なんやかんや言ってやっぱり、大きな不満点は、源太の書き込み少なすぎじゃね?だな(笑)。

 『星逢一夜』

 構造上、晴興@ちぎくんと、源太@だいもんは、「親友」であるべきだと思うのよ。
 なのにあのふたり、別に親友じゃないんだもん。

 ふたりの一騎打ちを物理的なクライマックスにするなら、源太は晴興の親友であるべきよね。
 心理的なクライマックスが泉@みゆちゃんとの櫓のシーンであるとしても。

 というのもだ、「ル・サンク」の脚本を読んだのだわ。

 晴興と源太の一騎打ちにて、どーしてふたりが笑うのか、マジでわかんなかったの。
 脚本にはなにか答えがあるのかなって。
 ふたりが笑うくだりは特になくて、ただ「立ち回りは昔を思い返すようなもの」とある。
 ?
 昔を思い返す?

 晴興と源太は、昔殺し合いをしたことがあるのか??
 負けた方の命を奪う、という戦いをしたのか??

 命懸けの戦いで、ナニを思い返すんだ……。

 てな意地の悪いツッコミは置くとして。

 これってたぶん、アレだな。
 『太王四神記』のタムドクとホゲ。
 幼なじみのふたりは、剣術の稽古をして、友情を育んでいた。
 大人になり、敵同士になったふたりは、宿命的に一騎打ちをすることになるけれど、命懸けの殺し合いのはずが、子どもの頃、親友だった頃の記憶が甦る……ってやつ。

 『太王四神記』に限らず、「幼なじみの親友が敵対する」設定の定番だから、そのことなんだろうなとは想像が付く。

 だがしかし。

 それは、タムドクとホゲが本当に親友で、実際に剣術の稽古をしていたから、通る話であって。

 百姓の子であり、やさしく手先が器用な源太と、藩主の子だけど剣術の稽古もせずに星ヲタクをやっていた晴興では、「剣を交える」=「昔の記憶」になんねーよ。

 えーと、本来は晴興と村の子どもたちがチャンバラをして遊ぶエピソードがあったのか?
 そしてそこで、紀之介(晴興)と源太が親友である、とわかるエピソードがあったのか?
 時間の都合かなんかで直前に削られちゃって、でも親友設定だけはそのまま調整するヒマもなく残ってしまった、とか?

 晴興と源太って、子どもの頃、ちょっと親しくしていたけれど、そのあとは友だちでもなく、会わなくても話さなくても平気、レベルの「昔の知り合い」だよね?
 その後、泉のことで気まずい別れ方をしたから互いにライバル心とか嫉妬心とか持っちゃってるけど、「ふつーの友だち→ただの知り合い→気まずい相手」なだけで、人生一度もまともに「親友」だったことってないよな?

 なのに、「構造上、親友である方が適している」ってだけで、観客が勝手に「親友」だと思って見てるんだよね?

 いやあ、純粋に不思議です。
 ウエクミはなんで、こんな基本事項を忘れて作劇してるんだろう?
 ヅカのお約束だから、その「お約束」におんぶにだっこで自己完結しているのかしら。
 他の作家なら「推敲してないんだろう」とか思うだけで終了、だけど、ウエクミはそのへんちゃんとしているイメージだからなあ。
 時間が足りなくて、「お約束だから、削ってもヅカファンは勝手に脳内補完してくれる」と思ったのかな?

 晴興と源太の「親友」エピソードがあれば、物語はどんな風に見えたのかなあ。

 ふたりが親友に見えないいちばんの原因は、星逢祭りでの再会部分よね。

 晴興と源太は立場の違いから、晴興が藩に戻って来ていたとしても、会うことなど叶わないかもしれない、会っても親しく会話することは出来ないかもしれない、そんな状況。
 なのに祭りのどさくさでばったり会って、これが生涯最後の機会かもしれないのに、源太は気もそぞろ、生涯一度の晴興よりも、毎日会える泉に気を取られている。晴興もまた、源太のそんな態度になんの感慨もないくらい、彼に興味を持っていない。

 ただの「昔の知り合い」と、顔を合わせた、というだけ。「なつかしいな」と挨拶しただけ。

 運命に引き裂かれていた親友と、ようやくめぐり会ったようには、まったく見えない。

 ここを変えるだけで、ふたりの関係はかなり印象が変わるのにな。
 源太が勝手にあたふたしてかしこまるのはわかるけど、もっとちゃんと目の前の晴興に興味と愛情を抱かせればいいのに。
 晴興もまた、源太にかしこまられて寂しく思うとか、すればいいのに。敬語使われてびびりまくられてるのに、それを当然だと思ってるもんなあ。

 惜しいなあ。

 ふたりにあるのは、あくまでも、泉。
 晴興は、源太が泉の夫でなければ興味も持ってないし、源太も同じ。あくまでも、泉ありき。

 幼なじみの意味ねえぇぇ。

 もっとうまく使えばいいのに。

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