ドン・ジュアンが何故マリアを愛したのか。

 それがわからない、のがいちばんつらい。

 脚本から読み解くことは出来る。
 マリアはこの時代の女性にはめずらしい、己の仕事に誇りと生き甲斐を持つ、自立した女性だったんだろう。結婚と生き甲斐を別に考えるとか、わたしたちなら当たり前のことだけど、当時の世界観では異端なのだろう。

 異端ではあっても、マイナスの意味には捉えられていない。
 むしろ、彼女が「特別に素晴らしい」という装飾になっている。
 彼女には友人がいて、群れの中で親愛と尊敬を持って受け入れられている。
 ただの異端なら、そうはならないはず。彼女の「ふつうでない」ところは、彼女の魅力として捉えられている。

 プライドの高いラファエルが選んだ、ということもマリアという女性の設定を読み解く要因のひとつ。
 ラファエルは、群れの中で「とびきりのいい女」だからこそマリアを選び、妻にと望んだ。
 ラファエルこそ、群れの中で「とびきりのいい男」として描かれている。他の男たちが「ラファエルにはかなわない」というスタンスを取っているし、「ラファエルだからこそマリアを口説ける」「マリアのような素晴らしい女は、ふつうの男では口説けない」と思っている。

 タカラヅカではよくある手法。グループの中で、「特別な立場」のキャラクタを作る。現実の友人関係で、ここまであからさまな上下関係を作り、かつ円滑であるとか、なかなかに難しいことなんじゃないかと思ったりもするけれど、ヅカはフィクションだから、手法としてアリだと思っている。
 「お蝶夫人よ。今日もお美しいわ」とか「きゃあ、藤堂さんよ。ドキドキする~~」とか、周囲に言わせることで、そのキャラクタの「特別感」を表現するのね。周囲に語らせるのがいちばん手っ取り早いから。

 そうやって、「素晴らしいラファエル」が、「素晴らしいマリア」を選んだ。周りは「素晴らしいふたり、自分たちとはチガウ」と拍手。

 それくらい、「マリアは特別」と説明してくれてるのになあ。
 いまいち、彼女の魅力がわからない……。

 ふつうにかわいい女の子だけど……かわいい、だけじゃなあ。
 それまで語られていた「いい女」設定も、突然石像を叩き割るエキセントリックさも、響いてこない。
 てゆーか石像を叩き割るような子に見えないんだわ……そんなことをしそうにない、ふつうの地味な女の子に見える。
 ファム・ファタールに見えない。

 ドン・ジュアンのような歴戦のプレイボーイが、ごくふつうの女の子に恋をする、というギャップを狙っているならこのマリアでいいけれど。
 設定からマリアは「ふつうの女の子」ではなさそうなので、混乱する。

 なにがあれば、マリアは設定にある通りの「運命の女」になるんだろう?
 圧倒的な美貌とか、圧倒的な歌唱力があれば、もちろんねじ伏せられると思う。
 でも、そのどちらもない場合は、なにをどうすればいいのか、よくわからない。

 みちるちゃんの芝居は、「マリア」の設定からズレを感じる。
 ふつうに、わたしたちが想像する「恋する女の子」に見える。相手がドン・ジュアンではなく、クラスメイトの男の子とか、職場の先輩とか。日常の恋愛。
 ドン・ジュアンは恋を知り、「ふつう」の男になった、だから「ふつうの恋愛」でいい。としても、彼らの世界の「ふつう」は現代の「ふつう」ではないはずで、クラスメイトとの恋愛になっちゃうのは、違和感。

 芝居は好みの部分が大きいので、今回のみちるちゃんの芝居がわたしの好みではないということなんだろう。
 弥彦@『るろうに剣心』では毎回泣かせてくれたんだから、「今回は」チガウんだろう。
 最初は歌唱力のなさにストレスを感じたけれど、どうも芝居もチガウようだ、と遅まきながら気づいた。
 だいもんはじめ、他の人たちに圧倒されていて、ヒロインへの違和感をまともに考え出したのが遅かった。や、考え出すのが遅い、って段階でもう、ヒロイン存在感ナッシングに気づいてなかったってことで、どんだけ「ヒロイン」として用をなしていないか、ってことだけども。

 この激しい愛の物語で、ヒロインに琴線が反応しないのは、とても残念だ。
 マリアがヒロインとして機能していたなら、さらに感動出来たろうに。
 もったいないわー。
 わたしの好みのせいだから、わたしが残念な人ってこと。

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