一人称で語られる物語。@星逢一夜
2015年8月9日 タカラヅカ 『星逢一夜』はいい作品だと思う。
でもさー、気になるのは「主人公の一人称作品」であることなんだよねえ。
物語冒頭、晴興@ちぎのナレーションが入る。
「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」
語っているのは、晴興。
しかも過去形だから、この物語は晴興が陸奥へ流されたあと、なにもかも失ったあとで回想しているのかもしれないね。
そう思うと切ないことだ……というのは、置いておいて。
初見のときはわからなかったけれど、2回目からは気になった。
ミュージカル作品なのに、歌が晴興@主人公にしかないこと。
歌……合唱でも歌い継ぎでもない、まったくのソロ歌は、その人物の見せ場だ。
タカラヅカでは主に銀橋ソロとして使われる。
物語の一部、前後の流れを受けて歌うにしろ、物語とまったく関係なく「番手スターだから」と歌うにしろ、間違いなく「見せ場」だ。
そして、個人の見せ場である以上、大抵の場合は「そのキャラクタの歌」になる。
90分しかない短編作品で、たったひとりで舞台を占領するのだから、そこに情報を詰めないことにはもったいない。
だから概ね、銀橋ソロはそのキャラの心情を歌う場面になる。
人生に悩んだり、恋しい人への愛の歌だったり。なにかしら決意をしていたり。
歌うキャラクタの、一人称。心情を歌にする。
私は誰々を愛してる、私は悩んでいる、私は苦しい立場にある、私はこう生きたい……などなど。
情報量の少ないキャラクタでも、銀橋ソロ1本あるだけで「こんなこと考えてるんだ」とわかったりする。
だが、『星逢一夜』には、ソレがない。
銀橋で歌うのは晴興のみだ。
たしかに、他にも歌はある。
源太@だいもんは祭り場面で銀橋センターで声を発するし、泉@みゆちゃんも歌いながらひとりで銀橋を渡る。
が。
源太の歌は「祭りの歌」であり、彼自身の歌ではない。
ぶっちゃけ、源太ではなく「祭りの男A」が歌ってもイイ。
泉になると、もっとひどい。
せっかくの銀橋ソロなのに、心情とは関係ない歌。
「歌いながらひとりで銀橋を渡る」ということでヒロインを差別化しているだけで、「泉」としての見せ場じゃない。
祭りの歌に、里の歌に、源太や泉がそれぞれの思いを重ねているのだ、それを読み解くのだ、という見方は置いておく。もちろん、そういう意味もあるだろうが、その話は今はしていない。
この作品は、とても頑なに、他者の意識を排除している。
泉がなにを思ったか、源太がなにを思ったか、彼らは言葉を発してはならないんだ。語ってはならないんだ。
口を開いていいのは、主人公の晴興だけ。
観客が目で追うのは、主人公である晴興だけ、が正しいんだ。
壮年になってからの晴興と源太の再会場面、源太の土下座から晴興の銀橋ソロ、そして一揆になるあの流れ、わたしはあそこを秀逸だと思う。
あそこがいちばん、「正しいな」と思う。「容赦ないな」とも思う。
主人公は、晴興。
この前提が、一切揺らがない。
親友同士の対峙から一揆になる、そのドラマティックな流れで、揺らがずにカメラは晴興だけを追いかける。
多面的に盛り上げられる場面だから、ここで源太にもカメラを向けたくなるものなのよ、作る側としては。や、作るっちゅーか、こちらは観る側だから、「見たい」と思う、それを作者は感じて作っているわけでしょ?
なのに、そこで揺るがず源太排除、晴興だけピックアップする、って、すげえなと。
その昔、『天の鼓』というぐたぐた作で、作者はクライマックスで「主人公が誰か」わからなくなった。
それまで主人公を追っていたはずのカメラが、いちばんの盛り上がりで別の人を追いだしたの。主人公は、その別の人の背中越しにしか、見えなくなった。
そう古くもない昔、『フットルース』という作品で、何故か主人公ではない人がカメラの中央でタイトルでもある「魂が解き放たれる」場面を演じ、主人公は背中を向けたまま傍観者として収束した。
そんな風に、もっとも盛り上がる場面で、主人公が主人公でなくなってしまうことが、ある。
視点の振り分けがうまくまとまらなかった、『The Lost Glory』という作品もあったねー。クライマックスでカメラがブレるの。ふたりの男のどちらを視点に、あるいは両方、あるいは誰でもない神視点に、この場面を表現するか、作者の意識の鈍さを感じた。
とまあ、ぱっと思いつくままに、ヅカの女性クリエイター作品を例にしてみました。
視点の混同。混乱。
主人公よりそれに対峙する役、障害となる役の方がドラマティックで、起承転結の「転」を動かす起爆剤になることが多いのね。物語ってもん自体が。
作者はその物語の「神」であり、すべてのキャラクタを知っているから間違えやすいの。それまで主人公の目線で進んできた物語なら、なにがあってもそこは間違えちゃいけないんだけど。なまじ主人公以外も見えているから、混乱するのね。
クライマックスだろうと、カメラが追うのは、物語の盛り上がりではなく、主人公の心の変化。どんなドラマティックな出来事も、主人公の目を通す。主人公と無関係にしない。
や、盛り上がり追った方が気持ちよかったり、楽だったりするけど。そこはぐっと我慢、主人公大事。
もともと神視点の三人称作品ならいいけど、主人公の一人称作品なら、クライマックスも主人公視点で統一してくれないと!
盛り上がったーー! というところで、カメラがだいもんではなく、ちぎくんを追うこと……ちぎくんが銀橋に出て来て歌うことに、心躍った。
ここでだいもんじゃないんだ!! だいもんも使った方が盛り上がるのに! それでもあえてちぎなんだ!!
よっしゃーー! と、拳握ったねー。
そのあとの源太の歌も短い短い。
心情を語るのではなく、あくまでも「一揆」の歌。
源太単体の歌でも見せ場でもない。
ここで源太にソロを与えがちなのが、ヅカの演出家だと思う。だいもんが、ちぎが、というのではなく、作品のキャラクタ位置関係。
単純に盛り上がるもん。
盛り上がる方がいいに決まってるもん。
盛り上がりは抑えめになるけれど、ブレずに晴興視点、
源太は晴興を通してしか、語られない。表現されない。
小説ではなく舞台だから、観客は舞台上のどこでも観ることが出来る。ゆえに完全な一人称はあり得ないのだけど、全方向性の視界の中で、物語の中心がどこかを演出で押さえてくる。だから、これは一人称作品。
徹底してるな。容赦ないな。
作劇部分で「よっしゃーー!」なのに、「だいもんに歌わせろ~~! 耳が欲求不満じゃ~~!」と思うのも正直なところだけど(笑)。
ほんとに、頑なに一人称なのよ。
良くも悪くも。
でもさー、気になるのは「主人公の一人称作品」であることなんだよねえ。
物語冒頭、晴興@ちぎのナレーションが入る。
「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」
語っているのは、晴興。
しかも過去形だから、この物語は晴興が陸奥へ流されたあと、なにもかも失ったあとで回想しているのかもしれないね。
そう思うと切ないことだ……というのは、置いておいて。
初見のときはわからなかったけれど、2回目からは気になった。
ミュージカル作品なのに、歌が晴興@主人公にしかないこと。
歌……合唱でも歌い継ぎでもない、まったくのソロ歌は、その人物の見せ場だ。
タカラヅカでは主に銀橋ソロとして使われる。
物語の一部、前後の流れを受けて歌うにしろ、物語とまったく関係なく「番手スターだから」と歌うにしろ、間違いなく「見せ場」だ。
そして、個人の見せ場である以上、大抵の場合は「そのキャラクタの歌」になる。
90分しかない短編作品で、たったひとりで舞台を占領するのだから、そこに情報を詰めないことにはもったいない。
だから概ね、銀橋ソロはそのキャラの心情を歌う場面になる。
人生に悩んだり、恋しい人への愛の歌だったり。なにかしら決意をしていたり。
歌うキャラクタの、一人称。心情を歌にする。
私は誰々を愛してる、私は悩んでいる、私は苦しい立場にある、私はこう生きたい……などなど。
情報量の少ないキャラクタでも、銀橋ソロ1本あるだけで「こんなこと考えてるんだ」とわかったりする。
だが、『星逢一夜』には、ソレがない。
銀橋で歌うのは晴興のみだ。
たしかに、他にも歌はある。
源太@だいもんは祭り場面で銀橋センターで声を発するし、泉@みゆちゃんも歌いながらひとりで銀橋を渡る。
が。
源太の歌は「祭りの歌」であり、彼自身の歌ではない。
ぶっちゃけ、源太ではなく「祭りの男A」が歌ってもイイ。
泉になると、もっとひどい。
せっかくの銀橋ソロなのに、心情とは関係ない歌。
「歌いながらひとりで銀橋を渡る」ということでヒロインを差別化しているだけで、「泉」としての見せ場じゃない。
祭りの歌に、里の歌に、源太や泉がそれぞれの思いを重ねているのだ、それを読み解くのだ、という見方は置いておく。もちろん、そういう意味もあるだろうが、その話は今はしていない。
この作品は、とても頑なに、他者の意識を排除している。
泉がなにを思ったか、源太がなにを思ったか、彼らは言葉を発してはならないんだ。語ってはならないんだ。
口を開いていいのは、主人公の晴興だけ。
観客が目で追うのは、主人公である晴興だけ、が正しいんだ。
壮年になってからの晴興と源太の再会場面、源太の土下座から晴興の銀橋ソロ、そして一揆になるあの流れ、わたしはあそこを秀逸だと思う。
あそこがいちばん、「正しいな」と思う。「容赦ないな」とも思う。
主人公は、晴興。
この前提が、一切揺らがない。
親友同士の対峙から一揆になる、そのドラマティックな流れで、揺らがずにカメラは晴興だけを追いかける。
多面的に盛り上げられる場面だから、ここで源太にもカメラを向けたくなるものなのよ、作る側としては。や、作るっちゅーか、こちらは観る側だから、「見たい」と思う、それを作者は感じて作っているわけでしょ?
なのに、そこで揺るがず源太排除、晴興だけピックアップする、って、すげえなと。
その昔、『天の鼓』というぐたぐた作で、作者はクライマックスで「主人公が誰か」わからなくなった。
それまで主人公を追っていたはずのカメラが、いちばんの盛り上がりで別の人を追いだしたの。主人公は、その別の人の背中越しにしか、見えなくなった。
そう古くもない昔、『フットルース』という作品で、何故か主人公ではない人がカメラの中央でタイトルでもある「魂が解き放たれる」場面を演じ、主人公は背中を向けたまま傍観者として収束した。
そんな風に、もっとも盛り上がる場面で、主人公が主人公でなくなってしまうことが、ある。
視点の振り分けがうまくまとまらなかった、『The Lost Glory』という作品もあったねー。クライマックスでカメラがブレるの。ふたりの男のどちらを視点に、あるいは両方、あるいは誰でもない神視点に、この場面を表現するか、作者の意識の鈍さを感じた。
とまあ、ぱっと思いつくままに、ヅカの女性クリエイター作品を例にしてみました。
視点の混同。混乱。
主人公よりそれに対峙する役、障害となる役の方がドラマティックで、起承転結の「転」を動かす起爆剤になることが多いのね。物語ってもん自体が。
作者はその物語の「神」であり、すべてのキャラクタを知っているから間違えやすいの。それまで主人公の目線で進んできた物語なら、なにがあってもそこは間違えちゃいけないんだけど。なまじ主人公以外も見えているから、混乱するのね。
クライマックスだろうと、カメラが追うのは、物語の盛り上がりではなく、主人公の心の変化。どんなドラマティックな出来事も、主人公の目を通す。主人公と無関係にしない。
や、盛り上がり追った方が気持ちよかったり、楽だったりするけど。そこはぐっと我慢、主人公大事。
もともと神視点の三人称作品ならいいけど、主人公の一人称作品なら、クライマックスも主人公視点で統一してくれないと!
盛り上がったーー! というところで、カメラがだいもんではなく、ちぎくんを追うこと……ちぎくんが銀橋に出て来て歌うことに、心躍った。
ここでだいもんじゃないんだ!! だいもんも使った方が盛り上がるのに! それでもあえてちぎなんだ!!
よっしゃーー! と、拳握ったねー。
そのあとの源太の歌も短い短い。
心情を語るのではなく、あくまでも「一揆」の歌。
源太単体の歌でも見せ場でもない。
ここで源太にソロを与えがちなのが、ヅカの演出家だと思う。だいもんが、ちぎが、というのではなく、作品のキャラクタ位置関係。
単純に盛り上がるもん。
盛り上がる方がいいに決まってるもん。
盛り上がりは抑えめになるけれど、ブレずに晴興視点、
源太は晴興を通してしか、語られない。表現されない。
小説ではなく舞台だから、観客は舞台上のどこでも観ることが出来る。ゆえに完全な一人称はあり得ないのだけど、全方向性の視界の中で、物語の中心がどこかを演出で押さえてくる。だから、これは一人称作品。
徹底してるな。容赦ないな。
作劇部分で「よっしゃーー!」なのに、「だいもんに歌わせろ~~! 耳が欲求不満じゃ~~!」と思うのも正直なところだけど(笑)。
ほんとに、頑なに一人称なのよ。
良くも悪くも。