年のはじめの早とちり。@宝塚大劇場2016年新春鏡開き
2016年1月1日 タカラヅカ 初日だー、元日だー、ヅカはじめだー!
と、わくわくと出かけました。
まずは宝塚大劇場2016年新春鏡開き。
ヅカヲタではありますが、家庭もあるので(笑)、毎年1月1日からムラへ駆けつけられるわけではありませぬ。
生田せんせ新作だし、ぜひ初日の1月1日に行きたかったのは確かだけど、ほんとは無理だったのよ、予定があって。
でもま、いろいろあって結局、初日からムラに行けたんだけどね。
元日からムラへ行くぞ。宙初日観劇するぞ。
となったら、ここはひとつ、鏡開きも観るべきじゃ?
2014年も元日から初観劇だったけど、鏡開きはスルーした。や、なんか大変そうだったし。
でも今年は、そんなこと言ってる場合じゃない。
だってだって、今年の鏡開きは我らが雪組のターン。
ちぎみゆ出演、とアナウンスされているのだから、雪ヲタとしては見逃せないよね!
わたしは元日から観劇することも少なくないのだが、鏡開きにはあまり参加したことがナイ。
参加したのは過去2回だけかな。
2009年星組、何故かトップコンビが出ずに、しい・とよ・ちえ出演だったとき。真面目に早めに行って並んだ。
それから、2011年花組、まと蘭出演時。このときは、雪組初日で、まっつ組替えデビュー初日ってことで早めにムラ入りしたついでに観た。
この2回の経験で、鏡開きの参加の仕方、何時に並べばいいとかは、なんとなく頭に入っている。
何時に並べばいいか……てゆーか、早朝から並ばなくても、観られることを、知っている。
そりゃ早くに並べばいい場所を取れて、スターさんを間近で見られるけど。
ムラの立見と同じで、観覧場所は指定席ではないため、自由競争の場。言葉を換えれば、弱肉強食。……強い人が勝つんです、気の。
そりゃ徹夜でもしていちばんに並んでれば大丈夫だろうけど、始発参加とかの半端な順番だと、気が弱かったり鈍くさかったりすると、場所取りバトルに敗れる可能性があるのですよ……数時間あとに並んだ人と同じとこで観るハメになったりな。
オレ、どんくさいから無理や……。
という自由な場なので、あとから来たって、観るだけなら観られます。
大劇場内ロビーの階段踊り場を使ってのイベントなので、外からでも見える。
早く来た人はロビーに入れる、そうでない人は劇場改札のガラスドア越しに観られる。
ただ「観る」だけが目的なら、がんばる必要はない。ふつーに来ればいい。(100周年記念鏡開きと、ちえねねのときはそうもいかんかったと思うが)
てなわけで、負け犬なわたしは、ゆるーく眺めに行きました……。
だいもんが見られれば、ソレでいいし。
ちぎみゆが見られるのは鉄板、だってHPに書いてある。
問題はサプライズゲストの雪組メンバーがいつ出るかだよなー。最初にちょろっと出てすぐ退場しちゃったら、見損なっちゃう?
でも過去の経験からいって、最初ってことはないな、どっちかってーと後半だよなー。
そう思ってはじまってちょっと経ったあたりに劇場到着。
うん、目論見通り、鏡開きイベントはまだやってる。
そしてさらに目論見通り、はじまってからたどり着いたって、ふつーに観られる。人混みの後ろに立てばよし。
階段踊り場では、ちぎみゆと司会者のおねーさんが話していました。
あれ、ちぎみゆしかいない? 雪組のみんなは?
しばらく眺めていたけど、出て来る気配がない。
……まさか、もう帰っちゃったあと? えー? でも、最後までいたよね、いつも。
そう。
鏡開きはHP上にはトップコンビしか書かれてないけど、実は主立った組子も出演するんだよ……内緒なんだよ、サプライズなんだよ……そして全員ぞろっと最後までいるもんなんだよ……あれ? そのはず、なのに……?
乾杯だけ観て、尻尾を巻きました。
顔を見るのが目的なので、とりあえずちぎみゆの顔は見られたわけだし。
だいもんがすでに退場したあとなら、とってもしょぼんだし。
ええ。
わたしは、「主立った組子も出演する」と信じ込んでいたのです。
だって。
花組はそうだったもん!!
2007年元旦、中山連山から大劇場を見下ろしてた(初日の出~はつひので~登山してた)のに、そのまま劇場へ行けば鏡開きに参加できたのに、連れに気を遣って行かなかったことをめちゃくちゃ悔やんだ。
鏡開き担当は花組、出演するのはトップコンビのみと思ってたのに、花組の主立ったスター勢揃いだった! まっつがいた! 元旦からまっつに会えたのに、すぐそばにいたのに!
2011年元旦、鏡開き担当の花組は組子勢揃いだった! それどころか「元花組もひとりまざってます」……組替えしてもう花組でない人までもいた! それくらい、みんな登場するのがあたりまえ!!
……ソレしか、知らなかったもんで。
公式にはトップコンビしか載ってなくても、2番手は絶対出ると思い込んでた……だいもん出ると信じてた……。
それは、間違った認識です。公式発表が正しいです。
サプライズで組子登場があたりまえ、なのは花組ならではらしいです。
少なくとも「雪組はトップコンビ以外出ない」とのこと。
組ごとにルールがチガウとは、知らなんだ……!!
2016年、1月1日。
しょっぱなから、しょぼん顔文字付きでつぶやきました。
こあらさんてば、早とちり、カンチガイ、知ったかぶり。
元日からこれって……思いやられるわ……。
と、わくわくと出かけました。
まずは宝塚大劇場2016年新春鏡開き。
ヅカヲタではありますが、家庭もあるので(笑)、毎年1月1日からムラへ駆けつけられるわけではありませぬ。
生田せんせ新作だし、ぜひ初日の1月1日に行きたかったのは確かだけど、ほんとは無理だったのよ、予定があって。
でもま、いろいろあって結局、初日からムラに行けたんだけどね。
元日からムラへ行くぞ。宙初日観劇するぞ。
となったら、ここはひとつ、鏡開きも観るべきじゃ?
2014年も元日から初観劇だったけど、鏡開きはスルーした。や、なんか大変そうだったし。
でも今年は、そんなこと言ってる場合じゃない。
だってだって、今年の鏡開きは我らが雪組のターン。
ちぎみゆ出演、とアナウンスされているのだから、雪ヲタとしては見逃せないよね!
わたしは元日から観劇することも少なくないのだが、鏡開きにはあまり参加したことがナイ。
参加したのは過去2回だけかな。
2009年星組、何故かトップコンビが出ずに、しい・とよ・ちえ出演だったとき。真面目に早めに行って並んだ。
それから、2011年花組、まと蘭出演時。このときは、雪組初日で、まっつ組替えデビュー初日ってことで早めにムラ入りしたついでに観た。
この2回の経験で、鏡開きの参加の仕方、何時に並べばいいとかは、なんとなく頭に入っている。
何時に並べばいいか……てゆーか、早朝から並ばなくても、観られることを、知っている。
そりゃ早くに並べばいい場所を取れて、スターさんを間近で見られるけど。
ムラの立見と同じで、観覧場所は指定席ではないため、自由競争の場。言葉を換えれば、弱肉強食。……強い人が勝つんです、気の。
そりゃ徹夜でもしていちばんに並んでれば大丈夫だろうけど、始発参加とかの半端な順番だと、気が弱かったり鈍くさかったりすると、場所取りバトルに敗れる可能性があるのですよ……数時間あとに並んだ人と同じとこで観るハメになったりな。
オレ、どんくさいから無理や……。
という自由な場なので、あとから来たって、観るだけなら観られます。
大劇場内ロビーの階段踊り場を使ってのイベントなので、外からでも見える。
早く来た人はロビーに入れる、そうでない人は劇場改札のガラスドア越しに観られる。
ただ「観る」だけが目的なら、がんばる必要はない。ふつーに来ればいい。(100周年記念鏡開きと、ちえねねのときはそうもいかんかったと思うが)
てなわけで、負け犬なわたしは、ゆるーく眺めに行きました……。
だいもんが見られれば、ソレでいいし。
ちぎみゆが見られるのは鉄板、だってHPに書いてある。
問題はサプライズゲストの雪組メンバーがいつ出るかだよなー。最初にちょろっと出てすぐ退場しちゃったら、見損なっちゃう?
でも過去の経験からいって、最初ってことはないな、どっちかってーと後半だよなー。
そう思ってはじまってちょっと経ったあたりに劇場到着。
うん、目論見通り、鏡開きイベントはまだやってる。
そしてさらに目論見通り、はじまってからたどり着いたって、ふつーに観られる。人混みの後ろに立てばよし。
階段踊り場では、ちぎみゆと司会者のおねーさんが話していました。
あれ、ちぎみゆしかいない? 雪組のみんなは?
しばらく眺めていたけど、出て来る気配がない。
……まさか、もう帰っちゃったあと? えー? でも、最後までいたよね、いつも。
そう。
鏡開きはHP上にはトップコンビしか書かれてないけど、実は主立った組子も出演するんだよ……内緒なんだよ、サプライズなんだよ……そして全員ぞろっと最後までいるもんなんだよ……あれ? そのはず、なのに……?
乾杯だけ観て、尻尾を巻きました。
顔を見るのが目的なので、とりあえずちぎみゆの顔は見られたわけだし。
だいもんがすでに退場したあとなら、とってもしょぼんだし。
ええ。
わたしは、「主立った組子も出演する」と信じ込んでいたのです。
だって。
花組はそうだったもん!!
2007年元旦、中山連山から大劇場を見下ろしてた(初日の出~はつひので~登山してた)のに、そのまま劇場へ行けば鏡開きに参加できたのに、連れに気を遣って行かなかったことをめちゃくちゃ悔やんだ。
鏡開き担当は花組、出演するのはトップコンビのみと思ってたのに、花組の主立ったスター勢揃いだった! まっつがいた! 元旦からまっつに会えたのに、すぐそばにいたのに!
2011年元旦、鏡開き担当の花組は組子勢揃いだった! それどころか「元花組もひとりまざってます」……組替えしてもう花組でない人までもいた! それくらい、みんな登場するのがあたりまえ!!
……ソレしか、知らなかったもんで。
公式にはトップコンビしか載ってなくても、2番手は絶対出ると思い込んでた……だいもん出ると信じてた……。
それは、間違った認識です。公式発表が正しいです。
サプライズで組子登場があたりまえ、なのは花組ならではらしいです。
少なくとも「雪組はトップコンビ以外出ない」とのこと。
組ごとにルールがチガウとは、知らなんだ……!!
2016年、1月1日。
しょっぱなから、しょぼん顔文字付きでつぶやきました。
こあらさんてば、早とちり、カンチガイ、知ったかぶり。
元日からこれって……思いやられるわ……。
悪いのは、大階段か、それとも演出か。
全場大階段を使用したセットがウリのひとつだという、『HOT EYES!!』。
話を聞いたときはシンプルに、「へー、どんなんだろ」と思った。
観たことのナイ演出プランだし、どんなモノを見せてもらえるのだろうかと楽しみにもした。
フジイくんと大階段、で印象的なのは『EXCITER!!』オープニング。
フィナーレで得られるだろう興奮を、いきなり最初からぶつけてきて、中毒性ある主題歌と共に情熱的な舞台を形作った。『EXCITER!!』というタイトルに恥じない派手演出。
『Apasionado!!』にしろ『TAKARAZUKA 花詩集100!!』にしろ、近年のフジイくん作品で評価が高いモノは大階段使いがうまかった記憶がある。
だからこそフジイくんで「全場大階段」なんて演出を33年ぶりとやらに決行することになったんだろう。
で。その「全場大階段」。
ひどかった。
いやあ……こりゃナイわー。
ショーは「ショーである」というだけで満足感があり、駄作でも楽しめるモノだし、芝居で佳作を作るのが難しいことあり、「芝居はつまんないけどショーがあるから通える」とかいう言い方をするもんなんだが。
今回は、芝居の方が面白い、むしろショーが脚引っ張るレベル。
ひさしぶりにひどいショーを観た! という、ある意味新鮮な驚き……繰り返すが、ショーは駄作でもなんとかなるもんだから、なんともならないほどひどいのって、作るのがかえって難しい。
ここまでひどい理由はひとつ。
大階段、邪魔。
全場大階段が出ているのに、大階段をほとんど使っていない。
ただの「背景」または「通路」として使用。
そして、その使わない大階段が出ているため、舞台がせまい。
階段前の狭いスペースしかない。
大階段が出ているため、盆が使えない。使えるセリも限られる。
場面が変わっても結局、大階段前の狭いスペースでちんまりとナニかしているだけ。
画面が変わらない。
つまらない……。
つまりね。
植爺もビックリ、カーテン前しか使わないショー作品!!なのよ。
広大な宝塚大劇場の舞台3分の2を使わず、手前の3分の1スペースのみで1時間、なにかしらこちょこちょやってんの。
近いモノは、『タカラヅカスペシャル』。
舞台上にオーケストラがいるからセット固定、次々スターで出て来て歌って、ちょろっと踊って引っ込む、そのくり返し。
『タカスペ』は4~5組のスター競演だから「スターが出て来てちょろっとなんかして引っ込む、のくり返し」でも場が持つのよ。「スターが出る」ことが公演の意義で、「スターの格に合わせた登場」にさえ気を遣っていればいい、誰も「作品自体」に興味はない、モノだから。
でもこの『HOT EYES!!』は『タカスペ』じゃない。ヅカだからスターありきは前提だけど、スターがただ舞台を歩いているだけでもいいわけなく、ショーとしての「作品自体」に中身が求められる。
なのに、『タカスペ』に毛の生えたような演出しかナイ、って……。
そりゃろくなもんにならんわ……。
全場大階段っていうからには、大階段を使うんだと思ったの。
大階段をなにかに見立ててストーリー性のある場面があるとか、大階段でなくては成立しない斬新な演出が。
まさか、「登場するために走り降りてくる通路」「ハリボテと同じ、ただの背景」としてが主な使用用途、とは思わないじゃん……。
使わないならせめて、陳列台として有効活用すればいいのに。
下級生をただ並べておくとかさー。
なんにも使ってない、ただのかさばる電飾背景にしている時間、学年順に下級生並べて顔を売らせればいいのよー。歌いも踊りもしなくていい、ただ並んでるだけ。電飾代わり。
極端な話、ただの電飾よりいいと思うわ。意味があると思うわ。
観劇後の誰もが「大階段、いらなくね?」と口にするのは鉄板。
それで考えちゃうのよ。
悪いのは、大階段か、それとも演出か。
大階段を全場出しっ放しにしたら、こういうことになる。33年間誰もやらなかったのは、「んなことしたらろくなもんにならない」から。それが素晴らしいことなら、誰かやってる。
不要だから、しなかった。
だけど今回あえてやった……のは、勝算があったから、よね?
全場大階段を使って、素晴らしいモノを作れる、という。
結果、大階段は邪魔でしかなかった。
だがそれは、はたして大階段のせいだろうか?
大階段出しっ放しでショーを作ると、このようにしか出来ないものなのか?
全場大階段、という設定で、出来ることは他にないのか?
わたしは素人ゆえ、大階段の有効な活かし方を思いつかないのだけど。
ほんとうに悪いのは大階段なのか。
なにかできないのか……?
まあ、使えない大階段を全場出す、そんなことをしようとした企画者が全部悪いってことになるんだけどねー。
できないことはやるな。
失敗の巻き添えを食わされる生徒が気の毒過ぎる。
全場大階段を使用したセットがウリのひとつだという、『HOT EYES!!』。
話を聞いたときはシンプルに、「へー、どんなんだろ」と思った。
観たことのナイ演出プランだし、どんなモノを見せてもらえるのだろうかと楽しみにもした。
フジイくんと大階段、で印象的なのは『EXCITER!!』オープニング。
フィナーレで得られるだろう興奮を、いきなり最初からぶつけてきて、中毒性ある主題歌と共に情熱的な舞台を形作った。『EXCITER!!』というタイトルに恥じない派手演出。
『Apasionado!!』にしろ『TAKARAZUKA 花詩集100!!』にしろ、近年のフジイくん作品で評価が高いモノは大階段使いがうまかった記憶がある。
だからこそフジイくんで「全場大階段」なんて演出を33年ぶりとやらに決行することになったんだろう。
で。その「全場大階段」。
ひどかった。
いやあ……こりゃナイわー。
ショーは「ショーである」というだけで満足感があり、駄作でも楽しめるモノだし、芝居で佳作を作るのが難しいことあり、「芝居はつまんないけどショーがあるから通える」とかいう言い方をするもんなんだが。
今回は、芝居の方が面白い、むしろショーが脚引っ張るレベル。
ひさしぶりにひどいショーを観た! という、ある意味新鮮な驚き……繰り返すが、ショーは駄作でもなんとかなるもんだから、なんともならないほどひどいのって、作るのがかえって難しい。
ここまでひどい理由はひとつ。
大階段、邪魔。
全場大階段が出ているのに、大階段をほとんど使っていない。
ただの「背景」または「通路」として使用。
そして、その使わない大階段が出ているため、舞台がせまい。
階段前の狭いスペースしかない。
大階段が出ているため、盆が使えない。使えるセリも限られる。
場面が変わっても結局、大階段前の狭いスペースでちんまりとナニかしているだけ。
画面が変わらない。
つまらない……。
つまりね。
植爺もビックリ、カーテン前しか使わないショー作品!!なのよ。
広大な宝塚大劇場の舞台3分の2を使わず、手前の3分の1スペースのみで1時間、なにかしらこちょこちょやってんの。
近いモノは、『タカラヅカスペシャル』。
舞台上にオーケストラがいるからセット固定、次々スターで出て来て歌って、ちょろっと踊って引っ込む、そのくり返し。
『タカスペ』は4~5組のスター競演だから「スターが出て来てちょろっとなんかして引っ込む、のくり返し」でも場が持つのよ。「スターが出る」ことが公演の意義で、「スターの格に合わせた登場」にさえ気を遣っていればいい、誰も「作品自体」に興味はない、モノだから。
でもこの『HOT EYES!!』は『タカスペ』じゃない。ヅカだからスターありきは前提だけど、スターがただ舞台を歩いているだけでもいいわけなく、ショーとしての「作品自体」に中身が求められる。
なのに、『タカスペ』に毛の生えたような演出しかナイ、って……。
そりゃろくなもんにならんわ……。
全場大階段っていうからには、大階段を使うんだと思ったの。
大階段をなにかに見立ててストーリー性のある場面があるとか、大階段でなくては成立しない斬新な演出が。
まさか、「登場するために走り降りてくる通路」「ハリボテと同じ、ただの背景」としてが主な使用用途、とは思わないじゃん……。
使わないならせめて、陳列台として有効活用すればいいのに。
下級生をただ並べておくとかさー。
なんにも使ってない、ただのかさばる電飾背景にしている時間、学年順に下級生並べて顔を売らせればいいのよー。歌いも踊りもしなくていい、ただ並んでるだけ。電飾代わり。
極端な話、ただの電飾よりいいと思うわ。意味があると思うわ。
観劇後の誰もが「大階段、いらなくね?」と口にするのは鉄板。
それで考えちゃうのよ。
悪いのは、大階段か、それとも演出か。
大階段を全場出しっ放しにしたら、こういうことになる。33年間誰もやらなかったのは、「んなことしたらろくなもんにならない」から。それが素晴らしいことなら、誰かやってる。
不要だから、しなかった。
だけど今回あえてやった……のは、勝算があったから、よね?
全場大階段を使って、素晴らしいモノを作れる、という。
結果、大階段は邪魔でしかなかった。
だがそれは、はたして大階段のせいだろうか?
大階段出しっ放しでショーを作ると、このようにしか出来ないものなのか?
全場大階段、という設定で、出来ることは他にないのか?
わたしは素人ゆえ、大階段の有効な活かし方を思いつかないのだけど。
ほんとうに悪いのは大階段なのか。
なにかできないのか……?
まあ、使えない大階段を全場出す、そんなことをしようとした企画者が全部悪いってことになるんだけどねー。
できないことはやるな。
失敗の巻き添えを食わされる生徒が気の毒過ぎる。
生田せんせ最新作、『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』初日観劇。
まぁくん+生田せんせといえば。
まぁくん初バウ主演、そして生田せんせのデビュー作『BUND/NEON 上海』-深緋(こきあけ)の嘆きの河(コキュートス)-。
「BUND/NEON 上海」という凝り過ぎたタイトル(上海の外灘「バンド」に楽器のバンドネオンを懸けた多重単語、ゆえに/が入っている)に、「深緋(こきあけ)の嘆きの河(コキュートス)」というクソ恥ずかしいサブタイトルまで付けた新人作家のデビューっすよ、厨二病キターーッ!!ってなるよね?
あの素晴らしい顔ぶれが再び、ですよ。
しかも「空に満つるは、尽きせぬ言の葉」という厨二臭ぷんぷんのサブタイ付きですよ。
期待せずにはいられない!(笑) ……や、(笑)付いちゃうけどな。
てことで、わくわく初日に駆けつけました。
えーと。
生田せんせ、この話の、元の話を見せてください。
この話、元のプロットから二転三転どころじゃなく、予定通りうまくいってないんだよね?
そもそも最初のプロットって、
ソレがいつの間にか、
ある夫人との恋、が、謎に包まれた「ダーク・レィディ」になった。
最初は三角関係ものだった? 支えた妻と不倫相手の夫人。
それが、夫人から恋愛ネタが削除され、代わりに神秘性を加えて「ダーク・レィディ」とやらに変更。
タカラヅカには恋愛必須、妻と夫人とふたつに別れていた愛を妻一本に絞って、夫人は創作サイドのみにする。恋愛もなしに天才シェークスピアのミューズとなり得る女ってどんな女よ? ふつーの女だと説得力がない、ってことで仕方なくミステリアスな味付けをするハメになった。
でももともと恋ありきでミューズ設定だったわけだから、魔女だからシェイクスピアにインスピレーションを与えられた、という設定にしろと言われても「三角関係」で作っていたストーリーやキャラ配置にうまく合わない……。
仕方なく元の話から三角関係ネタを削ったら、ストーリーの半分が消えてしまった。代わりに「ダーク・レィディと創作意欲」をがんばって書いたら……あれ? 妻の存在意義がなくなってしまった? てゆーか恋愛してないし、タカラヅカなのに恋愛なしとかやばいし!
創作意欲を与えてくれるのは妻にしよう! 彼女と出会い、言葉が生まれる、ということにすれば「恋愛」と「天才劇作家物語」が融合する。……あれ、それじゃストーリーがなくなった……三角関係も創作にまつわるあれこれも、「妻がいれば解決」でナニも問題ない……。
テーマを夫婦愛にして、妻とのすれ違い、『冬物語』にすればいいや! 障害となるのがパトロンと政治絡みってことで! ……あれ? ダーク・レィディ、いらなくなった……やべえ、HPに載せちまってるよ、今さら削れない……いらないけど無理矢理出すか……。
なんて「番狂わせが面白い」的なことがあったのではないかと邪推。
この物語、地層を感じさせるんだもん。
地層……「作った時代の差」が、場面ごとにチガウ感じ。
オープニングのやたら暗くて壮大なロンドン紹介は、いちばん古い地層、三角関係プロットのときに形成された地層。
『ロミジュリ』パートは「妻がミューズ」プロットのときに形成された地層。
主人公悩みまくりセンシティヴ場面は「ダーク・レィディ」プロット時代に作成。
悪だくみパトロン部分は公式解説書き換えたあとに作成。
そして、かなりギリギリ、にっちもさっちもいかなくなった頃に無理矢理書き換えて出来たのが、後半の「コメディ落ち」部分。
……てな風に、つぎはぎ感ひどい。
小説ならストーリーが完成するまで机上でこねくり回すけど、舞台脚本だとそうもいかないんだろうな。多くの人が関わって作られるから、「ストーリー変わったから、今までに作っていたモノすべてなし、イチから全部作り直して」が通用しないんだろう。
それで、すでに作りはじめていた場面をそのまま取り入れて使う。
こんなブログですら、推敲する際に文章入れ替えたり削除したりするし、「加筆したら主題にズレが生じた、この結論に落ち着くためには、この段落があると混乱を招くな、仕方ない、削除しよう。でもこの段落、捨ててしまうには惜しいな……次の章のここに入れたら使えるかも」とかやって、文脈的には合っていても、やっぱりよそからツギハギした段落はうまく収まらなくて、アタマ抱えたりする。
プロットが二転三転したのに、すでにある場面やネタを切り貼りして使い回したら、そりゃばらばらな印象にもなろうってもん。
だからわたし、元の話が観たいわ。
生田せんせは、どんな物語を考えていたんだろう?
まぁくん+生田せんせといえば。
まぁくん初バウ主演、そして生田せんせのデビュー作『BUND/NEON 上海』-深緋(こきあけ)の嘆きの河(コキュートス)-。
「BUND/NEON 上海」という凝り過ぎたタイトル(上海の外灘「バンド」に楽器のバンドネオンを懸けた多重単語、ゆえに/が入っている)に、「深緋(こきあけ)の嘆きの河(コキュートス)」というクソ恥ずかしいサブタイトルまで付けた新人作家のデビューっすよ、厨二病キターーッ!!ってなるよね?
あの素晴らしい顔ぶれが再び、ですよ。
しかも「空に満つるは、尽きせぬ言の葉」という厨二臭ぷんぷんのサブタイ付きですよ。
期待せずにはいられない!(笑) ……や、(笑)付いちゃうけどな。
てことで、わくわく初日に駆けつけました。
えーと。
生田せんせ、この話の、元の話を見せてください。
この話、元のプロットから二転三転どころじゃなく、予定通りうまくいってないんだよね?
そもそも最初のプロットって、
シェイクスピアの劇作家としての創造力を共に育み、影ながら支え続けた妻アン・ハサウェイの「愛」。彼の才能を見出した後援者、ハンズドン卿との「友情」。そして彼にインスピレーションを与えた、ある夫人との秘められた「恋」・・・シェイクスピアが紡ぎ、遺し、今なお輝き続ける「言葉」の源泉を求めて、「言葉」に恋し、魅せられ、そして愛された男の姿を、史実と戯曲とを交錯させつつドラマティックに描き出します。……だったのよね?(演目発表時の作品解説)
ソレがいつの間にか、
劇作家シェイクスピアの創造力を共に育み、支え続けた妻アン・ハサウェイ。その才能を見出し、創作の場を与えた後援者、ジョージ・ケアリー。インスピレーションを与えたとされるも、正体が謎に包まれた「ダーク・レィディ」・・・……になった。(現在の公式HPの作品解説)
エリザベス一世統治下のロンドンを中心に繰り広げられる様々な人間模様の中、人の本質を見つめ続けたシェイクスピアが紡ぎ、遺し、今なお輝き続ける「言葉」の源泉を求めて、「言葉」に恋し、魅せられ、そして愛された男の姿を、史実と戯曲とを交錯させつつドラマティックに紐解きます。
ある夫人との恋、が、謎に包まれた「ダーク・レィディ」になった。
最初は三角関係ものだった? 支えた妻と不倫相手の夫人。
それが、夫人から恋愛ネタが削除され、代わりに神秘性を加えて「ダーク・レィディ」とやらに変更。
タカラヅカには恋愛必須、妻と夫人とふたつに別れていた愛を妻一本に絞って、夫人は創作サイドのみにする。恋愛もなしに天才シェークスピアのミューズとなり得る女ってどんな女よ? ふつーの女だと説得力がない、ってことで仕方なくミステリアスな味付けをするハメになった。
でももともと恋ありきでミューズ設定だったわけだから、魔女だからシェイクスピアにインスピレーションを与えられた、という設定にしろと言われても「三角関係」で作っていたストーリーやキャラ配置にうまく合わない……。
仕方なく元の話から三角関係ネタを削ったら、ストーリーの半分が消えてしまった。代わりに「ダーク・レィディと創作意欲」をがんばって書いたら……あれ? 妻の存在意義がなくなってしまった? てゆーか恋愛してないし、タカラヅカなのに恋愛なしとかやばいし!
創作意欲を与えてくれるのは妻にしよう! 彼女と出会い、言葉が生まれる、ということにすれば「恋愛」と「天才劇作家物語」が融合する。……あれ、それじゃストーリーがなくなった……三角関係も創作にまつわるあれこれも、「妻がいれば解決」でナニも問題ない……。
テーマを夫婦愛にして、妻とのすれ違い、『冬物語』にすればいいや! 障害となるのがパトロンと政治絡みってことで! ……あれ? ダーク・レィディ、いらなくなった……やべえ、HPに載せちまってるよ、今さら削れない……いらないけど無理矢理出すか……。
なんて「番狂わせが面白い」的なことがあったのではないかと邪推。
この物語、地層を感じさせるんだもん。
地層……「作った時代の差」が、場面ごとにチガウ感じ。
オープニングのやたら暗くて壮大なロンドン紹介は、いちばん古い地層、三角関係プロットのときに形成された地層。
『ロミジュリ』パートは「妻がミューズ」プロットのときに形成された地層。
主人公悩みまくりセンシティヴ場面は「ダーク・レィディ」プロット時代に作成。
悪だくみパトロン部分は公式解説書き換えたあとに作成。
そして、かなりギリギリ、にっちもさっちもいかなくなった頃に無理矢理書き換えて出来たのが、後半の「コメディ落ち」部分。
……てな風に、つぎはぎ感ひどい。
小説ならストーリーが完成するまで机上でこねくり回すけど、舞台脚本だとそうもいかないんだろうな。多くの人が関わって作られるから、「ストーリー変わったから、今までに作っていたモノすべてなし、イチから全部作り直して」が通用しないんだろう。
それで、すでに作りはじめていた場面をそのまま取り入れて使う。
こんなブログですら、推敲する際に文章入れ替えたり削除したりするし、「加筆したら主題にズレが生じた、この結論に落ち着くためには、この段落があると混乱を招くな、仕方ない、削除しよう。でもこの段落、捨ててしまうには惜しいな……次の章のここに入れたら使えるかも」とかやって、文脈的には合っていても、やっぱりよそからツギハギした段落はうまく収まらなくて、アタマ抱えたりする。
プロットが二転三転したのに、すでにある場面やネタを切り貼りして使い回したら、そりゃばらばらな印象にもなろうってもん。
だからわたし、元の話が観たいわ。
生田せんせは、どんな物語を考えていたんだろう?
『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』初日観劇。
初見であとに残ったのは、煙に巻かれた感。
たぶんこの話、こんなじゃなかったんだよね?
他にナニかやりたいことがあって、でも書き切れなくて、途中で路線変更して、でも集束させられなくて、仕方なく最後力技で無理矢理まとめたんだよね?
最初からコメディ落ちにするつもりじゃなかったんだと思う。
ジョージ@マカゼとか、最初からお笑い落ちにするつもりじゃなかったんだと思う。
でも、結果こうなってしまった。
こうすることしか出来なかった。
デビュー作『BUND/NEON 上海』から一貫している、生田せんせの構成力のなさが、まんま露呈している。
起承転結出来ない。1+1=2とかの、ふつーの計算式を作れない。
純粋に不思議だ。なんでそうなるのか。
ふつーに考えればおかしいことはわかるし、ふつーならそんな壊れ方はしないだろう。
原作付きの『春の雪』や『伯爵令嬢』はきちんと起承転結しているので、「自分で出来ない」だけなんだと思う。
つまり、誰か監修してくれる人、作家に対する編集者みたいな人がいれば、生田くんの欠点はカバーできるんだと思う。
「ここおかしいですよ」「ここがこうだと、ここと矛盾します」「ここを直すと全体がよくなります」とか、言ってくれる人。それは同じ畑の「演出家の先輩」とか「自分でも創作している者」が口を出す、というカタチではなく、まったく別の「監修者」、「自分で創作は出来ないが、出来上がった他人の作品を客観的に駄目出しできる人」がいい。
モノを創る才能と、歪みを正す才能はまた別だからねー。もちろん、両方持ち合わせている人もいるだろうけど、いっくんはそうじゃないし。
タカラヅカには、そういう監修者がいない、いたら植爺作品が垂れ流しになっているはずもないし、『仮面の男』のような事故作品は上演されなかった。
しかし、デビュー作から一貫して広げた風呂敷をたためない人だなあ……感心する。
華やかに失敗している部分がいつも、ラストのまとめ方、オチのつけ方なのね。
せっかくそこまでがんばってきたのに、うまくいかなくなって、癇癪を起こした子どもがおもちゃを投げ出すみたいに、作ってきたものをぶっ壊すみたいに、「うわーーっ!!」って感じに全部ぶち壊す。
で、代わりに取って付けた別の「ちょっといい話的オチ」を持って来て幕を下ろす。この際、前後の辻褄は無視で。
『ラスト・タイクーン』の終わり方とか、顕著よね。全部投げだしEND(笑)。
って、その点についてのみ書くと、ひどい作品みたいだけど。
どんだけ壊れていても、生田作品は面白い。
構成的に壊れていても、破綻しまくっていても、ラストが取って付けた感ゆんゆんのパッチワークでも。
なんだろ。
ひとの心のあれこれが間違ってないから、乗り越えられる。
彼の「描きたい」と切望するモノが、ひとの心に沿うものなんだと思う。
包んである箱がどんだけ壊れていてもいびつでも、あるいは奇妙な多面体で無駄にアニメちっくな失笑系の装飾があったとしても。
中身がきれいでやさしいハートだから、問題なしっていうか。
わたしが生田作品を好きなのは、よーするにそういうことなんだと思う。
描かれている「ひとの心」が、破綻していない。
や、構成出来ないゆえに、技術的なことでうまく機能できずにいびつになっている箇所もあるけど、んな一部のことではなく、全体的に「まちがってない」のがいい。
『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』も、そうだ。
作品的には「残念」な出来だけど、赤ペン採点ではバツ入りまくり、減点されまくりだろうけど、そんな点数とは別の部分で、きゅんきゅん心に響く。
愛しい物語だ。
やさしくて、楽しくて、気持ちよく拍手できる。
幸福な涙を流せる。
そして、あったいものを胸に抱きながら、劇場を出ることが出来る。
それって、エンタメの基本なんじゃないの?
いちばんシンプルに、必要なことじゃないの?
その、いちばん基本でシンプルに、いちばん大切なことを満たしている、『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』を、好きだと思う。
初見であとに残ったのは、煙に巻かれた感。
たぶんこの話、こんなじゃなかったんだよね?
他にナニかやりたいことがあって、でも書き切れなくて、途中で路線変更して、でも集束させられなくて、仕方なく最後力技で無理矢理まとめたんだよね?
最初からコメディ落ちにするつもりじゃなかったんだと思う。
ジョージ@マカゼとか、最初からお笑い落ちにするつもりじゃなかったんだと思う。
でも、結果こうなってしまった。
こうすることしか出来なかった。
デビュー作『BUND/NEON 上海』から一貫している、生田せんせの構成力のなさが、まんま露呈している。
起承転結出来ない。1+1=2とかの、ふつーの計算式を作れない。
純粋に不思議だ。なんでそうなるのか。
ふつーに考えればおかしいことはわかるし、ふつーならそんな壊れ方はしないだろう。
原作付きの『春の雪』や『伯爵令嬢』はきちんと起承転結しているので、「自分で出来ない」だけなんだと思う。
つまり、誰か監修してくれる人、作家に対する編集者みたいな人がいれば、生田くんの欠点はカバーできるんだと思う。
「ここおかしいですよ」「ここがこうだと、ここと矛盾します」「ここを直すと全体がよくなります」とか、言ってくれる人。それは同じ畑の「演出家の先輩」とか「自分でも創作している者」が口を出す、というカタチではなく、まったく別の「監修者」、「自分で創作は出来ないが、出来上がった他人の作品を客観的に駄目出しできる人」がいい。
モノを創る才能と、歪みを正す才能はまた別だからねー。もちろん、両方持ち合わせている人もいるだろうけど、いっくんはそうじゃないし。
タカラヅカには、そういう監修者がいない、いたら植爺作品が垂れ流しになっているはずもないし、『仮面の男』のような事故作品は上演されなかった。
しかし、デビュー作から一貫して広げた風呂敷をたためない人だなあ……感心する。
華やかに失敗している部分がいつも、ラストのまとめ方、オチのつけ方なのね。
せっかくそこまでがんばってきたのに、うまくいかなくなって、癇癪を起こした子どもがおもちゃを投げ出すみたいに、作ってきたものをぶっ壊すみたいに、「うわーーっ!!」って感じに全部ぶち壊す。
で、代わりに取って付けた別の「ちょっといい話的オチ」を持って来て幕を下ろす。この際、前後の辻褄は無視で。
『ラスト・タイクーン』の終わり方とか、顕著よね。全部投げだしEND(笑)。
って、その点についてのみ書くと、ひどい作品みたいだけど。
どんだけ壊れていても、生田作品は面白い。
構成的に壊れていても、破綻しまくっていても、ラストが取って付けた感ゆんゆんのパッチワークでも。
なんだろ。
ひとの心のあれこれが間違ってないから、乗り越えられる。
彼の「描きたい」と切望するモノが、ひとの心に沿うものなんだと思う。
包んである箱がどんだけ壊れていてもいびつでも、あるいは奇妙な多面体で無駄にアニメちっくな失笑系の装飾があったとしても。
中身がきれいでやさしいハートだから、問題なしっていうか。
わたしが生田作品を好きなのは、よーするにそういうことなんだと思う。
描かれている「ひとの心」が、破綻していない。
や、構成出来ないゆえに、技術的なことでうまく機能できずにいびつになっている箇所もあるけど、んな一部のことではなく、全体的に「まちがってない」のがいい。
『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』も、そうだ。
作品的には「残念」な出来だけど、赤ペン採点ではバツ入りまくり、減点されまくりだろうけど、そんな点数とは別の部分で、きゅんきゅん心に響く。
愛しい物語だ。
やさしくて、楽しくて、気持ちよく拍手できる。
幸福な涙を流せる。
そして、あったいものを胸に抱きながら、劇場を出ることが出来る。
それって、エンタメの基本なんじゃないの?
いちばんシンプルに、必要なことじゃないの?
その、いちばん基本でシンプルに、いちばん大切なことを満たしている、『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』を、好きだと思う。
『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』、語りたいことはいろいろあるんだが、わたし的にコレを先に言っておかないと、次へ進まないので先に語る。
腐女子語りです。
ダメな人はスルーしてください。
生田作品は萌えの宝庫だから! 腐女子ホイホイだから!
わたしがいっくんスキーなのはソレもあるから!
いやあ、観るまで夢にも思わなかった。わたしが期待していたのは、ジョージ×ウィルですよ、マカまぁですよ、基本ですよ。
なのに、フタを開けてみたら違った。ぜんぜん違った。
ジョージ×リチャード。
宮内大臣一座のパトロン、ジョージ@マカゼ。宮内大臣一座の看板俳優リチャード@コマ。
ここか。
ここなのか!(笑)
でもさー、ふつーに『Shakespeare』がラノベで、真夜中のテレ東アニメだとして、ジョージ×リチャードは薄い本が出るカップリングだと思うよ~~。
そりゃ王道はジョージ×ウィルとか、愉快美形コンビ(愛ずん)とかなんだろうけど、その傍らで確実にはびこり、ジャンルが廃れ王道カプ本がなくなったあとも、地道に本が出続ける……そんなイメージ(笑)。
ジョージはパトロン様で、お貴族様だ。平民ならば敬語で話すのがあたりまえの相手。ジョージと一蓮托生のウィル@まぁくんですら二人称は「あなた」だ。
なのに雇われ役者のひとりでしかないリチャードだけは、ちょータメ口で「あんた」呼び。
しかも、喧噪を抜けてふたりだけで話す。
この気安さはナニ?
このふたりの関係って??
立場はジョージがはるかに上のはずなのに、精神的優位なのはリチャードの方、って、なにソレ……。
ちょ、おいしすぎるわソレ……。薄い本を作れとばかりのネタだわ……。
ジョージは男らしい強そうな容姿に反して、人から影響を受けやすいナイーブな子ネコちゃんだし、リチャードは甘い容姿に反して粗野で骨太な野獣タイプだし。
このふたりのカップリング、コントラストもいいわ。映えるわ。
一座のパトロンと看板役者である以上、リチャードが手のひらの上でジョージを転がす関係が続きそう。
ここはやはり、リチャードの誘い受な。
ジョージバカだから、簡単に罠にはめられる。
リチャード的には、「パトロンを征しておいた方が、いろいろ都合がいい」ぐらいの打算で。積極的な色仕掛けじゃない。自分の役者としての実力に自信があるから、あくまでも「保険」程度の熱意。
てゆーか、あまりにあっさり誘いに乗ってくるから、拍子抜け、てな。簡単すぎるよ、単純過ぎるよジョージ、さすが妻の言いなりとかダーク・レィディとかすぐ信じちゃうタイプだよ。
誘ったのはリチャード、だけど、やっちゃったあとはリチャードの方が後悔してそう。や、ジョージがその後「亭主面」してくるから、うわコイツめんどくせえ、と。
ナチュラルに「俺たち恋人だよな」という意識でいるジョージと、「はあ? あんなのただの遊びだろ? てかオマエ家帰れ」なリチャードの、凸凹ラブ。
誘ったのがリチャードだから、ジョージは「リチャードが、私に惚れている。私がソレに応えてやった」と思い込んでる。ジョージからすれば、パトロンだし貴族だし、上の立場からすくい上げてやっているつもり。
そういう立場だからこそリチャードは、ジョージを利用しようと思ったわけで……こんなにめんどくさい男だとは思わなかった、もっとビジネスライクにクールな愛人関係を築けると思ったのに……この男を篭絡するのに、色仕掛けは間違いだった。
リチャードが「やべ、失敗だった」と思っていることは、やがてジョージにも伝わって、「私を愛していないのか。利用するつもりで近づいたのか」と、傷付きモード全開で詰め寄ってきて。
その段になってよーやくリチャードも自覚する、「あ、俺こいつのことけっこう好きかも」……傷つけた、とわかったときに、感じる胸の痛みゆえに。
だけど打算ゆえにはじまった関係なのは事実だし、強く出られると反発するのがリチャードの悪い癖、売り言葉に買い言葉でジョージを手ひどく罵って、ジョージも悪徳貴族まんまに立場にモノを言わせた返しをして……泥沼。
もつれているふたりをよそに、ウィルは「新作出来たー!」だし、女王陛下もロンドンっこも「ウィリアム・シェイクスピア♪」ってワクテカ歌ってるし、看板俳優リチャードはプライベートで荒れている場合ではないし、ジョージだってパトロンとして新作興行のバックアップ忙しいし。
険悪なのに、別れ話途中なのに、それはともかく日常にバタバタして。
このまま自然消滅? なかったこと?
あ、ジョージの妻ベス@うらら様は、ジョージと恋愛関係にはなく、「野心のパートナー」認識でヨロシク。ジョージの方は惚れてたけど、ベスは最初から野心ゆえの結婚。……ジョージの周りってこんなんばっかや。てゆーか、こういうタイプが好みなんだよね、ジョージ……。
ジョージが恋に悩んでいるのを知り、ベスはあの調子でヘタレ夫に発破をかける……「ほんとうに欲しいモノはなに? あなたはソレで満足なの?」……なかったことになんか出来ない!! ジョージは立ち上がる!!
リチャードはいろいろ後悔中。なんで露悪ぶってひどい態度を取ったんだろう、いやその前にジョージを傷つけてしまったんだろう、いやそもそも、色仕掛けなんかしなければよかった……。
ナニも知らないウィル相手に芝居の内容について打ち合わせしているうちに、ジョージは悩んでいる自分に疑問を持った。らしくないもんな、そんなの。ということで、極端な方向へ答えを出す。
「もういい、あいつ、襲ってやる」「え、なに? 襲う?」「ウィリアム、手伝ってくれ。向こうの方が俺より、縦にも横にも二回りくらいでかい。小道具係も一緒に、身体の自由を奪う罠を作ってくれ」「熊とでも闘うのか?」「そんなもんだ」
カラダからはじまったんだ、とりあえずそこからやり直そう。
なんか大変なことになりそうな予感を孕みつつ、シェークスピアの新作の幕が上がる。
上演中にアクシデントとしてジョージに乱入してもらうとか、クライマックスらしく派手な道具立てで盛り上げて、ハッピーエンドに着地させたいですな。
ラストはラブラブ……なんだけど、ジョージが縄でぐるぐる巻きになってたり。「なんだこれは?!」「あ、ウィリアムたちに作ってもらった罠」「なんのための罠? 熊でも捕まえるつもりだったのか?」「ああ。……もう掴まえたけどな」「?」動けないジョージを転がして、またも主導権握ってのしかかるリチャード。これがふたりの正しい力関係、的な?
マジで同人誌1冊出せそうな、楽しいキャラクタたち。ジョージとリチャードだけでなく、他のキャラクタたちもみんな。
はー、萌える。
腐女子語りです。
ダメな人はスルーしてください。
生田作品は萌えの宝庫だから! 腐女子ホイホイだから!
わたしがいっくんスキーなのはソレもあるから!
いやあ、観るまで夢にも思わなかった。わたしが期待していたのは、ジョージ×ウィルですよ、マカまぁですよ、基本ですよ。
なのに、フタを開けてみたら違った。ぜんぜん違った。
ジョージ×リチャード。
宮内大臣一座のパトロン、ジョージ@マカゼ。宮内大臣一座の看板俳優リチャード@コマ。
ここか。
ここなのか!(笑)
でもさー、ふつーに『Shakespeare』がラノベで、真夜中のテレ東アニメだとして、ジョージ×リチャードは薄い本が出るカップリングだと思うよ~~。
そりゃ王道はジョージ×ウィルとか、愉快美形コンビ(愛ずん)とかなんだろうけど、その傍らで確実にはびこり、ジャンルが廃れ王道カプ本がなくなったあとも、地道に本が出続ける……そんなイメージ(笑)。
ジョージはパトロン様で、お貴族様だ。平民ならば敬語で話すのがあたりまえの相手。ジョージと一蓮托生のウィル@まぁくんですら二人称は「あなた」だ。
なのに雇われ役者のひとりでしかないリチャードだけは、ちょータメ口で「あんた」呼び。
しかも、喧噪を抜けてふたりだけで話す。
この気安さはナニ?
このふたりの関係って??
立場はジョージがはるかに上のはずなのに、精神的優位なのはリチャードの方、って、なにソレ……。
ちょ、おいしすぎるわソレ……。薄い本を作れとばかりのネタだわ……。
ジョージは男らしい強そうな容姿に反して、人から影響を受けやすいナイーブな子ネコちゃんだし、リチャードは甘い容姿に反して粗野で骨太な野獣タイプだし。
このふたりのカップリング、コントラストもいいわ。映えるわ。
一座のパトロンと看板役者である以上、リチャードが手のひらの上でジョージを転がす関係が続きそう。
ここはやはり、リチャードの誘い受な。
ジョージバカだから、簡単に罠にはめられる。
リチャード的には、「パトロンを征しておいた方が、いろいろ都合がいい」ぐらいの打算で。積極的な色仕掛けじゃない。自分の役者としての実力に自信があるから、あくまでも「保険」程度の熱意。
てゆーか、あまりにあっさり誘いに乗ってくるから、拍子抜け、てな。簡単すぎるよ、単純過ぎるよジョージ、さすが妻の言いなりとかダーク・レィディとかすぐ信じちゃうタイプだよ。
誘ったのはリチャード、だけど、やっちゃったあとはリチャードの方が後悔してそう。や、ジョージがその後「亭主面」してくるから、うわコイツめんどくせえ、と。
ナチュラルに「俺たち恋人だよな」という意識でいるジョージと、「はあ? あんなのただの遊びだろ? てかオマエ家帰れ」なリチャードの、凸凹ラブ。
誘ったのがリチャードだから、ジョージは「リチャードが、私に惚れている。私がソレに応えてやった」と思い込んでる。ジョージからすれば、パトロンだし貴族だし、上の立場からすくい上げてやっているつもり。
そういう立場だからこそリチャードは、ジョージを利用しようと思ったわけで……こんなにめんどくさい男だとは思わなかった、もっとビジネスライクにクールな愛人関係を築けると思ったのに……この男を篭絡するのに、色仕掛けは間違いだった。
リチャードが「やべ、失敗だった」と思っていることは、やがてジョージにも伝わって、「私を愛していないのか。利用するつもりで近づいたのか」と、傷付きモード全開で詰め寄ってきて。
その段になってよーやくリチャードも自覚する、「あ、俺こいつのことけっこう好きかも」……傷つけた、とわかったときに、感じる胸の痛みゆえに。
だけど打算ゆえにはじまった関係なのは事実だし、強く出られると反発するのがリチャードの悪い癖、売り言葉に買い言葉でジョージを手ひどく罵って、ジョージも悪徳貴族まんまに立場にモノを言わせた返しをして……泥沼。
もつれているふたりをよそに、ウィルは「新作出来たー!」だし、女王陛下もロンドンっこも「ウィリアム・シェイクスピア♪」ってワクテカ歌ってるし、看板俳優リチャードはプライベートで荒れている場合ではないし、ジョージだってパトロンとして新作興行のバックアップ忙しいし。
険悪なのに、別れ話途中なのに、それはともかく日常にバタバタして。
このまま自然消滅? なかったこと?
あ、ジョージの妻ベス@うらら様は、ジョージと恋愛関係にはなく、「野心のパートナー」認識でヨロシク。ジョージの方は惚れてたけど、ベスは最初から野心ゆえの結婚。……ジョージの周りってこんなんばっかや。てゆーか、こういうタイプが好みなんだよね、ジョージ……。
ジョージが恋に悩んでいるのを知り、ベスはあの調子でヘタレ夫に発破をかける……「ほんとうに欲しいモノはなに? あなたはソレで満足なの?」……なかったことになんか出来ない!! ジョージは立ち上がる!!
リチャードはいろいろ後悔中。なんで露悪ぶってひどい態度を取ったんだろう、いやその前にジョージを傷つけてしまったんだろう、いやそもそも、色仕掛けなんかしなければよかった……。
ナニも知らないウィル相手に芝居の内容について打ち合わせしているうちに、ジョージは悩んでいる自分に疑問を持った。らしくないもんな、そんなの。ということで、極端な方向へ答えを出す。
「もういい、あいつ、襲ってやる」「え、なに? 襲う?」「ウィリアム、手伝ってくれ。向こうの方が俺より、縦にも横にも二回りくらいでかい。小道具係も一緒に、身体の自由を奪う罠を作ってくれ」「熊とでも闘うのか?」「そんなもんだ」
カラダからはじまったんだ、とりあえずそこからやり直そう。
なんか大変なことになりそうな予感を孕みつつ、シェークスピアの新作の幕が上がる。
上演中にアクシデントとしてジョージに乱入してもらうとか、クライマックスらしく派手な道具立てで盛り上げて、ハッピーエンドに着地させたいですな。
ラストはラブラブ……なんだけど、ジョージが縄でぐるぐる巻きになってたり。「なんだこれは?!」「あ、ウィリアムたちに作ってもらった罠」「なんのための罠? 熊でも捕まえるつもりだったのか?」「ああ。……もう掴まえたけどな」「?」動けないジョージを転がして、またも主導権握ってのしかかるリチャード。これがふたりの正しい力関係、的な?
マジで同人誌1冊出せそうな、楽しいキャラクタたち。ジョージとリチャードだけでなく、他のキャラクタたちもみんな。
はー、萌える。
ところで『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』、二重構造がわかりにくいです。
初日幕間、「あっきーパリスなの? 別の役名ついてなかった?」「劇団員が本役で、パリスはアルバイト?」と、友人たちと話しながらプログラム見て、はじめてわかった。
プログラムないと初見ではわからんわー。
『冬物語』にしても、ちゃんと「今書いている途中、まだ出来てない」って台詞あったけどさー……。
あ、わたしは『冬物語』というと、オサ様が父と娘の二役をやっていた『冬物語』しか知りません……父と娘の二役て……タカラヅカってすごいとこだよな……。
まあそれはともかく。
アテ書きオリジナル作品っていいよね!
ウィリアム@まぁくんの「青年」ぶり、「主人公」ぶりがいい。
主人公っていろいろ割をくう場合もあってさ、まっすぐでかっこよくて、そして悩める青年であることが、自然に成立するキャラクタって、貴重なのよ。
まぁくんの「主人公らしさ」って、彼がトップスターたる資質に由来するものだと思う。
なにをするにしろ、彼が立つところに清浄な光が差す。
ウィリアムは聖人君子ではなく、パパとの関係こじらせてて、自分も良いパパにはなれなくて、迷いも間違いもするのだけど。
なにをしたとして、彼は正しい。観客は「正しい」視点として、彼を基点にする。そうさせてしまうのが、まぁくんの力。
生田せんせの作品は基本ラノベだと思うんだけど、この「主人公」の挫折と復帰、光へ向かうラストなど、ほんとに気持ちよくラノベしてくれるなあ。
ラノベ……子どもの読み物、ではなく、少年の心を持った、大人のための物語。
かつて少年だった、今はもう、暗いもの汚いもの哀しいもの……いろんなものを知り、もう二度と戻れない手に入らない失ってしまった歪みを背負い、それでも、「きれいだったころをおぼえている」、大人のための物語。
だからこそ、ファンタジーなんだよねえ……。大団円を望むし、ソレに涙するんだよねえ。
まぁくんは正しく間違ってくれるから好きだな。
正しく間違う……共感を得られる間違い方。ああ、ダメだよソレ、や、気持ちはわかるけど……! てな。
そして、間違いに気づいたときの傷付き方や、立ち直り方も、正しいの。共感を呼ぶの。
ウィリアムとアン@みりおんがすれ違っていく様が好き。
アンの悲しいソロから、家に戻ったウィルが手紙に気づくくだり。
机の上に、アンの手紙が積み上がっている、アレね。
父親が怒鳴り込んできて、ウィルの慟哭へ続くあの怒濤の展開ね。
アレはいいね! すっげー好みだ!!
短い尺で効果的に悲劇を見せてくれる。
だからこそ、ダーク・レィディいらね、と思う。
夫婦のすれ違いの元を、わけわかんないナンチャッテ黒魔術みたいなもののせいにしないでほしかった。
ありゃ「逃げ」だよなー。ジョージ@マカゼの説得に説得力がない言い訳だよね。「魔女に操られました」てのは。や、操られてないと思うけど。ただあの場限りのネタでしかないと思ってるけど。
ジョージを理由にするなら、ウィルがおかしくなっても変じゃない理由で、「人が変わった」ことにしてくれないと。
結局のところ、アンとのすれ違い=息子の死がストーリーに必要だから、ジョージの野心を理由にしたってだけに見える。
ジョージの野心自体中身がないので、クライマックスでお笑いに走って、ソレを誤魔化している状態。
物語の都合ではなく、物語が要求する展開を、きちんと構築してほしかったな。……いや、いっくんに構成力がないのは知ってるから、無理な話だとは思うけど……誰か、構成出来る人に監修してもらってだな……!
もったいないわー。
構成は残念なんだけど、それでもキャラクタに魅力があれば無問題。
ウィリアムに感情移入して、彼の挫折と再起に一喜一憂、最後の大団円までをロールプレイングできるから、それでいいの。
わくわくして、きゅーんと切なくなって、笑って、しあわせな気持ちになる。
これは正しいエンタメの仕事。
正しいモノはいいな。好きだな。
ウィリアムと一緒に、仲間たちと一緒に、ラストはみんなと一緒に、顔上げ、「Will in the World」を熱唱したい気持ちになる。
初日幕間、「あっきーパリスなの? 別の役名ついてなかった?」「劇団員が本役で、パリスはアルバイト?」と、友人たちと話しながらプログラム見て、はじめてわかった。
プログラムないと初見ではわからんわー。
『冬物語』にしても、ちゃんと「今書いている途中、まだ出来てない」って台詞あったけどさー……。
あ、わたしは『冬物語』というと、オサ様が父と娘の二役をやっていた『冬物語』しか知りません……父と娘の二役て……タカラヅカってすごいとこだよな……。
まあそれはともかく。
アテ書きオリジナル作品っていいよね!
ウィリアム@まぁくんの「青年」ぶり、「主人公」ぶりがいい。
主人公っていろいろ割をくう場合もあってさ、まっすぐでかっこよくて、そして悩める青年であることが、自然に成立するキャラクタって、貴重なのよ。
まぁくんの「主人公らしさ」って、彼がトップスターたる資質に由来するものだと思う。
なにをするにしろ、彼が立つところに清浄な光が差す。
ウィリアムは聖人君子ではなく、パパとの関係こじらせてて、自分も良いパパにはなれなくて、迷いも間違いもするのだけど。
なにをしたとして、彼は正しい。観客は「正しい」視点として、彼を基点にする。そうさせてしまうのが、まぁくんの力。
生田せんせの作品は基本ラノベだと思うんだけど、この「主人公」の挫折と復帰、光へ向かうラストなど、ほんとに気持ちよくラノベしてくれるなあ。
ラノベ……子どもの読み物、ではなく、少年の心を持った、大人のための物語。
かつて少年だった、今はもう、暗いもの汚いもの哀しいもの……いろんなものを知り、もう二度と戻れない手に入らない失ってしまった歪みを背負い、それでも、「きれいだったころをおぼえている」、大人のための物語。
だからこそ、ファンタジーなんだよねえ……。大団円を望むし、ソレに涙するんだよねえ。
まぁくんは正しく間違ってくれるから好きだな。
正しく間違う……共感を得られる間違い方。ああ、ダメだよソレ、や、気持ちはわかるけど……! てな。
そして、間違いに気づいたときの傷付き方や、立ち直り方も、正しいの。共感を呼ぶの。
ウィリアムとアン@みりおんがすれ違っていく様が好き。
アンの悲しいソロから、家に戻ったウィルが手紙に気づくくだり。
机の上に、アンの手紙が積み上がっている、アレね。
父親が怒鳴り込んできて、ウィルの慟哭へ続くあの怒濤の展開ね。
アレはいいね! すっげー好みだ!!
短い尺で効果的に悲劇を見せてくれる。
だからこそ、ダーク・レィディいらね、と思う。
夫婦のすれ違いの元を、わけわかんないナンチャッテ黒魔術みたいなもののせいにしないでほしかった。
ありゃ「逃げ」だよなー。ジョージ@マカゼの説得に説得力がない言い訳だよね。「魔女に操られました」てのは。や、操られてないと思うけど。ただあの場限りのネタでしかないと思ってるけど。
ジョージを理由にするなら、ウィルがおかしくなっても変じゃない理由で、「人が変わった」ことにしてくれないと。
結局のところ、アンとのすれ違い=息子の死がストーリーに必要だから、ジョージの野心を理由にしたってだけに見える。
ジョージの野心自体中身がないので、クライマックスでお笑いに走って、ソレを誤魔化している状態。
物語の都合ではなく、物語が要求する展開を、きちんと構築してほしかったな。……いや、いっくんに構成力がないのは知ってるから、無理な話だとは思うけど……誰か、構成出来る人に監修してもらってだな……!
もったいないわー。
構成は残念なんだけど、それでもキャラクタに魅力があれば無問題。
ウィリアムに感情移入して、彼の挫折と再起に一喜一憂、最後の大団円までをロールプレイングできるから、それでいいの。
わくわくして、きゅーんと切なくなって、笑って、しあわせな気持ちになる。
これは正しいエンタメの仕事。
正しいモノはいいな。好きだな。
ウィリアムと一緒に、仲間たちと一緒に、ラストはみんなと一緒に、顔上げ、「Will in the World」を熱唱したい気持ちになる。
いつもてきとーなところに観劇感想メモを書き散らかしているため、いざ見直してからUPしようとすると「書いたはずなのに、どこにあるのかわからない!」となることがある。
最近はわりと気をつけてきたつもりだったんだけど……『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』のみりおん語りのメモが見当たらない……しかも、前半だけ。
後半があるから、「ああ、あるある」と気にしてなかったんだけど、今読み返したらコレ、めっちゃ文章途中やん……。これより前はどこいった……。
いつかどこかで見つけたら、こっそり貼り付けることにして、後半だけUPしておく(笑)。
『モンテ・クリスト伯』もそうだけど、みりおんって母親になってからの方がきれいだし、かわいいわ。
母性にあふれたタイプには、ごめん、見えないんだけど、女性として立ち位置が決まったあとの方が魅力を出しやすいのかなと思う。
まぁくんが「父親」には見えない……ウィリアムが良き父であろうとなかろうと……なんだろ、「青年」の部分が強く出ているからかな。や、男はそれでもいいんだと思う、いくつになっても「若さ・幼さ」を身のうちに持つ、のは。
ウィルが青年のまま違う方向へ突き進んでいることと、アンが母親であり女であり立ち止まったままでいることが、好みのコントラストなんだと思う、わたしの。
アンが大人の女性としてかわいいから、息子を失ったあとの彼女側の物語も、もうちょい書いて欲しかったよー。
ぜんぜん出て来ないんだもんよー。
歌ひとつでもあればなあ……。
ところでわたし、なんか今回改めて、まぁみりトップコンビおめでとー!な気持ちになった。
夫婦役だからかなあ?
『TOP HAT』や『メランコリック・ジゴロ』は別箱だったこともあり、それほど「トップコンビ」の印象が強くなかった。だって、バウでも主演とヒロインやってたし。別箱はトップコンビでなくても組むからねー。
大劇場本公演は別だよなー。
そして前回は再演モノだったし。初演はトップコンビでやった役じゃないし。
大劇場本公演でまぁみりのための書き下ろしオリジナル作品で、ハッピーエンドの夫婦役で、なんかしみじみと、ああ、まぁくんとみりおんが、ついにトップコンビになったんだなあ、と思った。
それこそ、『EXCITER!!』初演の銀橋からはじまって、よくぞここまで紆余曲折……。親戚のおばちゃんモードでしみじみ感動したわ……。
まあ、芝居もショーも「まぁマカ推し」な感じがして、それほどみりおん推してない感じではあるけど……(笑)。
生田せんせのミューズ(笑)、圭子ねーさまが出演しているけれど、さすがみりおんは圭子バズーカに吹っ飛ばされたりはしないんだな。
美穂圭子おねーさまは現在のヅカを代表する歌手のひとり。その歌声は至宝だけれど、その素晴らしさゆえに現役スターをぶっ飛ばしてしまい、彼女が通ったあとは草も生えない、なんて事象が多々ある。
トップ娘役に就任したばかりのかのちゃんが、圭子バズーカに吹っ飛ばされ、「ヒロインどっち?」「歌がうまい方の人よね?」てな状態になっていたのが記憶に新しいだけに。
みりおんが、圭子ねーさまがどんだけ朗々と歌い、キーとなる大きな役を演じ、「物語」の中で深く君臨したとして、負けることなく「ヒロイン」であったことに、胸を熱くする。
テル時代は名前だけのトップ娘役で、ヒロインは別の人、てな扱いが続いてたもんなあ……地味で大勢人がいると誰がみりおんかわかんなくなりがちだったのになあ……。
そんな時代を経て、今みりおんはここまで来てるんだな。
うおお、なんかすげえ。
かのちゃんもきっと、経験を重ねれば圭子ねーさまに負けない存在感を会得できるよーになるはず……!
圭子ねーさまも好きなわたしは、彼女が浮いてしまう舞台より、他のキャストが実力であの破壊力を御し、バランス良く機能している舞台を見たい。バズーカに負けないスターさんがたくさんいてくれれば、それだけ面白い舞台を見られる。
てことで、今後もわくわく。
みりおん、いいスターさんだよねー。
まぁくんとのコンビいいよねー。
最近はわりと気をつけてきたつもりだったんだけど……『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』のみりおん語りのメモが見当たらない……しかも、前半だけ。
後半があるから、「ああ、あるある」と気にしてなかったんだけど、今読み返したらコレ、めっちゃ文章途中やん……。これより前はどこいった……。
いつかどこかで見つけたら、こっそり貼り付けることにして、後半だけUPしておく(笑)。
『モンテ・クリスト伯』もそうだけど、みりおんって母親になってからの方がきれいだし、かわいいわ。
母性にあふれたタイプには、ごめん、見えないんだけど、女性として立ち位置が決まったあとの方が魅力を出しやすいのかなと思う。
まぁくんが「父親」には見えない……ウィリアムが良き父であろうとなかろうと……なんだろ、「青年」の部分が強く出ているからかな。や、男はそれでもいいんだと思う、いくつになっても「若さ・幼さ」を身のうちに持つ、のは。
ウィルが青年のまま違う方向へ突き進んでいることと、アンが母親であり女であり立ち止まったままでいることが、好みのコントラストなんだと思う、わたしの。
アンが大人の女性としてかわいいから、息子を失ったあとの彼女側の物語も、もうちょい書いて欲しかったよー。
ぜんぜん出て来ないんだもんよー。
歌ひとつでもあればなあ……。
ところでわたし、なんか今回改めて、まぁみりトップコンビおめでとー!な気持ちになった。
夫婦役だからかなあ?
『TOP HAT』や『メランコリック・ジゴロ』は別箱だったこともあり、それほど「トップコンビ」の印象が強くなかった。だって、バウでも主演とヒロインやってたし。別箱はトップコンビでなくても組むからねー。
大劇場本公演は別だよなー。
そして前回は再演モノだったし。初演はトップコンビでやった役じゃないし。
大劇場本公演でまぁみりのための書き下ろしオリジナル作品で、ハッピーエンドの夫婦役で、なんかしみじみと、ああ、まぁくんとみりおんが、ついにトップコンビになったんだなあ、と思った。
それこそ、『EXCITER!!』初演の銀橋からはじまって、よくぞここまで紆余曲折……。親戚のおばちゃんモードでしみじみ感動したわ……。
まあ、芝居もショーも「まぁマカ推し」な感じがして、それほどみりおん推してない感じではあるけど……(笑)。
生田せんせのミューズ(笑)、圭子ねーさまが出演しているけれど、さすがみりおんは圭子バズーカに吹っ飛ばされたりはしないんだな。
美穂圭子おねーさまは現在のヅカを代表する歌手のひとり。その歌声は至宝だけれど、その素晴らしさゆえに現役スターをぶっ飛ばしてしまい、彼女が通ったあとは草も生えない、なんて事象が多々ある。
トップ娘役に就任したばかりのかのちゃんが、圭子バズーカに吹っ飛ばされ、「ヒロインどっち?」「歌がうまい方の人よね?」てな状態になっていたのが記憶に新しいだけに。
みりおんが、圭子ねーさまがどんだけ朗々と歌い、キーとなる大きな役を演じ、「物語」の中で深く君臨したとして、負けることなく「ヒロイン」であったことに、胸を熱くする。
テル時代は名前だけのトップ娘役で、ヒロインは別の人、てな扱いが続いてたもんなあ……地味で大勢人がいると誰がみりおんかわかんなくなりがちだったのになあ……。
そんな時代を経て、今みりおんはここまで来てるんだな。
うおお、なんかすげえ。
かのちゃんもきっと、経験を重ねれば圭子ねーさまに負けない存在感を会得できるよーになるはず……!
圭子ねーさまも好きなわたしは、彼女が浮いてしまう舞台より、他のキャストが実力であの破壊力を御し、バランス良く機能している舞台を見たい。バズーカに負けないスターさんがたくさんいてくれれば、それだけ面白い舞台を見られる。
てことで、今後もわくわく。
みりおん、いいスターさんだよねー。
まぁくんとのコンビいいよねー。
じゃ、アムネリスは誰が?@博多座出演者発表
2016年1月8日 タカラヅカ 宙組大劇場公演がはじまっているわけですが、5月の宙組公演の振り分けが出ました。
……って、いつもなら、贔屓組以外の別箱振り分けにはなんの興味もない……いや、ヅカヲタとしての興味はあるが、ブログに書くことはない……のだけど、今回ばかりは食いつく。
うらら様が博多座じゃない?!
博多座公演は『王家に捧ぐ歌』です。
ラダメス・アイーダ・アムネリス主要3役は絶対に博多座に投入されねばなりません。
なのに、大劇場本公演でアムネリスを演じたうらら様が、博多座に出ない、DC出演って……。
アムネリス@うらら様って鉄板じゃなかったの?!
アムネリスを演じられる美貌のトップ娘役がいないから、10年以上再演出来なかった、うらら様という初演を超える美貌のスターが現れたことでようやく再演出来たのだ……とかなんとか、聞いたよーな気がするんですが。や、うらら様はトップ娘役じゃないけど、トップ娘役同然、未来のトップ娘役ってことで。
なんか、再演時のあれこれを覆すことになってますなあ。
いや、英断だと思います。
たしかにアムネリスには美貌が必要だけど、「声が無い」人がやる必要はないと思う。アムネリスに美貌は必要、だからといって、美人なら誰でもいいわけじゃない。
最低限、台本にある「声」は出してもらわないと。生の舞台なんだから。放送事故並に声が消える、声が無い、と最初からわかっている人がやるのはおかしい。
アムネリス@うらら様は、作品のためにも観客のためにも、そして当のうらら様のためにもならない配役だった。
だけど、そんなうらら様にアムネリスをやらせた劇団だから、絶望していたの。夢華さんにジュリエットをやらせた劇団だもの、誰のためにもならなくても、夢華さんを潰したようにうらら様を潰すことになったとしても関係なく、なんかしらの事情で、うらら様を推し続けるのだと。
観客のためでもなく、生徒のためでもなく。表には出て来ないなにかのために、そーゆー残酷なことを平気でやるのが宝塚歌劇団だと(笑)、すまん、ふつーに思っている。
そう思っているから、「そうじゃないよ、まともなことだってするよ」てなことを目にすると、驚くのだわ。
や、劇団全部に絶望しているわけではなく、この「宝塚歌劇団」というモンスターを形成するひとつの要因に、とても黒くて冷酷なものがあるのだ、ということを、長年の経験から勝手に思い込んでいるだけ。
夢とロマンにあふれたところだと信じていることも、確か。
で、うらら様をあえてアムネリス役から降ろしたのならば、英断だと思う。
これ以上うらら様の「タカラヅカ娘役として弱点」を、さらし続ける必要はない。
わたしだって、アムネリスの惨状を見るまでは、まだ彼女に期待していた。美貌があるのだから、タカラヅカなんだから、それだけでいいじゃないかと思っていた。
……美貌だけでは無理なことがあるのだと、わたしにとって「タカラヅカ」とはなんなのか、「ミュージカル」とはなんなのか、そこまで考えさせられることになるとは思わなかったし、そこまで考えさせるような人を、アムネリス役にする必要はないとしか。
うらら様がマカゼDCに出るのは、うらら様を守る振り分けだと思った。
DCヒロインをやるために、博多座には出なかった……って、美しい理由じゃないですか。
タカラヅカのそういう配慮の仕方はいいと思う。
アテ書きオリジナルなら、うらら様に歌える歌を書き下ろせばいいんだもの。彼女の欠点をカバーし、魅力を拡大させることが出来る。
……ただ、DCヒロインが女子大生というのが気になる……。「学生」「少女」というのは、うらら様の魅力を最大限活かすキーワードじゃないんだけどなあ。
つか、うらら様がヒロインでない可能性もあるのか。
イシダせんせがこの作品を書く時点では、うらら様はとーぜん博多でアムネリスやってる予定だった、そのあと実際に本公演でアムネリス演じて、「舞台人なのに声が無い」という類を見ない状況が明るみに出て、あわてて変更になった結果、とか? 音痴程度なら100年の歴史上いくらでもいたからスルーされてたけど、「声が無い」はさすがに問題視された?
劇団にナニがあったのかはわからないけれど、適材適所の、ジェンヌの魅力を発揮出来る使い方をしてほしいと思う。
博多座が『王家に捧ぐ歌』だと発表されたときは興味もなかったけれど、アムネリスが誰かで遠征するかどうか再考必至だなー。
や、単なる『王家』ファンとして!
……って、いつもなら、贔屓組以外の別箱振り分けにはなんの興味もない……いや、ヅカヲタとしての興味はあるが、ブログに書くことはない……のだけど、今回ばかりは食いつく。
うらら様が博多座じゃない?!
博多座公演は『王家に捧ぐ歌』です。
ラダメス・アイーダ・アムネリス主要3役は絶対に博多座に投入されねばなりません。
なのに、大劇場本公演でアムネリスを演じたうらら様が、博多座に出ない、DC出演って……。
アムネリス@うらら様って鉄板じゃなかったの?!
アムネリスを演じられる美貌のトップ娘役がいないから、10年以上再演出来なかった、うらら様という初演を超える美貌のスターが現れたことでようやく再演出来たのだ……とかなんとか、聞いたよーな気がするんですが。や、うらら様はトップ娘役じゃないけど、トップ娘役同然、未来のトップ娘役ってことで。
なんか、再演時のあれこれを覆すことになってますなあ。
いや、英断だと思います。
たしかにアムネリスには美貌が必要だけど、「声が無い」人がやる必要はないと思う。アムネリスに美貌は必要、だからといって、美人なら誰でもいいわけじゃない。
最低限、台本にある「声」は出してもらわないと。生の舞台なんだから。放送事故並に声が消える、声が無い、と最初からわかっている人がやるのはおかしい。
アムネリス@うらら様は、作品のためにも観客のためにも、そして当のうらら様のためにもならない配役だった。
だけど、そんなうらら様にアムネリスをやらせた劇団だから、絶望していたの。夢華さんにジュリエットをやらせた劇団だもの、誰のためにもならなくても、夢華さんを潰したようにうらら様を潰すことになったとしても関係なく、なんかしらの事情で、うらら様を推し続けるのだと。
観客のためでもなく、生徒のためでもなく。表には出て来ないなにかのために、そーゆー残酷なことを平気でやるのが宝塚歌劇団だと(笑)、すまん、ふつーに思っている。
そう思っているから、「そうじゃないよ、まともなことだってするよ」てなことを目にすると、驚くのだわ。
や、劇団全部に絶望しているわけではなく、この「宝塚歌劇団」というモンスターを形成するひとつの要因に、とても黒くて冷酷なものがあるのだ、ということを、長年の経験から勝手に思い込んでいるだけ。
夢とロマンにあふれたところだと信じていることも、確か。
で、うらら様をあえてアムネリス役から降ろしたのならば、英断だと思う。
これ以上うらら様の「タカラヅカ娘役として弱点」を、さらし続ける必要はない。
わたしだって、アムネリスの惨状を見るまでは、まだ彼女に期待していた。美貌があるのだから、タカラヅカなんだから、それだけでいいじゃないかと思っていた。
……美貌だけでは無理なことがあるのだと、わたしにとって「タカラヅカ」とはなんなのか、「ミュージカル」とはなんなのか、そこまで考えさせられることになるとは思わなかったし、そこまで考えさせるような人を、アムネリス役にする必要はないとしか。
うらら様がマカゼDCに出るのは、うらら様を守る振り分けだと思った。
DCヒロインをやるために、博多座には出なかった……って、美しい理由じゃないですか。
タカラヅカのそういう配慮の仕方はいいと思う。
アテ書きオリジナルなら、うらら様に歌える歌を書き下ろせばいいんだもの。彼女の欠点をカバーし、魅力を拡大させることが出来る。
……ただ、DCヒロインが女子大生というのが気になる……。「学生」「少女」というのは、うらら様の魅力を最大限活かすキーワードじゃないんだけどなあ。
つか、うらら様がヒロインでない可能性もあるのか。
イシダせんせがこの作品を書く時点では、うらら様はとーぜん博多でアムネリスやってる予定だった、そのあと実際に本公演でアムネリス演じて、「舞台人なのに声が無い」という類を見ない状況が明るみに出て、あわてて変更になった結果、とか? 音痴程度なら100年の歴史上いくらでもいたからスルーされてたけど、「声が無い」はさすがに問題視された?
劇団にナニがあったのかはわからないけれど、適材適所の、ジェンヌの魅力を発揮出来る使い方をしてほしいと思う。
博多座が『王家に捧ぐ歌』だと発表されたときは興味もなかったけれど、アムネリスが誰かで遠征するかどうか再考必至だなー。
や、単なる『王家』ファンとして!
勝手にありがちヴァンパイア。-妄想物語-
2016年1月9日 タカラヅカ えー、うらら様がマカゼ主演DCに出る! ということからの雑談、妄想話。
……というのもだ、イシダせんせの『ヴァンパイア・サクセション』 の公式解説がこう、うらら様出るんだ、でもまどかちゃんも出るんだ、それに、うらら様を配して「ヴァンパイアの親近感溢れる姿を、コメディタッチでありながらもハートフルに描き出します」って、それどうなんだろう、てな、いろんな不安を抱えるがゆえ(笑)。
よーするに。
マカうらで本気の耽美が見たい。
宝塚歌劇団屈指の美丈夫マカゼ氏と、史上に輝く美貌のうらら様とで。
『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』のマカうらが、最初は「お! 悪の美形夫婦♪」でワクテカだったのに、まさかのコメディ落ちで盛大に肩すかし、『HOT EYES!!』だって美女うらら様をマカゼとまぁ様で取り合うのかと思いきや、取り合われる相手が違ってたし(笑)。
違うのよ、そうじゃないのよ、逃げナシに本気でとことんドシリアスの、マカゼ×うららのラブストーリーを見せろ~~!(じたばた)
せっかくヴァンパイアものやるならさ、コメディでも現代でもなく、マジにゴシックロマンにしてほしい。
うらら様はもちろん、美貌の貴婦人でさ。彼女の持つ最強カード「未亡人」使っていいからさ。
最初マカゼはヴァンパイアだということを隠し、謎の青年貴族としてうらら様の前に現れ、美貌の未亡人の心に波紋を起こすのよ。
うらら様はまず「人間の青年としてのマカゼ」に惹かれ、いやそれじゃいけない、と自制し、「未亡人は恋してはならない」「でも惹かれてしまう」葛藤、ミステリアス好青年マカゼ堪能パート。
後半は、いろいろ逆転する。ヴァンパイアハンター(えーと、DC振り分け的に考えると愛ちゃん?)の登場により、マカゼがヴァンパイアだとばれる。
うらら様はもちろんいったんドン引きするが、今度はヴァンパイアのマカゼに惹かれていく。「バケモノに恋するとかありえない」という、生物的禁忌で葛藤。ここは悪の耽美マカゼ堪能パート。
そして、クライマックスはさらに逆転する。
悪のヴァンパイアの悲しい運命とか、「ほんとはいい人」「お涙頂戴話」とか盛り込んで、悪のはずのヴァンパイアを物語的に肯定させる。ハンターの愛ちゃんの方が悪く見えるくらい、徹底的に。そして、すべての葛藤を乗り越え、愛に生きることを決めたうらら様と、マカゼの壮絶耽美な破滅ラストへなだれ込み!
マカゼビューは「善人貴公子」→「耽美したたる悪」→「悲劇の美青年」と3パターン楽しめる。パートごとに衣装のテイストも変えて、とにかく見た目からして楽しませてくれ。
うらら様は最強武器の「未亡人」で、「よろめき未亡人の葛藤」→「人間としての葛藤」→「破滅愛上等情熱の未亡人」とこれまた3パターン楽しめる。
悪役の愛ちゃんは、「正義のヒーロー」→「冷酷な狩人」と2パターンの変化っぷりを楽しめるはず。さらに、うらら様に言い寄ってくれるとベターです。
ストーリーはどこかで5万回見たよーなよくあるヤツだけど、要は「見たいモノ」が見られればいい。
耽美ぶっちぎりのマカゼとか、よろめき未亡人のうらら様とか、ヒーロー愛ちゃんとか。
ナニ気に本気で耽美なマカゼって見たことナイ。
彼は持ち味に「ゆるい」ところがあるので、どうしてもヘタレキャラ寄りになっちゃうんだよなあ……と、『Shakespeare』を見てハンケチを噛む。
わかる、わかるよ、マカゼにアテ書きしたら、真の悪にはならず、ついヘタレな愛妻家になっちゃったんでしょ? お笑いに走っちゃうんでしょ?
わかるけど……!
せっかく男前なんだから、男前な役が見たいっす……。
『ランスロット』くらいマジに美しいマカゼが見たいっす……。
しかしDCはイシダせんせの現代モノコメディ……。
『50/50』はいろいろ痛かったな……と遠い目をする。
や、物語として成り立たないモノは書かない人なので、起承転結とクライマックスのある作品を提供してくれるだろうことは、疑ってないけど。
下ネタとおてもやんと、臓器提供キャンペーンがなければいいなあ、と思う。
にしてもイシダせんせ、みつる好きやんな……。
……というのもだ、イシダせんせの『ヴァンパイア・サクセション』 の公式解説がこう、うらら様出るんだ、でもまどかちゃんも出るんだ、それに、うらら様を配して「ヴァンパイアの親近感溢れる姿を、コメディタッチでありながらもハートフルに描き出します」って、それどうなんだろう、てな、いろんな不安を抱えるがゆえ(笑)。
よーするに。
マカうらで本気の耽美が見たい。
宝塚歌劇団屈指の美丈夫マカゼ氏と、史上に輝く美貌のうらら様とで。
『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』のマカうらが、最初は「お! 悪の美形夫婦♪」でワクテカだったのに、まさかのコメディ落ちで盛大に肩すかし、『HOT EYES!!』だって美女うらら様をマカゼとまぁ様で取り合うのかと思いきや、取り合われる相手が違ってたし(笑)。
違うのよ、そうじゃないのよ、逃げナシに本気でとことんドシリアスの、マカゼ×うららのラブストーリーを見せろ~~!(じたばた)
せっかくヴァンパイアものやるならさ、コメディでも現代でもなく、マジにゴシックロマンにしてほしい。
うらら様はもちろん、美貌の貴婦人でさ。彼女の持つ最強カード「未亡人」使っていいからさ。
最初マカゼはヴァンパイアだということを隠し、謎の青年貴族としてうらら様の前に現れ、美貌の未亡人の心に波紋を起こすのよ。
うらら様はまず「人間の青年としてのマカゼ」に惹かれ、いやそれじゃいけない、と自制し、「未亡人は恋してはならない」「でも惹かれてしまう」葛藤、ミステリアス好青年マカゼ堪能パート。
後半は、いろいろ逆転する。ヴァンパイアハンター(えーと、DC振り分け的に考えると愛ちゃん?)の登場により、マカゼがヴァンパイアだとばれる。
うらら様はもちろんいったんドン引きするが、今度はヴァンパイアのマカゼに惹かれていく。「バケモノに恋するとかありえない」という、生物的禁忌で葛藤。ここは悪の耽美マカゼ堪能パート。
そして、クライマックスはさらに逆転する。
悪のヴァンパイアの悲しい運命とか、「ほんとはいい人」「お涙頂戴話」とか盛り込んで、悪のはずのヴァンパイアを物語的に肯定させる。ハンターの愛ちゃんの方が悪く見えるくらい、徹底的に。そして、すべての葛藤を乗り越え、愛に生きることを決めたうらら様と、マカゼの壮絶耽美な破滅ラストへなだれ込み!
マカゼビューは「善人貴公子」→「耽美したたる悪」→「悲劇の美青年」と3パターン楽しめる。パートごとに衣装のテイストも変えて、とにかく見た目からして楽しませてくれ。
うらら様は最強武器の「未亡人」で、「よろめき未亡人の葛藤」→「人間としての葛藤」→「破滅愛上等情熱の未亡人」とこれまた3パターン楽しめる。
悪役の愛ちゃんは、「正義のヒーロー」→「冷酷な狩人」と2パターンの変化っぷりを楽しめるはず。さらに、うらら様に言い寄ってくれるとベターです。
ストーリーはどこかで5万回見たよーなよくあるヤツだけど、要は「見たいモノ」が見られればいい。
耽美ぶっちぎりのマカゼとか、よろめき未亡人のうらら様とか、ヒーロー愛ちゃんとか。
ナニ気に本気で耽美なマカゼって見たことナイ。
彼は持ち味に「ゆるい」ところがあるので、どうしてもヘタレキャラ寄りになっちゃうんだよなあ……と、『Shakespeare』を見てハンケチを噛む。
わかる、わかるよ、マカゼにアテ書きしたら、真の悪にはならず、ついヘタレな愛妻家になっちゃったんでしょ? お笑いに走っちゃうんでしょ?
わかるけど……!
せっかく男前なんだから、男前な役が見たいっす……。
『ランスロット』くらいマジに美しいマカゼが見たいっす……。
しかしDCはイシダせんせの現代モノコメディ……。
『50/50』はいろいろ痛かったな……と遠い目をする。
や、物語として成り立たないモノは書かない人なので、起承転結とクライマックスのある作品を提供してくれるだろうことは、疑ってないけど。
下ネタとおてもやんと、臓器提供キャンペーンがなければいいなあ、と思う。
にしてもイシダせんせ、みつる好きやんな……。
『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』を観て。
マカゼのファンだったら、楽しいだろうなあ……!
と、思う。
それほどに、ここんとこのマカゼさんが好み過ぎて、はうはうします、胸が痛いです(笑)。
ジョージ@マカゼの素敵な点。
まず、ビジュアル最強。
美しい。とことん美麗なヒゲ男っ。
こんだけ体格含め美しい男もそうそういない。男装の麗人とか少女マンガのイケメンとかじゃなく、リアルに美丈夫、ヒゲ自前ですね、胸毛常備ですね知ってます、とか、そのレベル。
はー、姿眺めてるだけで幸せだわ……(笑)。
次に、黒い役であること。
毒にも薬にもならない「いい人」ではなく。野心の人ですよ。悪役ってのはフィクションの華です。
おいしい2番手ってやつです。
美形は悪役をやるべきです。
そして、妻が美女であること。
うらら様の正しい使い方!
美貌! 大人! ダーク!
『New Wave! -宙-』でもそうでしたが、うらら様は悪役が似合います。悪の女幹部ってのは本気で美女でなきゃいかんのです。ヒロインはかわいいたぬきちゃんでもいいけど、悪役は美形。コレ鉄板。
迫力の美女を妻にしている、ってだけで、男の価値上がりまくりです。
『Shakespeare』の作品としての壊れっぷりとか、足りない部分とか、言いたいことはいろいろあるんだが、それはともかくとして、楽しい。
マカゼスキーがまったりマカゼを眺める、というだけでも、見どころいっぱい。
主人公と絡む役、ってのはいいですよ。
なんかエロく口説いてるしね(笑)。
美形の仲間がいるのもいい。
時間がなかったんだろうけど、もう少しこの悪役グループの人間関係を書き込んでくれたらなあ、とは思う。
ジョージがウィリアム@まぁくんをどう思って、普段どんな風につきあっていたかが、わかんないのね。
まあそれは、残念美形コンビ@愛ずんにしてもそうなんだけど。
絶体絶命!な状況で、美形コンビが突然ウィリアムをかばうことに心から驚いたくらい、彼らのナマの関係ってろくに描かれてないのね。
いちばん生身の親密感があるのが、仲間ってわけじゃなく、接点もあまりなさそうなリチャード@コマのみっつーのが惜しいなと。や、おかげでジョーリチャ萌えしてますけどね(笑)。
奥さんの尻に敷かれているところも好き。
ほんっとマカゼってヘタレが似合う。
ただこれは、今のお笑いオチの中では、であり、お笑いに逃げて欲しくなかった残念さとは別ね。
最後に、実は最大のステキポイント。
パパが、すっしー。
すっしーとマカゼが親子!
やだなにその美形エロ遺伝子!!
しかも、マカゼ、ファザコン!!
ヒゲのダンディのくせに、パパに頭上がらないでやんの。パパの影響力の下であがいてやんの。
なにそれ滾る!!
すっしーとマカゼのガチな愛憎モノ観てみたいなー。
あ、『カラマーゾフの兄弟』とか! ヒロインは誰でもいいけど最低限、あのものすげー高音の見せ場ソロを歌いこなせる人で!(うらら様はアムネリスの悪夢再びになるから無理)
次男も誰でもいいけど、三男はずんちゃんがいい(笑)。←こだわりポイント
あと、次男の幻覚は男役な。五峰さん却下。
いやまあともかく。
すっしーさんとマカゼって、夢の広がるふたりだわ。
マカゼが宙組になったおかげで、こんなところでも楽しめるのね。
わくわく眺めてます、いろいろ。
マカゼのファンだったら、楽しいだろうなあ……!
と、思う。
それほどに、ここんとこのマカゼさんが好み過ぎて、はうはうします、胸が痛いです(笑)。
ジョージ@マカゼの素敵な点。
まず、ビジュアル最強。
美しい。とことん美麗なヒゲ男っ。
こんだけ体格含め美しい男もそうそういない。男装の麗人とか少女マンガのイケメンとかじゃなく、リアルに美丈夫、ヒゲ自前ですね、胸毛常備ですね知ってます、とか、そのレベル。
はー、姿眺めてるだけで幸せだわ……(笑)。
次に、黒い役であること。
毒にも薬にもならない「いい人」ではなく。野心の人ですよ。悪役ってのはフィクションの華です。
おいしい2番手ってやつです。
美形は悪役をやるべきです。
そして、妻が美女であること。
うらら様の正しい使い方!
美貌! 大人! ダーク!
『New Wave! -宙-』でもそうでしたが、うらら様は悪役が似合います。悪の女幹部ってのは本気で美女でなきゃいかんのです。ヒロインはかわいいたぬきちゃんでもいいけど、悪役は美形。コレ鉄板。
迫力の美女を妻にしている、ってだけで、男の価値上がりまくりです。
『Shakespeare』の作品としての壊れっぷりとか、足りない部分とか、言いたいことはいろいろあるんだが、それはともかくとして、楽しい。
マカゼスキーがまったりマカゼを眺める、というだけでも、見どころいっぱい。
主人公と絡む役、ってのはいいですよ。
なんかエロく口説いてるしね(笑)。
美形の仲間がいるのもいい。
時間がなかったんだろうけど、もう少しこの悪役グループの人間関係を書き込んでくれたらなあ、とは思う。
ジョージがウィリアム@まぁくんをどう思って、普段どんな風につきあっていたかが、わかんないのね。
まあそれは、残念美形コンビ@愛ずんにしてもそうなんだけど。
絶体絶命!な状況で、美形コンビが突然ウィリアムをかばうことに心から驚いたくらい、彼らのナマの関係ってろくに描かれてないのね。
いちばん生身の親密感があるのが、仲間ってわけじゃなく、接点もあまりなさそうなリチャード@コマのみっつーのが惜しいなと。や、おかげでジョーリチャ萌えしてますけどね(笑)。
奥さんの尻に敷かれているところも好き。
ほんっとマカゼってヘタレが似合う。
ただこれは、今のお笑いオチの中では、であり、お笑いに逃げて欲しくなかった残念さとは別ね。
最後に、実は最大のステキポイント。
パパが、すっしー。
すっしーとマカゼが親子!
やだなにその美形エロ遺伝子!!
しかも、マカゼ、ファザコン!!
ヒゲのダンディのくせに、パパに頭上がらないでやんの。パパの影響力の下であがいてやんの。
なにそれ滾る!!
すっしーとマカゼのガチな愛憎モノ観てみたいなー。
あ、『カラマーゾフの兄弟』とか! ヒロインは誰でもいいけど最低限、あのものすげー高音の見せ場ソロを歌いこなせる人で!(うらら様はアムネリスの悪夢再びになるから無理)
次男も誰でもいいけど、三男はずんちゃんがいい(笑)。←こだわりポイント
あと、次男の幻覚は男役な。五峰さん却下。
いやまあともかく。
すっしーさんとマカゼって、夢の広がるふたりだわ。
マカゼが宙組になったおかげで、こんなところでも楽しめるのね。
わくわく眺めてます、いろいろ。
今回の宙組公演『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』『HOT EYES!!』を観て思ったこと。
まぁマカ推し……?(首かしげ)
芝居もショーも、まぁ様とマカゼが妖しく絡んでるわけです。
芝居はね、まあそんなもんかと思いましたが。
ストーリーあってのことだし、マカゼだけでなく他の人たちもいたし。
しかし、ショーでまたこのカップリングがあり……しかも最初、美女うらら様とマカゼ、と思って観てたらまぁ様登場で、ああ、美女うらら様をふたりの男で取り合うのね、と思ったら、ふたりのドS攻様に取り合われる子ネコちゃんがマカゼだという、誰得……?!(白目)という展開だったし。
いやさすがフジイくんはガチムチ男受好きだよな、趣味がマニアックっちゅーかガチ過ぎてときどき引くわー(笑)。
ふつーにヲタク的きれーなBL、つーと生田くんのセンスになると思う。男らしいヒゲ美丈夫が線の細い美青年を誘惑するの。『Shakespeare』は絵面的にふつー。さすがいっくんだわー。
とまあ、立て続けにトップと2番手でエロエロする場面を見せられちゃねー。
劇団、そっち推しで行くのか、と。
んでもって、素朴な疑問。
世の中的にまぁマカは需要あるの? あ、逆? マカまぁ?
トップと2番手がエロ絡みするのはヅカのお約束、双方のファンを喜ばせるサービスシーンだけど、このふたりでこーゆー売り方は需要があるのかどうか首をかしげる。
見た目の相性は良く、大変美しいふたりだけど……。
腐った方向での萌えは、今のとこナイなあ、わたし……。
どっちも健康的すぎてな。
いや、最初は期待したんですよ。
タイプの違う美形ふたりですから、このふたりがオイシイに越したことない。
しかし、実際に観てみて。
なんか……チガウ。
まぁ様もマカゼさんも、相手によっては色気の出る人だと思うんだけど、このふたりでだと、相乗効果が薄いというか。
惜しいわね。
健康的過ぎて色気に欠ける……淫靡さがない……淫猥さがない……。
と思うのはわたしと友人のまぁ様担くらいのもんで、世の中の意見がどうなのかは存じませぬ。
だから、需要あるのかなと。
なんかふと、幕間の客席で「せっかく絡んでるのに、このふたりだと萌えねーなー。つかずんこ健康的過ぎるやろ」と内心溜息ついたわたしの後ろで、見知らぬおねーさんふたりが「ずんちゃんとたかちゃんが絡んでるとやらしくてドキドキする~~」「アヤしくていいよねー」と盛り上がり出して、本当に同じモノを見ていたのか?!と白目剥いた経験もあるので……感じ方は人それぞれだよなー。
あ、ちなみに『激情』初演の話です。ホセとメリメな。
ずんこはかっこよかったけど、ほんと色気に欠ける人でなあ……芝居も一本調子というか荒削りというか、えーと。ホセ役は似合ってたけどな、持ち味に合って。
同じ宙組だなあ、と。
長身の二枚目ふたりが絡んでるのに、健康的でエロくならない……で、ずんこを思い出したナリ。
ああ、まぁくんもずんちゃんの代表作、『エリザベート』をやるんだねえ……。
まぁ様はずんちゃん(初代様でなく、現宙組子の)あたり口説いてくれた方が萌えるな。
あ、個人的にあっきーも可。あっきーに言い寄って、あっきーがあたふたするの……って、わたしのあっきー観って(笑)。
マカゼ氏はうらら様に転がされてる方が萌えるなー。
みきちぐとのカップリングがアリだったくらいのおじさまキラー(笑)な人だから、すっしーと絡んでほしいわ。
うーん、きれいどころを絡めるなら、やっぱまぁ様より愛ちゃんの方がいい気がする……?
まだ未知数、これからよねえ。
楽しみだわ。
まぁマカ推し……?(首かしげ)
芝居もショーも、まぁ様とマカゼが妖しく絡んでるわけです。
芝居はね、まあそんなもんかと思いましたが。
ストーリーあってのことだし、マカゼだけでなく他の人たちもいたし。
しかし、ショーでまたこのカップリングがあり……しかも最初、美女うらら様とマカゼ、と思って観てたらまぁ様登場で、ああ、美女うらら様をふたりの男で取り合うのね、と思ったら、ふたりのドS攻様に取り合われる子ネコちゃんがマカゼだという、誰得……?!(白目)という展開だったし。
いやさすがフジイくんはガチムチ男受好きだよな、趣味がマニアックっちゅーかガチ過ぎてときどき引くわー(笑)。
ふつーにヲタク的きれーなBL、つーと生田くんのセンスになると思う。男らしいヒゲ美丈夫が線の細い美青年を誘惑するの。『Shakespeare』は絵面的にふつー。さすがいっくんだわー。
とまあ、立て続けにトップと2番手でエロエロする場面を見せられちゃねー。
劇団、そっち推しで行くのか、と。
んでもって、素朴な疑問。
世の中的にまぁマカは需要あるの? あ、逆? マカまぁ?
トップと2番手がエロ絡みするのはヅカのお約束、双方のファンを喜ばせるサービスシーンだけど、このふたりでこーゆー売り方は需要があるのかどうか首をかしげる。
見た目の相性は良く、大変美しいふたりだけど……。
腐った方向での萌えは、今のとこナイなあ、わたし……。
どっちも健康的すぎてな。
いや、最初は期待したんですよ。
タイプの違う美形ふたりですから、このふたりがオイシイに越したことない。
しかし、実際に観てみて。
なんか……チガウ。
まぁ様もマカゼさんも、相手によっては色気の出る人だと思うんだけど、このふたりでだと、相乗効果が薄いというか。
惜しいわね。
健康的過ぎて色気に欠ける……淫靡さがない……淫猥さがない……。
と思うのはわたしと友人のまぁ様担くらいのもんで、世の中の意見がどうなのかは存じませぬ。
だから、需要あるのかなと。
なんかふと、幕間の客席で「せっかく絡んでるのに、このふたりだと萌えねーなー。つかずんこ健康的過ぎるやろ」と内心溜息ついたわたしの後ろで、見知らぬおねーさんふたりが「ずんちゃんとたかちゃんが絡んでるとやらしくてドキドキする~~」「アヤしくていいよねー」と盛り上がり出して、本当に同じモノを見ていたのか?!と白目剥いた経験もあるので……感じ方は人それぞれだよなー。
あ、ちなみに『激情』初演の話です。ホセとメリメな。
ずんこはかっこよかったけど、ほんと色気に欠ける人でなあ……芝居も一本調子というか荒削りというか、えーと。ホセ役は似合ってたけどな、持ち味に合って。
同じ宙組だなあ、と。
長身の二枚目ふたりが絡んでるのに、健康的でエロくならない……で、ずんこを思い出したナリ。
ああ、まぁくんもずんちゃんの代表作、『エリザベート』をやるんだねえ……。
まぁ様はずんちゃん(初代様でなく、現宙組子の)あたり口説いてくれた方が萌えるな。
あ、個人的にあっきーも可。あっきーに言い寄って、あっきーがあたふたするの……って、わたしのあっきー観って(笑)。
マカゼ氏はうらら様に転がされてる方が萌えるなー。
みきちぐとのカップリングがアリだったくらいのおじさまキラー(笑)な人だから、すっしーと絡んでほしいわ。
うーん、きれいどころを絡めるなら、やっぱまぁ様より愛ちゃんの方がいい気がする……?
まだ未知数、これからよねえ。
楽しみだわ。
海外ミュージカルとわたし・その1。
2016年1月12日 タカラヅカ 前日欄で、『エリザベート』の話がちらりと出たので。
そっからの流れで『エリザベート』についての思いを語ろう。
でもって、『エリザ』を語るには、その前段階の海外ミュージカル再演文化についてわたしの立ち位置っつーか、ふだん明文化してなくても大体こんな感じ、てな腹にあることを記す。
タカラヅカで何度も再演される(再演が期待される)海外産ミュージカルで、わたしが「再演を観たい」と思うモノは少ない。
海外ミュージカルはタカラヅカの番手制度に合わないモノが多いため、やって欲しいと思わない。初演はそれがなんなのかわからないからまず体験するとしても、それをわざわざ再演して欲しいかは別。
『エリザベート』『ME AND MY GIRL』『ロミオとジュリエット』『ファントム』『スカーレット・ピンパーネル』『ガイズ&ドールズ』……思いつくままに挙げたけれど、この中で再演が観たいモノって『エリザベート』と『ロミジュリ』だけかなー。
『スカピン』はしばらく観てないから久しぶりに観たい、という気持ちはあるし、男役に役が多いのでまだタカラヅカで上演する意義があると思ってるけど。
『エリザ』と『ロミジュリ』は「再演しすぎ」ゆえにレア感が薄れ、今のところ積極的に観たいわけでもナイ。
いちばん「いらない」と思うのが『ファントム』な。
2番手の役が「主人公の父親」で、もっとも盛り上がる場面が「主人公と父親の和解場面」って、それタカラヅカじゃない。
初演も再演も大好きだし通ったし泣いたけど、それとこれとは別。わたしがタカラヅカで「観たい」ものじゃない。(再々演もそれなりの回数観たけど、コレは好みじゃなかった。誰ひとり持ち味じゃなかったし「なんで再演した?」と疑問しかない)
や、再演時も再々演時も、決まったときは「いーやーだー!(泣)」と駄々こねてましたけどねー(笑)。
海外ミュージカルの最大の欠点は「役がない」こと。主役数名以外はモブ。
これはもう大前提でどうしようもないこととして、そこに「2番手の役がかっこいいかどうか」で、ヅカでアリかナシか決まる……わたしのなかでは。
『エリザベート』『ロミジュリ』『スカピン』は、2番手の役がちゃんとかっこいい。若くてハンサム。かっこいい見せ場がある。
『ファントム』『ME AND MY GIRL』『ガイズ&ドールズ』は、2番手が年寄り役。『ガイドル』は中年程度でまだマシだけど、単独のかっこいい見せ場がないのでこっちグループ。
トップコンビが美しいカップルなのはあたりまえとして(それすらなかったら、そもそもタカラヅカで上演してないはず)、せめて2番手がおいしくないと、他がモブしかないのにやってられない。
歌が聴きたい、とか、120分中ひとつふたつある名場面が観たい、程度なら、『タカスペ』でやればいいんだ。年に1~2回しかない貴重な本公演、東西2ヶ月使ってやることじゃない。
と、思っている。
これはわたしの感想なので、世間の作品評価とは無関係。
そして、いざ再演、となった場合でも、贔屓組か否かで評価が変わる。
たとえば『ME AND MY GIRL』は、贔屓組では観たくないが、他組で「1回だけ観る」なら楽しい。罪のないハッピーミュージカルだもんなー。役替わり前提作品だから、『ベルばら』と同じく、「祭りだから、クオリティとか気にすんな」括りだし。
贔屓組で上演されたら嫌なのも、『ベルばら』と同じ(笑)。
モブとはいえ男役にかっいい場面のある『ガイドル』は、贔屓組でもそれなりにアリかなと思う。歓迎はしないが、『ミーマイ』よりいい。
かっこいいスーツ群舞を観るためにリピートできそう。
贔屓組でもそれ以外でも、『ファントム』は本当に役者の揃った、実力で固めた面子でならとりあえずアリかな、と思う。
実のところ、この作品をヅカで上演するいちばんのネックは「主人公のメンタルが幼児」ということだと思っている。外見と同じく先天的なものなのか、後天的な歪んだ育ちのためか、主人公は子どものまま精神の成長がストップしているのね。だからいちばんの盛り上がりは父親との場面で、ヒロインとの関係は恋愛より母子愛に近い。
大人の男役であるトップスターの幼児プレイ必須、2番手老け役、トップ娘役には母性が求められ、いちばんおいしいのは別格おばさん役……実力者揃いでないときついわー。
イベント等で海外ミュージカルの最大の魅力である「歌」を聴いたりすると、「やっぱいい曲だなー、『(作品名)』また観たいなあ」とか思っちゃったりはするけど……それはイベントで1曲だけ聴くからいいんであって、組子をモブにしてショーを犠牲にしてムラで1ヶ月間観たいものか? というと、そうでもない場合が多い。
それより、アテ書きオリジナル芝居と、ショーの2本立てがいいわ。
なーんていう、偏った好みのわたしが、それでも「観たい」と思うのが『エリザベート』と『ロミジュリ』です。
てことで、翌日欄で『エリザ』+『ロミジュリ』話。
そっからの流れで『エリザベート』についての思いを語ろう。
でもって、『エリザ』を語るには、その前段階の海外ミュージカル再演文化についてわたしの立ち位置っつーか、ふだん明文化してなくても大体こんな感じ、てな腹にあることを記す。
タカラヅカで何度も再演される(再演が期待される)海外産ミュージカルで、わたしが「再演を観たい」と思うモノは少ない。
海外ミュージカルはタカラヅカの番手制度に合わないモノが多いため、やって欲しいと思わない。初演はそれがなんなのかわからないからまず体験するとしても、それをわざわざ再演して欲しいかは別。
『エリザベート』『ME AND MY GIRL』『ロミオとジュリエット』『ファントム』『スカーレット・ピンパーネル』『ガイズ&ドールズ』……思いつくままに挙げたけれど、この中で再演が観たいモノって『エリザベート』と『ロミジュリ』だけかなー。
『スカピン』はしばらく観てないから久しぶりに観たい、という気持ちはあるし、男役に役が多いのでまだタカラヅカで上演する意義があると思ってるけど。
『エリザ』と『ロミジュリ』は「再演しすぎ」ゆえにレア感が薄れ、今のところ積極的に観たいわけでもナイ。
いちばん「いらない」と思うのが『ファントム』な。
2番手の役が「主人公の父親」で、もっとも盛り上がる場面が「主人公と父親の和解場面」って、それタカラヅカじゃない。
初演も再演も大好きだし通ったし泣いたけど、それとこれとは別。わたしがタカラヅカで「観たい」ものじゃない。(再々演もそれなりの回数観たけど、コレは好みじゃなかった。誰ひとり持ち味じゃなかったし「なんで再演した?」と疑問しかない)
や、再演時も再々演時も、決まったときは「いーやーだー!(泣)」と駄々こねてましたけどねー(笑)。
海外ミュージカルの最大の欠点は「役がない」こと。主役数名以外はモブ。
これはもう大前提でどうしようもないこととして、そこに「2番手の役がかっこいいかどうか」で、ヅカでアリかナシか決まる……わたしのなかでは。
『エリザベート』『ロミジュリ』『スカピン』は、2番手の役がちゃんとかっこいい。若くてハンサム。かっこいい見せ場がある。
『ファントム』『ME AND MY GIRL』『ガイズ&ドールズ』は、2番手が年寄り役。『ガイドル』は中年程度でまだマシだけど、単独のかっこいい見せ場がないのでこっちグループ。
トップコンビが美しいカップルなのはあたりまえとして(それすらなかったら、そもそもタカラヅカで上演してないはず)、せめて2番手がおいしくないと、他がモブしかないのにやってられない。
歌が聴きたい、とか、120分中ひとつふたつある名場面が観たい、程度なら、『タカスペ』でやればいいんだ。年に1~2回しかない貴重な本公演、東西2ヶ月使ってやることじゃない。
と、思っている。
これはわたしの感想なので、世間の作品評価とは無関係。
そして、いざ再演、となった場合でも、贔屓組か否かで評価が変わる。
たとえば『ME AND MY GIRL』は、贔屓組では観たくないが、他組で「1回だけ観る」なら楽しい。罪のないハッピーミュージカルだもんなー。役替わり前提作品だから、『ベルばら』と同じく、「祭りだから、クオリティとか気にすんな」括りだし。
贔屓組で上演されたら嫌なのも、『ベルばら』と同じ(笑)。
モブとはいえ男役にかっいい場面のある『ガイドル』は、贔屓組でもそれなりにアリかなと思う。歓迎はしないが、『ミーマイ』よりいい。
かっこいいスーツ群舞を観るためにリピートできそう。
贔屓組でもそれ以外でも、『ファントム』は本当に役者の揃った、実力で固めた面子でならとりあえずアリかな、と思う。
実のところ、この作品をヅカで上演するいちばんのネックは「主人公のメンタルが幼児」ということだと思っている。外見と同じく先天的なものなのか、後天的な歪んだ育ちのためか、主人公は子どものまま精神の成長がストップしているのね。だからいちばんの盛り上がりは父親との場面で、ヒロインとの関係は恋愛より母子愛に近い。
大人の男役であるトップスターの幼児プレイ必須、2番手老け役、トップ娘役には母性が求められ、いちばんおいしいのは別格おばさん役……実力者揃いでないときついわー。
イベント等で海外ミュージカルの最大の魅力である「歌」を聴いたりすると、「やっぱいい曲だなー、『(作品名)』また観たいなあ」とか思っちゃったりはするけど……それはイベントで1曲だけ聴くからいいんであって、組子をモブにしてショーを犠牲にしてムラで1ヶ月間観たいものか? というと、そうでもない場合が多い。
それより、アテ書きオリジナル芝居と、ショーの2本立てがいいわ。
なーんていう、偏った好みのわたしが、それでも「観たい」と思うのが『エリザベート』と『ロミジュリ』です。
てことで、翌日欄で『エリザ』+『ロミジュリ』話。
海外ミュージカルとわたし・その2。
2016年1月13日 タカラヅカ 海外ミュージカル信者ではまったくない、タカラヅカのいいとこは新作オリジナルを作り続けられることだ、と思っている、偏った好みのわたしが、それでも「観たい」と思うのが『エリザベート』と『ロミオとジュリエット』です。
えー、あくまでも、わたし個人の感想です。世間様の評価は知らぬ。
なんで『エリザ』と『ロミジュリ』だけはいいの?
理由は単純。好きだから。……って、アタマ悪い回答来ましたー!
ええ、単に、好きなんです(笑)。好きだから観たい。好きじゃないものは、観たくない。なんてワガママ自己チュー心狭い意見!
組子モブだしショーないけど。
それでも、『エリザ』と『ロミジュリ』は好きだなあ。
贔屓組でなくてもリピートするし、贔屓組ならなおさら通う!
なんで好きか、複合的なモノなので「コレ!」という端的な理由があるわけじゃないが。
わたしがミュージカルに求めているのが、ストーリーよりドラマ、キャラクタ単体より、その関連性、なんだと思う。
『エリザベート』なんて、ストーリーわけわかんないじゃん? 慣れてない人を連れて行くと「ぽかーん」になる確率高いよー。
シシィやな女だし。トートストーカーだし。
『ロミジュリ』なんて、ストーリー単純過ぎだし、バカバカしいし。
要するに頭も身体もゆるい子どもたちが暴走して、勝手に破滅する話でしょ?
バカしか出て来ないし。
や、わたしは『エリザ』のストーリーはトリッキーでいいなと思うし、『ロミジュリ』のストーリーはシンプルであるゆえに普遍的なモノだと思ってるけど。
でも、基本のストーリーラインが秀逸な作品ではないと思う。『エリザ』は不親切だし、『ロミジュリ』はさすがに今の時代にはシンプルすぎて古い。
それよりも、ドラマ……劇的な出来事、場面の作り方が、素晴らしい。
最後までシシィに共感出来ないとしても、魅力的な楽曲でこれでもかと打ち出されるドラマティックな場面は素晴らしい。
よーく考えると「お前が言うな!」でしかなくても、天空で「私だけに」を歌うシシィには感動する。ストーリーで考えると納得いかないことだらけでも、その1場面を切り取ってその場限りでセリフと歌詞を受け取ると、普遍的な事柄に変換できて心を揺さぶられる。
ロミオにしろジュリエットにしろただのバカな子どもであったとしても、音楽と画面の美しさは太鼓判。
「そこ」に至る道具立て(典型的「ついカッとなってやった、今は反省している」)はバカバカしいんだけど、「そこ」での愛のみ切り取って考えると、それは間違いなく人が普遍的に持つ心の在り方なのよ。
そして、キャラクタ個人がどうというより、それぞれのキャラの関連性が想像力をかき立てる。
各キャラのつながり……恋愛感情だろうと友情だろうと、憎悪だろうと、人と人が関わり合い、心を動かす、その内容が濃いとわくわくする。
愛憎という点では『ファントム』の歪んだ親子愛は、好みだったりする。
ピンポイントでマニア心は刺激されて良いのだけど、前述の通り「タカラヅカ」としてわくわくしない。
ヅカより他のジャンルで堪能したいわ、こういう話とキャラは。あるいは、バウで小さく深く繰り広げる。大劇場本公演でやるこっちゃない。
そして、海外ミュージカルの是非を分ける基準に、上記の要因の他にもうひとつ、わたしにとって重要なことがある。
お笑い要素がないこと。
わたし、笑いのツボ狭いのよ……。
ギャグのつもりで書かれていることで、ムカついたり苛ついたり、不快さで作品自体が苦手になったりするのよ……。
いい例が『ハウ・トゥー・サクシード』。他人を陥れて得をする様を、笑って楽しむ作品。弱いモノを傷つけたり、善人を騙したりする様を、大笑いするの。わたしには無理。感覚が違いすぎて楽しめない。
『ミーマイ』は笑いのセンスが合わなさすぎて、好きになれない。笑わせるためのセリフや演出が、ことごとくイラッとなる。
ストーリーもテーマも好きだけど、描き方が無理。好みじゃない。
『ガイドル』も笑えなくてつらい……。ギャグのひとつひとつがわたしの心を冷やしていく……。
海外ミュージカルでいちばん「海外産だ」と痛感するのは、笑いのセンス。こればっかはほんとね、合わないとどうしようもないよね。
『スカピン』もあれほどお笑いに走ってなければ、「マダム・ギロチン」のテイストで終始してくれれば、もっと好きだったと思う。
や、そのときは笑うけど……わたしが萌えるものとはチガウわー。
『エリザ』と『ロミジュリ』は暗いからいいのよー。全体を覆う闇と悲しみ。
それが好み。
……にしても、『ロミジュリ』は短期間で再演されまくったし、『エリザ』はついこの間再演されたところ。
今現在、積極的に観たいわけでもない……が。
今年宙組で『エリザベート』再演が決まった。
えー、この間観たとこだから、もうしばらくいいわー。
それより、宙組は一本モノばかりで下級生動く背景に逆戻りしてんじゃん、今『エリザ』なんかやってる場合?
アテ書き新作をばんばんやって、ショーやって、スター育てるのが急務じゃないの?
とは思う。
思うけど。
やっぱり、『エリザベート』は楽しみだ。
海外ミュージカルにあまりありがたみを感じていないわたしが、それでも好きだ、と思う、再演を望む、数少ない作品。
えー、あくまでも、わたし個人の感想です。世間様の評価は知らぬ。
なんで『エリザ』と『ロミジュリ』だけはいいの?
理由は単純。好きだから。……って、アタマ悪い回答来ましたー!
ええ、単に、好きなんです(笑)。好きだから観たい。好きじゃないものは、観たくない。なんてワガママ自己チュー心狭い意見!
組子モブだしショーないけど。
それでも、『エリザ』と『ロミジュリ』は好きだなあ。
贔屓組でなくてもリピートするし、贔屓組ならなおさら通う!
なんで好きか、複合的なモノなので「コレ!」という端的な理由があるわけじゃないが。
わたしがミュージカルに求めているのが、ストーリーよりドラマ、キャラクタ単体より、その関連性、なんだと思う。
『エリザベート』なんて、ストーリーわけわかんないじゃん? 慣れてない人を連れて行くと「ぽかーん」になる確率高いよー。
シシィやな女だし。トートストーカーだし。
『ロミジュリ』なんて、ストーリー単純過ぎだし、バカバカしいし。
要するに頭も身体もゆるい子どもたちが暴走して、勝手に破滅する話でしょ?
バカしか出て来ないし。
や、わたしは『エリザ』のストーリーはトリッキーでいいなと思うし、『ロミジュリ』のストーリーはシンプルであるゆえに普遍的なモノだと思ってるけど。
でも、基本のストーリーラインが秀逸な作品ではないと思う。『エリザ』は不親切だし、『ロミジュリ』はさすがに今の時代にはシンプルすぎて古い。
それよりも、ドラマ……劇的な出来事、場面の作り方が、素晴らしい。
最後までシシィに共感出来ないとしても、魅力的な楽曲でこれでもかと打ち出されるドラマティックな場面は素晴らしい。
よーく考えると「お前が言うな!」でしかなくても、天空で「私だけに」を歌うシシィには感動する。ストーリーで考えると納得いかないことだらけでも、その1場面を切り取ってその場限りでセリフと歌詞を受け取ると、普遍的な事柄に変換できて心を揺さぶられる。
ロミオにしろジュリエットにしろただのバカな子どもであったとしても、音楽と画面の美しさは太鼓判。
「そこ」に至る道具立て(典型的「ついカッとなってやった、今は反省している」)はバカバカしいんだけど、「そこ」での愛のみ切り取って考えると、それは間違いなく人が普遍的に持つ心の在り方なのよ。
そして、キャラクタ個人がどうというより、それぞれのキャラの関連性が想像力をかき立てる。
各キャラのつながり……恋愛感情だろうと友情だろうと、憎悪だろうと、人と人が関わり合い、心を動かす、その内容が濃いとわくわくする。
愛憎という点では『ファントム』の歪んだ親子愛は、好みだったりする。
ピンポイントでマニア心は刺激されて良いのだけど、前述の通り「タカラヅカ」としてわくわくしない。
ヅカより他のジャンルで堪能したいわ、こういう話とキャラは。あるいは、バウで小さく深く繰り広げる。大劇場本公演でやるこっちゃない。
そして、海外ミュージカルの是非を分ける基準に、上記の要因の他にもうひとつ、わたしにとって重要なことがある。
お笑い要素がないこと。
わたし、笑いのツボ狭いのよ……。
ギャグのつもりで書かれていることで、ムカついたり苛ついたり、不快さで作品自体が苦手になったりするのよ……。
いい例が『ハウ・トゥー・サクシード』。他人を陥れて得をする様を、笑って楽しむ作品。弱いモノを傷つけたり、善人を騙したりする様を、大笑いするの。わたしには無理。感覚が違いすぎて楽しめない。
『ミーマイ』は笑いのセンスが合わなさすぎて、好きになれない。笑わせるためのセリフや演出が、ことごとくイラッとなる。
ストーリーもテーマも好きだけど、描き方が無理。好みじゃない。
『ガイドル』も笑えなくてつらい……。ギャグのひとつひとつがわたしの心を冷やしていく……。
海外ミュージカルでいちばん「海外産だ」と痛感するのは、笑いのセンス。こればっかはほんとね、合わないとどうしようもないよね。
『スカピン』もあれほどお笑いに走ってなければ、「マダム・ギロチン」のテイストで終始してくれれば、もっと好きだったと思う。
や、そのときは笑うけど……わたしが萌えるものとはチガウわー。
『エリザ』と『ロミジュリ』は暗いからいいのよー。全体を覆う闇と悲しみ。
それが好み。
……にしても、『ロミジュリ』は短期間で再演されまくったし、『エリザ』はついこの間再演されたところ。
今現在、積極的に観たいわけでもない……が。
今年宙組で『エリザベート』再演が決まった。
えー、この間観たとこだから、もうしばらくいいわー。
それより、宙組は一本モノばかりで下級生動く背景に逆戻りしてんじゃん、今『エリザ』なんかやってる場合?
アテ書き新作をばんばんやって、ショーやって、スター育てるのが急務じゃないの?
とは思う。
思うけど。
やっぱり、『エリザベート』は楽しみだ。
海外ミュージカルにあまりありがたみを感じていないわたしが、それでも好きだ、と思う、再演を望む、数少ない作品。
初演『エリザベート』とわたし・その1。~チケットとかその辺りのこと~
2016年1月14日 タカラヅカ 年寄りなので昔話をする。
『エリザベート』初演時。
ライトなヅカヲタであったわたしの情報源は、機関誌「歌劇」「宝塚グラフ」のみ。会には近づいたこともないし、ヅカ友だちもいない。
ヅカは友だちと楽しく観劇していたけれど、もともとの友だちであり「タカラヅカで知り合った」友だちじゃない。つまり、ヅカに対しての知識はわたしと同じ。
とにかく、「歌劇」を読んで、『エリザベート』というミュージカルが、実在のエリザベート皇后の一生を追ったモノで、トドロキの役がエリザベート皇后の暗殺者だと知る。
え、それってつまり、ラストにしか出て来ないってこと? 役としてはラスト数分で、あとは狂言回し……物語中にはいないはずだから、花道とかカーテン前とかであらすじを語って消えるの? ……つ、つまらねー!!
そんな難しい役、トドに出来るのかよー。トドはもっとわかりやすい役でないと、ただつまんなくなるだけじゃね?
そんなことを、友人相手に愚痴った思い出。
『ブルボンの封印』の「ただ立ってるだけ」のコルベールとか、拙さばかり目についてトホホだった『あかねさす紫の花』の天比古とかが脳裏に浮かんでなー。
タカネくんとWキャストだった中大兄皇子と天比古。天比古はタカネくんの巧さの前に悲しい出来だったけど、中大兄皇子はタカネくんとはまたチガウ味わいで、いい感じだった。
人間らしい弱さを表現するにはまだいろいろ足りないけど、バーン!どーん!としたヒーロー役は出来るのよ、派手な役なら誤魔化しが利くのよ、地味なナレーション役だと誤魔化しが利かずにつらいことになるのでは……?!
と、ファンならではの勝手に気を回しすぎ心配をしていた。
世の中的には、トドの役がどうより、「トップスターが死神役で退団する」「トップスター退団公演なのに、娘役がタイトルロール」ってことの方が問題視されてたみたいね。
わたしはそのへん、なんも気にしてなかった。
どんな役でもいいじゃん、やり甲斐のある役ならば。
いっちゃんのことは、好きでも嫌いでもなかった。好きか嫌いかを聞かれれば「好き」と答えるけど、ファンかと聞かれると「別に」という温度。でも、悪口を言われるとむっとする(笑)。
好き嫌いではなく、ずっと雪担だったので、「うちの組のトップさん」という愛着があった。
いっちゃんがこんなに長くトップやるとは思ってなかった。男役なのに女役もするし、男臭いタイプでもないし、2番手時代に化粧品会社のCMに女性タレントっぽく出ていたりして、「トップになったらすぐやめて芸能界に行くんじゃない?」と、わたしや友人は勝手に思っていたから。←だから、情報源なしのライトヲタの考えることですってば。
十分な期間トップを務めたあとだったので、退団発表も驚きはなく、それよりもわたしは、古代様の退団に打ちひしがれていた。
わたしの大好きなおじさまスター、ハンサムでエロくて歌と声が良くて、当時のタカラヅカでトドの次に好きだったのに……! ってわたしは、若い頃からおじさまスキー。
わーんわーん古代さん辞めちゃ嫌だ~~!!
……てな。
劇団はなにかしら気負っているようで、阪急電車の駅構内に、『エリザベート』とタイトルのみのポスターが貼られていたのが、忘れられない。
公演ポスターじゃない。
いつもの公演ポスターの前に、「告知のみ」って感じに貼られていた。
エリザベート肖像画の目元だけしか画像のない、あとは文字で「エリザベート」と書かれたのみの、シンプルなポスター。
一見タカラヅカとはわからない。いや、なんのポスターかもわからない、「エリザベート」ってナニ。日本人には馴染みの薄い、遠い他国の歴史上の人物。
その周辺の文字を読んではじめて「タカラヅカでこのタイトルの公演をやるんだな」とわかる。
タカラヅカのポスターといえば「ヅカ化粧のスター」がコスチュームを着けてどーんと載っている……ものだったから、それ以外は見たことがなかったから(舞踊会とか、文字情報のみのポスターは除く。あくまでも、大劇場本公演ポスター)、「どうしたんだ??」と思ったな。
おまけにテレビCMまでしてたんだよなー。
当時はスカステなんぞなく、BSはあったけど今ほどメジャーでもない。
ごくふつーに、一般地上波テレビで、お茶の間に流れていた。
オープニングの「エリザベート♪ エリザベート♪」っていうコーラスで、トート@いっちゃんとエリザベート@花ちゃんが登場する。
かっこよかったよー。
つか、音楽の勝利。オープニングかっこいいもんね。
チケットは、2階席しか買えなかった。
大作海外ミュージカルで、トップの退団公演だもん。わたしたち一般人には、チケットが手に入らなかったんだ。
発売日に梅田のプレイガイドへ並びに行き、抽選で買えた分のみ。
当時のチケット発売方法は、劇団指定のプレイガイドに発売当日朝に並び、整理券(抽選予備券)をもらって、整理券番号順に抽選、抽選券の番号順にチケットを購入、というものだった。今もムラのトップスターのサヨナラショーのある回の当日券販売方法が、この方法だよね。
わたしたちは、友人たちと協力してチケ取りした。てゆーかこのときは父にまで頼んで並んでもらったわ……抽選だから、確率を増やしたくて。
で、ひとりの友人が神番号を引いた。
1枚の抽選券でチケットを3枚買えたので、千秋楽2枚(わたしと友人分)と通常日程の良席(神番号を引いた当人分)を1枚買ったんだっけか。神番号引いた当人は、行ける日が限られてて、千秋楽は観られなかったのなー。それで楽チケは譲ってくれた……ほんま神や……。
それ以外はわたしや父も含め、大した番号を引けなかったので、2階席しか手に入らなかったんだ。
新人公演は発売日が別だったので、その日は本公演のみ発売、当然プレイガイドは完売。
当日朝並んで入手した整理券分以外は買えなかったわけだ。
当時はプレイガイドごとにチケットを持っていたわけだから、他の発売窓口にはまだあったのかもしれないし、もちろん会に入っていれば手に入ったのだろうと今なら推察するけれど。
あのころのわたしたちにとっては、「チケットは前売り完売、これ以上入手手段なし」の公演だった。
おかげで新公以外はいつも同じあたりの席から観ていた。
本公演4回と新公の計5回観たんだっけか。新公以外すべて2階席。2階Sの下手側が梅田PGの持ち分だったから、4回ともそのブロックだったわ(笑)。
新公で1階S席に坐ったときは感動したなあ、「見え方がぜんぜんチガウ!」って。
……梅田での並びがなつかしいなあ。月に一度、友だちとわいわい並んで、そのあと朝ごはん食べるのが楽しかった。
並びに借り出された父は、早朝から並んで、わたしたちに朝ごはんおごって(お金だけくれて、同席はしない)、自分はひとり仕事に行ったんだよなあ……いい父だったわ……つか、わたし父をいいように使いすぎだったわ……(笑)。天国の父よありがとう! と、今さら言う。
『エリザベート』初演時。
ライトなヅカヲタであったわたしの情報源は、機関誌「歌劇」「宝塚グラフ」のみ。会には近づいたこともないし、ヅカ友だちもいない。
ヅカは友だちと楽しく観劇していたけれど、もともとの友だちであり「タカラヅカで知り合った」友だちじゃない。つまり、ヅカに対しての知識はわたしと同じ。
とにかく、「歌劇」を読んで、『エリザベート』というミュージカルが、実在のエリザベート皇后の一生を追ったモノで、トドロキの役がエリザベート皇后の暗殺者だと知る。
え、それってつまり、ラストにしか出て来ないってこと? 役としてはラスト数分で、あとは狂言回し……物語中にはいないはずだから、花道とかカーテン前とかであらすじを語って消えるの? ……つ、つまらねー!!
そんな難しい役、トドに出来るのかよー。トドはもっとわかりやすい役でないと、ただつまんなくなるだけじゃね?
そんなことを、友人相手に愚痴った思い出。
『ブルボンの封印』の「ただ立ってるだけ」のコルベールとか、拙さばかり目についてトホホだった『あかねさす紫の花』の天比古とかが脳裏に浮かんでなー。
タカネくんとWキャストだった中大兄皇子と天比古。天比古はタカネくんの巧さの前に悲しい出来だったけど、中大兄皇子はタカネくんとはまたチガウ味わいで、いい感じだった。
人間らしい弱さを表現するにはまだいろいろ足りないけど、バーン!どーん!としたヒーロー役は出来るのよ、派手な役なら誤魔化しが利くのよ、地味なナレーション役だと誤魔化しが利かずにつらいことになるのでは……?!
と、ファンならではの勝手に気を回しすぎ心配をしていた。
世の中的には、トドの役がどうより、「トップスターが死神役で退団する」「トップスター退団公演なのに、娘役がタイトルロール」ってことの方が問題視されてたみたいね。
わたしはそのへん、なんも気にしてなかった。
どんな役でもいいじゃん、やり甲斐のある役ならば。
いっちゃんのことは、好きでも嫌いでもなかった。好きか嫌いかを聞かれれば「好き」と答えるけど、ファンかと聞かれると「別に」という温度。でも、悪口を言われるとむっとする(笑)。
好き嫌いではなく、ずっと雪担だったので、「うちの組のトップさん」という愛着があった。
いっちゃんがこんなに長くトップやるとは思ってなかった。男役なのに女役もするし、男臭いタイプでもないし、2番手時代に化粧品会社のCMに女性タレントっぽく出ていたりして、「トップになったらすぐやめて芸能界に行くんじゃない?」と、わたしや友人は勝手に思っていたから。←だから、情報源なしのライトヲタの考えることですってば。
十分な期間トップを務めたあとだったので、退団発表も驚きはなく、それよりもわたしは、古代様の退団に打ちひしがれていた。
わたしの大好きなおじさまスター、ハンサムでエロくて歌と声が良くて、当時のタカラヅカでトドの次に好きだったのに……! ってわたしは、若い頃からおじさまスキー。
わーんわーん古代さん辞めちゃ嫌だ~~!!
……てな。
劇団はなにかしら気負っているようで、阪急電車の駅構内に、『エリザベート』とタイトルのみのポスターが貼られていたのが、忘れられない。
公演ポスターじゃない。
いつもの公演ポスターの前に、「告知のみ」って感じに貼られていた。
エリザベート肖像画の目元だけしか画像のない、あとは文字で「エリザベート」と書かれたのみの、シンプルなポスター。
一見タカラヅカとはわからない。いや、なんのポスターかもわからない、「エリザベート」ってナニ。日本人には馴染みの薄い、遠い他国の歴史上の人物。
その周辺の文字を読んではじめて「タカラヅカでこのタイトルの公演をやるんだな」とわかる。
タカラヅカのポスターといえば「ヅカ化粧のスター」がコスチュームを着けてどーんと載っている……ものだったから、それ以外は見たことがなかったから(舞踊会とか、文字情報のみのポスターは除く。あくまでも、大劇場本公演ポスター)、「どうしたんだ??」と思ったな。
おまけにテレビCMまでしてたんだよなー。
当時はスカステなんぞなく、BSはあったけど今ほどメジャーでもない。
ごくふつーに、一般地上波テレビで、お茶の間に流れていた。
オープニングの「エリザベート♪ エリザベート♪」っていうコーラスで、トート@いっちゃんとエリザベート@花ちゃんが登場する。
かっこよかったよー。
つか、音楽の勝利。オープニングかっこいいもんね。
チケットは、2階席しか買えなかった。
大作海外ミュージカルで、トップの退団公演だもん。わたしたち一般人には、チケットが手に入らなかったんだ。
発売日に梅田のプレイガイドへ並びに行き、抽選で買えた分のみ。
当時のチケット発売方法は、劇団指定のプレイガイドに発売当日朝に並び、整理券(抽選予備券)をもらって、整理券番号順に抽選、抽選券の番号順にチケットを購入、というものだった。今もムラのトップスターのサヨナラショーのある回の当日券販売方法が、この方法だよね。
わたしたちは、友人たちと協力してチケ取りした。てゆーかこのときは父にまで頼んで並んでもらったわ……抽選だから、確率を増やしたくて。
で、ひとりの友人が神番号を引いた。
1枚の抽選券でチケットを3枚買えたので、千秋楽2枚(わたしと友人分)と通常日程の良席(神番号を引いた当人分)を1枚買ったんだっけか。神番号引いた当人は、行ける日が限られてて、千秋楽は観られなかったのなー。それで楽チケは譲ってくれた……ほんま神や……。
それ以外はわたしや父も含め、大した番号を引けなかったので、2階席しか手に入らなかったんだ。
新人公演は発売日が別だったので、その日は本公演のみ発売、当然プレイガイドは完売。
当日朝並んで入手した整理券分以外は買えなかったわけだ。
当時はプレイガイドごとにチケットを持っていたわけだから、他の発売窓口にはまだあったのかもしれないし、もちろん会に入っていれば手に入ったのだろうと今なら推察するけれど。
あのころのわたしたちにとっては、「チケットは前売り完売、これ以上入手手段なし」の公演だった。
おかげで新公以外はいつも同じあたりの席から観ていた。
本公演4回と新公の計5回観たんだっけか。新公以外すべて2階席。2階Sの下手側が梅田PGの持ち分だったから、4回ともそのブロックだったわ(笑)。
新公で1階S席に坐ったときは感動したなあ、「見え方がぜんぜんチガウ!」って。
……梅田での並びがなつかしいなあ。月に一度、友だちとわいわい並んで、そのあと朝ごはん食べるのが楽しかった。
並びに借り出された父は、早朝から並んで、わたしたちに朝ごはんおごって(お金だけくれて、同席はしない)、自分はひとり仕事に行ったんだよなあ……いい父だったわ……つか、わたし父をいいように使いすぎだったわ……(笑)。天国の父よありがとう! と、今さら言う。
初演『エリザベート』とわたし・その2。~初見時の興奮とか~
2016年1月15日 タカラヅカ 年寄りなので、昔話をする。
初演『エリザベート』の思い出。
日本初演のウィーンミュージカル。当時の輸入ミュージカルというと英語圏限定っぽくて、なにからなにまで目新しかった印象。
はじめて出会う世界観だった。
タカラヅカってすげえ。
そう思った。
こんなものが上演出来てしまうんだ。
ビッグタイトルのためにかき集められたメンバーによる、特別公演ではなく、既存劇団の既存の組で、定例公演で。日常の範囲内で。
宝塚歌劇団の日常、基本、ふつーにあるもの、って、どんだけすごいん。
『ベルばら』みたいなつまんない紙芝居もやるけれど、『エリザベート』みたいに立体的な奥深い作品だって「ふつー」にやってしまう。
やれるだけの器を持っている。
それってすごい。
わたしはすごいカンパニーのファンやってるんだなー……と、漠然と思う。
また、『エリザベート』が上演されることで、宝塚歌劇団が変わってきていることも感じた。
『エリザベート』のポスターが、今までと違って、映画のポスターみたいだった。
ふつーの興行作品みたいにデザインされて、加工されてるの。
トート@いっちゃんの顔が上半分にどーんと載ってて、真ん中にエリザベート@花ちゃんとトートのツーショット、下方は公演の文字情報、フランツ@タカネくん、ルキーニ@トドロキ、ルドルフ@タータンが切手サイズで左端に縦並びで載っている、あの初演ポスター。
アレが目新しいくらい、それまでのヅカポスターはひどかったのよ。
コスプレしたヅカメイクのスターが、スタジオでただ並んで記念撮影しているだけ。なんのデザインも加工もされてない。
必要なのは「どのスターが出るか」だけなので、ポスターとして盛り上げる気皆無。
いっちゃんスカーレットの『風と共に去りぬ』ポスターがイラスト風だったりして、少しずつ「変わろう」という雰囲気があるようには感じていたけれど……「変わった!」と思ったのは、『エリザベート』のときだな。
ゴシックロマン好きの厨二アニヲタにとって、『エリザベート』は実に好みの世界観に満ちていた。
「闇の帝王トート、またの名を、死」とか、ナニその厨二ハートくすぐる設定!(笑) 黒天使とか愛と死とかわざわざ輪舞と書いてロンドと読ませるとか、いちいちいいよね!
オープニングは素晴らしいよね、棺桶に仮面にベール、不安感煽る多重唱に甦る死者たち……食いつくよね!
や、当時は「厨二」という言葉はなかったと思うけど、概念はすでにあったからねー。
いやもう、ただただ楽しかった。原初の『エリザベート』体験。
客観的に観て「なんかすげえぞ、この作品!」と思えて、個人的に「この世界観好みーー! 滾るーー!!」と思える幸運。
くわえて。
わたしがあたしってラッキー☆と思えたことは。
わたしが、トドロキファンだということだ。
トドファンで、初演『エリザベート』に出会う。
……これ、すごいラッキーよ? しあわせよ? 狂喜乱舞よ?
ご贔屓の渾身の当たり役を、目の当たりにする幸福。
観るまでは、「長い一代記の、最後の暗殺にだけ関わる犯人役なんて、出番もろくにないだろうし、つまんない役なんじゃないの?」って心配してたくらいだったのに。
フタを開けてみたら、めちゃくちゃオイシイ役じゃん、ルキーニ!!
いつまでたっても舞台にいる、いつでも出て来る、どこでも出て来る。
かっこいいしかわいいし、おちゃめだしこわいし。
ひとつの作品なのに、いろんな顔を見られる。
そして。
この作品を、この物語を、支配しているのがルキーニである、という事実。
や、主演はもちろんいっちゃんだし、ヒロインは花ちゃんだよ。主役を食っているとかそういう意味ではないよ。
でも、それらも含めて、ルキーニという役が外側から彼らを手の内に納めている……そういう作りの物語だよね? そういう構成だよね?
そう作られてるんだから、そう感じても仕方ないよね?
トドが完璧だとは思わないけれど、「物語」が必要とするだけの力を持って、ルキーニは世界を手の内に包んでいた。
発行する丸い玉……中は空洞で、包帯のようなリボンのようなものが巻き付けてある……その布の隙間から光が見えている……を、トドロキルキーニが、両の手のひらの内側に持っているイメージ。
トドは自由にたのしそうに、「世界」と関わっていた。「物語」と遊んでいた。
彼が面白くて仕方なかった。
彼から目が離せなかった。
2階席からただひたすら、トドロキだけをオペラグラスで追いかけるしあわせ。
ルキーニはいつも舞台にいて、端っこから「舞台」を観ている。彼を追い、彼の目線を追って『エリザベート』を堪能する。
それは心から、幸福で、ゼイタクな体験だった。
初演『エリザベート』の思い出。
日本初演のウィーンミュージカル。当時の輸入ミュージカルというと英語圏限定っぽくて、なにからなにまで目新しかった印象。
はじめて出会う世界観だった。
タカラヅカってすげえ。
そう思った。
こんなものが上演出来てしまうんだ。
ビッグタイトルのためにかき集められたメンバーによる、特別公演ではなく、既存劇団の既存の組で、定例公演で。日常の範囲内で。
宝塚歌劇団の日常、基本、ふつーにあるもの、って、どんだけすごいん。
『ベルばら』みたいなつまんない紙芝居もやるけれど、『エリザベート』みたいに立体的な奥深い作品だって「ふつー」にやってしまう。
やれるだけの器を持っている。
それってすごい。
わたしはすごいカンパニーのファンやってるんだなー……と、漠然と思う。
また、『エリザベート』が上演されることで、宝塚歌劇団が変わってきていることも感じた。
『エリザベート』のポスターが、今までと違って、映画のポスターみたいだった。
ふつーの興行作品みたいにデザインされて、加工されてるの。
トート@いっちゃんの顔が上半分にどーんと載ってて、真ん中にエリザベート@花ちゃんとトートのツーショット、下方は公演の文字情報、フランツ@タカネくん、ルキーニ@トドロキ、ルドルフ@タータンが切手サイズで左端に縦並びで載っている、あの初演ポスター。
アレが目新しいくらい、それまでのヅカポスターはひどかったのよ。
コスプレしたヅカメイクのスターが、スタジオでただ並んで記念撮影しているだけ。なんのデザインも加工もされてない。
必要なのは「どのスターが出るか」だけなので、ポスターとして盛り上げる気皆無。
いっちゃんスカーレットの『風と共に去りぬ』ポスターがイラスト風だったりして、少しずつ「変わろう」という雰囲気があるようには感じていたけれど……「変わった!」と思ったのは、『エリザベート』のときだな。
ゴシックロマン好きの厨二アニヲタにとって、『エリザベート』は実に好みの世界観に満ちていた。
「闇の帝王トート、またの名を、死」とか、ナニその厨二ハートくすぐる設定!(笑) 黒天使とか愛と死とかわざわざ輪舞と書いてロンドと読ませるとか、いちいちいいよね!
オープニングは素晴らしいよね、棺桶に仮面にベール、不安感煽る多重唱に甦る死者たち……食いつくよね!
や、当時は「厨二」という言葉はなかったと思うけど、概念はすでにあったからねー。
いやもう、ただただ楽しかった。原初の『エリザベート』体験。
客観的に観て「なんかすげえぞ、この作品!」と思えて、個人的に「この世界観好みーー! 滾るーー!!」と思える幸運。
くわえて。
わたしがあたしってラッキー☆と思えたことは。
わたしが、トドロキファンだということだ。
トドファンで、初演『エリザベート』に出会う。
……これ、すごいラッキーよ? しあわせよ? 狂喜乱舞よ?
ご贔屓の渾身の当たり役を、目の当たりにする幸福。
観るまでは、「長い一代記の、最後の暗殺にだけ関わる犯人役なんて、出番もろくにないだろうし、つまんない役なんじゃないの?」って心配してたくらいだったのに。
フタを開けてみたら、めちゃくちゃオイシイ役じゃん、ルキーニ!!
いつまでたっても舞台にいる、いつでも出て来る、どこでも出て来る。
かっこいいしかわいいし、おちゃめだしこわいし。
ひとつの作品なのに、いろんな顔を見られる。
そして。
この作品を、この物語を、支配しているのがルキーニである、という事実。
や、主演はもちろんいっちゃんだし、ヒロインは花ちゃんだよ。主役を食っているとかそういう意味ではないよ。
でも、それらも含めて、ルキーニという役が外側から彼らを手の内に納めている……そういう作りの物語だよね? そういう構成だよね?
そう作られてるんだから、そう感じても仕方ないよね?
トドが完璧だとは思わないけれど、「物語」が必要とするだけの力を持って、ルキーニは世界を手の内に包んでいた。
発行する丸い玉……中は空洞で、包帯のようなリボンのようなものが巻き付けてある……その布の隙間から光が見えている……を、トドロキルキーニが、両の手のひらの内側に持っているイメージ。
トドは自由にたのしそうに、「世界」と関わっていた。「物語」と遊んでいた。
彼が面白くて仕方なかった。
彼から目が離せなかった。
2階席からただひたすら、トドロキだけをオペラグラスで追いかけるしあわせ。
ルキーニはいつも舞台にいて、端っこから「舞台」を観ている。彼を追い、彼の目線を追って『エリザベート』を堪能する。
それは心から、幸福で、ゼイタクな体験だった。
初演『エリザベート』とわたし・その3。~トドルキ~
2016年1月16日 タカラヅカ 年寄りの昔話、初演『エリザベート』の思い出。
当時のわたしは、トドロキファンだった。
『エリザベート』では、幸福にルキーニ@トドロキをオペラグラスで追いかけていた。
トドロキルキーニ、トドルキ、トドロキ……なんか早口言葉的な?(笑) キーを打ってて間違うわ、トドロキ、トドルキ。
てことで、トドルキの好きなところを挙げてみる。
オープニングから狂気とハイテンションぶっちぎりの存在感が好き。
トドのあの「声」が生きる。
他の人とまざらない声。低くて太い、独特の濁った音色。
プロローグの「エリザベート(大合唱)」はテレビCMで使われていた曲(CMではウィーン版を使っていたと思う、ヅカの歌声ではなかった)。CMでさんざん聴いて、耳に馴染んでいたし、ものすっごくかっこいい曲だと思っていたから、トドがこの曲でソロパートがあることに感動した思い出。
黒天使たちがエリザベートの肖像画を持ってくる、あそこでトドルキが「エリザベート♪」と歌う、それに感動。
CMのあの曲、あのフレーズだ! トドの声で聴きたかったんだ、ほんとに聴けるなんて!!と。
わたし、トドの声が好きなのね。
滑舌悪いなー、とは思っているけど、あの太い声が好きなのよ。
好きな声で好きなメロディを聴けるのって、すごくうれしい。
あと、台詞も見せ場もないけれど、フランツの謁見を、下手花道でニヤニヤ眺めているところが好きだった。
ルキーニがいなくなってくんないと、真ん中を観られない(笑)。(ルキーニは次の場面の準備のため、途中でいなくなる)
バートイシュルはかわいくて好き。
それに、ルキーニの歌う歌の中で、ここの「計画通り…」こそが、いちばんトドロキに合ってると思うんだ、わたし。
そりゃ「キッチュ」もいいけどさ……トドルキの持つ「毒と軽妙さ」があざやかに出る曲だと思うの。
んで、トドルキでいちばん好きな場面……というか、仕草がウィーンのカフェの、ギャルソン。
上手で解説しながらエプロンを身につけるでしょ。
あそこで、紐を結んだあと、エプロンの片側を「ひょい」っとヒモに巻き付ける。
あの仕草。
それが、いちばん好き。
あれから何人ものルキーニを見てきたけど、トドがいちばんかっこいい。
ギャルソンエプロンの着こなしは、トドがいちばん。
あの端を巻き上げる仕草……トド以上にかっこよく出来る人、見たことないもん!
毎回毎回、「はうっ」と息が止まる勢いで、ガン見してた。ときめいてた。
あたしほんと、ルキーニのギャルソン姿が好きで。
ルキーニしか見てなくて、カフェは芝居に乗り遅れるわ……危険な場面だったわ……(笑)。
江上さんが出て来たら、彼も見なきゃで忙しかった。あ、江上さんってケロちゃんのことね。当時は江上さん呼びだった。
2幕では、病院場面で舞台奥へ去って行くシシィにストロボをたくパパラッチルキーニが好きだった。オペラでガン見ポイントな。
トドルキはセリフがあったり前へ出ているところでは陽気なチンピラ風なことが多いんだけど、そうでないとき……舞台の端とか物語の傍観者であるとき……いわゆる「カメラのフレーム外」にいるときに、どきっとする表情をしている。
パパラッチルキーニは、冷酷だった。
なまじ美貌なだけに、とてもこわい目をしていた……台詞を言うときはチンピラっぽく笑いを浮かべるんだけど……そこに至る前は、冷ややかにこわい。
その変化を眺めるのが好きだった。
でもさー、そういうところってビデオにはぜんっぜん映ってないんだね……はじめて販売ビデオ見たときに愕然とした……わたしが見ていたモノと違う!って(笑)。
まあね、ストーリーと無関係な、花道にただ立っているところとかが映ってないのはわかるよ? そりゃそうだろうと思うよ?
でもさ。
ドドルキの最高演技が映ってないって、どういうことなの?
いちばん好きなのはエプロントドロキだけどさ。
好きな歌は「計画通り…」とかだったりするけどさ。
役者・轟悠の初演『エリザベート』の最高演技って、最後の「グランドアモーレ、あーっはっはっは!」だよね?
トート閣下の命を受け、皇后エリザベートを刺殺した直後、もう完全に狂ってるあのセリフと高笑いだよね? 背筋に電流走るくらいの、マジにこわいあの芝居だよね……?!
わたしのなかではあそこでトドルキ、ドアップなんですが。
あの大きな目を支配した狂気の色を、余すところなく映し出すのが当然の仕事なんですが。
いやあ、他のどの場面、どの芝居をスルーしてても、ここだけはトドをアップで抜いてくれると信じていたので……トドの芝居がものすごいこともだし、ストーリー的にも暗殺者の「事後」は多少なりともカメラで追うでしょ? この物語はそもそもルキーニが「何故エリザベートを暗殺したか」を検証する物語であってだね……「物語」的にもルキーニを映すのはあたりまえのことであってね……映るのが当然だと、無邪気に信じ切っていたので、愕然としました。
まさか、ガン無視されるとは、夢にも思ってなかった。
カメラは、ただ立っているだけのトートとエリザベートを映していた。引きになっていた。
そうなんだけどね……「タカラヅカ」ってそういうところなんだけどね……。
ストーリーよりもトップスターが大事。知ってる、わかってる。
トップスターとトップ娘役が登場してたら、そりゃそっちを映すわ……。物語として重要か、ではなく、「3番手よりも、トップスターが大事」なのは説明するまでもないことだもん。
NHKの収録がないことを、心から残念に思ったもんだった。
ヅカのカメラでなければ、ふつーのカメラマンならば、トドルキの絶叫を撮ってくれただろうに、と。
トドのルキーニは、観ていて楽しかった。
大人であることは間違いないのに、やんちゃ坊主にも見えた。
彼の無邪気さ、陽気さが、毒と狂気へ集束されていくのが、見ていてこわかった。
彼が楽しそうであることが、なにより心地よく、そして、こわかった。
至福の時だねえ。
その後トドロキは、ルキーニが当たり役過ぎたために「過去の自分を超えられない」という壁にぶち当たることになっちゃうんだけど。なにをやっても「ルキーニの方がよかった」「ルキーニのときはよかったのに」とか言われてさー。
でも、どんなトドロキだって、「あのルキーニ」があってこそのトドロキだもんな。
若く傍若無人なときに、ルキーニを初演で創り上げることが出来て、よかったんだと思う。
しがない1ファンでしかないわたしだが、ほんとーにしあわせだったと、つくづく思う。
当時のわたしは、トドロキファンだった。
『エリザベート』では、幸福にルキーニ@トドロキをオペラグラスで追いかけていた。
トドロキルキーニ、トドルキ、トドロキ……なんか早口言葉的な?(笑) キーを打ってて間違うわ、トドロキ、トドルキ。
てことで、トドルキの好きなところを挙げてみる。
オープニングから狂気とハイテンションぶっちぎりの存在感が好き。
トドのあの「声」が生きる。
他の人とまざらない声。低くて太い、独特の濁った音色。
プロローグの「エリザベート(大合唱)」はテレビCMで使われていた曲(CMではウィーン版を使っていたと思う、ヅカの歌声ではなかった)。CMでさんざん聴いて、耳に馴染んでいたし、ものすっごくかっこいい曲だと思っていたから、トドがこの曲でソロパートがあることに感動した思い出。
黒天使たちがエリザベートの肖像画を持ってくる、あそこでトドルキが「エリザベート♪」と歌う、それに感動。
CMのあの曲、あのフレーズだ! トドの声で聴きたかったんだ、ほんとに聴けるなんて!!と。
わたし、トドの声が好きなのね。
滑舌悪いなー、とは思っているけど、あの太い声が好きなのよ。
好きな声で好きなメロディを聴けるのって、すごくうれしい。
あと、台詞も見せ場もないけれど、フランツの謁見を、下手花道でニヤニヤ眺めているところが好きだった。
ルキーニがいなくなってくんないと、真ん中を観られない(笑)。(ルキーニは次の場面の準備のため、途中でいなくなる)
バートイシュルはかわいくて好き。
それに、ルキーニの歌う歌の中で、ここの「計画通り…」こそが、いちばんトドロキに合ってると思うんだ、わたし。
そりゃ「キッチュ」もいいけどさ……トドルキの持つ「毒と軽妙さ」があざやかに出る曲だと思うの。
んで、トドルキでいちばん好きな場面……というか、仕草がウィーンのカフェの、ギャルソン。
上手で解説しながらエプロンを身につけるでしょ。
あそこで、紐を結んだあと、エプロンの片側を「ひょい」っとヒモに巻き付ける。
あの仕草。
それが、いちばん好き。
あれから何人ものルキーニを見てきたけど、トドがいちばんかっこいい。
ギャルソンエプロンの着こなしは、トドがいちばん。
あの端を巻き上げる仕草……トド以上にかっこよく出来る人、見たことないもん!
毎回毎回、「はうっ」と息が止まる勢いで、ガン見してた。ときめいてた。
あたしほんと、ルキーニのギャルソン姿が好きで。
ルキーニしか見てなくて、カフェは芝居に乗り遅れるわ……危険な場面だったわ……(笑)。
江上さんが出て来たら、彼も見なきゃで忙しかった。あ、江上さんってケロちゃんのことね。当時は江上さん呼びだった。
2幕では、病院場面で舞台奥へ去って行くシシィにストロボをたくパパラッチルキーニが好きだった。オペラでガン見ポイントな。
トドルキはセリフがあったり前へ出ているところでは陽気なチンピラ風なことが多いんだけど、そうでないとき……舞台の端とか物語の傍観者であるとき……いわゆる「カメラのフレーム外」にいるときに、どきっとする表情をしている。
パパラッチルキーニは、冷酷だった。
なまじ美貌なだけに、とてもこわい目をしていた……台詞を言うときはチンピラっぽく笑いを浮かべるんだけど……そこに至る前は、冷ややかにこわい。
その変化を眺めるのが好きだった。
でもさー、そういうところってビデオにはぜんっぜん映ってないんだね……はじめて販売ビデオ見たときに愕然とした……わたしが見ていたモノと違う!って(笑)。
まあね、ストーリーと無関係な、花道にただ立っているところとかが映ってないのはわかるよ? そりゃそうだろうと思うよ?
でもさ。
ドドルキの最高演技が映ってないって、どういうことなの?
いちばん好きなのはエプロントドロキだけどさ。
好きな歌は「計画通り…」とかだったりするけどさ。
役者・轟悠の初演『エリザベート』の最高演技って、最後の「グランドアモーレ、あーっはっはっは!」だよね?
トート閣下の命を受け、皇后エリザベートを刺殺した直後、もう完全に狂ってるあのセリフと高笑いだよね? 背筋に電流走るくらいの、マジにこわいあの芝居だよね……?!
わたしのなかではあそこでトドルキ、ドアップなんですが。
あの大きな目を支配した狂気の色を、余すところなく映し出すのが当然の仕事なんですが。
いやあ、他のどの場面、どの芝居をスルーしてても、ここだけはトドをアップで抜いてくれると信じていたので……トドの芝居がものすごいこともだし、ストーリー的にも暗殺者の「事後」は多少なりともカメラで追うでしょ? この物語はそもそもルキーニが「何故エリザベートを暗殺したか」を検証する物語であってだね……「物語」的にもルキーニを映すのはあたりまえのことであってね……映るのが当然だと、無邪気に信じ切っていたので、愕然としました。
まさか、ガン無視されるとは、夢にも思ってなかった。
カメラは、ただ立っているだけのトートとエリザベートを映していた。引きになっていた。
そうなんだけどね……「タカラヅカ」ってそういうところなんだけどね……。
ストーリーよりもトップスターが大事。知ってる、わかってる。
トップスターとトップ娘役が登場してたら、そりゃそっちを映すわ……。物語として重要か、ではなく、「3番手よりも、トップスターが大事」なのは説明するまでもないことだもん。
NHKの収録がないことを、心から残念に思ったもんだった。
ヅカのカメラでなければ、ふつーのカメラマンならば、トドルキの絶叫を撮ってくれただろうに、と。
トドのルキーニは、観ていて楽しかった。
大人であることは間違いないのに、やんちゃ坊主にも見えた。
彼の無邪気さ、陽気さが、毒と狂気へ集束されていくのが、見ていてこわかった。
彼が楽しそうであることが、なにより心地よく、そして、こわかった。
至福の時だねえ。
その後トドロキは、ルキーニが当たり役過ぎたために「過去の自分を超えられない」という壁にぶち当たることになっちゃうんだけど。なにをやっても「ルキーニの方がよかった」「ルキーニのときはよかったのに」とか言われてさー。
でも、どんなトドロキだって、「あのルキーニ」があってこそのトドロキだもんな。
若く傍若無人なときに、ルキーニを初演で創り上げることが出来て、よかったんだと思う。
しがない1ファンでしかないわたしだが、ほんとーにしあわせだったと、つくづく思う。
初演『エリザベート』とわたし・その4。~ビデオの視界とフランツ~
2016年1月17日 タカラヅカ 年寄りの昔話、初演『エリザベート』の思い出。
ナマ舞台と販売ビデオの差に唖然とした……のは、わたしがそもそもビデオをあまり買わない・映像をあまり見ない、ことにあるのかも。
昔も今も、わたしはあまり映像でタカラヅカを見ない。わたしにとってヅカはナマ舞台観劇が基本だ。
映像が嫌なわけではなく……うーん、わたしにとって自宅のテレビで見る映像って、「ながら見」するものなのね。ドラマもアニメも好きでかなりの本数見てるけど、基本ながら見。
テレビの前に正座して脇目も振らず集中して楽しむ……ということを、あまりしない。
タカラヅカのことは大好きだから、ながら見はしたくないし、そもそも「舞台中継映像」てのはながら見用には作られてない。
テレビ番組って基本ながら見できるように作ってある、と思っている。なにしろ途中何度もCM入るからね。その都度緊張が切れる前提で作られている。なにかしながら、大して集中せずとも理解出来る・楽しめるように、がんばって作ってくれている、と思う。
映画はそういう前提がないから、空気感とか、画面の密度というか情報量が多く、ながら見がしにくい認識。集中して楽しむ前提で作られてるからねー。
舞台中継も映画と同じく、ちゃんと集中しなきゃ楽しめない。
そしてわたしには、テレビの前に2時間坐る時間的・精神的余裕がない。あれもしなきゃこれもしなきゃ、ああこんなことしてる場合じゃないのに、と思いながらテレビを見るのはストレスだ。気が小さいんですよ……。
映像になっていることは知っていても、あるいは購入して手元に持っていても、見ることはほとんどない。
わたしがくり返し見るヅカソフトは初演『エリザベート』と初演『凍てついた明日』、それから『二人だけの戦場』と『Crossroad』くらいのもんだった、長年。
『凍てついた明日』なんか、ビデオテープ2本買ったもん……1本は保存用(未開封)。当時はビデオテープしか販売されておらず、テープは劣化するからねえ……。
近年は「くり返し見るヅカ公演映像」に、雪組『ロミオとジュリエット』が加わったかな。『フットルース』が映像化されていたら、絶対これも見ていたと思う。
つっても、そんなに何回も見ているわけでもないが……。いつだって、自宅テレビでは今期のドラマとアニメ見るのに忙しいからなー。
とまあ、そんなわたしですから。
販売ビデオをはじめて見た、当時の驚き。
トドルキーニの最後の高笑いがまともに映ってない、というショックはともかくとして(笑)、いちばん驚いたのは、フランツ@タカネくんだ。
実際に舞台を観劇していたときは、「フランツ・ヨーゼフ」の良さがまったくわからなかったんだ。
「フランツって2番手役? あんな地味で目立たない、ほとんどがヒゲのおじさんの役が2番手でいいの?」
と、本気で思っていた。
辛抱役とかいうんじゃなく、ほんとに、つまんない役だと思ってたの! やだこの人見る目ナイ!!
ルキーニの方がぜんぜんいい役じゃん、なんかごめん。……てな。トドルキが舞台でたのしそーに活き活き暴れ回っているのを見ながら、勝手に申し訳ない気分になっていた。
ユキちゃんがあのつまんないおじさん役引き受けてくれてるから、トドがこんなにオイシイ役になったんだねえ。
ヒロインの夫役、主役の恋敵役は、2番手の仕事だもの。トドが3番手でよかったー。
そう思っていた。
フランツはなんつっても台詞も歌詞も聞き取れなくて。
新公ではじめて聞き取れて「こんなこと言ってたんだ!」と感慨深かったっけ。
たしかマイクが悪かったんだっけ? 聞き取れなかったのはタカネくんのせいではないって、のちになんかの記事で読んだ。
でもそんなの観ているときはわかんないから、台詞は聞き取れないわ共感できないマザコン役だわ地味でしどころがないわで、タカネくんは好きなスターのひとりだったけど、『エリザベート』では「いいとこなし」という印象。
オープニングにフランツいるって最初気づかなくて、2番手がいるならライトあててやれよ!と思い、あとになって、ライトあったんだ、ぜんぜん気づかなかった……、って、なんかもう返す返す「すみません」な感想だったな……。
や、当時わたし、観劇感想ノート作っててだね。チラシや新聞や雑誌の切り抜き、購入したブロマイドなんかもスクラップして、「アタシのタカラヅカ総合ノート」みたいなのを作ってたのよ、若いって元気よねー、よくそんな時間あったわねー。そこに当時の忌憚ない意見が書いてあるのよ、ほんとごめん、タカネくん。
そんな感想だったのにさ、ビデオ見てコロッと感想が変わったのよ。
フランツいい役やん! って。
ビデオではちゃんとフランツがアップになるのよ。わたしがカケラも見てなかったフランツのいい場面、いい表情とかが、自動的に画面に映るの。
いや、見てはいたけど、大劇場ではわからなかったところまで、ちゃんとアップでわかりやすく見せてくれる。あ、ここ、こんな表情してたんだ? てな。大劇場の2階からはそんな細かい表情まで見えなかったわ、てな。
生舞台とビデオで、こんだけ印象違う人もめずらしい……今思えば『La Esperanza』新公のまっつくらい印象チガウわ……(笑)。←生で観たときは主役は別の人に見えて、まっつはろくに目に入らなかったのに、スカステ放送ではまっつを主役としていつも画面の中央やアップにして映してくれるから、ちゃんと主役に見えたし、すごくいい芝居をしていることがわかった。
役の重要度だのストーリーだのに合わせてアップで映してくれる映像ではじめてわかるいい演技をしていても、2500人収容の大劇場で注目させてくれなきゃ意味ナイじゃん、とは、当時も思った。
類は友を呼ぶ、てことでアテにはならないのかもしれんが、わたしの周囲では「舞台観たときは思わなかったけど、ビデオで見るとフランツがすごく良かった」という意見がやたら聞こえた。
マイクが悪くてひとりだけ割を食っていたらしいけれど、それにしてもフランツは難しい役だったのだと思う。ビデオになってようやく良さが伝わるなんて。
わたしがトドファンだから、「トドをアゲて、ユキちゃんをオトしている」ということになってしまうのかもしれない。
トドルキにきゃーきゃーで、それ以外観ていない、という自覚はあるが、でも複数回観てすべて同じ視界なはずもなく、トドを好きでも他も観ているし、トドがいちばん好きでもユキちゃんも好きだったし、トドユキコンビのファン(銀色流し目がわたしのヅカコンビ萌え原点)だったし、客席でほんとうに感じたことなんだけど、わたしがトドファンだ、というだけで信憑性が薄れるんだろうな、と思いつつも、書く。
ともかく、ビデオを買って良かった、と思った。
フランツがこんなにいい役だったのだと、気づけて良かった。
ビデオのフランツは泣ける……。他のフランツと比べても、初演最高、タカネくんのフランツ好き、と思う。……現金よね。
ナマ舞台と販売ビデオの差に唖然とした……のは、わたしがそもそもビデオをあまり買わない・映像をあまり見ない、ことにあるのかも。
昔も今も、わたしはあまり映像でタカラヅカを見ない。わたしにとってヅカはナマ舞台観劇が基本だ。
映像が嫌なわけではなく……うーん、わたしにとって自宅のテレビで見る映像って、「ながら見」するものなのね。ドラマもアニメも好きでかなりの本数見てるけど、基本ながら見。
テレビの前に正座して脇目も振らず集中して楽しむ……ということを、あまりしない。
タカラヅカのことは大好きだから、ながら見はしたくないし、そもそも「舞台中継映像」てのはながら見用には作られてない。
テレビ番組って基本ながら見できるように作ってある、と思っている。なにしろ途中何度もCM入るからね。その都度緊張が切れる前提で作られている。なにかしながら、大して集中せずとも理解出来る・楽しめるように、がんばって作ってくれている、と思う。
映画はそういう前提がないから、空気感とか、画面の密度というか情報量が多く、ながら見がしにくい認識。集中して楽しむ前提で作られてるからねー。
舞台中継も映画と同じく、ちゃんと集中しなきゃ楽しめない。
そしてわたしには、テレビの前に2時間坐る時間的・精神的余裕がない。あれもしなきゃこれもしなきゃ、ああこんなことしてる場合じゃないのに、と思いながらテレビを見るのはストレスだ。気が小さいんですよ……。
映像になっていることは知っていても、あるいは購入して手元に持っていても、見ることはほとんどない。
わたしがくり返し見るヅカソフトは初演『エリザベート』と初演『凍てついた明日』、それから『二人だけの戦場』と『Crossroad』くらいのもんだった、長年。
『凍てついた明日』なんか、ビデオテープ2本買ったもん……1本は保存用(未開封)。当時はビデオテープしか販売されておらず、テープは劣化するからねえ……。
近年は「くり返し見るヅカ公演映像」に、雪組『ロミオとジュリエット』が加わったかな。『フットルース』が映像化されていたら、絶対これも見ていたと思う。
つっても、そんなに何回も見ているわけでもないが……。いつだって、自宅テレビでは今期のドラマとアニメ見るのに忙しいからなー。
とまあ、そんなわたしですから。
販売ビデオをはじめて見た、当時の驚き。
トドルキーニの最後の高笑いがまともに映ってない、というショックはともかくとして(笑)、いちばん驚いたのは、フランツ@タカネくんだ。
実際に舞台を観劇していたときは、「フランツ・ヨーゼフ」の良さがまったくわからなかったんだ。
「フランツって2番手役? あんな地味で目立たない、ほとんどがヒゲのおじさんの役が2番手でいいの?」
と、本気で思っていた。
辛抱役とかいうんじゃなく、ほんとに、つまんない役だと思ってたの! やだこの人見る目ナイ!!
ルキーニの方がぜんぜんいい役じゃん、なんかごめん。……てな。トドルキが舞台でたのしそーに活き活き暴れ回っているのを見ながら、勝手に申し訳ない気分になっていた。
ユキちゃんがあのつまんないおじさん役引き受けてくれてるから、トドがこんなにオイシイ役になったんだねえ。
ヒロインの夫役、主役の恋敵役は、2番手の仕事だもの。トドが3番手でよかったー。
そう思っていた。
フランツはなんつっても台詞も歌詞も聞き取れなくて。
新公ではじめて聞き取れて「こんなこと言ってたんだ!」と感慨深かったっけ。
たしかマイクが悪かったんだっけ? 聞き取れなかったのはタカネくんのせいではないって、のちになんかの記事で読んだ。
でもそんなの観ているときはわかんないから、台詞は聞き取れないわ共感できないマザコン役だわ地味でしどころがないわで、タカネくんは好きなスターのひとりだったけど、『エリザベート』では「いいとこなし」という印象。
オープニングにフランツいるって最初気づかなくて、2番手がいるならライトあててやれよ!と思い、あとになって、ライトあったんだ、ぜんぜん気づかなかった……、って、なんかもう返す返す「すみません」な感想だったな……。
や、当時わたし、観劇感想ノート作っててだね。チラシや新聞や雑誌の切り抜き、購入したブロマイドなんかもスクラップして、「アタシのタカラヅカ総合ノート」みたいなのを作ってたのよ、若いって元気よねー、よくそんな時間あったわねー。そこに当時の忌憚ない意見が書いてあるのよ、ほんとごめん、タカネくん。
そんな感想だったのにさ、ビデオ見てコロッと感想が変わったのよ。
フランツいい役やん! って。
ビデオではちゃんとフランツがアップになるのよ。わたしがカケラも見てなかったフランツのいい場面、いい表情とかが、自動的に画面に映るの。
いや、見てはいたけど、大劇場ではわからなかったところまで、ちゃんとアップでわかりやすく見せてくれる。あ、ここ、こんな表情してたんだ? てな。大劇場の2階からはそんな細かい表情まで見えなかったわ、てな。
生舞台とビデオで、こんだけ印象違う人もめずらしい……今思えば『La Esperanza』新公のまっつくらい印象チガウわ……(笑)。←生で観たときは主役は別の人に見えて、まっつはろくに目に入らなかったのに、スカステ放送ではまっつを主役としていつも画面の中央やアップにして映してくれるから、ちゃんと主役に見えたし、すごくいい芝居をしていることがわかった。
役の重要度だのストーリーだのに合わせてアップで映してくれる映像ではじめてわかるいい演技をしていても、2500人収容の大劇場で注目させてくれなきゃ意味ナイじゃん、とは、当時も思った。
類は友を呼ぶ、てことでアテにはならないのかもしれんが、わたしの周囲では「舞台観たときは思わなかったけど、ビデオで見るとフランツがすごく良かった」という意見がやたら聞こえた。
マイクが悪くてひとりだけ割を食っていたらしいけれど、それにしてもフランツは難しい役だったのだと思う。ビデオになってようやく良さが伝わるなんて。
わたしがトドファンだから、「トドをアゲて、ユキちゃんをオトしている」ということになってしまうのかもしれない。
トドルキにきゃーきゃーで、それ以外観ていない、という自覚はあるが、でも複数回観てすべて同じ視界なはずもなく、トドを好きでも他も観ているし、トドがいちばん好きでもユキちゃんも好きだったし、トドユキコンビのファン(銀色流し目がわたしのヅカコンビ萌え原点)だったし、客席でほんとうに感じたことなんだけど、わたしがトドファンだ、というだけで信憑性が薄れるんだろうな、と思いつつも、書く。
ともかく、ビデオを買って良かった、と思った。
フランツがこんなにいい役だったのだと、気づけて良かった。
ビデオのフランツは泣ける……。他のフランツと比べても、初演最高、タカネくんのフランツ好き、と思う。……現金よね。
初演『エリザベート』とわたし・その5。~わたしの「エリザベート」~
2016年1月18日 タカラヅカ 前日欄にもちらりと書いているけれど、わたしは『二人だけの戦場』が好き。
ヒロインの花ちゃんはものごっつー、かわいかった。いじらしかった。
花ちゃんが舞台でうまいこともかわいいことも、わかっていたけれど。
それとは別に、ぬぐいきれないわだかまりもあった。
なにしろ彼女は、雪組トップ娘役になる過程が、ダーク過ぎた。あんなことをしなくても、花ちゃんは実力で認められたと思うのに、劇団は何故かおかしな人事をし、ヅカファンが彼女をよく思わなくなるようなことをわざわざやりまくった。
舞台人は、舞台の上だけがすべて。
舞台の上の花ちゃんは素敵。
でも、「え、それひどい」配役があったのも、間違いなく舞台の上だったので。
雪担としては胸にもやもやがあった。
それを吹き飛ばしてくれたのが、『エリザベート』だ。
以前も書いたことがあるけれど、1幕ラストの鏡の間。
わたしが「花總まり」にひれ伏した瞬間。
花ちゃんがかわいいことも魅力的なことも、知ってはいたけれど。
素顔がかなりアレだし(ラガールカードのポスターはすごかった)、いわゆる一般的な「美貌」を持つ人だとはまったくもって思ったことがなかった。
あ、今のお花様はきれいな人だと思ってますよ、素顔も。ただ、若い頃は垢抜けてなくて、お化粧もトンデモなくて、いやほんとすごいことになってて……当時ネットがなくてよかったよ……しみじみ。
だから、台詞でどんだけ「美貌」を大安売りされても、あまりまともに考えることはなかった。
「そういう設定」であり、ちゃんときれいでかわいい女の子が舞台にいるんだから、それでいいじゃない。「きれいでかわいい」止まりで、「美貌」じゃないけど、「きれいでかわいい」なら、「そういう設定」だと脳内変換出来るもの。
それが、ほんとうに、圧倒的な美貌に、度肝を抜かれた。
ビデオではあの神々しさが伝わらないのがくやしい。
もやってた気持ちなんか吹き飛ばす勢いの美しさだった。
わたしが『エリザベート』という作品を好きになったのは、好きでいられるのは、お花様が初代エリザベートだったからだな、と思える。
シシィってさ、ひどい女だよねえ。
子どもの教育を任せろって言ったり放置したり、ろくなもんじゃねえ。
しょっぱなの「私がプリンセスでなければ、サーカスに入って曲馬師になるのに」だけで、カチンとくる。
自分で働いたこともないくせに、それを言うか。飢えて死んでいく子どもたちの前でソレを言ってみろ、「プリンセスで不幸だわ」って。
シシィは万事それ。
「義務を押し付けられたら出ていくわ」とか、今あなたが着ている服1枚だって、「果たすべき義務」と引き替えに与えられているのよ、と思う。受け取るだけ受け取って、対価を払わないのは犯罪でしょうに。
自由が欲しい、って、自分で土や肥料にまみれて畑耕してから言いなさいよ、金と権力があるからこその「道楽」を欲しているだけでしょ?
無知で無神経で無能な人間の、言い訳に聞こえる。「ああ、私って不幸だわ」「悪いのは私以外のすべて、私は被害者」「もし代われるなら、代わってもいいのよ。私の孤独に耐えられるのなら」……ふざけんな。
シシィの言動には「お前が言うな」「自業自得」という言葉しか出てこない……。
という、言動だけ見ると「ひどい」しかないのに、わたしがそのことに気づいたのはあとになってからだ。
最初はひたすらシシィに感情移入していた。
「あなたがいるなら嵐もこわくない」で泣き、「あなたは私を見殺しにするのね」で泣き、「私だけに」で泣き、「子どもを返して!」で泣き、「わかりました、あなたは敵だわ」で泣き、「それは正式な最後通告です」で泣き、「嫌よ、負けないわ」で泣き……って、とにかく彼女の人生が動き出してからは全場面で泣いてる状態。
シシィの運命、感情のままに『エリザベート』という作品を味わっていたの。
だから、シシィってひどい女だなー、とうすうす気づいてはいても度外視していたのに、改めてそう思ったのは、花ちゃん以外のシシィを見てからだな(笑)。
てゆーか、いちばん最初に拒否反応でたのが東宝『エリザベート』初演のいっちゃんだったような。ヅカ演出の方が好き、ということと、花ちゃん以外のシシィ、に強く反応したのかもしれない。
シシィ体験順は花ちゃん→あやかちゃん→花ちゃん→いっちゃんだけど、あやかちゃんはあまり「見た」印象がない。シシィよりトートに気が行っていたためと思われる。だから、ちゃんと注目した花ちゃん以外のはじめてのシシィがいっちゃんだった。
いっちゃんシシィで「シシィならなんでもいいわけじゃないんだな」と自覚出来たため、耐性が付き、その後のシシィには寛容になった。誰が演じるシシィにも楽しみを見つけられる。
だからわたしがシシィを……つまりは『エリザベート』という作品を好きになったのは、花ちゃんシシィありき、だ、
花ちゃんのヒロイン力……1幕ラストの神々しい美貌もそのひとつではあるけれど、実のところそれ以上に強いのは、ヒロインの人生に観客を巻き込む力だと思う。
『ホテル ステラマリス』のとき強く感じた、「物語が動き出す」感覚は、今思えば花ちゃんが若い頃から標準装備していたものだったんだ。
や、『ホテル ステラマリス』というひどい作品があってね、上演時間90分のうち60分くらい「視点なし、モブが歌い踊るだけ」というつまらない場面が続いて途方に暮れてたんだけど、お花様が主導権を握るやいなや「物語」がスタートした。視点がお花様になり、彼女の心の動きを中心にストーリーが動いていく。
それまでの「素人の取ったホームムービー」みたいな画面が、花ちゃんがヒロインとして立った瞬間から、「鮮明な映像と意志のあるカメラワークの、プロ制作の映画」に変化した。
お花様がヒロイン力を発揮しているのはいつものことだったろうけど、『ホテル ステラマリス』は作品があまりにひどく、お花様の力技がわかりやすくなってたので、強く印象に残っている。
シシィに感情移入できないと、『エリザベート』は今ほど楽しめなかったろうな。
わたしにとっての『エリザベート』が初演版だったこと……はじめて出会うシシィがお花様だったことは、心底幸運だった。
わたしは『エリザベート』が好きで、シシィが好き。
ヒロインの花ちゃんはものごっつー、かわいかった。いじらしかった。
花ちゃんが舞台でうまいこともかわいいことも、わかっていたけれど。
それとは別に、ぬぐいきれないわだかまりもあった。
なにしろ彼女は、雪組トップ娘役になる過程が、ダーク過ぎた。あんなことをしなくても、花ちゃんは実力で認められたと思うのに、劇団は何故かおかしな人事をし、ヅカファンが彼女をよく思わなくなるようなことをわざわざやりまくった。
舞台人は、舞台の上だけがすべて。
舞台の上の花ちゃんは素敵。
でも、「え、それひどい」配役があったのも、間違いなく舞台の上だったので。
雪担としては胸にもやもやがあった。
それを吹き飛ばしてくれたのが、『エリザベート』だ。
以前も書いたことがあるけれど、1幕ラストの鏡の間。
わたしが「花總まり」にひれ伏した瞬間。
花ちゃんがかわいいことも魅力的なことも、知ってはいたけれど。
素顔がかなりアレだし(ラガールカードのポスターはすごかった)、いわゆる一般的な「美貌」を持つ人だとはまったくもって思ったことがなかった。
あ、今のお花様はきれいな人だと思ってますよ、素顔も。ただ、若い頃は垢抜けてなくて、お化粧もトンデモなくて、いやほんとすごいことになってて……当時ネットがなくてよかったよ……しみじみ。
だから、台詞でどんだけ「美貌」を大安売りされても、あまりまともに考えることはなかった。
「そういう設定」であり、ちゃんときれいでかわいい女の子が舞台にいるんだから、それでいいじゃない。「きれいでかわいい」止まりで、「美貌」じゃないけど、「きれいでかわいい」なら、「そういう設定」だと脳内変換出来るもの。
それが、ほんとうに、圧倒的な美貌に、度肝を抜かれた。
ビデオではあの神々しさが伝わらないのがくやしい。
もやってた気持ちなんか吹き飛ばす勢いの美しさだった。
わたしが『エリザベート』という作品を好きになったのは、好きでいられるのは、お花様が初代エリザベートだったからだな、と思える。
シシィってさ、ひどい女だよねえ。
子どもの教育を任せろって言ったり放置したり、ろくなもんじゃねえ。
しょっぱなの「私がプリンセスでなければ、サーカスに入って曲馬師になるのに」だけで、カチンとくる。
自分で働いたこともないくせに、それを言うか。飢えて死んでいく子どもたちの前でソレを言ってみろ、「プリンセスで不幸だわ」って。
シシィは万事それ。
「義務を押し付けられたら出ていくわ」とか、今あなたが着ている服1枚だって、「果たすべき義務」と引き替えに与えられているのよ、と思う。受け取るだけ受け取って、対価を払わないのは犯罪でしょうに。
自由が欲しい、って、自分で土や肥料にまみれて畑耕してから言いなさいよ、金と権力があるからこその「道楽」を欲しているだけでしょ?
無知で無神経で無能な人間の、言い訳に聞こえる。「ああ、私って不幸だわ」「悪いのは私以外のすべて、私は被害者」「もし代われるなら、代わってもいいのよ。私の孤独に耐えられるのなら」……ふざけんな。
シシィの言動には「お前が言うな」「自業自得」という言葉しか出てこない……。
という、言動だけ見ると「ひどい」しかないのに、わたしがそのことに気づいたのはあとになってからだ。
最初はひたすらシシィに感情移入していた。
「あなたがいるなら嵐もこわくない」で泣き、「あなたは私を見殺しにするのね」で泣き、「私だけに」で泣き、「子どもを返して!」で泣き、「わかりました、あなたは敵だわ」で泣き、「それは正式な最後通告です」で泣き、「嫌よ、負けないわ」で泣き……って、とにかく彼女の人生が動き出してからは全場面で泣いてる状態。
シシィの運命、感情のままに『エリザベート』という作品を味わっていたの。
だから、シシィってひどい女だなー、とうすうす気づいてはいても度外視していたのに、改めてそう思ったのは、花ちゃん以外のシシィを見てからだな(笑)。
てゆーか、いちばん最初に拒否反応でたのが東宝『エリザベート』初演のいっちゃんだったような。ヅカ演出の方が好き、ということと、花ちゃん以外のシシィ、に強く反応したのかもしれない。
シシィ体験順は花ちゃん→あやかちゃん→花ちゃん→いっちゃんだけど、あやかちゃんはあまり「見た」印象がない。シシィよりトートに気が行っていたためと思われる。だから、ちゃんと注目した花ちゃん以外のはじめてのシシィがいっちゃんだった。
いっちゃんシシィで「シシィならなんでもいいわけじゃないんだな」と自覚出来たため、耐性が付き、その後のシシィには寛容になった。誰が演じるシシィにも楽しみを見つけられる。
だからわたしがシシィを……つまりは『エリザベート』という作品を好きになったのは、花ちゃんシシィありき、だ、
花ちゃんのヒロイン力……1幕ラストの神々しい美貌もそのひとつではあるけれど、実のところそれ以上に強いのは、ヒロインの人生に観客を巻き込む力だと思う。
『ホテル ステラマリス』のとき強く感じた、「物語が動き出す」感覚は、今思えば花ちゃんが若い頃から標準装備していたものだったんだ。
や、『ホテル ステラマリス』というひどい作品があってね、上演時間90分のうち60分くらい「視点なし、モブが歌い踊るだけ」というつまらない場面が続いて途方に暮れてたんだけど、お花様が主導権を握るやいなや「物語」がスタートした。視点がお花様になり、彼女の心の動きを中心にストーリーが動いていく。
それまでの「素人の取ったホームムービー」みたいな画面が、花ちゃんがヒロインとして立った瞬間から、「鮮明な映像と意志のあるカメラワークの、プロ制作の映画」に変化した。
お花様がヒロイン力を発揮しているのはいつものことだったろうけど、『ホテル ステラマリス』は作品があまりにひどく、お花様の力技がわかりやすくなってたので、強く印象に残っている。
シシィに感情移入できないと、『エリザベート』は今ほど楽しめなかったろうな。
わたしにとっての『エリザベート』が初演版だったこと……はじめて出会うシシィがお花様だったことは、心底幸運だった。
わたしは『エリザベート』が好きで、シシィが好き。
新人公演『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』観劇。
るかぜくん、ららちゃん、新公主演おめでとー。
るかぜくんというと『白夜の誓い』『王家に捧ぐ歌』と順当に役付きを上げて、満を持しての主演……なのにまだ研4なんだね。
ウバルドでは役柄もあってかあまり感じなかったけれど、るかぜくんには「明るさ」を感じるんだよね。
ぱっとした光。
あ、なんかさわやかな人が出てきた! てな。
その持ち味が、ウィリアム役には合っていた印象。
てゆーか、やっぱしヲヅキに似てる。
若いヲヅキがいる……ほっぺたとかむちむちつるつる。ヲヅキも顔は丸かったけど、頬の張りがチガウわ……若いわ……。
そして、こんなにヲヅキな顔立ちなのに、歌えるってどういうこと?(笑)
ヲヅキな顔してきれいな歌が聴こえてくると混乱する……。いやあ、罪深いなヲヅキさん。
ヲヅキがこれくらい歌えたら、テルとふたりしてトップになってたのかもなあ、とか、たらればをむなしく考えたり(笑)。
とにかく、ヲヅキスキーなわたしは、好きな人に似た顔だち、ってだけで好感度高いっすよ、もえこちゃん!
技術的に破綻なし。役割を果たせている、という以上の芝居は伝わってこなかったけれど、学年と立場を考えればソレだけで十分ニャ。
なんつーの、持ち味だけで成立させてしまったっていうか。それ、真ん中向きの資質を持つってことの証明?
いい時代になったなあ。今の歌劇団は、ちょっと前と違って「最低限歌える」子しか新公主演させない方針っぽい。
「音痴しか抜擢されないのか?」てな時代が長かったゆえ、わたし個人としては歌ウマさんに対する飢餓感が強い。歌が歌える、というだけで、点数が甘くなるのだ(笑)。
ビジュアルは学年が上がれば磨かれていくからねー。もえこちゃんもきっと、大人になったらハンサムになるはず!
タカラヅカだから、ビジュアルも大事、ただ技術があるだけの不細工さんなら、「ヅカでなくていいじゃん」と思う。
だからバランスなんだよなあ。
脇のジェンヌさんならきれいなだけの音痴さんでもいい。一芸に秀でた職人さんも大切。
でも路線スターには、いろいろ求めちゃうな。
顔かスタイルか歌唱力か男役芸か、なにかひとつ抜きんでていて、あとは平均値をクリアすること。……わたしが路線スターに求めるのはソレかな。
ダンスはふつーに踊れるレベルの人なら、男役芸があればなんとかなる、とわたしは思っている。スターになればなるほど、純粋なダンス力よりも「スター力」が必要になるから。天才ダンサーが世界で通用する外部的なダンスを披露するより、男役スターがタカラヅカでしかありえない男役ダンスを披露してくれる方が、わたしはうれしい。
芝居は好みが大きいので、ふつーレベルであれば問題ないと思うし。
顔がふつーでもスタイルが良ければカバー出来るし、スタイル微妙でも美形なら無問題。両方ふつーでも、男役芸が極まればちょーイケメンだのエロスターだのに見えるもんだし。
ただ、歌唱力だけは他のスペックでカバーできない……と、わたしは思う。どんだけ美形でも、男役芸を極めても、「ホゲ~~」な歌は「ホゲ~~」でしかない……。
あくまでも、わたしにとっては。価値観は人それぞれ。
今は「ホゲ~~」としか歌えない人は、路線予備軍に加えない方向みたいで、わくわくしている。
や、「音痴歓迎」時代があまりに長かったので(笑)。ごはんばっかだと、別のモノも欲しくなるじゃないですか。
最近の「音痴不可、ある程度の歌唱力必須」だって、それが10年も続いたあとには「歌はヘタでもいいから超美形を路線にして」と思ってるかもしれないし。
先のことはわからないが、今現在、わくわく。
男役だけじゃなく、娘役も「歌唱力必須」なんだよね。うれしいなあ。
男役は、「男役のキーで歌う」という高いハードル込みだから、若くして超えられる人が限られてくる。自然な女声でならきれいに歌える人でも、男役としては音痴になったりも、するのだろうから。
でも娘役は、生まれ持った声で歌える分、下級生でも歌ウマさんが多い……と思う。
それでも歌えない娘役さんを抜擢し、歌えないスターさんとコンビを組ませたりしてきたんだよなあ……(タニちゃんとカノチカとか、タニちゃんとウメちゃんとかが脳裏をよぎっていく)……でもそれももう、過去のこと、今はヒロインやる娘役さんは、あたりまえに歌ウマさんだーー!
アン@ららちゃんは、遜色なくヒロイン。
かわいいし歌えるし、安定している。
アムネリス@『王家に捧ぐ歌』新公のときは、歌に苦戦しているように見えたけど、今回はぜんぜんふつーに歌ってる。
アムネリスの歌って難しいのかな……。それとも、役が難しくて、それゆえに歌も微妙になる口?
お芝居も、アムネリスより今回の方がずっといい。無理がない。
……って、やっぱアムネリスって相当難しい役なんだな……。
正直今回、もえこちゃんより、ららちゃんのお芝居の方がわたしにはよく伝わった。
主役とヒロインだと、ヒロインの方に肩入れして見ちゃった。
アンという女性の存在が自然で……なんというか、リアルな気がした。
ああ、この女性、ここに居るんだ、と思った。
反対にウィリアム@もえこは、終始足が地に着いてなかった。浮ついているというか、ふわふわしていた。
それは彼が「スター」としての資質を多く持つためかもしれない。スターなんてもんは、浮世離れしてなきゃなんないからな。
ウィリアムはつまずいたり悩んだりするわけなんだけど、見ていて実感がわかなかった。
だからウィリアム単体でいうと、本公演と同じ意味での感動は得られない、同じストーリーでも。
ただ、地に足着いてない感じが、「シェイクスピア」っぽくもあった。天才だかんなー、これくらいふわふわしてるのもアリでしょ、って。
そして、アンのリアリティが、切なかった。
ああこのふたり、別の人種なんだな、って。
だからうまくいかなくなるし、また、求め合いもするんだろう。
ららちゃんはかわいい人なのに、かわいく見えるときとそうでないときがあって、髪型とか役柄で左右されがちなのかも。
どんな役割が来ても、かわいくあれれば、さらにいいのにな。
るかぜくん、ららちゃん、新公主演おめでとー。
るかぜくんというと『白夜の誓い』『王家に捧ぐ歌』と順当に役付きを上げて、満を持しての主演……なのにまだ研4なんだね。
ウバルドでは役柄もあってかあまり感じなかったけれど、るかぜくんには「明るさ」を感じるんだよね。
ぱっとした光。
あ、なんかさわやかな人が出てきた! てな。
その持ち味が、ウィリアム役には合っていた印象。
てゆーか、やっぱしヲヅキに似てる。
若いヲヅキがいる……ほっぺたとかむちむちつるつる。ヲヅキも顔は丸かったけど、頬の張りがチガウわ……若いわ……。
そして、こんなにヲヅキな顔立ちなのに、歌えるってどういうこと?(笑)
ヲヅキな顔してきれいな歌が聴こえてくると混乱する……。いやあ、罪深いなヲヅキさん。
ヲヅキがこれくらい歌えたら、テルとふたりしてトップになってたのかもなあ、とか、たらればをむなしく考えたり(笑)。
とにかく、ヲヅキスキーなわたしは、好きな人に似た顔だち、ってだけで好感度高いっすよ、もえこちゃん!
技術的に破綻なし。役割を果たせている、という以上の芝居は伝わってこなかったけれど、学年と立場を考えればソレだけで十分ニャ。
なんつーの、持ち味だけで成立させてしまったっていうか。それ、真ん中向きの資質を持つってことの証明?
いい時代になったなあ。今の歌劇団は、ちょっと前と違って「最低限歌える」子しか新公主演させない方針っぽい。
「音痴しか抜擢されないのか?」てな時代が長かったゆえ、わたし個人としては歌ウマさんに対する飢餓感が強い。歌が歌える、というだけで、点数が甘くなるのだ(笑)。
ビジュアルは学年が上がれば磨かれていくからねー。もえこちゃんもきっと、大人になったらハンサムになるはず!
タカラヅカだから、ビジュアルも大事、ただ技術があるだけの不細工さんなら、「ヅカでなくていいじゃん」と思う。
だからバランスなんだよなあ。
脇のジェンヌさんならきれいなだけの音痴さんでもいい。一芸に秀でた職人さんも大切。
でも路線スターには、いろいろ求めちゃうな。
顔かスタイルか歌唱力か男役芸か、なにかひとつ抜きんでていて、あとは平均値をクリアすること。……わたしが路線スターに求めるのはソレかな。
ダンスはふつーに踊れるレベルの人なら、男役芸があればなんとかなる、とわたしは思っている。スターになればなるほど、純粋なダンス力よりも「スター力」が必要になるから。天才ダンサーが世界で通用する外部的なダンスを披露するより、男役スターがタカラヅカでしかありえない男役ダンスを披露してくれる方が、わたしはうれしい。
芝居は好みが大きいので、ふつーレベルであれば問題ないと思うし。
顔がふつーでもスタイルが良ければカバー出来るし、スタイル微妙でも美形なら無問題。両方ふつーでも、男役芸が極まればちょーイケメンだのエロスターだのに見えるもんだし。
ただ、歌唱力だけは他のスペックでカバーできない……と、わたしは思う。どんだけ美形でも、男役芸を極めても、「ホゲ~~」な歌は「ホゲ~~」でしかない……。
あくまでも、わたしにとっては。価値観は人それぞれ。
今は「ホゲ~~」としか歌えない人は、路線予備軍に加えない方向みたいで、わくわくしている。
や、「音痴歓迎」時代があまりに長かったので(笑)。ごはんばっかだと、別のモノも欲しくなるじゃないですか。
最近の「音痴不可、ある程度の歌唱力必須」だって、それが10年も続いたあとには「歌はヘタでもいいから超美形を路線にして」と思ってるかもしれないし。
先のことはわからないが、今現在、わくわく。
男役だけじゃなく、娘役も「歌唱力必須」なんだよね。うれしいなあ。
男役は、「男役のキーで歌う」という高いハードル込みだから、若くして超えられる人が限られてくる。自然な女声でならきれいに歌える人でも、男役としては音痴になったりも、するのだろうから。
でも娘役は、生まれ持った声で歌える分、下級生でも歌ウマさんが多い……と思う。
それでも歌えない娘役さんを抜擢し、歌えないスターさんとコンビを組ませたりしてきたんだよなあ……(タニちゃんとカノチカとか、タニちゃんとウメちゃんとかが脳裏をよぎっていく)……でもそれももう、過去のこと、今はヒロインやる娘役さんは、あたりまえに歌ウマさんだーー!
アン@ららちゃんは、遜色なくヒロイン。
かわいいし歌えるし、安定している。
アムネリス@『王家に捧ぐ歌』新公のときは、歌に苦戦しているように見えたけど、今回はぜんぜんふつーに歌ってる。
アムネリスの歌って難しいのかな……。それとも、役が難しくて、それゆえに歌も微妙になる口?
お芝居も、アムネリスより今回の方がずっといい。無理がない。
……って、やっぱアムネリスって相当難しい役なんだな……。
正直今回、もえこちゃんより、ららちゃんのお芝居の方がわたしにはよく伝わった。
主役とヒロインだと、ヒロインの方に肩入れして見ちゃった。
アンという女性の存在が自然で……なんというか、リアルな気がした。
ああ、この女性、ここに居るんだ、と思った。
反対にウィリアム@もえこは、終始足が地に着いてなかった。浮ついているというか、ふわふわしていた。
それは彼が「スター」としての資質を多く持つためかもしれない。スターなんてもんは、浮世離れしてなきゃなんないからな。
ウィリアムはつまずいたり悩んだりするわけなんだけど、見ていて実感がわかなかった。
だからウィリアム単体でいうと、本公演と同じ意味での感動は得られない、同じストーリーでも。
ただ、地に足着いてない感じが、「シェイクスピア」っぽくもあった。天才だかんなー、これくらいふわふわしてるのもアリでしょ、って。
そして、アンのリアリティが、切なかった。
ああこのふたり、別の人種なんだな、って。
だからうまくいかなくなるし、また、求め合いもするんだろう。
ららちゃんはかわいい人なのに、かわいく見えるときとそうでないときがあって、髪型とか役柄で左右されがちなのかも。
どんな役割が来ても、かわいくあれれば、さらにいいのにな。
新人公演『Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』を観て、そっから思ったことなんぞをたらたらと記憶確認も兼ねて記す。
複数回新公主演した上級生スターが、最後の新公で脇に回って舞台を締めるの、好きだなー。
やっぱ研7の最後の新公は、下級生に主演を譲って、長の期の仕事に没頭してほしいじゃないですか。その座組をまとめる役割って、その後の舞台人人生に絶対プラスになるし。
次から下級生たちだけでやっていかなきゃならない、いきなり手を離すのではなく、補助輪として支える……そんな頼もしい姿を、1ヅカファンとして、見たいじゃないですか。
そうやって支えにまわり、別の経験を積む、ってことは、「主演スキル取得」と認め印を押されたよーなもんじゃん? 取得済みだから、はい、次は別のスキルを取るようがんばってね、てな。
複数回主演しているのに、それでもまだ最後まで新公主演する人の場合、「なにかしら不安要素があり、追試が必要」と劇団から判断されたのかな、と思う。
スターとして、技術でも舞台での居方でも人気でも、なにかしら「足りない」から、「ソレを得るべくもう一度主演しておいで」ってことなのかなと。
たとえばれおんくんなんか、5回も新公主演して、その間WS主演もして、バウやDCの2番手もして、それでも研7の最後の公演まで新公主演、しかもこの最後の公演ってお尻が4月(研8)にかかるくらいの年度末公演で、本公演で役替わりで2番手役までやっていながら、それでも新公主演しなければならなかった。
同世代の路線スターの何倍もの経験を積ませても、まだ、不安視されていたんだ。人気も実力も足りなさすぎると。
その証拠に、彼はそののちも、若手や別格の主演するWSに、ただひとり学年も立場も違いすぎるのに放り込まれていた。あれだけ経験を積んでもなお、「追試が必要」と判断されたようだ。
(その結果、立派なトップスターになった、のは周知の通り)
他のスターとの兼ね合いもあるから、「最後の新公で主演する」=「追試」と確定しているわけじゃないが。
前の新公主演から何年も間が空いている場合、「主演スキル取得済」でも、「ペーパードライバーの再試験」としてラストにやる場合もあるし。
でも、間が空いているわけでもなく、「主演スキル取得」とお墨付きだったらたぶん、回ってこないと思うんだ。トウコなんか研6で新公卒業したしね。
今年度が新公ラストになる95期。
花組のカレー、雪組のれいこは、やっぱなんかしら不安要素があっての新公主演駄目押し、という気がする(笑)。
現に人気も実力も順風満帆、本公演ポスターにも載っちゃってます、2回目のバウ主演も決まってますぜ!の星組のことちゃんは、ラスト新公はモブをやってたもの。
月組のあーさはラスト新公がようやく2回目だから、「ラスト新公までに複数回主演している」という前提に当てはまらないのでこの話題からは除く。
とまあ、長い前振りで恐縮だが、「ラスト新公までに複数回主演している」上で、ラスト新公は主演ではなく、下級生を支える立場に回っている……宙組のずんちゃんは、劇団から信頼されているのだなと思った。
ことちゃんはまったくのモブだったけど、ずんちゃんが2番手役なのは、ことちゃんほどたくさん経験を積んでいるわけじゃないためだろうと思う。
本公演で3番手相当(準ヒロイン)を演じていることちゃんと同じではないわな……って、こう語りながら花組で完全に3番手として活躍しているカレーくんのことを思ったけれど、ええっと、それでも彼には追試が必要だと劇団が判断したんだと思うよ、れおんくんがそうであったように。
ともかく。
ずんちゃんはもう、新公主演しなくても大丈夫だと、劇団に判断された。
加えて、もえこちゃんにも期待がかかっているんだろう。
初主演同士を組ませることって、あんまりないもの。
きっと大変すぎて舞台が立ちゆかなくなる危険性が増すためだろう、男女どっちかは経験者を混ぜる。あるいは、どちらかを研7かせめて研6など上級生にするとか。新公主演してないだけで、それまでになにかしら活躍の場を経験しているとか。
そうやって、主演とヒロインが共倒れしないように配慮する。
学年の若い初新公主役コンビを支える意味で、ずんちゃんの2番手が必要だったかなと思う。
これで2番手役まで経験値の低い下級生だったりしたら、マジで舞台が心配。……もえこららコンビが手堅くこなしたのは結果論で、企画段階でわざわざそんな、誰の得にもならない冒険はせんやろ。
そんな風に「以前こうだったから」という記憶の積み重ねで観劇できるのもタカラヅカの楽しみのひとつ。
「宙組観たいことナイ、本公演も観てない、たまたまツテがあって新公だけはじめて観た」……というだけ(生徒さんの身内・知り合いに多いパターン)でももちろん、楽しめるだろうし、それはそれでまったく違った視点で観られるのだと思う。
わたしは今さら「ナニも知らない、タカラヅカってナニ?」という視点では観られないので、それならいっそ、今わたしが知り得るものすべて知った上で楽しみたい、と思う。
せっかく継続して観てきているんだもの、前回の新公で気になった子は、「前回に比べてこうだった」とか感じたいわ。
だから、95期ラスト新公の主演がずんちゃんじゃないことに、わくわくした。そりゃずんちゃん主演でもわくわくしたし、楽しんだと思うけどね。
それとは別に、マカゼ役をやるずんちゃん! 主演経験者として支え役をやるずんちゃん! に、主な配役決定時から、わくわくしていた。
……のだけど。
えーと。
とりあえず今んとこ、ヒゲのずんちゃんにはときめきません……(笑)。
マカゼのヒゲが似合いすぎてるからかなあ。
丸顔+ヒゲ、って、期待したほどセクシーじゃないというかええっと、あ思ってたのとチガウ、てな感じがあってええっと。
ずんちゃん次『エリザベート』でひょっとしたらヒゲ付けるよな、エルマーあたり役だとしたらヒゲありだよな、予行演習出来てよかったのか? とか、余計なことまで考えた。
ビジュアルはわたしが期待した(てゆーか期待値高すぎ? 最近のずんちゃんの顔好き)ものではなかったんだが、お芝居はさすがよねー!
ジョージ役ってさ、新人がいっぱいいっぱいになってやる役じゃないのよ。緊張が伝わってきてはいかんと思うのよ。
その点ずんちゃんは余裕でさ。
あー、喉ごしすっきりだわー、と思った。
主役のウィリアム@もえこに対し、身分・年齢・立場的に、自然に「上」であれること。
ジョージが違和感なくジョージで、この役がずんちゃんでよかったなと思った。
……ヒゲも、最後の方ではもうアリかと思ってたし。うん、『エリザベート』も楽しみだ!
もえこちゃんもこの学年で新公主演デビューしたってことは、何回か主演するんだろう、それならどうか最後の新公では、脇の支えに回って余裕な姿を見せてほしいな。
新公主演者が最後の公演で支え役をする、のを観るのが好き。
複数回新公主演した上級生スターが、最後の新公で脇に回って舞台を締めるの、好きだなー。
やっぱ研7の最後の新公は、下級生に主演を譲って、長の期の仕事に没頭してほしいじゃないですか。その座組をまとめる役割って、その後の舞台人人生に絶対プラスになるし。
次から下級生たちだけでやっていかなきゃならない、いきなり手を離すのではなく、補助輪として支える……そんな頼もしい姿を、1ヅカファンとして、見たいじゃないですか。
そうやって支えにまわり、別の経験を積む、ってことは、「主演スキル取得」と認め印を押されたよーなもんじゃん? 取得済みだから、はい、次は別のスキルを取るようがんばってね、てな。
複数回主演しているのに、それでもまだ最後まで新公主演する人の場合、「なにかしら不安要素があり、追試が必要」と劇団から判断されたのかな、と思う。
スターとして、技術でも舞台での居方でも人気でも、なにかしら「足りない」から、「ソレを得るべくもう一度主演しておいで」ってことなのかなと。
たとえばれおんくんなんか、5回も新公主演して、その間WS主演もして、バウやDCの2番手もして、それでも研7の最後の公演まで新公主演、しかもこの最後の公演ってお尻が4月(研8)にかかるくらいの年度末公演で、本公演で役替わりで2番手役までやっていながら、それでも新公主演しなければならなかった。
同世代の路線スターの何倍もの経験を積ませても、まだ、不安視されていたんだ。人気も実力も足りなさすぎると。
その証拠に、彼はそののちも、若手や別格の主演するWSに、ただひとり学年も立場も違いすぎるのに放り込まれていた。あれだけ経験を積んでもなお、「追試が必要」と判断されたようだ。
(その結果、立派なトップスターになった、のは周知の通り)
他のスターとの兼ね合いもあるから、「最後の新公で主演する」=「追試」と確定しているわけじゃないが。
前の新公主演から何年も間が空いている場合、「主演スキル取得済」でも、「ペーパードライバーの再試験」としてラストにやる場合もあるし。
でも、間が空いているわけでもなく、「主演スキル取得」とお墨付きだったらたぶん、回ってこないと思うんだ。トウコなんか研6で新公卒業したしね。
今年度が新公ラストになる95期。
花組のカレー、雪組のれいこは、やっぱなんかしら不安要素があっての新公主演駄目押し、という気がする(笑)。
現に人気も実力も順風満帆、本公演ポスターにも載っちゃってます、2回目のバウ主演も決まってますぜ!の星組のことちゃんは、ラスト新公はモブをやってたもの。
月組のあーさはラスト新公がようやく2回目だから、「ラスト新公までに複数回主演している」という前提に当てはまらないのでこの話題からは除く。
とまあ、長い前振りで恐縮だが、「ラスト新公までに複数回主演している」上で、ラスト新公は主演ではなく、下級生を支える立場に回っている……宙組のずんちゃんは、劇団から信頼されているのだなと思った。
ことちゃんはまったくのモブだったけど、ずんちゃんが2番手役なのは、ことちゃんほどたくさん経験を積んでいるわけじゃないためだろうと思う。
本公演で3番手相当(準ヒロイン)を演じていることちゃんと同じではないわな……って、こう語りながら花組で完全に3番手として活躍しているカレーくんのことを思ったけれど、ええっと、それでも彼には追試が必要だと劇団が判断したんだと思うよ、れおんくんがそうであったように。
ともかく。
ずんちゃんはもう、新公主演しなくても大丈夫だと、劇団に判断された。
加えて、もえこちゃんにも期待がかかっているんだろう。
初主演同士を組ませることって、あんまりないもの。
きっと大変すぎて舞台が立ちゆかなくなる危険性が増すためだろう、男女どっちかは経験者を混ぜる。あるいは、どちらかを研7かせめて研6など上級生にするとか。新公主演してないだけで、それまでになにかしら活躍の場を経験しているとか。
そうやって、主演とヒロインが共倒れしないように配慮する。
学年の若い初新公主役コンビを支える意味で、ずんちゃんの2番手が必要だったかなと思う。
これで2番手役まで経験値の低い下級生だったりしたら、マジで舞台が心配。……もえこららコンビが手堅くこなしたのは結果論で、企画段階でわざわざそんな、誰の得にもならない冒険はせんやろ。
そんな風に「以前こうだったから」という記憶の積み重ねで観劇できるのもタカラヅカの楽しみのひとつ。
「宙組観たいことナイ、本公演も観てない、たまたまツテがあって新公だけはじめて観た」……というだけ(生徒さんの身内・知り合いに多いパターン)でももちろん、楽しめるだろうし、それはそれでまったく違った視点で観られるのだと思う。
わたしは今さら「ナニも知らない、タカラヅカってナニ?」という視点では観られないので、それならいっそ、今わたしが知り得るものすべて知った上で楽しみたい、と思う。
せっかく継続して観てきているんだもの、前回の新公で気になった子は、「前回に比べてこうだった」とか感じたいわ。
だから、95期ラスト新公の主演がずんちゃんじゃないことに、わくわくした。そりゃずんちゃん主演でもわくわくしたし、楽しんだと思うけどね。
それとは別に、マカゼ役をやるずんちゃん! 主演経験者として支え役をやるずんちゃん! に、主な配役決定時から、わくわくしていた。
……のだけど。
えーと。
とりあえず今んとこ、ヒゲのずんちゃんにはときめきません……(笑)。
マカゼのヒゲが似合いすぎてるからかなあ。
丸顔+ヒゲ、って、期待したほどセクシーじゃないというかええっと、あ思ってたのとチガウ、てな感じがあってええっと。
ずんちゃん次『エリザベート』でひょっとしたらヒゲ付けるよな、エルマーあたり役だとしたらヒゲありだよな、予行演習出来てよかったのか? とか、余計なことまで考えた。
ビジュアルはわたしが期待した(てゆーか期待値高すぎ? 最近のずんちゃんの顔好き)ものではなかったんだが、お芝居はさすがよねー!
ジョージ役ってさ、新人がいっぱいいっぱいになってやる役じゃないのよ。緊張が伝わってきてはいかんと思うのよ。
その点ずんちゃんは余裕でさ。
あー、喉ごしすっきりだわー、と思った。
主役のウィリアム@もえこに対し、身分・年齢・立場的に、自然に「上」であれること。
ジョージが違和感なくジョージで、この役がずんちゃんでよかったなと思った。
……ヒゲも、最後の方ではもうアリかと思ってたし。うん、『エリザベート』も楽しみだ!
もえこちゃんもこの学年で新公主演デビューしたってことは、何回か主演するんだろう、それならどうか最後の新公では、脇の支えに回って余裕な姿を見せてほしいな。
新公主演者が最後の公演で支え役をする、のを観るのが好き。
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