さて、花組公演『野風の笛』。

 同じ話、同じ主人公しか書けない谷せんせが何故、今まで演出家としてやってこられたか。
 それは、出演者がそのたびちがったから。
 谷せんせ自身はなんの工夫も変化もしていない。ただ演じる人間がチガウから、その役者自身の持ち味によって、「別の人」に見えていただけ。

 だが、轟はすでに、何回目だ?
 同じ役を演じるの。

 わたしが知っているだけでも、アナジ、龍山、ジュリアンときてるから、今回の忠輝で4回目だよ。
 さすがに、もう無理でしょう。

 トド様……今あなた、なんの役やってますか……? アナジですか、龍山ですか、ジュリアンですか?
 見分け、つきません……。涙。

 いつもの谷作品、いつもの轟。
 ああ、溜息。
 心は冷めるばかり。

 救いは寿美礼ちゃんです。

 わーん、おさちゃ〜〜ん。
 君がいてよかったよおお。

 トド様単独主役で、たとえば雪組で、この作品は観たくなかった。
 だってそれじゃあ、ほんとに今まで通り、過去作品の焼き直し、固有名詞を変えただけのものになっていたもの。
 花組で、寿美礼ちゃんがもうひとりの主役としてずっしり存在してくれていて、ほんとによかった。

 実際、寿美礼ちゃんはオイシイ役。
 谷作品は「英雄に女はいらねえ、男の愛があればいい」というポリシーに貫かれているので、いかなる場合もいちばんオイシイのは2番手男役なのよ。
 しかも今回は2番手ではなく、W主演だよ、そりゃオイシイよ。
 主人公である「英雄」に、谷のエゴがすべて詰まっているだけに、その親友役には「英雄の妻」としての妄想が込められているの。

 英雄の妻。
 ……いいですなあ。

 谷作品のすばらしい特徴、「女はいらない」。……ええ、いついかなるときも、女は添え物。女はただの道具。男の株を上げるためのアクセサリ。
 だから女はどーでもいい扱い。つーか、いなくてもいい役。
 今回も、見事でした。
 ふーちゃん……トップ娘役としてのお披露目公演なのに……。
 いなくてもいい役。
 気の毒にな……。

 ふーちゃんがいなくてもかまわないかわり、寿美礼ちゃんがしっかりトド様の妻の役をこなしていました。
 幼馴染みの仲良し夫婦で、妻は常に夫の3歩後ろを歩くが、いざというときは夫のケツを蹴り飛ばして檄を入れるくらいのことはする、肝の据わり方。いやはや妻の鑑。

 ところで作中で寿美礼ちゃんはふーちゃんを愛してたんですか?
 秘めた恋だか愛だかを歌っていたよーですが、あれってわたし、トドへの愛を秘めてるんだと思ってたんだけど?
 ふーちゃんを愛しているようには見えなかったんだが。つーか、ふーちゃんが彼に愛されるような魅力を持った女性に見えなかったことも大きいんだが。
 あー、寿美礼ちゃん、主であるトド様を愛してるのかー。そりゃあ、臣下の身で打ち明けられるわけがないよなあ。可哀想になあ。
 と、思って観てたんだけど。
 なのにトド様、寿美礼ちゃんに暇を出す、とか言っちゃって。ええっ、いくら寿美礼ちゃんのためだからって、トドを愛している寿美礼ちゃんに別れを言い渡すなんて酷だよー。
 しかもトド様、寿美礼ちゃんにふーちゃんと一緒になっていいぞ、てなことを言うし。
 こっ、このバカちん、ぜんっぜんわかってないじゃん。寿美礼ちゃんが好きなのはアンタであって、あの女じゃないっつーの。ふーちゃんのことは、アンタの女房だから複雑な想いを抱いていただけじゃん。ふーちゃんも寿美礼ちゃんの気持ちを知っているから、ふたりで意味深な会話をしたりしてただけじゃん。
 ……トド……なんてバカ丸出し男。寿美礼ちゃん、こんなバカ男に黙って惚れてないで、襲ってもいいよ……許すよ……。

 てなふーに観ていたんですが。
 わたし、なんかまちがってますか?

 今回の救いは、バカ男トド(世間的には英雄らしい。あちこちで男たちをコマすタラシ男)と、彼に一途に片想いしている寿美礼ちゃん(妻の鑑。美人薄命)という図が、美しくも愉快だったということですか。

 妻とか夫婦とかいっても、あくまでも寿美礼ちゃんの片想い。バカ男は気づいてないの。寿美礼ちゃんの愛と献身があるのは「あたりまえ」だと思ってやがる。
 ……ほんとに、嫌な男だわ、トド。
 ゆみこちゃんだとからんとむだとか、コマシまくってるしねー。そこまで手をつけまくるなら、寿美礼ちゃんにも手を出してやれよっ、と歯がみする想いですわ。

 えーと、わたし的には「トド×おさ」です。
 公演がはじまる前にかねすきさんは、「おさ攻トド受」って決めつけてたけど。そりゃ年取ってからのトド様は受道まっしぐらのていたらくだけど、今回は攻だと思うわよ?
 ……そのうち、寿美礼ちゃんに押し倒されてそーだけど……逆ギレ襲い受だな、あの寿美礼ちゃんは……。

 長く観てきたトドファンにはとほほなばかりだが、寿美礼ちゃんファンには、なかなかときめくところのある作品だ……とくに最期はな……。

 んでもって、『レヴュー誕生』とやらの方は。

 ベタでいいもん。
 わたしは、おさあさのキスシーンのためだけに、通いたいねっ(笑)。あと、すてきすぎる兄貴(笑)。

 目新しさもいやったらしさもないかわり、観たことも忘れそうな凡作だけど、とりあえず、おさあさのエロシーンだけは忘れないと思う。
 わたしはおさ攻の方が好みなんだけど、黒いあさこがかっこいいのでリバ可っす(笑)。

 ただ、あの巨大な白鳥はどうかと思うよ……。出てきた瞬間、場内から失笑が響いていたよ。

 トド様が出る公演ならば、初日か楽に行って、「あの」挨拶を聞かねばなりません。それが醍醐味ってもんです。
 ところ変わっても、トド様はトド様。
 他の人がみんなふつーに挨拶していても、トド様はいつものトド様節で、時候の挨拶を朗々と歌い上げられました。
 わたしが知る限り、トド様がまったくの「素」で挨拶をしたのは『華麗なる千拍子』の大劇場千秋楽1度きりですから(いつも通りに挨拶をするはずが、途中で泣き出してしまった……アンドロイドじゃなかったのかアンタ、とびっくりした)。新公主役時から、彼はずーっと「あの」挨拶で通してきた人だからね。
 あのバカみたいな(失礼)挨拶を聞きながら、「ああ、トド様だわ」としみじみしました。

 そして。
 そのトド様のバカみたいな(失礼)挨拶を聞きながら、彼の後ろで寿美礼ちゃんが素の顔で笑いまくっているのが、かわいかったのことよ。

 
 ひとり芝居『ゼルダ』。

 出演、月影瞳。作・演出、荻田浩一。

 このために、わざわざ東京まで遠征しました。
 場所が原宿ど真ん中。……この芝居の客だけ、あきらかに周囲から浮いている……(笑)。

 時代は1920年代。作家スコット・フィッツジェラルドの妻、ゼルダ。
 狂乱の時代、狂乱の日々。時代の寵児としてもてはやされた若き作家とその妻のたどった人生を、ピアノの生演奏と美しくも不思議な映像を背景にして綴る、ひとり芝居。

 美しい田舎娘のゼルダは、小説家志望の美しい若者、スコットと出会い、恋に落ちる。
 ゼルダは貧乏を嫌悪するし、スコットもまた放蕩を愛する。結婚したふたりは、スコットの小説がもたらす莫大な収入を上回るほどの出費をつづけ、贅沢の限りを尽くし遊び暮らした。
 スコットの小説のモデルは、いつも彼とゼルダだ。スコットはゼルダを紙の世界に描きつづける。ゼルダもまた、それを踏まえた上で破天荒な生活をつづける。
 彼らにとって、毎日がバカ騒ぎ、毎日がパーティだった。
 だが、どんなパーティもいつまでもつづくことはない。いつしかふたりはすれちがい、心の溝を大きくしていく。
 精神の均衡を失っていくゼルダ。アルコール中毒になるスコット。
 黄金の20年代は終わり、大恐慌の時代がやってくる……。

 月影瞳、熱演。
 休憩なしのノンストップで2時間弱。
 絶頂期のゼルダから、発狂、そして死まで。

 この物語を、表面通りの「ゼルダの一生」として見た場合は、どうなんだろ。
 おもしろいのかしら。
 一緒に観に行ったオレンジは、大して感銘は受けなかったようだ。

 だがわたしは、感銘どころの騒ぎじゃなかった。
 ……こわかったよ。

 これ、今、わたしが観ていていいのか? と思った。

 本当にコレは、「ゼルダ」を描くのが目的だったのか?
 描いてあるのは、ゼルダひとりの狂気なのか?

 観ている途中から、わたしは舞台の上にもうひとりの影があることに気づいた。
 ひとり芝居だから、舞台にいるのはぐんちゃんだけなんだけど。

 スコット・フィッツジェラルド。
 ゼルダの夫・スコットが、舞台にいる気がした。

 ゼルダは乱れる。自堕落な生活。軽薄な日々。
 ゼルダは狂う。現実の自分と小説の中の自分。魂は引き裂かれ、悲鳴を上げる。

 それはすべて、スコット・フィッツジェラルドの姿ではないのか?

 オギーは、ゼルダを通してスコットを描きたかったんじゃないのか?
 スコットを主役とした作品なら、いくらでも世にあるだろうから、あえてゼルダに語らせたんじゃないのか?

 スコットは、自分が経験したものしか書けない小説家だった。
 だからこそ、すすんで小説のネタになる生き方をした。妻のゼルダにもそれを望んだ。ゼルダが実際に言った言葉、したことを小説に書き続けた。

 狂っていくゼルダ。
 それを小説にするスコット。

 ……何故?
 何故、そうまでして、書くの?
 書かなければならないの?

 こわかった。

 愛した女を壊してまで、それでも「作家」でありつづける男の姿が。

 舞台の上にあったもの。
 ゼルダを通して存在した、作家スコット・フィッツジェラルド。

 こわかったよ。
 わたし、これ、観てていいの?
 わたしが、観てていいの?

 わたしも、モノカキのハシクレなんですけど?

 こんなコワイモノ、観てていいのかよっ?!

 涙が止まらなくて、苦労した。
 ゼルダの狂気はスコットの狂気。そしてそれは、わたし自身の狂気でもあった。

 魂を壊してまで小説にしがみつき、表現しつづけ、書き続け、ついに魂の入れ物まで壊して、破滅した作家と、その妻。
 彼らはそれでも、幸福であったのだと思う。
 そこまで、書き続け、互いにしがみつき続けていたのだから。
 ……幸福だと思うのは、わたしもモノカキだからか? 作品のために破滅するなら、それもまた幸福だと思うからか?

 まったく。
 えらいものを観てしまった。
 『左眼の恋』ほどのわかりやすさや、とっつきやすさはないのだけど。
 痛さは……同じくらいだよ。

 ぐんちゃんはきれいでした。
 ただ、やっぱ老けたね。おでこのシワは健在。実年齢より上に見える。
 あと、まったくのヅカメイクなのにも、おどろいた。こんな小さなハコで何故、そこまでのメイクを??
 ぐんちゃんの芝居は苦手なときはとても苦手で、ムラの『凱旋門』のときなんか最悪だと思っていたんだけど、今回はよかったよ。あのリキみすぎてて気持ち悪いところが、なめらかになっていた。
 プログラムはぐんちゃんの写真集(笑)。ファンならば買え、って感じ。

 映像も不思議できれいでした。ええ、きれいでなきゃやってられない。
 つーのも、チケット代6500円は高すぎだろ。目を疑う値段だったのは、映像が高かったせいじゃないかと思うんで。
 ドレッサーの鏡がスクリーンになっているんだけど、これが不思議な鏡でね。鏡の下にカメラがあるらしく、静止画はふつうに映像としてスクリーンに映り、被写体が少しでも動くと、その部分だけが水面の波紋のように揺れるの。夢のようにきれいだよ。
 ……高いんだろうな、あの技術。

 鏡の映像が左右逆にならないせいか(カメラで撮影した映像だから)、もうひとつある大きい方のスクリーンの絵は、すべて裏表が逆になっていた。
 まるで、今いるここが「鏡の世界」であるように。

 24日の昼と、千秋楽である25日の2回観たんだけど。
 楽は客席が豪華だったよー。

 かよこちゃん。かよこちゃんがいたよー。きゃーっ、ラッキー。ぜんぜん変わってない!(当然か)
 星奈優里ちゃんも久々に見た。

 楽はWHITEちゃんと一緒だったんだけど。

「緑野がうれしそーにデブなおっさんと喋ってるから」
「デブはともかく……おっさん、って、オギー、わたしらより年下だよ……?」
「ええっ?!」

 ロビーでオギーを見つけ、突撃かましました。
 ファンです、大阪からきました、いつも作品を観ています、今回の作品もすごくよかったです……。
 咄嗟に言葉が選べなかったので、アタマの悪い言葉をえんえん並べ立てました。ははは。
 んでもって、サインGET。わーいわーい。オギーにサインもらっちゃったあ。大喜び。
 ……オギーには迷惑だったでしょう。星奈ちゃんと喋っていたのに、突撃かけられて(話が終わるのを待ちましたよ、いちおー)。だってオギー、後ずさりしていたよーな……で、わたしは彼が下がるぶん前に出るし。
 許してくれ、あんなこわい作品を観たあとで、気が高ぶっていたんだよー。

 その間WHITEちゃんは、後ろの方でなまあたたかく見守っているし。……君はオギーと喋りたくなかったのか? そっか、興味ないんだね。しょぼん。

 わたしはゼルダになりたいし、それ以上にスコットになりたいと思う。そんな、狂ったモノカキだよ。

 
 思えば、わたしがトウコに惚れ込んだのは、『凱旋門』のハイメ役だった……。
 恋人のユリアを見つめるまなざしに、くらくらきたんだったわ。
 わたしもユリアになって、ハイメに守られたい。……そう思ったんだ。いや、無理だけどな。
 ユリアを見つめるトウコ@ハイメのまなざしは、ひたすらやさしく、愛にあふれていたのだわ。こんな目でひとを見つめることのできる男って、好きだああ。たとえその目がわたしに向けられるのではないとしても。
 ひとを心から愛することのできる男は、好きだ。

 てなことを、思い出しました。
 『雨に唄えば』の3度目の観劇。

 トウコ@ドンがね、もー、すてきなのよー。うめ@キャシーを見つめる、あの瞳!!
 どれほど彼がキャシーを愛しているか、伝わってくるのよー。わーん。
 見ていてじたばたしたくなるくらい、素敵なのよ。

 初日の翌日に観たときは、いろいろ思うところもあったのだけど、時は流れ楽の前日ともなれば、舞台は別物。
 なんか、すっごくノリがよくなってますけど?(笑)
 トウコちゃんはやっぱり大スターって感じではないけれど、素敵度は大幅UP、見ているこちらはときめきっぱなし(笑)。
 脚本や演出はツボじゃないのだが、そんなことは横に置き、ミーハーに徹してたのしみました。
 きゃー、トウコちゃ〜〜んっっ。ラぁぁぁヴ!!

 さて、わたしとは入れ違いでWHITEちゃんも日生を初観劇。
 わたしとオレンジがくつろいでいるところへ、WHITEちゃんが日生劇場から帰ってきました。
 彼女は首をひねっています。

「ヒロインって、うめちゃんよね?」

 はあ? なにをそんな、初歩的なことを言ってんだ?

「だって緑野が、まとぶがヒロインだって言うから!!」

 はあああっ?!

「これがヒロインなの? この変な女がヒロイン?!ってあたし、混乱しまくったよ!」

 言ってない。
 まとぶんがヒロインだなんてわたし、言ってないよ!
 まとぶんが「女役」だって言ったんだよ!

 WHITEちゃんは、はっと憑き物の落ちたよーな顔をする。

「そ、そうよね……チガウよねええ?!」

 目に見えてほっとしている。
 「まとぶんが女役」と言ったのを、一足飛びに「ヒロイン」だと脳内変換したのね……。
 まとぶん@リナをヒロインだと信じて観たなら、あの舞台はそりゃーすっとんきょーなものに映ったろうなあ。
 ご愁傷様、WHITEちゃん(笑)。

 
 てなわけで、無事に散らかりきった我が家に帰宅しました。ああ、生きててよかった。この部屋を放置したままじゃ、死ぬに死ねない。
 と言っても、帰ってきたからといって掃除をするわけじゃないんだけどな……。

 帰って来るなり家庭内でいろいろあって、消耗しました。あー……。

 
 ときおり、なにかスコン、と、胸の中に入ってくることがある。
 なにがどう、どこがどう、と説明はできないけれど、「入って」くる。

 スピッツの『愛のことば』がそれだ。
 なにがどうと説明できないが、この歌は、ダメなんだ。
 聴くと、泣く。
 なんでかわからない。
 好きな曲はいくらでもあるし、もっといい歌だっていくらでもあると思う。
 だが、この歌は特別だ。
 入ってくるんだ。

 それと同じ現象は、ときおり起こる。
 オギー作品とかに高確率で起こるな。
 入る。
 なにかが。
 説明できないままに、涙が出る。

 『めぐりあう時間たち』も、そーゆー映画だった。
 まいったねー、「入った」よ。涙が止まらない。

 監督スティーヴン・ダルドリー、出演メリル・ストリープ、ジュリアン・ムーア、ニコール・キッドマン。

 3つの時代、3人の女たちのある1日の物語。
 1923年、作家ヴァージニア・ウルフは『ダロウェイ夫人』を執筆中。その日の午後には姉とその子どもたちを迎えてパーティをする予定。
 1951年、ふつーの主婦ローラ・ブラウンは小説の『ダロウェイ夫人』を読んでいる。今日は夫の誕生日パーティをする予定だ。
 2001年、編集者のクラリッサは友人の詩人の受賞記念パーティをする予定。詩人は彼女に「ダロウェイ夫人」という渾名を付けていた……。

 3つの時代と3人のヒロインたちの人生が、穏やかに、でもどこか緊張して、流れていく。
 そう、緊張。
 ずーっと、なんだか、こわかった。

 物語の冒頭でひとりの女が自殺するのだけど、彼女の遺書がこの作品のカラーをわたしに突きつけたせいかもしれない。
 愛に満ちた遺書だった。
 愛と、感謝と、意志があった。
 痛かった。

 クライマックス近くでもうひとり、やはり自殺するのだけれど、その死に際しての言葉もまた、愛に満ちていた。
 愛と、感謝と、意志と。

 痛い……のかな。
 少しちがう気もする。

 ここがこうだから感動したとか、愛について考えさせられたとか、そーゆーことではない。

 わたしは、深い海の水面に浮かんでいるんだ。海がとてつもなく深いことを知りながら、わたしはあえて水面に浮かんでいる。
 波がわたしを揺らし、どこかへ運ぶ。
 わたしは目を閉じ、それに任せている。

 そーゆー感じだった。

 プロットが緻密な作品が好きなだけに、この映画は好きだぞ。そーゆー意味でも。
 ラストで解ける謎には、膝を打ったもの。そうか、それであれはああだったんだ……と。

 リピーター割引があるのが、わかる。
 この映画は、もう一度出会いたくなる映画だ。

 
 ここは世界の果て。
 わたしの存在は小さい。

 わたしはそれを知っている。

 ここは世界の一部。
 わたしは世界とつながっている。

 わたしはそれを知っている。

 広大なネット社会で、この日記の存在など無にも等しい。わたしがここでなにかを言ったところで、地球は変わらず回り続ける。
 だけど、ここがいちおーネットの一部である以上、リアル界の日記帳とはちがい、誰が見るかもわからないパブリックな場所であることも、知っている。

 それがむずかしいところだよなあ。

 映画のネタバレって、どこまで書いていいのよ?

 いや、今までもさんざん好き勝手書いてきたけどさ。それでもいちおー、どの場合もオチまでしっかり書くような真似は避けてきたのよ。
 わたしなんかが世間に影響力を持たないのは知っているけど、万が一にもここは、公の場なんだってことで。

 フランス映画『愛してる、愛してない…』。
 監督レティシア・コロンバニ、出演オドレイ・トトゥ。

 この映画のこと、どう語ればいいの?
 ネタバレせずには書けない映画だよーっ。

 機会があったら、映画館に行って、ポスターを見てください。
 タイトルが『愛してる、愛してない…』で、ヒロインが『アメリ』のオドレイ・トトゥ。赤をポイントにしたかわいいデザイン、ハートがキュートな、ほんとに女の子好みのかわいいポスターよ。
 わたしパンフレットもちらしも持ってないんで、ポスターに印刷されていたコピーをここに書けないのだけど、これがまた、なんともかわいいコピーなのよ。
 ああ、ガーリッシュでオシャレな恋愛映画なんだな、って。かわいくて、ほんのりせつないのかな、って。
 ちょっと見てみたくなること請け合いの、素敵なポスターよ。

 それだけの予備知識で見に行きましたのよ。わたし、恋愛映画大好きなんだもん。

 物語は、薔薇の花からはじまる。
 一面の、薔薇。
 一面の、赤。

 いろんな種類のいろんな色の薔薇。そこにいる、おしゃれでキュートな女の子、オドレイ・トトゥ。
 彼女は一生懸命、薔薇を選んでいる。花屋の中だ。
 恋人に贈るのよ。
 彼女のカレシはドクター。薔薇一輪、はふたりの思い出のアイテム。今日は彼の誕生日だから、思い出の花を贈るの。
 とにかく、オドレイがかわいい。この映画の、そしてオドレイのポイントとなる色が赤なのね。彼女はいつも赤いモノを着ているし、画面のそこかしこに赤が効果的に使われている。なんともオシャレな画面。
 オドレイは画学生。どうやら才能もあるらしく、将来有望。カレシともラブラブだし、毎日が赤いハート。
 問題があるとしたら、カレシが既婚者だということぐらい。奥さんとは離婚間近らしいけど……ほんとにそううまくいくのかな。
 ……案の定、奥さんの妊娠が発覚、カレシは離婚に消極的になった。オドレイとのデートをすっぽかしたり、旅行をすっぽかしたり……。
 それでもオドレイは一途にカレシを愛し続ける。一途に、一途に……。見ていてちょっと、こわいくらい。
 彼女の恋の行方は??

 ……映画の感想は、ひとことで言うと「こわっ」でした。
 なにがどうこわいかは、見た人にだけわかる。
 いやあ、マジ悲鳴あげる人がいたよ、映画館。びっくりした(笑)。

 ポスターも予告編も、とにかく映画の内容には触れていない。見てのお楽しみなんだよなあ。
 だからわたしもWHITEちゃんも、こんな話だとは思わずに、かわいいラブロマンスを見るつもりで行ったんだもん。

 『アメリ』のときはどーか知らんが、今回のオドレイは、友人だった光田さんという子に似ていておどろいた。(02年8月29日/9月2日参照・笑)
 顔が似てる気がする……ってつまり、光田さんはほんと美人だったのよね……そのうえ……なんか……似てるの、顔だけじゃない……? こ、こわっ。
 映画を見ながら、光田さんのことを思い出しまくりましたよ。そーゆーところも、こわかったなあ。

 なにはともあれ、おもしろかった。
 一見の価値あり。
 プロットが緻密で、映画ならではの仕掛けアリ。
 この話を小説にするのはむずかしいと思うよ。映像ならではのトリックがあるからね。

 ……光田さん、元気かなあ。

 
 猫が痩せている。

 毛並みの色が変わり、アメリカンショートヘアというよりぞうきん色になったうちの猫。
 最近、ひどく痩せてきました。
 まるまるしていたおなかが、ぺっちゃんこ。

 何故……?

 今日体重を量ったら、3.5kgしかなかった。
 前は4kgあったのに。

 一緒にいた母は「たった0.5kgじゃない」と言うけれど、通常体重の8分の1が減ってるんだよ? わたしらでいうなら、7kgくらい一気に痩せてる計算だよ?

 食欲は旺盛だし、機嫌も悪くない。今も膝に乗っている。
 ……どこか悪いのかな?
 しかし病院に行くとなると、大騒ぎだしな……。我が家には車がないのだよー。

 さて、猫の体重を量るためには、ついでに人間の体重も量ることになります。
 まず猫を抱いて体重計に乗り、次に猫ナシで乗る。

「あんた、そんなに体重あるの?」

 わたしは猫の体重の話をしたかったのに、母の関心はソコですよ。

「あたしはあんたより体重少ないわ。ほら、見て」

 わたしの次に体重計に乗って、自慢顔。
 あのな……。わたしとアンタと、身長いくつちがうと思ってんのよ。

「あたしってスマートだわー」

 だから、猫の話をしたいんですけど?
 ママとは会話にならないっす。
 ……いつものことだけど。

 

踊る母。

2003年5月31日 家族
 ちょうどそのとき、母がわたしの部屋の隣にある、風呂を使っていました。

 そのとき、ってのは、夜9時ぐらい。
 わたしは『ぼくの魔法使い』を見るために、テレビをつけていました。
 画面に映っているのは、ナイターです。阪神×巨人戦。こん畜生が終わらない限り、ドラマははじまりません。
 まだ8回裏だよ、いつになったら終わるんだ……。

 わたしは野球が嫌いです。
 野球というスポーツに含むところはありません。ナイター中継を憎んでいるだけです。
 いや、放送延長さえなければ、ゆるします。はじめから中継枠を3時間とか4時間とか取っておいて、それより早く終わったら、過去の名場面とかをえんえん流していればいいのよ。そうしたら、他人に迷惑をかけないのに。
 わたしが野球を嫌いなのは、わたしに迷惑をかけるからです。
 迷惑なモノを嫌いなのは、中庸な人間としてふつーのことだと思っています。

 とまあ、大嫌いな野球中継を、苦々しくかけていたわけさ。パソコンの方の画面で他のビデオを見たり、DVDのダビングをしたりしながらな。
 そしたら、叫び声とともに母が現れたのよ。

「阪神はどうなってるっ?!」

 まだ2対4で負けてるよ。でもまだノーアウトだな。あれ、満塁になった。あれ、抜けたよ、ヒットだ、てことは1点入ったじゃん?

「ちがうわっ、ランナーいるから、同点よっ!!」

 母、吠える。
 ほんとだ、4対4になった。
 母はひとりで次のバッターの解説をしている。知らねーよ、んなもん。
 あ、打った。

「やったーっ、逆転だーーーっっ!!」

 母、踊る。
 わわわ、やめてよ、部屋が揺れる。本棚がぎしぎしスイングしてるよー。ひー。

 てゆーか、ママ。
 ぱんつ、はいてください。

 すっぽんぽんで娘の部屋に着て、ナイター見て踊らないでよ……。

「だって、こんないいところでテレビから目を離せないわっ」

 母は虎キチです。
 タイガースと共に生きてます。
 ああ、うざい……。

 野球はこーやって、わたしに迷惑をかけるのです……。

 

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