最強の「マリア」を考えてみる。@ドン・ジュアン
2016年7月10日 タカラヅカ マリアがヒロインとして機能していたら、『ドン・ジュアン』はどんな物語だったか。
残念ながら、それはわからない。
だから、わたしは今あるモノだけで、考える。
ドン・ジュアンが何故マリアを愛したのか。
……やっぱ、巷でよく言われている「亡霊の呪いです」に行き着いてしまう。
別に、マリアでなくても良かった。ちょうどいいからたまたまマリアになっただけ。
すべては亡霊に仕組まれた。
マリアだけ歌も芝居も浮いていて、作品に水を差す出来なのも、亡霊の策略。「このマリアに恋するなんておかしい」と誰もが思うように、あえてひとりだけヘタなのだ。
観客も他のキャラクタたちもすべてが「おかしい」と思っているのに、「ドン・ジュアンだけがおかしいと気づいていない」「この恋はドン・ジュアンを破滅させる」と予感させるために、あえてこのマリアなのだ。
という。
ぶっちゃけ「マリア」ってキャラ、難しいと思う。誰が演じても「なんかちがう」「なんか足りない」と思ってしまったかも?
みちるちゃんだけの問題ではなく、マリアが難しい。
ドン・ジュアンの特異性をさんざん描いたあとで、「このドン・ジュアンが恋に落ちる相手って?」とさんざんハードル上げてるんだもの。
無理やわー。
それならいっそ、「マリア」はナシにしてしまえば?
マリアという女性がそこにいる、とみんな振る舞っている。実際、舞台上にはいる。
でも、マリア役の役者はいない。
他の役者たちの演技だけで、観客が自由に「マリア」を想像するの。
それってすごいかも。楽しいかも。
誰もいない彫りかけの石像の前で、恋にとまどうドン・ジュアン。
ひとりきりのベッドの上で、ふたりの愛を歌い上げるドン・ジュアン。
や、だいもんならやれる。つか、見てみたい。
どんだけ濃いやろ……(笑)。
すべては観客に委ねられる。
理想の女性、マリア。
「存在しない」「観た人が自由にイメージする」……これほど最強のマリア像があるだろうか(笑)。
そして。
マリアとはほんとうに実在するのか。ドン・ジュアンの妄想ではないのか。亡霊の呪いではないのか。
ドン・ジュアンだけでなく、他の者もマリアが見えているようだ……ほんとうに? なにかトリックがあるのではないだろうか?
マリアの歌はナシ、どうしても必要なところはカゲソロで、「幻想? ドン・ジュアンにだけ聞こえている?」って感じにして。
どこまでが現実で、どこからが幻想?
語り部がドン・カルロならば、彼があえてマリアを語らずにいるのか……?
などなど。
すっげーいろいろ広がる!
『ドン・ジュアン』は自由に妄想出来る深さと濁りを持っている。
ヒロインが弱いからって、そこで枷を作るのはもったいない。それすらも、自由に作品を遊ぶ要素にしてしまおう。
マリアがみゆちゃんだったら、とは、考えた。
みゆちゃんだと歌はやっぱり弱かったかもしれないけれど、彼女の演技力ならどんなマリアを見せてくれただろうか、と。
わたしはみゆちゃんの「役を立体的に見せる力」を買っている。その役の生きている世界を想像させる力。脚本にあるものだけではない、行間をカタチにする力。
タカラヅカは一期一会、寿命の短いジェンヌに「次の機会」はまずない。だけどもし、いつかだいもん主演のまま『ドン・ジュアン』が再演されて、ヒロインがみゆちゃんだったら……。
トップ制度とか、ポジションとか、そういうことは今は置いておいて。
ただ、物語好きとして、見てみたい。
物語る力のある主人公とヒロインが創る、『ドン・ジュアン』という激しいファンタジーを。
残念ながら、それはわからない。
だから、わたしは今あるモノだけで、考える。
ドン・ジュアンが何故マリアを愛したのか。
……やっぱ、巷でよく言われている「亡霊の呪いです」に行き着いてしまう。
別に、マリアでなくても良かった。ちょうどいいからたまたまマリアになっただけ。
すべては亡霊に仕組まれた。
マリアだけ歌も芝居も浮いていて、作品に水を差す出来なのも、亡霊の策略。「このマリアに恋するなんておかしい」と誰もが思うように、あえてひとりだけヘタなのだ。
観客も他のキャラクタたちもすべてが「おかしい」と思っているのに、「ドン・ジュアンだけがおかしいと気づいていない」「この恋はドン・ジュアンを破滅させる」と予感させるために、あえてこのマリアなのだ。
という。
ぶっちゃけ「マリア」ってキャラ、難しいと思う。誰が演じても「なんかちがう」「なんか足りない」と思ってしまったかも?
みちるちゃんだけの問題ではなく、マリアが難しい。
ドン・ジュアンの特異性をさんざん描いたあとで、「このドン・ジュアンが恋に落ちる相手って?」とさんざんハードル上げてるんだもの。
無理やわー。
それならいっそ、「マリア」はナシにしてしまえば?
マリアという女性がそこにいる、とみんな振る舞っている。実際、舞台上にはいる。
でも、マリア役の役者はいない。
他の役者たちの演技だけで、観客が自由に「マリア」を想像するの。
それってすごいかも。楽しいかも。
誰もいない彫りかけの石像の前で、恋にとまどうドン・ジュアン。
ひとりきりのベッドの上で、ふたりの愛を歌い上げるドン・ジュアン。
や、だいもんならやれる。つか、見てみたい。
どんだけ濃いやろ……(笑)。
すべては観客に委ねられる。
理想の女性、マリア。
「存在しない」「観た人が自由にイメージする」……これほど最強のマリア像があるだろうか(笑)。
そして。
マリアとはほんとうに実在するのか。ドン・ジュアンの妄想ではないのか。亡霊の呪いではないのか。
ドン・ジュアンだけでなく、他の者もマリアが見えているようだ……ほんとうに? なにかトリックがあるのではないだろうか?
マリアの歌はナシ、どうしても必要なところはカゲソロで、「幻想? ドン・ジュアンにだけ聞こえている?」って感じにして。
どこまでが現実で、どこからが幻想?
語り部がドン・カルロならば、彼があえてマリアを語らずにいるのか……?
などなど。
すっげーいろいろ広がる!
『ドン・ジュアン』は自由に妄想出来る深さと濁りを持っている。
ヒロインが弱いからって、そこで枷を作るのはもったいない。それすらも、自由に作品を遊ぶ要素にしてしまおう。
マリアがみゆちゃんだったら、とは、考えた。
みゆちゃんだと歌はやっぱり弱かったかもしれないけれど、彼女の演技力ならどんなマリアを見せてくれただろうか、と。
わたしはみゆちゃんの「役を立体的に見せる力」を買っている。その役の生きている世界を想像させる力。脚本にあるものだけではない、行間をカタチにする力。
タカラヅカは一期一会、寿命の短いジェンヌに「次の機会」はまずない。だけどもし、いつかだいもん主演のまま『ドン・ジュアン』が再演されて、ヒロインがみゆちゃんだったら……。
トップ制度とか、ポジションとか、そういうことは今は置いておいて。
ただ、物語好きとして、見てみたい。
物語る力のある主人公とヒロインが創る、『ドン・ジュアン』という激しいファンタジーを。