『星逢一夜』はよくまとまった物語だと思う。
 が。
 途中、2度目の江戸城の場面のみ、筆が乱れている。
 それまで晴興@ちぎくんの一人称で進んできた物語が、そこだけ視点がブレている。

 小説で考えると、「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」と、地の文が「私」=晴興の語りになっているのね。
 あきらかに晴興が出ていない場面は章を変えて三人称で書かれているし、読者も「ここは晴興の一人称パートとは別だな」とわかって読むことが出来る。
 そうやって進んできているのに、晴興も出ている2度目の江戸城の場面でのみ、突然「私」という文字が地の文から消えるの。
 それまでは「私は、『~~』と言った。」「私は彼の方に向き直った。」とか書かれていたのに、「『~~』と言った。」「彼の方に向き直った。」てな風に、「私」とは書かれなくなっている。
 でも、今までが晴興の一人称だったから、読者はそのまま「コレを語っているのは晴興」だと思い込んでいる。「私」と書いてなくても「言った。」のが晴興だとわかるから、脳内で補完してしまう。
 叙述トリック。必要な情報を伏せることで、あえて読者をミスリードする。

 トリックを用いて、読者をミスリードする、その意味はなにか?
 そこに、隠したいものがあるためだ。

 ここで作者が隠したかったのは、晴興の人格が変わった理由。
 それまでの場面と、晴興はキャラクタが変わっている。
 初恋の泉@みゆちゃんに心は残しているけれど、江戸での仕事に希望を持ち、自分の意志で吉宗@エマさんの片腕として働くことをよろこびとしていた才能ある青年。
 再会した泉へ強い恋心を持ったけれど、自分の立場や泉のしあわせ、友人の源太@だいもんのことを考え、やさしく、理性的な決断をすることの出来る青年。
 恋を失ったこと、人生の選択肢をひとつ失い、自分の歩む道が際立ったことで、悩み、傷付きはしただろう。自分で選んだからって、痛みや迷いを持つのが人間だもの。
 だとしても。
 それで、人形のように冷酷無表情な政治家、になるのは、チガウ。

 10までメモリのある「晴興」という入れ物があるとする。
 誰からも顧みられなかった子ども時代の晴興は、メモリ1まで水が入った状態。
 そこに、泉や源太たちと出会うことで成長し、メモリ1つ分水が加わる。→メモリ2まで水が入った状態。
 江戸へ行き、吉宗にその才能を見いだされる。華やかな首都でドラマチックに成長、プラス1→メモリ3まで水が入った状態。

 星逢祭りで泉と再会し、その恋を失ったことで、2の水を入れる。
 3+2=5。
 だから、次の場面に登場する晴興は、メモリ5まで水の入った状態のはず。
 が。
 冷酷老中晴興は、10まで水が入っていた。
 えええ? なんで10? メモリ5つ分の水は、いつどこで、なんで入ったの??
 メモリ10と考えた理由は、完璧に別人、正反対の人格になっていたから。5のはずなのに、正反対になるほど違っている、から、同じ5という量を足した状態だと判断。

 泉との別れが2ではなく、7もの大きな出来事だったってこと?
 いや、そんなはずないよ、だって晴興は、再会するまで泉のこと忘れてたもん。貴姫@せしことの縁談が決まっても平気なくらい、江戸で生きているときの晴興は、蛍村のことは気にしてなかった。
 泉との別れをメモリ2つ分と考えたのは、泉たちと過ごした子ども時代(メモリ1つ分)、江戸でバリバリ仕事をはじめた青年時代(メモリ1つ分)と同じ……晴興が天秤にかけたのは同じ重さのモノ、という想像から、メモリ2が妥当な量かなと判断。

 5のはずの水が、10入ってる。
 おかしい。

 そのおかしさを、叙述トリックで誤魔化しているの。

 泉との別れがメモリ2つ分ではなく7つ分だって。
 愛を失ったがゆえに、晴興は冷酷な為政者になり果てたのです!! てな。

 7??
 それまで晴興が生きていた人生がメモリ3つ分なのに、その倍以上のことが泉との別れのみってのは無理がある。

 老中晴興がメモリ10だというなら、10-5=5、メモリ5つ分、足りないのよ。
 本当ならなにか別の出来事があって、5つ分加えられているの。
 ただそれを、意図的にか無意識にか、観客にわからないようにしているの。

 じゃあそのメモリ5つ分とは、ナニか。

 答えは、「一人称」にある。


 この物語を、「晴興の一人称」にしている要因はナニか。
 ナレーションをしているのが、晴興自身だからだ。

「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」

 冒頭から、晴興が「私」と語り出す。
 これは晴興自身が語る、晴興の物語だと。

 そして、晴興のナレーションは全編中、3回ある。
 冒頭と、その直後の「3年後」解説と、最初の江戸城。
 ふたつめの3年後解説に意味はない。時間の問題だろう。やたらとぽんぽん時間の経過するこの物語にて、時間が跳ぶ場合はわざわざ「モブ解説」を入れている。「もうあれから何年経ったね」という話をさせるのな。3年後だけはモブ解説するヒマがなくて、手っ取り早く晴興にナレーションさせた、というだけだろう。語られているのが時間経過と作劇上の煽りのみで、固有名詞が入ってないから。
 だから、意味があるのは最初と3つめ。

 『星逢一夜』はちゃんとキャラクタを動かしたり、会話させたりして、話を進める物語だ。
 なのに、「主人公の録音ナレーション」という禁じ手を使って「主人公の心の声」を「解説」している箇所が、ふたつだけある。

 心の声(録音)は、最終手段。
 だって、言葉で全部解説してしまうんだもの。
 「**は、〇〇と思った。」って録音音声が流れてしまったら、舞台上で**がどんな表情でなにをしていても、それを観て観客が××と思ったとしても、それは全部ノーカン、「**は〇〇と思った」ということになる。
 役者の演技も観客の想像力も全部封じ込める、作者(神)の手。

 その、最終手段を使っている2箇所。
 そこでは主人公「私」にとって、最大級に重要な人のことを語っている。

 冒頭で語っているのは、「あの娘と、あの少年」……つまり、泉と源太。
 物語の中心人物。このキャラがいないと、晴興の物語は語れない、という相手。

 そして。
 泉と源太という、最重要キャラと並列して、ナレーションで語られているのが。

 吉宗だ。

「その人は、すべての者の父親のように、強く大きかった。その人は、みじめな少年に手を差し伸べ、少年はその人のため力を尽くそうと心に誓った」

 晴興の心の声で語られるのは、3人だけ。
 泉と源太と吉宗。

 この物語が、晴興と泉の恋物語で、そこに親友であり恋敵である源太が加わって3人の物語であるというなら。それゆえにナレーションで晴興が語っているというなら。
 同じ大きさで、吉宗も加えるべきだろう。

 脚本でそう、書かれているんだ。
 ナレーションでわざわざ語ることで。

 なのに、晴興と泉と源太、この3人の物語であり、吉宗はそれ以下の役割とすることに、破綻がある。


 てことで、続く~~。

日記内を検索