『星逢一夜』は晴興@ちぎの一人称小説だと、前日欄で書いた。

 短編作品なんだから、それでいいと思う。
 登場人物が多く、視点が多くなると、どうしても時間が必要になる。
 短くまとめるには、リスクを減らすが吉。

 それを、うまいな、と思う。

 同時に、ずるい、と思う。

 この物語さあ、最低限、泉@みゆちゃんの物語も描くべきなんじゃないの?
 泉がなにを思っているか、語られる場面ないんですけど?

 冒頭で「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と」と語らせるからには、源太@だいもんも描くべきなんじゃないの?

 泉と源太、枚数かけて書き込むべき人たちをスルーして、晴興ひとり書き込んで「いい作品できました」はナイだろ。
 90分かけてひとり描くだけなら、誰だって出来るわ。……誰でもっつーか、オレは無理だけどな(笑)、わたしではなくて、プロの劇作家なら。

 ずるいなー。

 んで、ずるいことがわかりにくくしてあるあたり、よりずるいなー、と思う。

 飛車落ちで指しておいて、さも実力で勝ちました的な?
 ヅカはトップ娘役と2番手まで使い切ってナンボですよ、そのうえ、他の番手スターや若手たちに役と見せ場を与えなきゃなんないんですよ?
 主人公ひとりしかまともに描く気なしとか、あり得ないっしょ。

 とまあ、勝手なことを言ってみる(笑)。

 まあようするに、のろけだな。

 『星逢一夜』が好きよ。だから、口を出したい。
 他にもっと可能性はなかったのか? と想像する。

 泉と源太を、きちんと描いていたら、どうなったのか。

 源太に銀橋ソロを、どれだけ昔から泉が特別だったか、愛していたかを歌わせる。
 彼の立ち位置表明。
 ここに冷酷藩主となった晴興が関わってきても、源太のスタンスが揺るがないのだとわからせるような。
 こう考えているからこそ、ああするしかなったのだと。

 ソロ歌の位置が星逢祭りより前なら、初日のまんまの善人源太でいられたのかな。
 まだ晴興との友情を信じている青年時代なら、源太の歌はやさしい温かいものになるだろう。
 晴興に裏切られたあとの壮年時代なら、怒りと激しさのあるものになるだろう。
 対泉の歌になるのか、対晴興の歌になるのか。それでずいぶん違う。

 だいもんが暴走したのって、源太の情報量の少なさにも原因はあるかな。
 ソロで指針が決められていないから。
 お稽古場でどれほど理を説かれたところで、舞台の上で動く感情は別だものな。
 舞台上にあるものだけだと、源太は闇にも聖にも、どちらにも進むことが出来る。


 泉がふたりの男をどう思っていたか。
 明言する歌があっていいと思った。
 もちろん、語らなくてもわかる。
 源太を夫として愛していたのは事実だろうし、それでも晴興に恋していたのも、まぎれもない真実だろう。
 だけど、如何せん描かれていることが少なすぎる。関係ない里の歌を歌わせる時間があるのなら、彼女の立ち位置を示すべきだ。行間を読み解く小劇場公演じゃない、2500人の大劇場だ。

 星逢祭りの「三人模様」ダンスも、晴興視点でしかなく、泉の心情は貴姫@せしこ程度にしか語られていない。
 あそこはもっと短くして(オープニングで長々見たから、使い回しいらない)、一揆前の壮年時代にこそ、「三人模様」を歌とダンスでどーんと入れるべきだろう。

 泉も歌うし、源太も歌う。もちろん晴興も歌う。
 千々に乱れる心を。

 星だの定めだの「全体テーマ」を歌って「きれい」にまとめるんじゃなくて、多少泥臭くなっても、生きて泥に愛執に汚れている人間たちの心の声を。


 晴興の物語に、泉と源太の物語が加わったら、どんだけ深い物語になったろう。
 晴興と同じ濃度で彼らの生活が、思いが、語られたら。
 幾重にもなった陰影は、どれだけの濃さと虹彩を描いただろう。

 それは大劇場でやるべきことでもなく、物理的に不可能なことなのかもしれないけれど。
 それでも、夢想する。

 ウエクミなら、出来たんじゃないの?

 ……そう思わせるあたりが、ウエクミせんせ。
 植爺だーの谷だーのに、そんなことぁカケラも思いません。

 出来るのにやらない、汚すことを避け、きれいにまとめることを選んだ、観客の視線も支配したいから意志を持って頑なに一人称にした。
 そう思わせる、オレのウエクミDREAM(笑)。

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