど、これが不思議な鏡でね。鏡の下にカメラがあるらしく、静止画はふつうに映像としてスクリーンに映り、被写体が少しでも動くと、その部分だけが水面の波紋のように揺れるの。夢のようにきれいだよ。
……高いんだろうな、あの技術。
鏡の映像が左右逆にならないせいか(カメラで撮影した映像だから)、もうひとつある大きい方のスクリーンの絵は、すべて裏表が逆になっていた。
まるで、今いるここが「鏡の世界」であるように。
24日の昼と、千秋楽である25日の2回観たんだけど。
楽は客席が豪華だったよー。
かよこちゃん。かよこちゃんがいたよー。きゃーっ、ラッキー。ぜんぜん変わってない!(当然か)
星奈優里ちゃんも久々に見た。
楽はWHITEちゃんと一緒だったんだけど。
「緑野がうれしそーにデブなおっさんと喋ってるから」
「デブはともかく……おっさん、って、オギー、わたしらより年下だよ……?」
「ええっ?!」
ロビーでオギーを見つけ、突撃かましました。
ファンです、大阪からきました、いつも作品を観ています、今回の作品もすごくよかったです……。
咄嗟に言葉が選べなかったので、アタマの悪い言葉をえんえん並べ立てました。ははは。
んでもって、サインGET。わーいわーい。オギーにサインもらっちゃったあ。大喜び。
……オギーには迷惑だったでしょう。星奈ちゃんと喋っていたのに、突撃かけられて(話が終わるのを待ちましたよ、いちおー)。だってオギー、後ずさりしていたよーな……で、わたしは彼が下がるぶん前に出るし。
許してくれ、あんなこわい作品を観たあとで、気が高ぶっていたんだよー。
その間WHITEちゃんは、後ろの方でなまあたたかく見守っているし。……君はオギーと喋りたくなかったのか? そっか、興味ないんだね。しょぼん。
わたしはゼルダになりたいし、それ以上にスコットになりたいと思う。そんな、狂ったモノカキだよ。
出演、月影瞳。作・演出、荻田浩一。
このために、わざわざ東京まで遠征しました。
場所が原宿ど真ん中。……この芝居の客だけ、あきらかに周囲から浮いている……(笑)。
時代は1920年代。作家スコット・フィッツジェラルドの妻、ゼルダ。
狂乱の時代、狂乱の日々。時代の寵児としてもてはやされた若き作家とその妻のたどった人生を、ピアノの生演奏と美しくも不思議な映像を背景にして綴る、ひとり芝居。
美しい田舎娘のゼルダは、小説家志望の美しい若者、スコットと出会い、恋に落ちる。
ゼルダは貧乏を嫌悪するし、スコットもまた放蕩を愛する。結婚したふたりは、スコットの小説がもたらす莫大な収入を上回るほどの出費をつづけ、贅沢の限りを尽くし遊び暮らした。
スコットの小説のモデルは、いつも彼とゼルダだ。スコットはゼルダを紙の世界に描きつづける。ゼルダもまた、それを踏まえた上で破天荒な生活をつづける。
彼らにとって、毎日がバカ騒ぎ、毎日がパーティだった。
だが、どんなパーティもいつまでもつづくことはない。いつしかふたりはすれちがい、心の溝を大きくしていく。
精神の均衡を失っていくゼルダ。アルコール中毒になるスコット。
黄金の20年代は終わり、大恐慌の時代がやってくる……。
月影瞳、熱演。
休憩なしのノンストップで2時間弱。
絶頂期のゼルダから、発狂、そして死まで。
この物語を、表面通りの「ゼルダの一生」として見た場合は、どうなんだろ。
おもしろいのかしら。
一緒に観に行ったオレンジは、大して感銘は受けなかったようだ。
だがわたしは、感銘どころの騒ぎじゃなかった。
……こわかったよ。
これ、今、わたしが観ていていいのか? と思った。
本当にコレは、「ゼルダ」を描くのが目的だったのか?
描いてあるのは、ゼルダひとりの狂気なのか?
観ている途中から、わたしは舞台の上にもうひとりの影があることに気づいた。
ひとり芝居だから、舞台にいるのはぐんちゃんだけなんだけど。
スコット・フィッツジェラルド。
ゼルダの夫・スコットが、舞台にいる気がした。
ゼルダは乱れる。自堕落な生活。軽薄な日々。
ゼルダは狂う。現実の自分と小説の中の自分。魂は引き裂かれ、悲鳴を上げる。
それはすべて、スコット・フィッツジェラルドの姿ではないのか?
オギーは、ゼルダを通してスコットを描きたかったんじゃないのか?
スコットを主役とした作品なら、いくらでも世にあるだろうから、あえてゼルダに語らせたんじゃないのか?
スコットは、自分が経験したものしか書けない小説家だった。
だからこそ、すすんで小説のネタになる生き方をした。妻のゼルダにもそれを望んだ。ゼルダが実際に言った言葉、したことを小説に書き続けた。
狂っていくゼルダ。
それを小説にするスコット。
……何故?
何故、そうまでして、書くの?
書かなければならないの?
こわかった。
愛した女を壊してまで、それでも「作家」でありつづける男の姿が。
舞台の上にあったもの。
ゼルダを通して存在した、作家スコット・フィッツジェラルド。
こわかったよ。
わたし、これ、観てていいの?
わたしが、観てていいの?
わたしも、モノカキのハシクレなんですけど?
こんなコワイモノ、観てていいのかよっ?!
涙が止まらなくて、苦労した。
ゼルダの狂気はスコットの狂気。そしてそれは、わたし自身の狂気でもあった。
魂を壊してまで小説にしがみつき、表現しつづけ、書き続け、ついに魂の入れ物まで壊して、破滅した作家と、その妻。
彼らはそれでも、幸福であったのだと思う。
そこまで、書き続け、互いにしがみつき続けていたのだから。
……幸福だと思うのは、わたしもモノカキだからか? 作品のために破滅するなら、それもまた幸福だと思うからか?
まったく。
えらいものを観てしまった。
『左眼の恋』ほどのわかりやすさや、とっつきやすさはないのだけど。
痛さは……同じくらいだよ。
ぐんちゃんはきれいでした。
ただ、やっぱ老けたね。おでこのシワは健在。実年齢より上に見える。
あと、まったくのヅカメイクなのにも、おどろいた。こんな小さなハコで何故、そこまでのメイクを??
ぐんちゃんの芝居は苦手なときはとても苦手で、ムラの『凱旋門』のときなんか最悪だと思っていたんだけど、今回はよかったよ。あのリキみすぎてて気持ち悪いところが、なめらかになっていた。
プログラムはぐんちゃんの写真集(笑)。ファンならば買え、って感じ。
映像も不思議できれいでした。ええ、きれいでなきゃやってられない。
つーのも、チケット代6500円は高すぎだろ。目を疑う値段だったのは、映像が高かったせいじゃないかと思うんで。
ドレッサーの鏡がスクリーンになっているんだけど、これが不思議な鏡でね。鏡の下にカメラがあるらしく、静止画はふつうに映像としてスクリーンに映り、被写体が少しでも動くと、その部分だけが水面の波紋のように揺れるの。夢のようにきれいだよ。
……高いんだろうな、あの技術。
鏡の映像が左右逆にならないせいか(カメラで撮影した映像だから)、もうひとつある大きい方のスクリーンの絵は、すべて裏表が逆になっていた。
まるで、今いるここが「鏡の世界」であるように。
24日の昼と、千秋楽である25日の2回観たんだけど。
楽は客席が豪華だったよー。
かよこちゃん。かよこちゃんがいたよー。きゃーっ、ラッキー。ぜんぜん変わってない!(当然か)
星奈優里ちゃんも久々に見た。
楽はWHITEちゃんと一緒だったんだけど。
「緑野がうれしそーにデブなおっさんと喋ってるから」
「デブはともかく……おっさん、って、オギー、わたしらより年下だよ……?」
「ええっ?!」
ロビーでオギーを見つけ、突撃かましました。
ファンです、大阪からきました、いつも作品を観ています、今回の作品もすごくよかったです……。
咄嗟に言葉が選べなかったので、アタマの悪い言葉をえんえん並べ立てました。ははは。
んでもって、サインGET。わーいわーい。オギーにサインもらっちゃったあ。大喜び。
……オギーには迷惑だったでしょう。星奈ちゃんと喋っていたのに、突撃かけられて(話が終わるのを待ちましたよ、いちおー)。だってオギー、後ずさりしていたよーな……で、わたしは彼が下がるぶん前に出るし。
許してくれ、あんなこわい作品を観たあとで、気が高ぶっていたんだよー。
その間WHITEちゃんは、後ろの方でなまあたたかく見守っているし。……君はオギーと喋りたくなかったのか? そっか、興味ないんだね。しょぼん。
わたしはゼルダになりたいし、それ以上にスコットになりたいと思う。そんな、狂ったモノカキだよ。