年寄りなので、昔話をする。

 初演『エリザベート』の思い出。

 日本初演のウィーンミュージカル。当時の輸入ミュージカルというと英語圏限定っぽくて、なにからなにまで目新しかった印象。

 はじめて出会う世界観だった。

 タカラヅカってすげえ。

 そう思った。
 こんなものが上演出来てしまうんだ。
 ビッグタイトルのためにかき集められたメンバーによる、特別公演ではなく、既存劇団の既存の組で、定例公演で。日常の範囲内で。

 宝塚歌劇団の日常、基本、ふつーにあるもの、って、どんだけすごいん。
 『ベルばら』みたいなつまんない紙芝居もやるけれど、『エリザベート』みたいに立体的な奥深い作品だって「ふつー」にやってしまう。
 やれるだけの器を持っている。

 それってすごい。

 わたしはすごいカンパニーのファンやってるんだなー……と、漠然と思う。

 また、『エリザベート』が上演されることで、宝塚歌劇団が変わってきていることも感じた。
 『エリザベート』のポスターが、今までと違って、映画のポスターみたいだった。
 ふつーの興行作品みたいにデザインされて、加工されてるの。
 トート@いっちゃんの顔が上半分にどーんと載ってて、真ん中にエリザベート@花ちゃんとトートのツーショット、下方は公演の文字情報、フランツ@タカネくん、ルキーニ@トドロキ、ルドルフ@タータンが切手サイズで左端に縦並びで載っている、あの初演ポスター。
 アレが目新しいくらい、それまでのヅカポスターはひどかったのよ。
 コスプレしたヅカメイクのスターが、スタジオでただ並んで記念撮影しているだけ。なんのデザインも加工もされてない。
 必要なのは「どのスターが出るか」だけなので、ポスターとして盛り上げる気皆無。
 いっちゃんスカーレットの『風と共に去りぬ』ポスターがイラスト風だったりして、少しずつ「変わろう」という雰囲気があるようには感じていたけれど……「変わった!」と思ったのは、『エリザベート』のときだな。


 ゴシックロマン好きの厨二アニヲタにとって、『エリザベート』は実に好みの世界観に満ちていた。
 「闇の帝王トート、またの名を、死」とか、ナニその厨二ハートくすぐる設定!(笑) 黒天使とか愛と死とかわざわざ輪舞と書いてロンドと読ませるとか、いちいちいいよね!
 オープニングは素晴らしいよね、棺桶に仮面にベール、不安感煽る多重唱に甦る死者たち……食いつくよね!
 や、当時は「厨二」という言葉はなかったと思うけど、概念はすでにあったからねー。

 いやもう、ただただ楽しかった。原初の『エリザベート』体験。
 客観的に観て「なんかすげえぞ、この作品!」と思えて、個人的に「この世界観好みーー! 滾るーー!!」と思える幸運。

 くわえて。
 わたしがあたしってラッキー☆と思えたことは。

 わたしが、トドロキファンだということだ。

 トドファンで、初演『エリザベート』に出会う。
 ……これ、すごいラッキーよ? しあわせよ? 狂喜乱舞よ?

 ご贔屓の渾身の当たり役を、目の当たりにする幸福。

 観るまでは、「長い一代記の、最後の暗殺にだけ関わる犯人役なんて、出番もろくにないだろうし、つまんない役なんじゃないの?」って心配してたくらいだったのに。
 フタを開けてみたら、めちゃくちゃオイシイ役じゃん、ルキーニ!!

 いつまでたっても舞台にいる、いつでも出て来る、どこでも出て来る。
 かっこいいしかわいいし、おちゃめだしこわいし。

 ひとつの作品なのに、いろんな顔を見られる。

 そして。
 この作品を、この物語を、支配しているのがルキーニである、という事実。

 や、主演はもちろんいっちゃんだし、ヒロインは花ちゃんだよ。主役を食っているとかそういう意味ではないよ。
 でも、それらも含めて、ルキーニという役が外側から彼らを手の内に納めている……そういう作りの物語だよね? そういう構成だよね?
 そう作られてるんだから、そう感じても仕方ないよね?
 トドが完璧だとは思わないけれど、「物語」が必要とするだけの力を持って、ルキーニは世界を手の内に包んでいた。

 発行する丸い玉……中は空洞で、包帯のようなリボンのようなものが巻き付けてある……その布の隙間から光が見えている……を、トドロキルキーニが、両の手のひらの内側に持っているイメージ。

 トドは自由にたのしそうに、「世界」と関わっていた。「物語」と遊んでいた。

 彼が面白くて仕方なかった。
 彼から目が離せなかった。

 2階席からただひたすら、トドロキだけをオペラグラスで追いかけるしあわせ。
 ルキーニはいつも舞台にいて、端っこから「舞台」を観ている。彼を追い、彼の目線を追って『エリザベート』を堪能する。
 それは心から、幸福で、ゼイタクな体験だった。

日記内を検索