『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』初日観劇。

 初見であとに残ったのは、煙に巻かれた感。

 たぶんこの話、こんなじゃなかったんだよね?
 他にナニかやりたいことがあって、でも書き切れなくて、途中で路線変更して、でも集束させられなくて、仕方なく最後力技で無理矢理まとめたんだよね?

 最初からコメディ落ちにするつもりじゃなかったんだと思う。
 ジョージ@マカゼとか、最初からお笑い落ちにするつもりじゃなかったんだと思う。
 でも、結果こうなってしまった。
 こうすることしか出来なかった。

 デビュー作『BUND/NEON 上海』から一貫している、生田せんせの構成力のなさが、まんま露呈している。

 起承転結出来ない。1+1=2とかの、ふつーの計算式を作れない。
 純粋に不思議だ。なんでそうなるのか。
 ふつーに考えればおかしいことはわかるし、ふつーならそんな壊れ方はしないだろう。

 原作付きの『春の雪』や『伯爵令嬢』はきちんと起承転結しているので、「自分で出来ない」だけなんだと思う。
 つまり、誰か監修してくれる人、作家に対する編集者みたいな人がいれば、生田くんの欠点はカバーできるんだと思う。
 「ここおかしいですよ」「ここがこうだと、ここと矛盾します」「ここを直すと全体がよくなります」とか、言ってくれる人。それは同じ畑の「演出家の先輩」とか「自分でも創作している者」が口を出す、というカタチではなく、まったく別の「監修者」、「自分で創作は出来ないが、出来上がった他人の作品を客観的に駄目出しできる人」がいい。
 モノを創る才能と、歪みを正す才能はまた別だからねー。もちろん、両方持ち合わせている人もいるだろうけど、いっくんはそうじゃないし。
 タカラヅカには、そういう監修者がいない、いたら植爺作品が垂れ流しになっているはずもないし、『仮面の男』のような事故作品は上演されなかった。

 しかし、デビュー作から一貫して広げた風呂敷をたためない人だなあ……感心する。
 華やかに失敗している部分がいつも、ラストのまとめ方、オチのつけ方なのね。
 せっかくそこまでがんばってきたのに、うまくいかなくなって、癇癪を起こした子どもがおもちゃを投げ出すみたいに、作ってきたものをぶっ壊すみたいに、「うわーーっ!!」って感じに全部ぶち壊す。
 で、代わりに取って付けた別の「ちょっといい話的オチ」を持って来て幕を下ろす。この際、前後の辻褄は無視で。
 『ラスト・タイクーン』の終わり方とか、顕著よね。全部投げだしEND(笑)。

 って、その点についてのみ書くと、ひどい作品みたいだけど。

 どんだけ壊れていても、生田作品は面白い。

 構成的に壊れていても、破綻しまくっていても、ラストが取って付けた感ゆんゆんのパッチワークでも。

 なんだろ。
 ひとの心のあれこれが間違ってないから、乗り越えられる。


 彼の「描きたい」と切望するモノが、ひとの心に沿うものなんだと思う。

 包んである箱がどんだけ壊れていてもいびつでも、あるいは奇妙な多面体で無駄にアニメちっくな失笑系の装飾があったとしても。
 中身がきれいでやさしいハートだから、問題なしっていうか。

 わたしが生田作品を好きなのは、よーするにそういうことなんだと思う。
 描かれている「ひとの心」が、破綻していない。
 や、構成出来ないゆえに、技術的なことでうまく機能できずにいびつになっている箇所もあるけど、んな一部のことではなく、全体的に「まちがってない」のがいい。

 『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』も、そうだ。

 作品的には「残念」な出来だけど、赤ペン採点ではバツ入りまくり、減点されまくりだろうけど、そんな点数とは別の部分で、きゅんきゅん心に響く。

 愛しい物語だ。

 やさしくて、楽しくて、気持ちよく拍手できる。
 幸福な涙を流せる。

 そして、あったいものを胸に抱きながら、劇場を出ることが出来る。

 それって、エンタメの基本なんじゃないの?
 いちばんシンプルに、必要なことじゃないの?

 その、いちばん基本でシンプルに、いちばん大切なことを満たしている、『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』を、好きだと思う。

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